GET LIMIT 28.無知
ミリアリア・ハウはオーブに来ていた。
いくら大戦が終結したといえど、全世界に散らばっている小競り合いや内戦までが完全に終結した訳ではない。ひとつの街で人間が平和な一日を過ごしているうちにも、地面の裏側では秒単位で人が死に、また殺されている。宗教の対立、種族の対立、あるいは本当に些細な理由で人間は簡単に、人間の手で命を絶たれている。
彼女はカメラを片手にそんな場所を渡り歩き、現在は、世界に争いのなんたるかを報せることを生業としていた。
大きなステーションから出ると、ロータリーには何台ものバスやタクシーが所狭しと並び、旅行者や散歩の親子連れなどがうろついている。彼女はふうっと息を吐くと、大きなキャリーバッグを肩に担ぎ直して歩き出した。
駅前には旅行者を標的にした土産物屋をはじめとして喫茶店やアクセサリーショップが軒を連ね、一種のショッピング・グルメスポットと化している。そういう店は味やサービスに万全を期しているわけではなかったが、勝手のいい場所に建てられているせいで利用者が絶えることはなかった。
奥に座って新聞を読んでいるおっちゃんや、菓子を片手に小型テレビのバラエティに夢中になるおばちゃんなどが店番の筆頭だが、そんな様子では、きっと客が入ってもまず気付かないだろう。
いつの時代、どんな場所や国であってもこの形態だけは変わらないなと彼女は思った。軍事的やら政治的なことは別問題としても、オーブと同じくらい発展した小国でなら、こういった光景はどこででも見ることができる。
大きなビルに設置された街頭テレビがニュースを告げていた。声までは、音声が入っていないのか雑踏に紛れているだけなのか聞こえてこないが、どうやら北の国で内戦がドロ沼化しているらしいという報せだ。
「それでねぇー。あ、ちょっと聞いてよー」
「カレシの自慢はもういいっつのぉ」
ミリアリアの横を女子学生の一団が通り過ぎていった。きらきらと輝く瞳で楽しそうにおしゃべりを楽しみながら、やがて彼女らはステーションに隣接したカフェへと入って行った。
頭上のテレビが喋っているニュースなど見てもいない。彼女たちにとっては、そんな話はどうでもいいのだ。小耳に挟んだ芸能人の話、付き合い始めたばかりの男の話、それが彼女たちの世界のすべてを左右すると言ってもいい。恋をしているときは、それに人生そのものさえも動かされてしまうこともあるのだから、人間というものは尽々感情の生き物だと思える。
どこかの国で誰かが銃で撃たれても、刺されても、本当にそれを心に受け止めて涙を流す人間など今どきはひとりもいない。それは単に人間が無感情になってしまったのではなく、そういう事件がありふれたものになってしまっただけ──要するに、慣れてしまっただけなのだ。
金欲しさに誰かが人を殺す。恋人を取られたことに腹を立て、相手の女を殺す。殺すという行為が当たり前になりすぎて、殺人という言葉が随分と身近なものになってしまった。オマエ殺すぞ、という言葉だけなら、今どき幼年学校に通うくらいの子供だって簡単に口にする。
そういうことは言うなと親が注意したら、それこそ1+1=2じゃないのよ、と言われたように目を丸くするだろう。
ありふれた悪意。ありふれた殺意。ありふれた暴力。邪魔だったら排除すればいい、要らなかったら消せばいい、言う事を聞かない奴は居なくてもいい。そういうものをごく当然に受け止めるような人間たちが戦争という行為を起こすのだと、ミリアリアは今更ながらに感じていた。
そういえばキラは元気かな──。
ミリアリアは遠く街外れにあるオーブ首長官邸を見やった。別に本当にそこにキラがいるという訳ではないし、彼女は戦後の彼らがどこでどんな暮らしをしているのかを、なるだけ詳しくは知らないようにしている。しかしそこには、かつて共に戦ったカガリがいた。
当時のことを思い出すと、懐かしさを感じないことはなかった。楽しかったというのは不謹慎だし、いい思い出だというには問題がありすぎる。何せ大戦中の話なのだ、楽しかったとでも言えば神経を疑われるのがオチだ。
だが決して、苦痛だけにまみれた一年間ではなかった。
ちょっと心が温まる出来事もあったし、安らぐ時間もあった。友達というよりも仲間と呼べる人にたくさん出会えた。もちろんたくさん苦しい思いをして、たくさん悲しんだ。涙の内臓量を疑うくらいたくさんの涙も流したし、今こうして正常な意識を保って生きていることが不思議なくらいショックな出来事もあった。
しかしそんな中にも、それを通じなければ決して得られない何かがあったのは確かだ。だから人は様々な状況において、戦うのをやめられないのかもしれない。
ちがうちがう。ミリアリアは首を振って気を取り直した。今日は馴染みのフォトショップに、いつものフィルムを買いに来ただけなんだから──。
感傷に浸っていた自分を現実へ引き戻して官邸から視線を外し、また知った道へ戻ろうとしたミリアリアの肩に、前から歩いてきた誰かの肩がドンとぶつかった。
「キャッ」
カララララッ。同時に、相手が着ていた服のポケットから何かが零れ落ちる。ピンク色の、可愛らしいデザインの携帯電話だ。付けられた小玉のストラップがよく似合っている。
「あっ」 ミリアリアはそれに目を留めた。「ごめんなさ──」
ぶつかった相手がいるであろう方向へ目をやると、そこには誰もいなかった。
「…あれっ?」
それを拾い上げながら視線を巡らせると、少年が人込みの中を歩いていくのが見える。白いノースリーブのパーカーを着た、小柄な少年の後姿。今ぶつかったのは彼だと、ミリアリアはすぐにわかった。
だが携帯電話を落としたことに気付かなかったようで、しかも謝る相手に一瞥もくれず、彼は雑踏の中に消えようとしている。
「ちょっと待ってよ」 ミリアリアは電話を持って小走りに駆けた。「キミ、これ落としたわよ」
追いついた少年の肩にポンと手を置く。途端ミリアリアは、全身にわっと駆け抜けていく悪寒を覚えた。背筋が総毛立つ、とてもいやな感じだ。
やだ、気持ち悪い──。
少年が肩越しに彼女を振り向いた。一瞬の感覚に我を忘れたミリアリアを疎むような、そして世界を激しく憎むような目つきをしている。
「…なんですか」 彼は億劫そうに言った。
「あ…ごめんなさい」 ミリアリアは慌てて取り繕った。「でもこれ、キミのでしょう?」
ミリアリアは手に乗せた携帯電話を差し出した。
少年がまじまじと電話を見る。そして、すぐにいやな顔をした。まるで相手の手に乗っているのが、ムカデやゴキブリなどの害虫そのものであるかのように。
「気持ち悪いだけだ」 少年は本当に気分が悪そうに言った。「要らない、そんなもの」
「えっ…」
ミリアリアは慌てた。声をかけたことに気分を害されてしまったのだろうか。
でも、そんなことに腹を立てられても困るわ──。
「け、けど、あなたのでしょ? あなたが落としたんだもの」
「要らないって言ってるんだ」 少年はミリアリアを睨み、苛立たしげに言った。「あんたが持ってけばいいだろ」
「そういう訳にはいかないのよっ、わかるでしょ」 ミリアリアも苛立って、少年を睨んだ。何よもう、最近はこういう子が多いのかしら──? 「ほら、ちゃんと持っ──」
ぐらり。彼女の視界が大きく揺れた。ひどい眩暈がしてよろめきかけたところを、少年に手を引かれて助けられる。だが唯一、救いの手を伸ばされなかった携帯電話だけがミリアリアの手からこぼれて、歩道のタイルの上にカツーンと乾いた音を立てて落ちた。
あ、あれ? なにこれ──。
視界がぐるぐると回って、すーっと身体が軽くなる。何だかとても気分がいい。そして、少年から目が離せない。
いや、正確には少年の瞳だ。ガーネットのような、鮮やかな紅い瞳から。
そういえば前にもこんな感覚を経験したことがあった。そう、あれはもう何年も前になる。ヘリオポリスコロニーがまだあった頃のこと、付き合い始めたばかりの、まだ恋人と呼ぶには照れくさいボーイフレンド、トールが連れてきた男の子を見たときと同じものだ。
彼の紫の瞳を見ていると、まるで夢幻の世界にいるような、たまらない充足感と安息感がわいてきた。それが何とも心地好くて、おかげで彼への第一印象は最高に良かったのだが、それは最初の一回きりで、それ以降に仲間たちで集まった時には何事もなく、いつしかミリアリアはそんな感覚を経験したことさえも忘れていた。
そうだ。ミリアリアはその懐かしさを思い出した。そうよ、この感じ、キラに初めて会ったときと同じ──。
「あんたは」 少年は言った。「今からおれの奴隷だ」
その言葉は、この世のどんな男のどんな愛の囁きよりも甘い響きを持って彼女の脳に染み渡った。
客間に設置されたテレビが午前のワイドを放映している。ベッドの上に座ったまま、アスランはただただ呆然と、そのテレビをアホの子のように眺めていた。
画面の端に表示された現時刻は10:29だったが、アスランが瞬きをしたら、もう10:30になってしまった。
彼は窓を見た。夜の間は遮光カーテンが降りていた出窓は、花模様の刺繍を施されたレースの薄いカーテンが朝の光を透過している。見晴らしのよい部屋だから海を見ることもできて、そこには青い空を何羽ものカモメが鳴きながら飛んでいく、どこまでも平和な光景が広がっていた。
「あれ。起きてたんだ」
ドアが開いたと思ったら、おいしそうな匂いと共にキラが現れた。アスランの視線を受けて、何だか恥ずかしそうに笑みを浮かべてみせた彼は、器用にも片手で大きなトレイを二つ持っている。
匂いの正体はそこに乗っている朝食のセットだ。
「…キラ」 アスランは混乱して言った。「俺は…」
「うん」 キラは微笑み、頷いた。「すごく、よく眠ってたよ」
その言葉に、アスランは息を吐くと共に肩の力が抜けていくのを感じた。
眠った。自分は眠ったのだ。それがどんな報告や言葉よりも、アスランにとっての驚愕だった。
もう何年もまともに眠ったことなんてなかったのに、超長期慢性不眠症が、こんなところであっさりと治ってしまうなんて。どんな薬を飲んでも催眠をかけてもらっても、象もコロッと眠る強力な睡眠薬を打ち込まれても三十分と眠らなかったこの身体が、丸々一晩も熟睡したなんて。
「すこし遅くなっちゃったけど、朝食、貰ってきたんだ。僕もさっき起きたばっかりだから、ちょうどいいよね」
言いながらキラは歩み寄ってきて、ベッドのサイドテーブルにカタンとトレイをひとつ置いた。
焼きたてをザックリ半分にカットして盛りつけたトーストの上で、溶けかけたバターが濃厚な匂いを放っている。皮がカリカリになるまで焼かれたソーセージに、綿に色を付けたようなふかふかのスクランブルエッグが添えられ、白いドレッシングのかかったクシ切りトマトと、数枚のレタスの葉が乗っていた。
キラは、相手が座っている向かいのベッドに腰を下ろして、膝の上にトレイを置いた。昨日までのとげとげしさが微塵もない。アスランはキラの様子を伺いながら、トーストの片割れを持ち上げる。
つぃ。溶けたバターと一緒に、金色の液体が流れた。ふわりと鼻先にメープルシロップの甘い匂いがする。いくらアスランをよく知っている厨房の係員だって、彼の好物が甘いものだなんてことまで知っている者はいないし、カガリの前でさえこんな食べ方をしたことはない。
アスランはつい、照れくさくなった。アスランの食べるものにアスランの好きなものを振りかけたのは、それをよく知っているキラなのだ。
そんな気遣いに手伝われて、穏やかな雰囲気の中で二人は温かい朝食を美味しく食べることができた。無言でこそあったが満たされた時間を過ごして朝食を片付けると、アスランは皿とトレイを適当にまとめて、ドアの外に置かれた使用人用の台車の上に置く。振り向いてみると、キラはオレンジジューズの入ったカップのストローをくわえながら、テレヒを見ていた。
アスランはベッドではなく、大きな木製のアンティークっぽい机とセットで置かれた椅子に腰かけ、見るともなくその番組を見た。画面の中で、政治関係者と思しき初老の男が一生懸命、世界の平和が何たるかを語っている。
バラエティであろうとニュースであろうとワイドであろうと、ほぼ全てのテレビ番組に共通するのは、何かを『否定すること』だ。その対象は誰かの言動だったり、自然界の事象だったり、そうでなければ人間個人になる。否定するという行為は人間が持つ欲求のひとつ、自己顕示欲を効率よく満たすことができる方法であり、大半の人間が意識せず身に付けている技術でもある。
「言葉だけで、本当に世界が平和になったら楽でいいよね」
「…すごい皮肉入ってるぞ、おまえ」
「そうかな? だって人間ってさ、痛い目に遭わないと何も判らないよなーって、思わない?」
「うん…まぁ、そういうものかな」
アスランは考えながら、キラに曖昧な返事をする。そこで会話は終わってしまった。言葉の選択を誤ったかな、と思いながら、キラの言ったことを反芻してみると、確かにその通りだなと思えてきた。
もちろん時と場合によるかもしれない。だが、どこのどんな人間であろうと、自分がその目で見たこと、自分がその肉体で感じたことしか信じることができないのは事実だ。血を吐いてからでないと胃潰瘍の怖さが理解できなかったり、死んでからでないとその人物の大切さが判らなかったり、挙句には怨恨の果て殺されてみるまで、自分のバカさ加減に気付かない人間もいる。
大戦の頃、アスランはキラと戦った。激闘というよりも死闘といえる戦いを経験し、ラクスによってキラの無事を告げられるまでの少しの間、アスランは自分が彼を殺してしまったのだと信じ切って自分を責め続けていた。戦ってしまったことこそ悔いの残る事実だが、そのおかげで彼は、越えることなく『柵』の向こう側を知ることができたのだ。
アスランは今でこそ、この世の中は上手くできているものだと思っている。
だが大半の人間は、そういったありがたい経験をすることなく、大切なことに気付かずに生きていく。すべての人間の生きる過程にそんな大きな経験が盛り込まれているのなら、少なくともこんな世界にはなっていないはずだった。
「…俺たちはまだ、痛い目に遭い足りないのかな」
アスランがぽつりと言うと、キラは噛み潰したストローから口を離して、そんなことを言った相手を見た。
「案外そうかもね」 そして平然と言う。
「簡単に言うなよ。これ以上、何を経験しろっていうんだ」
「それは、フタを開けるまで判らないよ。大戦のころ、僕、大気圏突入のあとで倒れたんだけど」
「えっ。そんなの初めて聞いたぞ」
「いろいろあったせいだろうって、軍医さんは言ってた」 キラは相手から視線を外し、カップの中身に目をやった。「それであのとき僕は、これ以上苦しいことはきっとないって思ってたんだ。ほんとに死ぬかもしれないってずっと思ってたし…すごい熱が出て、つらかったから。でもそのあとで、君と戦ってボロボロにされた」
アスランは思わず言葉に詰まった。
「それで僕は考えたんだ。あのときに痛みとか苦しみとか、そういうのに耐性ついてなかったら、もしかしたら僕はとっくに死んでたかもしれないって。経験ってさ、そのあとに控えてる、もっと大きなダメージから心や身体を護るためにある防護壁みたいなものじゃないかって」
キラはしみじみと言った。
アスランが知る限りこのキラという少年は、なまけもので惚れっぽくてわがままで、おまけに実力があるのにサボり好きで、でも人がよくて涙もろくて優しい、どうしても憎めないやつだ。そんなキラがこんなセリフを真顔で言うようになるとは、あの頃のアスランは夢にも思っていなかった。
それもこれも、キラ自身が多くの痛ましいものを見て、たくさんの涙を流した結果であった。自分が傷つけばそれほど他人の痛みが判るようになる。心が敏感になって、ちょっとしたものが素晴らしくきれいに見えたり、感じたりするようになる。もともと性根はまっすぐで純粋なやつだったが、キラはこの数年間で、その部分に特に磨きがかかっている。
でもアスランは決して、キラが戦争を経験してよかったとは言いたくなかった。
「……今までの経験は、今回の、シンのことからおまえを護ってくれたのか?」
キラの表情が一瞬、凍りつく。引きつるような、戸惑うような顔をして、キラは絶句して視線を彷徨わせた。
さりげなく核心の質問をするのは、何もアスランの心理作戦というわけではない。言わねばならないことは口に出さねば気がすまない彼の性分と、穏やかで柔和な彼の雰囲気が、そういう空間を作り出してしまうのだ。
キラはしばらく、どう返答していいか判らないように、アスランの顔とあらぬ場所との間に視線を泳がせていたが、やがて意を決したらしく相手の男の顔をきちんと見た。
「どうしても行っておきたい場所があるんだけど、アスラン、一緒に来てくれる?」
「どこだよ?」
いろんな返答を予測していたアスランだったが、まさかこんなことを言われるとは思ってみなかった。つい素が出て、きょとんとした顔で尋ねてしまう。
「渋谷の大交差点。考えてみたら僕、まだ一度も行ったことなかったなって」
今度はアスランが絶句する番だった。
キラが示した場所。そこは、悪夢の元凶である『あれ』が生まれた現場そのものであった。
NEXT..... (2005/04/07)