GET LIMIT 45.未来
誰かが何かを言うまでもなく、『それ』の無差別攻撃はすぐに始まった。
表面から一斉に生えた大量の触手の先から放たれる光線が巨大なビルを貫き、切り裂き、路上の車に命中して爆発を起こさせる。あまりに唐突な炎の襲来に、地上の見物客が慌てて蜘蛛の子を散らし始めていた。
「い、いったい何なんだアレはっ!」
叫んで空中で旋回したイザークが、正面から飛来する光線を結界で弾き飛ばす。たった一本の光線を弾くつもりだったのだが、全方位あちこちから無数のそれが襲いかかってきて、彼は仕方なく前方のみのはずの結界を球状に展開した。
「判りませんが、キラたちは確かに、あれに飲み込まれたようですわね」
言うラクスへと襲いくる光線は、彼女の盾のように舞い降りてきたアスランが展開した赤い結界に弾かれて消滅する。イザークのときのように、弾けどすぐにやってくる次の攻撃もまた、彼女を包むように次々と起動するそれによって打ち払われた。
「あんな中にキラが…」
防戦一方になりながらもアスランは、ちらりと現れたばかりの球体を見た。まるでウニのようないでたちをしているが、その攻撃力はまったくバカにできたものではない。人間たちに被害が出るのは何としても食い止めたいが、自分の身さえ守れそうもないこの状況で、他人のことに目を向けている余裕はひとつもなかった。
「くそっ」 アスランは奥歯を噛み締めた。「イザーク、ディアッカ、ラクスを頼む!」
二人からの返事も待たずに彼は夜空へと飛翔した。網の目のように行く手を阻もうとする光線の嵐をかいくぐりながら、目的の球体へとまっしぐらに飛んでいく。
キラ、そこにいるのか、キラ──。心の底で強く呼びかけるが、応える意思は何もない。あの球体が完全に意識を遮断する造りをしているのか、それとももう、中に取り込まれたものの命は…。
想像したくなかった。
「キラ──ッ!」 アスランが叫ぶ。その意思に応えるように、突き出した右の掌に灼熱がともった。「撃ち抜け、フォルティス!」
絶えず放たれる光線の何倍もの威力を持つであろうビーム砲撃が、まっすぐ球体に向かって伸びる。
──邪魔はさせない。
「え…っ?」
アスランはハッとした。何者とも知れない声が、どこからともなく聞こえてきた。深い憎しみと怒りを帯びた、一度聞けば二度と聞きたくもない部類の嫌な声が。
──貴様は邪魔だ、アスラン!
いつか父親の声でまったく同じことを言われた記憶があった。我を忘れて何事なのかと思ったアスランの視界で、黒いものが大量にざわめいた。球体から生えた触手が伸びてきて、空中のアスラン目がけて攻撃をしかけてきたのだ。渾身の力を込めたはずのフォルティスも、あっけないほど簡単に弾き散らされている。
我に返るのが遅すぎた。バシンッ、と強烈な痛みが全身を襲い、アスランは太い触手に背中を強打されてそこから吹き飛ばされる。
「がっ…!」
めき、と嫌な音が背骨から聞こえた。だがこんなことで、また何分か何十分かの時間を気絶してしまうわけにはいかない。アスランは残った意識をその強い痛みに集中して、途切れそうになる意識を繋ぎとめた。
『インパルス』の一撃に比べたら大したことはない──。
「何をやってるんだこのバカッ」 イザークの声がした。「目覚めよ、スラッシュ!」
アスランの前に飛び込んできたイザークの姿が、白く眩しい光を放つ。再びアスランの身体を打ちのめそうと襲い掛かってきていた黒い触手たちが、強い酸でもぶちまけられたようにジュワッと溶けた。
「とっとと行けっ!」 イザークが叫んだ。
「すまないっ」
触手たちが怯んだスキをついて、アスランは再び球体へ向かって飛んだ。目標を目と鼻の先にして空を掴むアスランの手に、また意思の熱が集中する。
「フリーダムに劣れども、其を守る汝は強き我が意志の剣、出でよラケルタ!」
拳を作った手を貫くようにして赤い光が伸び、一本のビームサーベルを作り出す。アスランはそれを振りかざして、あらゆる方向から襲いくる触手たちをまとめて束で切り裂き、それらが再生する間も与えず隙間を駆け抜けた。そんな彼を止めようとするのか、裂かれた断面から増殖した無数の触手が網を作るが、それも決して切り裂けない重みではなかった。
このままいける、あの球体の中に飛び込んで、キラを助けられる、そんな思いが現実になろうとしたとき。
がっ、とアスランの腕を巨大な何かが掴んだ。ザワッと身の毛がよだつ感覚に、背筋が、全身が冷えて反射的に振り向いてみると、そこにあったのは視界を多い隠さんばかりの巨大な『手』だった。
球体から生えた触手が大量に集まり合って再結成し、それを作り出していた。
なんだ──。内心の叫びが声になりかけた瞬間、『腕』はすさまじい力でアスランを空中に振り上げた。
「うわああああぁぁっ!」 アスランは悲鳴を上げた。
予期せぬ大きな力をかけられた肩口でゴキンと嫌な音が聞こえる。先ほどの背骨でこの音を聞かなかったのは何よりの救いだったのだが、今この状況で受けるこれが、彼の行動を著しく制限する激痛であることに変わりない。
このまま地面に叩きつけられれば、それこそ『インパルス』の一撃をはるかに超えるダメージを受けてしまう。今度こそ死んだっておかしくない。いや、それともこの腕が引きちぎれるほうが先かもしれない──。
「アスランッ!」 ラクスの声がした。
フワリと身体が宙に浮くような感覚。鼻先を掠めるいい匂いが、刹那だけ今の事態を忘れさせてくれる。アスランの身体は、ラクスの腕によって死の腕から救われていた。とても男の身など支えられそうにないように見えるのに、ラクスはしっかりとアスランを抱いて近場のビルに着地した。
しかし直後、間を置かず無数の触手が八方から飛びかかってくる。さすがにアスランが邪魔だと叫び声を上げただけのことはある、連中の狙いは今や完璧にアスランに決められてしまっているようだった。
バゴンッ、とコンクリートが打ち砕かれる。ラクスはアスランを抱いたまま再び夜空へ飛翔した。
「キラは生きています」 ラクスは言った。「わたくしたちの力が消えないことが何よりの証です。時間はかかっても、キラは必ず、あそこから出てきますわ」
「時間の目安なんてわからない」 アスランは首を振った。「キラが生きていても、意識が無ければ同じことだ」
「わたくしたちの力はキラと共に…キラの『ミーティア』はまだ生きています。イザークも、アスランも、ディアッカも、最高位の命令文を幾度も放っているというのに疲労がありません。キラの力は、依然、強いままあそこにあるのです」
アスランは自分の腕を見た。オーブの所属を意味する白い軍用制服を着た自分。
服装は、戻っていない。術の効果はまだ切れていない。キラはまだ、『ミーティア』をまとっているのだ。
アスランの砕けた肩がもうひとつの心臓のように、痛みの信号を全身に伝えるべく脈打っている。今度この腕を引っ掴まれたら、いっそ殺されたほうがマシな痛みが彼を襲うだろう。こんな痛みを抱えて戦い続ける自信はない。だが殺されるわけにはいかない以上、この腕がちぎれたって、足がなくなったって、自分は戦い続けねばならないのだ。
「アスランッ」
奥歯を噛み締めているアスランの前にイザークが舞い降りてくる。ラクスの着地の瞬間を狙って襲ってきた触手は、あらぬところから飛来した金色の銃撃がまとめて薙ぎ払う。
「──イージスッ!」
イザークが自分たちの近くへ着地したのを見計らってアスランが叫んだ。
おおぉぉ…ん! 空気が厚く振動して、瞬く間に赤い結界が四方で起き上がる。直後に結界全体を地響きのような衝撃が襲った。その内側から、腰を低く落としたイザークが更に『ヴォルテール』を起動して強化をはかった。
「ヤツの動きを封じる方法がひとつあるっ」 イザークが言った。「ラクス・クライン、あなたの『エターナル』だ!」
「バカなことをっ」 アスランが動揺した。「ラクスにはもう、そんな力はないんだぞ」
ドドンッ。殴られた結界が軋む。
「…あるのですね。わたくしが確実に、もう一度『エターナル』を起動できる方法が」
ラクスの言葉に驚いたアスランがイザークを見る。
彼は真正面、今もなお無数の触手で結界を殴りつけてくる闇の球体を睨んでいた。
「危険な賭けだ」 イザークは言った。「アレを『エターナル』で包むということは、それ以降はアレにダメージを与えることができなくなる。そして万が一、姫が間に合わず『エターナル』の効力が切れれば俺たちも総崩れ…」
アスランはぐっと拳を握り締めた。普段はどんな作戦にも自信を持つこのイザークが珍しく弱気な発言をしている。しかも彼が口にしているのは、考えたくもない最悪の事態についてだ。
総崩れ、という嫌な言葉が胸の奥に黒いシミを作る。キラが間に合わない──それはつまり、あの中でキラの命が潰えるようなことがあれば…という予測に他ならない。
やってみよう──。力を込めてこの言葉を放てるほど、ゼロに近い可能性を信じられるほど、アスランは外見に比例した無謀な若さは持ち合わせていない。
だが、別のものを。何もかも信じられるものがなくなったわけではない今の彼が、自分の意思で選ぶものを信じることはできる。
「……やるんだ」 アスランは言った。「『やってみる』んじゃない。『やる』んだ」
イザークが、ラクスがアスランを見る。二人の仲間からの視線を受けながら、アスランはキッと強い意志を宿した目で敵対する物体を見上げた。
「時間の可能性だとか、タイミングだとか、そういうものを信じるんじゃない。俺たちはキラを信じるんだ。あいつは必ず出てくる、だからそれまでの間は、俺たちがここを守るんだ」
「──はいっ」 ラクスが頷く。
「俺は最初からそのつもりだ」 ちゃっかりとイザークは言い、立ち上がった。「ならばラクス・クライン。俺の力を受け取れ」
えっ、と言われたことを瞬間的に理解できないラクスの胸元にイザークの手が伸びる。
「俺は、あなたがかつて摂取した量の三倍近い姫の血を持っている。その力を、改めて純粋なゼロに還元してあなたへと転移させれば、あなたの力をフル以上に回復させることができるだろう。あなたの技量なら、それで本来の制限時間を遥かに引き延ばし、『エターナル』を長時間に渡って展開できるはずだ」
アスランは理解した。イザークが言った『総崩れ』の意味を。
確かにこの方法でなら、ラクスは数時間ほども『エターナル』を維持できるだけの力を充填することができる。だがその代わり、イザークからキラの力が失われてしまう。そして『万が一』が起こったとき、この力を失ったイザークに応戦する力は欠片も残っていない。そこらの人間と同じように、薙ぎ払われてそれで終わってしまうのだ。
身体の自由が利かないアスラン、『エターナル』にすべてを賭けて今度こそ無力化したラクス、そしてそんな彼女に力を託したイザーク──唯一ほぼ無傷のディアッカが残っていたところで、『エターナル』の効果が切れた時点で全員の死が確定する。
ふわっ、とラクスの髪が風に吹かれたように揺れた。何かに胸を突かれたようにのけぞった彼女の身が、反動を受けて前のめりになる。
「ラクス・クライン…」 イザークは言った。「あなたに託す…」
力尽きてくたくたと崩れる彼の言葉を受けて、ラクスは顔を上げた。青く澄み切った夏の空のようであった彼女の瞳は夕暮れを越えた深い空の色をして、その中心には新月のごとき闇の珠が座している。
ヴヴ…ッ。空気の振動が一際大きくなって、『イージス』の内側に展開されていた『ヴォルテール』がシャボン玉のように割れ飛んだ。同時に攻撃を受けた『イージス』の一枚が陶器のような音を立てて砕け散る。
「アスラン」 ラクスは立ち上がった。「『エターナル』を起動します。それまでの間、あなたはわたくしたちをお守りなさい」
「言われるまでもないっ」
残った三枚の結界の隙間をぬうように飛び込んできた触手が、ラクスの身体に届くほんの数センチ手前で赤いバリアに弾かれる。ラクス自身には、軽く髪が揺れる程度の衝撃しか届いていない。
「我が最後の意志よっ」 アスランが叫んだ。「我が名のもと、我に、果つることのない惜しみなき祝福をぉっ!」
叫び声に応えるように、アスランの前に一枚の赤い結界が起動する。それはその場でくるくると回転を始め、彼とラクス、そして倒れ伏したイザークの身体をすっぽりと包む球状の結界へと変化した。
「ラクスッ!」 今だ、とアスランは叫ぶ。
女のしなやかな腕が、夜空を抱くようにゆっくりと上がった。闇の空よりも遥かに深い闇の色をした彼女の瞳が降り止まぬ流星たちを捉える。
彼女は謳った。
「我らは幸福である、この世に王が舞い降りしを見届けることができるゆえに。我らは至福である、王の姿を知ることができるゆえに。ここに降りたる、この世の何者よりもやさしき王よ。我が願いに微笑み応えたもう」
ど、くん。アスランの胸の奥で大きな鼓動が跳ね上がる。自身の鼓動ではない、彼はすぐにそれを感知した。
これはキラの鼓動だ。ラクスの祈りに、言葉に、キラの力が呼応して発動しようとしているのだ。
ラクスは更に続けた。
「さすれば我らは、その恩恵受けたるこの身をもって王の御意に応えん。お目覚めなさい。──エターナル」
バキィィン! 鋭い金属製の音とともに、闇の球体の四方八方を密閉する光の壁が出現した。所構わず伸びていた触手たちが壁の出現ポイントでブツブツとぶった斬られて地面へと落ちていき、突然自らの進路を塞いだ壁へと触手たちの攻撃が始まるが、キラでさえ破れないというその壁は軋みもしなかった。
「こ、れで…っ」
アスランが大きく息を吐くと、彼らを守っていた結界が消滅する。これで先数時間の、標的の封印に成功した。あとはキラに賭けるより他にない。
すべて、何もかも。自分たちの命運さえも。あの中に引きずり込まれたキラと、そして──。
シンの、意思に。
シンの目の前にキラがいる。
そのキラはシンよりも背が低く、幼い。両手で抱えた小さな植木鉢を持って彼の前を横切り、窓を開けてベランダへと出て行った。
なんだ、なんで──? シンは立ち尽くしたまま周囲を見回した。夕焼けの中にいるように、周囲の色がきれいなセピア色だ。ちょこちょこと走り回っている小さなキラでさえも、背景の色に同化している。
そこは、いかにも小さな子供の部屋だった。壁には大好きらしいアニメのポスター、学校からの連絡用プリントが勉強机の上に散乱していて、ベッドの上に朝脱ぎ捨てたままのパジャマが放置されている。
『これで、よしっと』
開けっ放しの窓の向こうからキラの声がする。シンは声に誘われるままふらりとベランダへ出て行った。そこは様々な植物のプランターだらけだった。食事の支度に使われるのだろうハーブや小さな野菜、観賞用と思しき花、草などがひしめいている。
そんな小さな緑の園の中で、キラはシンに背を向けて何か作業に熱中している。ぱん、ぱん、と何かを叩く音がした。
『えっ、なに?』 キラが顔を上げて、あらぬ場所を見る。『どうして? だめなの?』
何かと話をするような仕草。誰かがそこにいるような態度。幼い子供は想像の中で自分の友達を作ってしまうものだが、この様子はどうみても、そんな独特の雰囲気ではない。
明らかに存在する何かに対して口を開いている。
『こう?』
キラは何かを確かめながら、またごそごそと手を動かした。
そっと背後から近寄り、シンはその手元を覗き見る。
植木鉢の中に土が入っていて、キラはそれの中にゴロゴロしている硬い土のカタマリを指で丁寧に潰していた。足元の傍らには『アサガオ』と書かれた袋があって、黒くて小さな種が少しこぼれている。
これをこの植木鉢に植えるつもりのようだ。
『これでいい?』 キラがまた顔を上げて、さっき見たところと同じ場所を見た。『えへへ。じゃあ植えるね』
一体なにと話してるんだ──。シンは訝しさのあまり眉を寄せて、その視線を追った。
たくさんのプランター。植えられた植物たち。それに囲まれて、話をするような独り言を放つキラ。
ああ、それでいいよ──。
頭の中で、古い記憶を回想するように誰かの声が聞こえた。シンは驚いて辺りを見回す。親とか、それとも他の誰かが窓を開いて出てくるのかと思ったがそうではない。
『ああ、ありがとうキラ』 また声がした。『土は柔らかくしてくれないと、わたしたちに水が届かない…顔も出しにくいんだ。ありがとうキラ。それでその子もきっと、元気に育つよ』
暗い、深い闇の底の灯る、小さくも明るい光を見るような、心を底からすくい上げるような優しい声だった。しゃがれてはいるが、その響きがとても心地好い。こんなにも優しい声は聞いたことがない。
『じゃあ、観察日記もつけられる?』 キラが嬉しそうに尋ねる。
『ああ、もちろんだとも』 声は応えた。『キラが毎日水をくれて、毎朝挨拶してくれたらね』
『早起きは苦手なんだけどなぁ…』
『頑張れ、キラ。そしたらきれいな花が咲くよ?』
『う、うんっ』 ちょっとした一大決心をした顔でキラが頷く。『ぼく、頑張って朝起きるよっ』
『…えらいね』 声は嬉しそうに笑った。
つ、とシンの頬に滴が伝った。
シンは泣いていた。しばらく、訳も判らないままひたすらに涙を流し続けた。やがて種を植え終わったキラが食事に呼ばれてベランダを去っても、シンはそこに立ち尽くしたまま、たったいま新しい命が宿ったばかりの植木鉢を見つめて泣き続けた。
キラはずっと、ずっと幼い頃から闇の力を持っていた。幼い頃から『ありえないもの』に命を狙われ続けて、幾度も、自分に襲い掛かってくるたくさんの動植物の命を奪い続けてきた。
──それだけだと思っていた。
いつかキラが、庭木に向かって何事か言葉を呟いていたのを見た記憶があった。なにをやってるんだと思って、しかし追求する必要もないことだと思ってそのまま忘れた。何と話してるつもりなんだ、そう感じていた。
自分はキラと同じ力を持っている。だから自分にできることはキラにもできる。それを意識するあまり、力にこだわって力に溺れる自分を拒絶するキラを蔑んできた。
おまえだってこうなる可能性をもっているんだ。おまえにおれを否定する権利はない──。
だから、その逆なんて考えもしなかった。
この世ならざる力。言葉ひとつであらゆるものを操ることができる力。自分の言葉はあらゆるものに届く、この世のすべてのものが自分の命令に応えて力を発揮する。それなら逆はどうなんだろう──キラは意識したのだ。自分の声が届くのなら、『向こう』の声もきっと自分に聞こえるはずだと。
その結果、キラはあの暖かくて優しい声を聞くことができるようになった。動物、植物と意思や言葉を通わせて、所持する力ゆえに人間の友達がいない寂しさを癒してもらうことができた。
シンはそんなことを考えもしなかった。自分の声を聞かせ、命令を実行させることだけで終わって、『向こう』も何か声を発しているなんて考え付きもしなかった。
春の並木、夏の海、秋の葉、冬の雪──そのすべてが、いまのような声を発しているのだろうか。キラはそれを聞いて、季節が変わったことを、どこか遠くで花が咲いたことを知ったのだろうか。
シンはその場に膝をついた。ぎゅっと自分の身を抱いて泣き崩れる。
バカだ。おれはバカだ──。喉が引きつって、胸が痛む。その気になればいつでも、おれはここに立つことができたのに。自分の意思でその道を断って、何も判ろうとしなかったおれがバカだったんだ──。
こんなにも輝くものを知っているキラがシンの家族の命を奪った──。今のシンを形成する最大の要因となったこの事実さえも、観点が変わってくる。シンは自らが溺れてしまうほどの後悔の涙を流しながら深く頭を垂れて震えた。
殺した? 殺された? 違うじゃないか。おれみたいに力に溺れたどっかのバカが起こした戦争の中で起こった事故──誰が望んで人を殺すもんか。悪いのはキラじゃない、悪いのはおれじゃない、悪いのは誰でもない、誰でもないじゃないか──。
──やっと、見つけてくれたね。
声がした。なんだかとても懐かしく、ひどく心地好い少女の声が聞こえた。
自分はこの声を知っていた。幼い頃からずっと一緒にいた。飽きるほど聞いているのに決して飽きることのなかった声だった。
「マユ…」
シンは言った。声が震えた。どうしようもない、悲しみでも苦しみでもない涙が、もはや止めようもなくぼろぼろと溢れて流れてくる。
気が遠くなるほど昔に失ったような気がしていた。もう二度と戻ってこない、もう二度と見ることも会うこともない、もう二度と取り戻すことはできない、戻れない場所にあるものだった。
──マユはずっとここにいた。
ここにいた。ここにいた、ここにいた──。おれが気付かなかった、気付こうとしなかっただけなんだ。ずっとマユはおれの中にいた。おれが振るうこの力の源として、ずっとおれと共にあったんだ──。
シンを守るためにシンに宿った妹の意思と、力。聞こえなかったばっかりに、聞かなかったばっかりに、シンはその力で人間を殺し、多くのものを傷つけて、そして自らを追い込んでいったのだ。
「マユ…ッ。マユ、ごめん、マユ…」
誰に言われるまでもなくシンは自力で理解した。シンを守りたいがために宿らせたその力を、破壊と欲望のために使われて彼女が心地好いはずがない。目的がまったく違う。自分自身で愛するものの感情を踏みにじっていたことに気付いたとき、シンはもう本当に死にたくなった。
カラララ…。ひどく軽い音がしてまた窓が開いた。ぴょこんとキラが顔を出す。植えたばかりの種が芽を出すのが待ちきれないのかと思ったが、どうやらそうではない。
キラは裸足のままベランダへ出てくると、膝をついて未だしゃくり上げているシンの前へ来た。
おれのことが見えてる? そんなはずない、さっきまでは──。
「…シン」
子供は、シンがよく知っているキラの声で口を利いた。
「…だいすき…」
ビリリと身体に電流が走ったような痛みがあって、シンは目を開けた。
視界がにじんでいる。泣いていたらしい。二、三度まばたきをするとその視界はクリアになって、自分を抱いて顔を覗きこんでいるキラの姿が見えた。
真っ暗な、どこなのかもまるでわからない空間。キラの身体がまとっているぼんやりとした白い光が、二人の姿を闇の中に浮き立たせていた。
「…キラ」 シンは呟いた。「ありがとう…」
シンの瞳から新しい滴が溢れてこぼれていく。キラはその言葉を聞いて微笑みを浮かべた。
と、そんなキラの身体がぐらりとバランスを失う。
「──キラッ」
ハッと異変に気付いたシンが身を起こしてキラの身体に腕を回す。くたりとその腕に崩れたキラの背に目がいったとき、シンは思わず情けない悲鳴を上げそうになった。
あれだけ神聖にして醜悪な姿を誇っていた青い機械翼がへし折れて、その断面から電気コードに類似した赤や青の筋がダラリと垂れ下がっている。そこからは今もなお進行形で新しい血が流出していた。
折れたというよりは引きちぎられたように見えなくもない、いや、むしろそのほうが自然だ。
「なんで、っ…なんでっ?」
キラは何も答えない。だがその代わりというように、周囲でざわりと何かがうごめいた。
え…? シンが気付くよりも早く、それまでの死体ぶりが嘘のようにキラが起き上がり、シンの身体に覆いかぶさった。
ドン、ドンッ! 鈍い衝撃音が幾度も続く。砕けるほど噛み締めたキラの奥歯の向こうから、声にならない悲鳴が溢れた。
「キラッ!」
シンは悲鳴を上げた。シュルリと何かがまた動いている。キラがまとう輝きに浮き立ったそれは、先端に小さな手がついた黒い触手──いや、それはもう闇の手そのものだった。それが今なお、シンの身をかばうキラの背を攻撃している。引きちぎられた青い翼もきっと、『こいつら』にやられたものに違いない。
『ミーティア』の光のせいで気付くのが遅れたが、キラが着ている白い制服は血まみれになっていた。
おれが気を失っている間、ずっと?──シンは自分の身体から血の気が引くのを感じた。
「キラ、キラッ、なんでっ…交代だっ、今度はおれがっ」
シンが何とかして押しのけようとしても、キラはシンの身を抱いたまま絶対に放そうとしなかった。
「キラッ」 シンは泣き出した。「あんたがっ…このままじゃあんたが死んじまうっ!」
「……逃げて、シン…」
やっとキラが言った。ようやく口を開いたと思ったらそのセリフだ。思わず開いた口が塞がらない。
「『ミーティア』…君に、あげるから…」 蚊の鳴くような掠れた声で彼は続けた。「『デスティニー』に『ミーティア』を合わせれば…君だけならここから出られる…」
シンの手が震えた。腕が、肩が、そして全身が。キラの言葉に応えて、彼がまとっていた白い輝きが静かにシンへと移っていく。心の底から、身体の底から新しい力がわいてくる感覚がある。暖かい、春の日差しのような光だった。
「こいつらの目的は…僕だから…」 呼吸に合わせながら彼は言葉を紡ぐ。もう言葉に呼吸を合わせることができないらしい。「外へ出て…みんなと…こいつを…倒し──」
「ふっ…ざけんなよ…っ」
シンの声が震えた。完全に光が転移した腕を伸ばして、キラの襟を引っ掴む。
「ふざけんなっ、ふざけんなよっ!」
「シン…」
「この期に及んで、あんたはおれだけ助けようってのかよ! やっと本当のことが判ったのに、やっとあんたと向かい合えると思ったのに、こんなことで死なれてたまるかよこのバカッ!」
「シン…」 キラの声もまた、わずかに震えた。
ひゅおっ、と空気が動いた。飽きもせず更なる攻撃を仕掛けようと手が伸びてくる。
「邪魔するなっ!」
シンが怒声と共にうごめく闇のほうを睨み付けた。ばじゅっ、と嫌な音がして何かが破裂して砕け散る。
「マユだけでもこんなに重たいのに、これ以上あんたの命まで背負うなんておれはゴメンだっ! いいかっ、今度おれをひとりにしたら承知しないからな!」
「うん…」
キラは答えた。閉じたまぶたの隙間から、ぽろぽろと涙が溢れてくる。
「うん…もう、二度と…君をひとりには…二度と…」
うわ言のようにキラは繰り返す。
せっかく閉じ込めた二人の獲物が脱出の気持ちを固めている──。その状況が判ったのか、闇の手たちは四方八方から一斉に襲い掛かってきた。キラを、シンを狙ってくるそれに一度でも捕まれば、今度こそ全身をバラバラに引きちぎられてしまうに決まっている。
マユ。おまえの力…今度こそおれは、守るために使うよ──。
シンはキラの身体を横抱きにして立ち上がると、ほんの一呼吸をおいて、高らかな宣言のように叫んだ。
「我が命、尽かされども決して尽き果てぬ! 我はこの闇夜に光を灯そう、我が心に湧き出ずる輝きは、何者にも比類なき眩さをもって放たれ、数多の暗き世を照らさん!」
闇がざわめいた。シンに宿った『ミーティア』の輝きが波打ち、ひときわ白い光を放つ。
「我が想い、ここに撃ち爆ずる! 轟け、バースト・ストライク!」
風が集まるように光が収束してシンの身体を包む。
闇の手たちが、させてなるものかと全力をもって襲い掛かる。
一瞬後──大爆発を起こした白い光のエネルギーによって、あらゆる黒い闇はその居場所を奪い去られた。
どくんっ。自分の中で打たれた大きな鼓動に皆が気付いた。
アスランがハッと顔を上げてラクスを見る。ラクスもアスランを見ていた。二人の視線の間で、言葉よりも濃厚な意識が交わされる。
「キラが…」 アスランが言った。
「出てきますわ」
ラクスの言葉と同時に、『エターナル』の中に閉じ込められた黒い球体から白い光が漏れた。閉じきった雨戸が軋んで朝の光が差し込むように、夜の闇の中にはしる一条の光は、注目を促すスポットライトのように見えた。
あらゆる物陰に避難して震えていた人間たちが何事かと顔を出し、おのおのでその光を指差して騒いでいる。
ビシリ、ビシリと球体に白いヒビが走って、そこから同じ色の光が溢れてくる。やがてその亀裂は大きく広がって、終了したばかりの日食さながらの光が周囲に満ち溢れた。
そして、それは左右に開いた。扉が開くように、閉じた翼が開くように。
『エターナル』が弾け、己を閉じ込める檻が無くなった光は一息に一帯へ広がっていく。まるでビッグ・バンを見ているようだとアスランは思った。宇宙の創世、ひとつの闇の種の中から生まれて溢れた光が世界の隅々まで広がって宇宙を作り上げたというその古い学説を、今は信じる気になってしまう。
「姫…っ」
ディアッカに助け起こされたイザークが、一点を見て呟いた。
アスランが、ラクスが、ディアッカが一斉に視線を向ける。光の柱の中に人型の影が見えた。放たれる光が少しずつ弱まっていくと、細くなっていくその柱の中から、まっすぐにぴんと展開した虹色の光の翼が見えた。
人影はゆっくりと降下してくる。アスランたちが立っているビルの屋上を目指して、ゆっくりと、ゆっくりと。
「シン…!」 アスランは声をあげた。
キラを抱いたシンが、トン、とコンクリートの床に足をつけた。ずたぼろになっているキラとはまったく正反対、まとった赤い制服も、背から突き出した赤い機械翼も、どこにも傷や汚れのない彼がそこに降り立つ。
「キラッ」 ラクスが飛び出した。
「姫さんっ!」 ディアッカが走った。
シンの腕からキラを受け取った二人が、すぐに彼を横たえて光のドームで包んだ。『エターナル』の行使で随分と力の残量は減ったが、応急処置くらいの回復ならばしてやれるのだろう。ディアッカの力も借りながら、いよいよラクスは口の中で小さく命令文らしきものを呟き始めた。
「…キラはもう大丈夫だ」
アスランは言って、シンと向き合った。
「ありがとう。キラを助けてくれて」
シンは黙っていた。ただぎゅっと唇を噛んで、すこしうつむいて。
もはや何から言っていいのか判らないのだ。謝罪の言葉にもさまざまなバリエーションが存在する。シンは、まずはどうしたものかと考えながらひたすら無言を保ってしまった。
ふっとアスランが苦笑いを浮かべる。
「人が来るな。キラの回復が一段落したら、まずはここを離脱しよう」
言いながらアスランはラクスたちの方を振り向く。彼女はアスランと視線が合うと、またひとつ頷いてみせた。移動には問題ない、そう言っているようだ。
すっとシンの前に手が伸ばされた。まばたきをして、キョトンとしたシンが顔を上げると、そこには怪我を逃れたほうの手をシンへと伸ばしているアスランがいる。
彼は、ある意味ではキラよりもずっと優しくて柔らかな笑みを浮かべて、言った。
「もちろん、君も一緒にだ」
an epilogue.... (2005/10/08)