GET LIMIT  40.真相


 熱いシャワーがとんでもなく心地好い。アスランはたった今手首を切ったばかりの自殺者そのものの顔をして、空っぽのバスタブに寝そべって頭から湯を浴びていた。

 長期間滞在用として確保したまま帰る暇もなくなっていたホテルをようやく引き払い、彼らは返金された宿泊費を使って小さなビジネスホテルに移動した。

 以前のそこと違って高層階ではなく部屋だって広くもないが、そのぶんキラがいないという虚無感をひしひしと実感せずにすんでいる。便利性にも快適性にも満たされた大きなホテルを彼らが引き払う気になったのは、ひとえにキラの気配が残る場所で何日も生活していく自信がなかっただけだ。

 白い湯気がバスルームを満たしていく。強力な換気扇でも回してみたら、面白いように空気の流れが判るだろう。アスランはその一筋一筋を目で追った。白い壁に白い湯気、視界が真っ白になっていく。

 なんで、こんなことになったんだ──。アスランは熱気で溶けかけた脳ミソでそんなことを考えた。

 多少なり意識せずにすんでいるとはいえ、結局はキラがいないこの現実に何の変わりもない。ようやく互いの気持ちがつながって、これからは二人で生きていける、そう信じて疑いもしなかったのに。

 あの子を見捨てられない──。あの夜の、キラの最後の言葉が蘇った。

 アスランは眉を寄せた。

 キラは確かに言った。『見捨てられない』と。見捨てるとはどういうことだ。あの場面で言うべきはだったのは、シンを放っておけない、という形の言葉ではなかったのか。何故キラはあのときあんなことを言ったのか。思い返せば返すほど、その疑問はより濃厚なものになっていった。

 キラが何を考えてあんな行動に出たのか、それが何となく判るような気がした。日を置いて、冷静になって、一人になって、たっぷりと時間を与えられて、ようやく。

 何があっても、僕のこと、信じていてくれる?──。

 普通は信じられるはずがない。しかしアスランは信じる気になった。キラが起こした不自然な言葉と、その行動を見たことで。

「キラ…」

 ふ、と。自分が呟いたその言葉が揺らいだ。妙な違和感があって、視界がかすむ。

 なんだ──。慌てて身を起こしたアスランの頭に、キーンと鋭い痛みが走る。

『アスランッ』

 ラクスの声がした。切迫感のある、焦った声が。

「──ラクス?」 アスランは答えた。

 テレパシーだ。しかも、かなり一方的に回線を繋いでくる特殊な形式のものだった。

 アスランは自分の脳とつながったその波長を読み、受け入れ態勢を整える。上手く彼女の意識が自分に流れ込んでくるように。もともとラクスとアスランはテレパシーの相性が良かったのでそれほどの苦労はしない。

 コックをひねって湯を止め、引っ掛けてあった大きなバスタオルを掴んで濡れた身体にまとう。ドアを開くと、閉じ込められた湯気がブワッと外へ漏れ出した。

「ラクス、繋がったか?」 アスランは自分の頭に触れながら問いかける。インカムを扱うように。

『ええ、聞こえますわアスラン』 ラクスは言った。『まだキラの所在は判っていないようですわね』

「簡単に判れば苦労しないさ。だが俺たちとキラのネットワークは、今回は途切れていないようだ」

 それでも存在を感知できないということは…ある程度の想像はついていた。

 キラは気配を遮断できるタイプの結界の中にいるのだ。キラの気配を隠して影たちの襲撃を避けるため、前のホテルの部屋全体に同じものを常時展開していたからよくわかる。

 ということは、その結界から一歩でも外へ出れば、彼の存在は即座にキャッチできるはずだ。アスランはそれに賭けて、戻ってからの数日を無言で過ごしていた。まったく音沙汰はなかったのだが。

『今、わたくしたちはオーブ軍の方々に囲まれています』 突然ラクスが言った。

「…はっ?」 アスランは耳を疑った。

『カガリさんが説得して下さっていますが、おそらく長くは保たないでしょう。アスラン、今からわたくしの言うことをよく聞いてくださいませ』

「おい、ラクスッ」 服をまといながらアスランは慌てた。「よく聞け、って、カガリたちは無事なのかっ? 議長たちも…」

『そのデュランダル議長が解いてくださったのです』 ラクスは言った。『キラの力の秘密を』

 アラスンは危うく自分で自分の舌を噛み切ってしまいそうになった。一瞬のショックに何を言えばいいのか判らない。このとき確かに、アスランは『言葉』というとても大切なものを失っていた。

「な、何で今そんな、いきなり」

『こんな場面、こんな状況になって本領を発揮する。人間の脳とは、面白い構造をしていますわね』 ラクスは笑ったようだった。『今だからこそ、あなたにお伝えせねばなりません。──アスラン、どうか聞いて下さいませ』

「……わかった」 アスランは慎重に言った。「教えてくれ」

『キラはスーパーコーディネイターですわ。わたくしたちコーディネイターの中でも、特別な製法で生まれた異種』

「異種?」 アスランは眉を寄せる。「スーパーコーディネイターは、完成体でなければ何人も生まれていると実験結果が残ってるだろ。そこには超能力者が誕生したなんて記載は、ひとつも──」

『問題はその過程なのです。キラの兄弟たちは、人工子宮内で発生した甚大なイレギュラーによって死亡したか、あるいは誕生以前よりすでに『不完全体』であることが判っていました』

「だからなんだ」

『お判りになりませんか、アスラン。大きなイレギュラーもなく安定した生育を続ける胎児に、どれだけの研究者が期待を注ぐことになったか──』

 アスランは不意に、足元にぽっかりと大きな穴が開いたような気がした。そのまままっすぐ、バランスも崩さずにその底へ落ちていくような気さえした。

 ある人物がキラを例えてこんなことを言った。君は人類の夢、希望、理想なのだ、と──。

『スーパーコーディネイター研究に携わったすべての科学者たちが、最後に残った『安定した胎児』に希望を注ぎました。実験の成功と、自らの理論の証明をかけて』

 そうか──。アスランは唐突に理解した。

 理想の達成、夢の実現。スーパーコーディネイター研究は、新たなる人類が踏み出す新世紀の第一歩として、世界中のあらゆる立場、人種の人間から支持と援助を受けていた。科学者たちはそれに応えるため、とにかく自分のなせる限りを尽くしたはずだ。

 その果て、今まさに生誕しようとする完全体……そこにどれほどの期待が集まったことだろう。

 ある者は自分の理論を証明することを、ある者は己の技術が実を結ぶことを求め、ある者は自分たちが提供した人工子宮の部品やら設計方法やらを誇示せんとする。その全ては、完成体の誕生をもって代わるのだ。

 私の理論が正しかったことを知れ。私の技術の素晴らしさを知れ。私が設計した人工子宮は、新たな命を作り出すことさえできたんだ──。

 おそろしい。アスランは純粋にそう思った。その実験は、その研究は悪魔の所業としか思えなかった。まるであらゆる人間たちの欲望の権化だ。そして『完成体の胎児』──要するにキラにことごとく集まった科学者たちの希望の光は、そこに深い深淵を生み出してしまった。

 希望といえば確かに聞こえはいい。だがその裏側に風呂場のカビのようにドロドロとこびりついていたのは、他でもないその希望と表裏一体の欲望そのものだ。

『こんな闇が根源ならば、キラの力が消えることは決してありません』 ラクスの声が暗く沈んだ。『たとえキラの死によって一時的に失われたとしても、すぐに第二、第三のキラが出現するだけです』

「わかったよ」 アスランは静かに言った。「ありがとうラクス」

 何とおぞましく、そして何と哀しい力だろう。スーパーコーディネイター完成体・キラの誕生は、その研究に携わった全ての科学者から祝福されたことだろう。しかしその裏側にあったエゴという名の闇が、長い時をかけてキラの中に蓄積されていったのだ。人工子宮で何も知らずすやすやと眠っていた、あの頃から。

 アスランは無性に泣きたくなった。悲しかったのではない。怖かったのではない。ただ、ただキラが哀れでならなかった。誰よりも優れながら人の上に立つことを望まなかった、平穏な、静かな平和な暮らしを求めただけだったキラが。

 普通の人間にはごく普通に与えられる平凡な暮らし。だが生まれた環境が決して普通ではなかったキラには、それが与えられる権利さえないというのか──。

 いや、そんなことはない。アスランはぐっと、わきあがってくる虚しい感情を押し殺した。

 まだ希望はある。この世には決して、『明けない夜』はないのだから。

「ラクス。そこに議長はいらっしゃるか?」 アスランは言った。「すこし話をしたい。できるか」

 しばらく間がある。電話を通すように、ゴソゴソとした意識の欠片がいろんな声で流れ込んできた。男の声とカガリの声、ラクスの声、そして──。

『アスラン君。聞こえるかね』 デュランダルの声がした。

「聞こえます、議長」 アスランは応えた。「緊急を要する場で申し訳ありませんが、お尋ねしたいことがあります」

『なんだね』

「議長はもう、ある程度お判りなのでしょう。キラの力を消す方法を」

『……察しがいい、というべきかな。この場合は』

「お願いです議長、俺たちは小さな可能性ならなんでもやってみたいんです。確信のない仮説でも何でも構いません。今までの俺たちは、仮説さえ組み立てることはできませんでした。これは飛躍的な進展でもあります」

『いいだろう』 デュランダルの声が優しくなった。『では私が考えた仮説を説明しよう』

「ありがとうございます、議長」 アスランは心の底から彼に感謝して言った。

『キラ君の闇の根源は、先ほどラクス・クラインが話した通りだ。それは人が人である限り背負い続ける業のようなもの、決して消滅させることはできない。しかし、もしかしたらその力を、限りなく無に近い状態まで薄める──いや、弱めることは可能ではないだろうかと思っているのだ』

「その方法は」 アスランはジリジリした。

『──愛だよ』

 ああ──。アスランは目を閉じてその言葉を噛み締めた。

『絶大な闇に対抗することができるのは、それと同じか、それ以上のレベルの光だ』 デュランダルは冷静なままで言った。『今のキラ君は闇の力の方が大きい。しかしもしも、その闇を照らすことができる光を──人の心が生み出すその産物を受け取ることができたなら、彼の力のレベルは反比例するのではないだろうか』

「議長」 アスランは淡々と言った。「その仮説を組むに至った理由は」

『先天種マイノリティの特性から、私はそのヒントを得た。要するに君のデータによってね。アスハ代表から、君は超長期の不眠をわずらっているという話を聞いていたが、それは単なる不眠症という病ではない』

「え?」

 いきなり話がピューッと飛んだ。アスランは、今の自分にその気配が残る不眠の頃を思い出した。

 あの頃は精神的にひどくまいったものだった。眠らない自分、眠らなくても連日戦い続けることができた自分が怖かった。とっくに人間の枠を超えていたのは、ひょっとしたらおぞましい力を持つキラではなく、『回復のための睡眠』を必要としなくなった自分の方ではなかったか──。

 もちろん肉体的疲労を感じないこともなかった。しかしあのときのアスランが感じていたのは、それよりもはるかに強い精神的疲労だった。

『先天種は母体の闇と繋がり合うことで、自分のエネルギーを母体から補給することができるようになる』 デュランダルは言った。『君の不眠は精神的要因からくる病ではなく、そのマイノリティ理論に基づいた、列記とした『進化』なのだよ』

 アスランは返す言葉を失った。

『だがその補給が一時的に絶たれた日があったね?』

「…はい」 アスランは震える声で言った。「一日だけ、眠りました」

 彼は理解した。そうか、そうだったんだ──。あの日のアスランが眠ることができたのは、何もキラと共に過ごした夜に安堵して精神的に安定したせいではない。大好きなアスランの腕に包まれたキラの心が落ち着いて、誰かを愛する感情に心を満たしたキラの闇が、一時的にひどく弱まったせいだったのだ。

 同時にもうひとつ、自動的に解明された真実があらわれた。かつての大戦が終わりに向かうきっかけになったあの事件。ラクスがキラにフリーダムを託したあの事件の前後のことだ。

 キラはあの事件の前後を境にして、自分の力の覚醒を自在にコントロールできるようになった。アスランはそのときにこそ、キラはラクスという最高のパートナーを得て心を補強され、自身に制御をつけられるようになったのだと心から安心したものだった。だがそれはまったくの逆だったのだ。

 キラの心が、力を制御できるまでに強くなったのではない。

 キラの力が、キラの心でも制御できるほどまでに弱まったのだ。

 もちろん心の成長がまったくなかったといえば嘘になる。アスランもまた、あの頃を境にして自分の隠された能力を覚醒させることができるようになったのだから。それは自分がマイノリティであること踏まえれば何の疑問もない。

 アスランとキラは、あの頃から意識しないところで力の絆で結ばれていた。キラの成長はアスランの成長に他ならない、キラが自分の力を制御できるようになれば、アスランだってそれができるようになるのだ。

『…もう、判っただろう』 デュランダルは言った。『今となって、この状況でキラ君を救えるのは君だけだ』

「──はい」 アスランは答えた。もう声は震えていなかった。

『母体の力が著しく弱まれば、世界中に散らばった闇の欠片たちは母体との繋がりを絶たれて消滅する。私たちマイノリティもまた、救われるのだ』

「はい」 アスランは頷いた。それ以外に、もう何も言うことはない。

 いくら弱めることができるとしても、ある一定のライン以下にはならないかもしれない。だが少なくとも『人間』に戻ることはできる。たとえ超能力が消えるまでには到達できなくても、それでも大戦中の怖い夢を見て取り乱したキラから、闇の滴がしたたるような異常なものは、もう見なくてすむかもしれなかった。

『アスハ代表とラクス・クラインのことは私に任せたまえ。必ず守り抜いて見せよう』 デュランダルは言った。『私もマイノリティとして、一度くらいは思いきり超能力を使ってみるのも悪くない』

「…お願いします」

『君たちの健闘を祈っているよ。必ず…生きて、帰ってきたまえ。そのときは我がプラントが、君たちに永劫の安住を約束する──』

 ふっ、とテレパシーが途切れた。電波状態が悪くなった携帯電話の通話が切れてしまったように。

 アスランはもうその意識を追うことはなく、ただベッドに腰かけて黙っていた。ほんの数十分の間にあらゆる事実と真実が解明され、新たな可能性が姿を見せた。その内容を幾度となく頭の中で繰り返しながら。

「…なるほど。愛か」

 イザークが言った。隣にはディアッカを立たせている。一人用のワンルームに、ドアを開ける音も何もなく、突然彼らは立っていた。長身の男が三人も揃うと、さすがにビジネスホテルの一室は狭い。

 先ほどのラクスのテレパシーは、恐らくそれ専門の能力を持つイザークやディアッカだって受信できただろう。全部筒抜けだったとしても何の不思議もない。

「ずいぶんとまぁ、胡散臭い言葉が出てきたものだな。議長が言ったら尚更だ」 イザークは溜息を吐く。

「だが、何の可能性もないよりはずっとマシだろ」 アスランは言った。

「大体のことは判ったけどさ」 ディアッカが言った。「これって、シン的にはかなり厳しい話じゃないの?」

 確かに、とアスランは思った。闇の力が愛の力で弱まるという大前提を考えると、今は行動を共にしているはずのシンとキラの力が弱まらない事実がとんでもなく冷酷なものとして見えてくる。

 あの二人の間に、愛などという生易しいものは存在しないのだ。あるのはシンの、自分の力をより高めて維持したいという欲望と、キラの、自分のせいでシンの運命が狂ってしまったと考える莫大な罪悪感の二つだけだ。

「姫はヤツと共に死ぬ気だろうな」 イザークがさらりと言った。「くそ。ここまできてバッドエンドなんて絶対許さんぞ」

「死なせないさ」 アスランは言った。「キラも、シンも、絶対に」

「俺たちもね」 ディアツカは苦笑いした。

 アスランは窓の外を見た。冬の夕焼けは空気が澄んでいて美しい。染み入るような紅い光が空いっぱいに広がっている。立ち上がって窓辺に立つと、これから訪れる闇の時間に期待して街そのものが騒ぎ始めているようにさえ感じられた。それはいつかの日、横浜で大火災が起きたあの日と同じ、何が起こる前触れのように不気味なざわめきだ。

 果たして新しい観点を得た彼らの目に映ったのは、本当にあの日と同じ光景だったのかはわからない。

 だがそれは唐突に、彼らの目に飛び込んできた。

「ア、アスランッ」 ディアッカが大きな声を上げて、アスランの視線の先を指さした。「あれっ…!」

 巨大な光だった。白っぽい虹色の、とてもきれいな輝く光。それがいきなり窓から見える道路の上空に、まるで蝶の羽根のように出現したのだ。

 なんだあれは──。アスランは一瞬そう思いながらも、頭の芯でそれが何かを理解している自分を感じた。

 彼はかつて、あの光の羽根を見たことがあった。






                                         NEXT..... (2005/07/16)