GET LIMIT 37.心中
東京都多摩市のニュータウン。閑静といえるその住宅密集地はセンスのよい白や茶、ときには黒い壁でコーディネートされた家々が軒を連ねている。歩道や庭先、あちこちに緑が植えられた高級感のある一帯は、沈黙の夜から静寂の朝を迎えようとしていた。
キラは空気の匂いがだんだんと澄み渡っていく朝の気配を感じながら、リビングの大きな窓から広い庭を眺めていた。夜が明ける頃になってどっと眠気が襲ってくるのは、光の気配を察知した闇たちが一斉に活動を縮小するからだということは彼もよく知っている。血流が行き渡らなくなると眠くなるのとほとんど同じことなのだが、しかし彼の肉体は一向に眠ろうとはしなかった。
キラは冷たい窓ガラスにぺたりと手を当てた。その様子を見ていたようにサワリと庭木が葉を揺らす。
どうしたの、どうしたの、どうしたの──。耳に聞こえる、というよりは直接脳に響いてくるその声は、優しい女のもののように感じられた。
と、キラは首を回した。肩越しに振り向いた先はリビングから廊下へと出るガラス張りの扉だ。自分が入ってくるときには閉じたそこが、今は大きく開いていた。
「…おきてたの」 キラは言った。
「眠れないんでしょう」 シンは嬉しそうに言った。
「……何か、知ってるみたいだね」
「これも、おれたちの進化ですよ。おれたちは眠らなくてもよくなったんです」
誇らしそうにシンは言った。
進化、という言葉にキラは眉を寄せる。明らかに人間でいるうちには無関係なはずの、カッコをつけた表現の一環でも、ものの例えでもない、あからさまな言葉を前にして。
「朝が来て、世界が光に満たされたって、この世界には常にどこかに闇があります」
シンは言いながら一歩を踏み出した。キラはスリッパを履いていたが彼は素足だ。
「建物や人間の影っていう簡単なものから、人の心の闇に至るまで、いろいろとね。おれたちはそこから自分の力を充填できるようになってるんです。人間の悪意、その中の死、この世界のどこにでもあるそんな現象が全部、おれたちの力の源なんですよ」
「やめて」 キラは呟いた。「僕も、君も人間だよ。──人の輪から外れたみたいな…そんな、ことは言わないで」
「仕方ないでしょう、それが事実だったら」 シンは肩を竦めた。「じゃああなた、これから寝ます?──どうせ眠れないんですよ。夜っていう最高の時間が過ぎても疲労を感じない以上、そういうふうに考えるのが自然でしょう?」
シンはキラの前まで来た。キラよりもひと回り小さな彼は、近くに立つと自然とキラを見上げる形になる。無力な自分に長くコンプレックスを抱き続けてきた人間は、自然と他人に見下ろされることを最も嫌うようになるのだが、シンはそんな素振りはひとつも見せなかった。
「なんでそんなに人間でいたがるんですか」 シンは言った。「あいつらは肉体的にも非力で、おれたちみたいな強い超能力も持ってない。誰かと繋がることもできないせいで心はどっぷり悪意に浸ってる。…そんなやつらと、なんで同類でいたがるんです」
キラは答えなかった。じっと黙って、自分を見上げてくる赤い瞳を見つめ返す。
「でもおれたちは違いますよ」 シンは自分の胸に手を置いた。「おれとあなたに宿っているものはまったく同じです。おれたちは触れ合うだけでお互いを知ることができるし、繋がり合うこともできる。おれたちの関係に言葉も行動も必要ない、考えたことは全部実現する。なんてすごい力だと思いませんか」
「すごい力だよ」 キラは目を閉じて言った。「──でも、こんな力は人間には、ない」
と、そこで笑っていたシンの表情がすっと消えた。とても哀れなものを見るように眉を寄せて、彼はゆっくり両手をさし伸ばす。ふたつの掌はすぐそこにあったキラの頬を包んだ。
「かわいそうな人」 シンは言った。「どうして自分の力の素晴らしさが判らないんですか」
「判ってるよ」 キラは答えた。「判っているから、僕はこの力を捨てたいんだ」
今度はシンが黙り込む。キラは目を開いて、自分の頬に触れたままのシンの手に、自分のそれをそっと重ねた。
「ごめんね…」 キラは触れる手に頬をすり寄せた。「僕のせいで、こんなことになって」
「…そうですね」 シンは言った。「でも別に、おれはそのことであなたを恨んだりはしてませんよ」
キラは黙っていた。切ない瞳と、笑む瞳とが視線を交える。
「話をしましょうか」 シンは言った。
キラが触れさせていた手を下ろすと、頬に置かれていたそれが退いた。そのままクルリとキラに背を向けると、彼はソファセットに腰を下ろす。フローリングのリビングによく合う、黒く品の良い革張りのソファがギュッと鳴いた。
「おれは目覚めたんです」 シンは言った。抑揚のない声で。「オーブでマユが殺されたときと、あなたによって『あれ』が討たれたときに」
言いながら、ガラス張りのテーブルからグレーのリモコンを取り上げる。ピッ、とスイッチが入ると、部屋の角に置かれていたテレビがついた。早朝のニュース番組。もうずいぶんと長い時間が経過したように感じられてならなかったのに、それは静岡の原発事故の話題から始まっていた。
「おれはあなたたちで言う、ラクス・クラインみたいな後天種のマイノリティなんかじゃない。オーブのアスハ、アスラン・ザラ、フレイ・アルスターと同じ、先天的にあなたの闇を宿して生まれたマイノリティなんです」
キラはじっと聞いていた。アスランからは、シンは後天種ではないだろうか、という推測を聞かされていた分、この言葉がどこまで真実に近いものなのか判らない。
そもそもシンは専門的な知識なんて何も持っていなかったはずだ。マイノリティなんて言葉、一体どこから──。
「先天種は、最初から闇の片鱗──あなたから出て行った闇の欠片が宿ってます。自然界を漂流して変質してしまう前の、本当に純粋な、あなたの体内にあるままの闇がね。それがあなたに会ったり、外界から強烈なショックを受けることで覚醒するんです」
そこまで言ってふと、シンは何かを思い出した顔をした。
「ああ。けど、アスハはかなり後天種に近いかな? 先天種のクセに『感染』を通さず超能力が身に付いてるところを見ると」
「じゃあ君だって後天種に近いんじゃないの?」 キラは言った。「君だって、僕に会う前から微弱だけど超能力を持っていた」
「おれのケースはちょっと特別でしたから。そもそも先天種は体内の闇が覚醒しても、超能力なんて発現しないんですよ」
「え…? どういうことさ。闇が覚醒したら、普通はみんな──」
「それじゃあ、マイノリティを先天種と後天種に分けること自体、意味なくないですか?」 シンは肩を竦めた。「先天種は覚醒のとき、超能力の代わりに母体と強く結びつくことができる、いわゆる同化能力を身に付けるんです。後天種があなたを『帰るべき場所』として認識するなら、先天種の認識は『自分とひとつになるべき相手』です。だからより、あなたへの執着が強い」
キラは口を噤んだ。
「ああ、ひとつ余談なんですけど」 シンはぽんと両手を合わせた。「おれの妹。マユは後天種でした」
「──えっ?」 キラは思わず耳を疑う。
「おれはあなたに会うまでもなく、マユという後天種と接触することで闇の覚醒を済ませてたんです。だからマユと過ごした日々は幸せそのものでしたよ。おれの相手、おれのパートナー、おれの一番大切なもの、それがマユだった」
シンの目が宙を仰ぎ、恍惚げに細められる。ありし日々、幸せだったあの日々を思い返して語る彼の表情は陶酔しきっていた。
だが、それが唐突に消える。
「けどマユが殺されたあの日、マユという肉体を破壊された闇がおれに宿って、おれは身に付けるはずのなかった超能力を手に入れてしまいました。アスラン・ザラと同じです、おれもあの人も超能力を身に付けるまでのプロセスは違うけど、立場はまったく同じなんですよ」
アスランはキラから新しい闇を受け取って超能力を手にし、シンは妹から力を譲り受けた。確かに方法は違っているが、先天種であり、それとは違った『闇』を宿しているという点では、シンとアスランの立場に何も違いはない。
「先天種が、基本的にどういうものか理解できましたか?」
くす、とシンは笑った。ちょっとだけいたずらっぽい、子供っぽい問いかけだ。
「なんとなく」 キラは言った。「わかってきたよ」
それを聞いたシンがフーンと笑った。ひょいと足を組んだりして、余裕のある仕草を見せている。
「じゃあもうひとつ。あなたたちが『あれ』と呼んでたアイツも先天種のマイノリティだったって、知ってました?」
「いま、そうじゃないかなって思ってた」
キラの返答を聞いて、シンは嬉しそうに目を細めた。
「『あれ』は僕から離脱して、そのままの状態で地に宿った。長いこと眠り続けて、長いあいだ人間たちの悪意を吸収し続け、そして自我を持つまでに進化した。人間としての肉体を持ってないことはかなり特種だけど、突き詰めれば何のことはない、先天種のマイノリティと道理は同じだ」
「さすが」 シンは言った。「スーパーコーディネイターも伊達じゃないですね」
「闇の知識があれば誰だってわかることだよ」 キラは顔を伏せる。
「けどあなたは、ひとつ重大なことを見落としてますよ」
エッ、とキラがシンを見上げた。彼は薄ら笑いを浮かべてキラを見ている。
「どうしてマイノリティは、先天種と後天種に分類されると思います?…いや、もっと突き詰めると、何で先天種なんてものが存在してると思いますか?」
「え…。それ、は…」 キラの視線が泳いだ。
「超能力を持つわけでもなく、ただ母体と一体化する能力を持つだけの先天種ですが、これは逆に言うと、どうなるでしょうね?」
キラは完全に沈黙した。その顔が心なしか青ざめていた。本当なら考えたくない、できるなら知りたくない、表情が如実にそう語っている。
しかしシンは押した。その核弾頭のスイッチを。
「先天種はあなたを支配する為に生まれてくる」
キラは泣きも喚きもしなかった。ショックのあまりぶっ倒れも、錯乱もしなかった。ついでに否定も肯定もしなかった。
「あなたとひとつになり、あなたと共に生きていく…」 シンは夢を謳うように言った。「それはあなたの心に自分の存在を刻み、あなたに認識を受け、あなたに言葉を聞いてもらうことに他ならない。先天種はみんなその意思を、認識するしないに関わらず抱いて生まれるんですよ」
シンの言葉を聞きながら、キラは顔を伏せ、ぐっと目を瞑った。悲しみを堪えるのではない、衝撃を受け流すのではない。ただ、やるせない感情を押し流すために。
そんなことのために──。キラは心の底が熱く震えるのを感じた。たったそれだけのために、何人もの人間が一生を台無しにされ、そして殺されたのか。そんな、そんなくだらないことのために──。
「ただし」 シンは続けた。「『その意思』に覚醒するのは、常にたったひとりです」
キラは顔を上げた。堪え切れなかった涙がすうっと頬を伝っていく。涙という液体がこんなにも熱いことを、キラはいま初めて知ったような気がした。
「ひとり…?」
キラは言葉を忘れた子供のように、彼の言葉を繰り返した。
「そう、ひとりです」 シンは優しく頷いた。「三人いても、五人いても、十人いても。先天種の中で『あなたを支配する』という確たる意思を発現させるのは、その中のたったひとりだけなんですよ。あなたたちが小さかった頃は、それがアスラン・ザラでした」
何を思い出したのか、キラの表情が刹那だけ強張る。
「けど時の経過と共にアスランはあなたから離れてその意思を鈍らせ、次第に忘れていきました。その間にフレイ・アルスターが現れて消え、『あれ』が生まれたことで今度は『あれ』がその意思を持った。そして現在…『あれ』はもういない上、今のアスランは権利を放棄している。そうなれば、次にその意思を覚醒させるのは──」
「──君だ」
「ご名答。そういうことですよ」
シンは軽く拍手した。パチパチと乾いた音がいやにむなしい。
「けどまぁ、『あれ』はかなりイイ線行ってたんですけどね」 シンはクク、と低く笑った。「『向こう』からおれを『こっち』に呼び寄せてあなたに接触させ、おれにあなたの同情やら何やらを集めて、最後はそんなおれと同化してあなたをモノにしようと謀った」
「『あれ』は目的の為なら何でもしたからね」 キラは細く言った。「──誰の死も、迷惑も考えずに…」
「ええ」 まったく、と言うようにシンは困った苦笑いで答える。「静岡でマユの姿になった自分をあなたに討たせることでおれのマイナスの感情を一気に増幅させ、自分のレベルとシンクロしたおれに宿ったまではよかったけど、そのときにはもう、おれの力の方がアイツより強くなっていました」
さぞかし『あれ』も驚いたことだろう。完全に自分の策略通りに進んだと思ったら、思わぬところで予期せぬ事態が起こっていた。シンはとっくにキラやこの世界の影響を受けて『あれ』を凌ぐだけのパワーを手に入れていて、到底その意識を乗っ取って支配できるような状態ではなかったなんて。
シンのマイナス感情が増幅して自分とシンクロしているうちはよかったのかもしれない。しかし、いざシンの感情が落ち着いて、彼の意識が戻ってきたときこそ、『あれ』は自分の本当の最期を悟ったはずだ。この世界の構造は、自分より強いものを単純な力勝負で支配できるようにはできていない。『あれ』とシンはひとつしかない肉体の中で戦った。自分の居場所を得るために、守るために。
そしてシンが勝ったのだ。
そのあいだにひとりの女を支配して、大勢の男をゾンビ化し、国家代表者を拉致して逃げたかもしれなかったが。
「いまはそのすべてがおれのものですよ」 彼は嬉々として言った。「知識も、力も、全部おれが手に入れた。あなたによって高められたマユの力と、あのバカの力。今のおれはあなたさえ超えられる」
シンはヨッと立ち上がると、コマーシャルを流しているテレビはそのままにキラへ向き直った。
「あとは、あなただけですよ」
キラはそんな少年の目をじっと見つめていた。何かを考えるとも知れない目で。決して誰にも心の内を読ませない、確固たる意思のベールに包んだ瞳で。
知識と経験というものは、人間の人格を形成するにあたって最も重要な役割を果たしている。幼い頃から成長にしたがってゆっくりと、そしてひとつずつ確実に身に着けていくことによって、人はさまざまな個性をまとうようになっているのだ。
だがもし、一生、あるいは何年もかけて身に付けるはずだった知識と経験を、ほんの数日または短期間ですべて身に付けてしまったらどうなるだろう。それは何年も先の自分がいまこの場に現れるようなものだ。そうなれば、『それまで』に『その人物』を形成していた無知だった頃の人格は影を潜め、代わりにさまざまな知識を取得して変化した感情と、経験を通して目覚めた意思とが、ある意味では全く新しい人格を形成してしまうだろう。
ここにいるシンがまさにそうだった。『あれ』の意思と、無知でもキラに強く惹かれていたシンの意思とが混ざり合っている。多重人格や人格交代・分離は列記とした精神病だが、これは本人の人格が二つに分かれたり、あるいはまったく別の人格に乗っ取られたわけではないところがミソである。
ここにいるシンは確かにシンだ。しかし新しい知識と力とを手に入れ、それを理解したシンは、静岡で事故で起こるまでのシンとはまったく別人と言ってもいいのだ。
だが、もしも──。キラは目を細めた。もしも、僕の考えてることが正しいなら──。
こんなとき、デュランダルがいればもっと確実なことが判ったかもしれない。キラは舌を噛み切るような思いで奥歯を噛み締めた。芽生えた予測は助言などなかろうと、どんどん確信めいたものへと変わっていく。
これが本能の訴えというものか、と他人事のように感じた。
「ねぇ、キラさん」 シンが言った。
「キラ、でいいよ」 キラは言った。
「じゃあキラ」 彼は嬉しそうに続けた。「あなたとは一緒にやりたいことが山ほどあるんです。出かけましょうよ、街に」
「…うん」 キラは頷いた。口元に笑みさえ浮かべて。「いいよ」
やった、と言いながらガッツポーズをしたシンが、年齢相応…いや、それよりもすこし幼い子供のように立ち上がる。
「じゃ、ちょっと早いけど朝飯にしましょう。何が食べたいですか?」
意気揚々とキッチンへ駆けていく彼の後ろ姿に微笑みを送りながら、キラは溢れそうになる涙を抑えることはできなかった。
今度はどんなことになったとしても、自分の立場が悪くなったとしても怖くはない。とうとうアスランを裏切り、僕を心から信頼してくれていた仲間を捨てたこの僕が、これ以上何を失うというんだ──。
キラはシンを追うように歩き出した。
もう何も怖いものはない。すべての責任は僕がとる。だからシン、僕は君と一緒に、どこへでも行くよ。
たとえこの道の先には、地獄しかなかったとしても──。
NEXT..... (2005/07/11)