GET LIMIT 39.決別
クルックー。クルックー。クルックー。能天気な鳩が鳴きながら歩いている。真冬であろうとも、そのスカイビルの噴水広場はたくさんの家族連れやカップルが訪れていた。夜になると美しくライトアップされるらしいが、今は昼間だから水が見えるだけだ。悲しいことにこんなカップルたちの聖地も、今は野鳥の水飲み場と化している。
キラはそんな噴水の囲いに腰かけて、平和に水を飲んでいる鳥たちを眺めていた。何も考えず、ただのんびりと生きているだけの彼らを見ていると無条件に気持ちが落ち着く…はずだった。
今はすべてが眩い。眩くて、とても遠かった。
死の覚悟を背負っている状態で眺める日常の光景というものは、何もかもがフィルターの向こうにあるように感じられてしまう。暖かな家庭、家族、恋人──いまの自分にはない、そしてこれから永遠に奪い去られようとしているものがそこにあった。
終わりのときが近づいている。
キラは自分の力がどんどん強まっているのを感じていた。夜が近いせいだけではない。シンの傍に居て、シンの闇を近くに感じていることで、胎内の闇が負けじと成長しようとしているのだ。むくむくと何かが膨れ上がっていく。苦しいほど、狂おしいほど身体はエネルギーに満ちている。アスランの腕に抱かれたときの奇妙なほどの落ち着きは影をひそめ、今は孤独感と罪悪感に比例して闇は成長する一方だ。
このままではシンどころか、自分の意識までもが闇に取り込まれる。アークエンジェルに乗ったばかりの頃のように、ストライクに乗っていたあの頃のように理性を失い、ただの怪物となれば自分は何の制御もなく暴れ出すだろう。そうなったとき、誰がこの目の前に立ち塞がるのか──それを考えると今すぐに死にたくなった。
アスランたちに決まっている。この身がバケモノになってしまったとき、その力に対抗できるようにできているのは彼らだけだ。彼らによって命を絶たれるなら本望と言えるが、彼らと戦って傷付けあうことだけはごめんだった。
あの頃のパワーが今頃戻ってきてしまったら、到底キラでは制御できない。仲間たちから孤立してひとりきり、誰の理解も得られない中、たったひとりの『理解者』であるシンと共にどこへ行こうというのか──。
と、バッと鳩たちが飛び立った。子供たちがふざけて走ってきたせいではない。飛んでいく鳩の群れの向こうからシンが歩いてきた。つい今、スカイビルの中の店で買ったばかりの新しい服を着て。
「お待たせ」 シンは年頃の少女のように笑った。「似合います?」
「うん」 キラも笑みを返した。「かっこいいよ」
ソフトな肌触りを好むシンの好みに合わせて購入された柔らかな生地の黒いジャケットは、彼の鋭さが見える外見にあつらえたように似合っている。キラは、シンには白のニットが似合うのではないかと言ってみたのだが、少女趣味だと笑われた。
シンくらいの年頃の少年には、すこし背伸びしてみたい心理が強く出る。自分に似合うか否かではなく、男らしさや大人っぽさ、いかに自分を『大きく』見せるかにこだわる傾向があるわけだ。普通の少年心理として、キラはそれを悪いことだとは思っていない。
キラから誉めてもらったシンは照れくさそうに笑うと、相手に向かって手を伸ばした。
「行きましょうよ」
「…そうだね」
差し伸べられた手に手を引かれてキラは立ち上がった。
「いつまでもあの家の部屋、あのまんまにしとくの、いやなんですよねー」
シンはそう言いながらインテリアショップフロアを歩いていた。天井に装着するライトから室内カーテン、テーブルセットに食器棚、さまざまなものがズラリと並んでいる。
「ね、キラッ。キラはあのリビングに何を置きたいですか?」 シンはわくわくした様子で振り向いた。「床がフローリングだから、あんまりカラフルなのもイタイですよね。やっぱり床と同じように、木をつかった家具の方がいいかなぁ」
キラの返答を待たずに、シンは廊下の先のサイトボードのコーナーへと走っていってしまった。彼を追ってそこへ入っていくと、濃い茶色の腰丈くらいのそれが目に入ってくる。ガラス張りの棚には、ドラマなどではとっておきのウイスキーやグラスが所狭しと並んでいるのがおなじみのものだ。
こういうところには何を入れるのがいいのかな──キラは思わずそれをしげしげと覗き込んで考えていた。
アスランなんて、こんなところにズラッとハロを並べそうだ──。ぷ、と小さく吹き出してしまってから、キラは急に我に返った。アスランのことは、今は考えたくない。キラは首を振って、フロアの奥で大きな食器棚を見上げているシンの背後へと歩いていった。
「シン。そんな大きなの、使わないでしょ?」 キラは聞いてみた。
「使いませんけど。でも、広いところに小さいものをポツポツ置いてもつまんないでしょ」
確かにそうだ。キラは、たった二人で暮らすには広すぎるあの家のことを思い浮かべた。あの家の家族は、もともとは何人だったんだろう──。どうしても考えがそちらの方へといってしまう。
キラたち二人がメインで使っているマスターベッドルームの他に、あの家の二階には小部屋が二つもあった。どうやら小学生くらいの女の子がいたらしく、二つのうちのひとつは可愛らしい家具や壁紙で統一されていた。さぞかし普通の、愛のある家庭だったに違いない。探してみれば押入れの奥からアルバムが何冊も出てきそうな気がした。
何とかして、元の持ち主にあの家を返してあげたい──。と、そんなことを考えていたら、シンが自分を見ているのに気がついた。
見ようによっては、彼の視線は冷たい軽蔑の眼差しのようにも見えた。闇の制御に成功している今のシンに隠し事や秘め事はまったく通用しない。テレパシーのように一字一句まで声が聞こえるというのではないにしても、かなり簡単に心を読まれてしまう。情に流されている今のキラの心境はほとんど筒抜けだと言ってもいい。
「あ…ごめん。ボーッとしてた」 キラは言い繕った。
「幸せな夢って、苦手でしょ」 シンはずばりと言った。
またキラが答えるのを待たずに、彼はトコトコとライトアップされた照明器具のコーナーへと歩いていく。キラは慌ててあとを追った。白、オレンジ、時には黄色、さまざまな色の蛍光灯が時間帯も気にしないでずっと点灯していた。
シンはそんなきらめく人工の光の中でキラを振り向いた。その表情には愉悦に近い笑みが浮かんでいる。
「人は幸せを感じたとき、何故か同時に恐怖を感じる。幸せであることに疑問を感じるんです。なんでだと思います?」
キラはすこし考えた。幸福の中に置かれたときの、あの異常なほどの虚無感を。幸せであればあるほど、幸福のレベルが高ければそれほどに、いざ感じる疑問や恐怖は言い知れない深さを持っている。
何故──。
「人間は不幸ですよ。いつかその時間に終わりがくることを知ってるんです」
シンはまたキラに背を向けて光の中を歩いていった。瞬く間に見失ってしまいそうな危機感を覚えて、キラもまた追っていく。
「失われる痛みを知らなくても、想像はする。消えていく悲しみを知らなくても、考えることはできる。他人のことに関して想像も考えもしないくせに、自分の幸福に関しては頭の回転がいいんです」
「そんなことない」 キラは言った。「人間は自分が負った傷の分だけ、他人の傷も判るようになる。そうやって人は育っていくんだ」
「ほら、そこですよ問題は」 シンはキラの鼻先に指を突きつけた。「自分が傷を負ってみないと、誰かが負う傷の痛みなんてわからない。フツーわかるでしょ。ナイフで指切ったことも、針で指刺したりしたこともないワケじゃないのに、なんでそんな簡単なことも判らないんだ」
「そういう問題じゃないのは、君だって軍人ならわかってるはずだ」 キラは焦った。「子供の争いとは違う、戦争っていうのは──」
そこまで言いかけてキラは、自分の言動の大きな矛盾に気がついた。
これではまるで自分は戦争肯定派の人間だ。シンの言っていることは決して間違っていない。スケールを取り間違えているというならキラにだって同じことが言える。ほんの小さな傷の痛みなら子供だって知っている。それなら殺される痛みや苦痛くらい誰にだって想像がついて当たり前、シンはそう言っているのに。
キラだって戦争は嫌いだ。誰もが認め合えず争いと疑念が深い闇を引き付けて、それは何度となく繰り返され、あるいはドロ沼化していく。対抗する力も、遠くへ逃げる財力もない無力な民たちはただそれに巻き込まれ、駆り出され、その他大勢として命を落としても無視される。戦場に出て殉死した者すべての名前を一字一句間違えずに記憶している政治家がひとりでもこの世にいたなら、その者はきっと世界の先導者になることができるだろう。
飛び交う武器は誰か殺し、殺された人々の現実は人の心に闇をはる。戦争は人類の業だと言った、誰かの言葉がキラの脳裏に鮮明によみがえった。
「話したって判らない、言って聞かない相手は殴れってわけですか?」 シンは冷たく笑った。「あなたがそういうつもりなら、おれは今すぐあなたを殴りますよ。黙らせるために」
「君はどうしてそんなことをするの。力だけがあったって、所詮使い方を間違えれば君だって誰かを殺すことになるじゃないか」
「…やめてくださいよ、そういうイタチごっこみたいなの。おれ、そういうのきらいなんです」
「お願いだよ、聞いて、シン」 キラは引かなかった。「そんなことしていたら、君が何よりも嫌った、何かを踏みつけにする行為を、君は自分で繰り返すことに──」
「あんただって自分の正義のために、おれの家族を踏みつけにして薙ぎ払っただろ! 責任感じてんなら口答えするな!」
フロアがシーンと静まり返った。その場にいたたくさんの家族連れが何事かと、大声を張り上げたシンを見ている。
「あんたが自分の守りたいもののために戦っただけだって言うなら、おれだって自分が守りたいもののために戦うだけだ。そのために誰が死んだって構うもんか。おれは二度とあんな思いはしたくないだけだっ!」
あ──。キラは大きな瞳をさらに見開いてシンを見つめた。今までずっと疑問だったことが今わかった。
キラとシンは考え方はとてもよく似ていたはずだ。大切な人を失った悲しみと痛み、絶望、感じたものはとてもよく似ていた。しかし根本的なところで二人はまったくの正反対だったのだ。
キラは憂いに涙し、シンは怒りに震えた。これが何よりも決定的に二人を分けたものだった。
キラが自分以外の誰かのことに思考を広げた一方で、シンは自分自身のことで頭がいっぱいだった。彼が軍人となって戦争に加担したその理由は、もう自分の目の前で、あんな惨劇が繰り返されるのを見たくなかっただけだ。自分の目に入る範疇で気にくわないものは許せない、自分が満足すれば他はどうでもいい、自分が二度と悲しまずにすむための方法を、彼はひたすらに模索してしまった。
最悪の境地で根底のない絶望を味わいながら、闇の底に沈んだ彼が求めたものは自己の幸福。それ以外の何者でもなかった。
「…やっぱり、あんたとは合わないな」 シンはぽつりと言った。「結構ガマンしてきたけど、もういい。あんたの言うことを聞いてたら気が狂いそうだ」
「君は」 キラは言った。「もう狂ってるよ」
今度こそシンの怒りが爆発する、そんな危惧を感じながらキラはその一言を口にする。力に気を取られ、力に固執し、それにおぼれてしまった──戻れるものなら戻ってほしい、その力を手放してくれと説得する最後の機会をうかがっていたけれど、もうそんな静かな時間は、二度と訪れそうにない。
クク。シンが笑った。肩を震わせて、可笑しいのを必死に堪えるように。
「あははははははは」
そしてシンはけたたましく笑い出した。今度は何事なのかと、何かしら異常な雰囲気が漂う二人連れに冷たい興味の視線が突き刺さる。
「そうだよ、おれはもう狂ってるさ!」 自棄を起こした、そうとしか見えない表情でシンは言った。「あの日、あの瞬間におれはもう壊れてたんだ! あんたが狂わせた、あんたがおれを壊したんだ!」
どく、ん。キラの中で何かが大きな鼓動を打った。心臓の鼓動ではない。
「あんたのせいだよキラッ! この責任、どうとってくれるんだよ!」
どくんっ。息が苦しくなる。通常の呼吸では酸素の供給が不十分に、なって。
「あんたの力を…」 シンは一歩後退した。「あんたの力も、もらうよ。ただあんたを傍において進化を待つより、ずっと早くて効率いいからね」
もう変えられないさだめなのか──。頭の芯がズクズクに溶けるくらい熱くなったキラの身体の中で、目頭がもっと熱くなった。涙が浮かびそうになるのをキラは目を閉じて堪えた。いま溢れてくるのは、きっと普通の『涙』ではないだろうから。
けれどまだこの身体は僕の自由になる──。キラは目を開き、そして少年を見た。もう戻れないのなら、僕は──。
メキッ。キラの背で不気味な音がした。それを見たシンの表情に驚愕が走る。
「君の闇と君の魂の結合は、もう引き剥がせそうにないね」
キラは目を伏せて言った。ベキベキ、と背中からの異音は続いているのに、眉一つ動かさずに。
「それでも僕は、君から力を奪わなくちゃならない。その力を振りまいてしまったのも、僕だから」
バシャッ。この場で決して聞こえるはずのない、奇妙な機械音がした。フロアのあちこちでキャアッと悲鳴が上がる。キラの背中から姿を見せたのは、青い、八枚のバインダーだった。
シンはその青を見たことがあった。何年も前の記憶なのに、それでもあの鮮烈な青は目に焼きついて離れない。
だがシンの記憶の中のそれとは違い、いま目の前で展開されたそれは、表面に細く脈打つ、不気味な赤黒い筋が無数に走っているばかりか透明な粘液まで滴らせている。小さな羽根と羽根の間でも粘液は糸を引き、気持ちが悪いくらいだ。
「でも、君を独りでいかせたりはしないよ」
キラは顔をあげ、微笑んだ。それはいつもの、本当に普段のキラの微笑みだった。
僕も進化を始めよう。こうしなければ、もはや対抗することはできない──。
「僕も、いっしょにいくから」
みるみるうちにシンの表情に怒りがみなぎる。自分から力を奪おうとする者の出現に、もう感情が限界を超えようとしているのだ。
次々に音を立てて蛍光灯が割れていく。何も知らない人間たちは不気味なバケモノじみた者たちを見て慌てて身をひるがえし、逃げていく。子供を抱き、妻を抱き、思い思いの方向へと散っていく。
急速に何かの気配が飛来する。おぞましい何か。恐ろしい何かが今再び姿を見せようとしている。キラはただ黙ってその様子を見ていた。目を細め、状況を見極めようとするように。
こいつは敵だ。おれの平穏を、おれの進化を邪魔するばかりか、おれから力を奪おうとする──!
「うあああああ───っ!」
莫大に溜め込んだ何かを放射するように叫んだシンの背で、白い光が翼を形作った。
NEXT..... (2005/07/16)