GET LIMIT  25.不審


「おはようございます」

 薄く開いた視界の中でぼんやりと見えたのは、ピンク色のたおやかな髪の少女だった。

 キラはそのままで幾度かまばたきをした。視界全体に白い霧のようなものがかかっていて、相手の顔が上手く見えない。少女の背後に広がっている光景も、きちんと見ることができない。だが、かけられた言葉には聞き覚えがあった。それから、覗き込んでくる彼女の優しい調子の静かな呼びかけにも。

「ラクス」 キラは呟くように言った。掠れた、小さな声で。

 きちんと声を出したつもりだったのに、潰れた喉はキラの言葉を上手く放ってはくれなかった。風邪で喉を潰してしまったときの状態に似ていたが、だからといって咳き込んで治るようなものではない、そのくらいのことは判る。

「お加減はいかがですか、キラ」

 ラクスが尋ねてくる。

「加、減…」 キラは彼女の言葉を繰り返して言った。

 そういえば身体中が痛む。指先を軽く動かすのにも、腕に引きつるような痛みがはしる。とても動かせないほどではなかったが、日常生活に支障がないとも言い切れない痛みだ。

「僕は…」

 どうしてこんな怪我をしたんだっけ──?

 キラの、怪我をしていない唯一の箇所である脳は、少しばかり記憶が飛んでいるようだった。たしか前にも、誰かに似たような質問をした覚えがある。あのときも今と同じように上手く喋ることができなくて、でも相手はちゃんと、キラが何を言いたいのかを理解して答えてくれた。あれは誰だっただろう。

 見ていた夢と、覚めたときに目にした光景から入ってくる情報に共通点があると、夢と現実の内容がごっちゃになってしまうことが稀にある。キラの脳は今まさにその状態だった。

 さっきまでここにいたのは誰──ここにいるのはラクス──じゃあ、今のは誰…?

「あ…」

 キラは小さく声をあげた。何かを言おうとして詰まってしまったのではない。どちらかと言えば彼の声は、何かとてもまずいもの──家の中に出現した害虫でも見つけてしまった時のそれに近い。

「キラ」

 いさめるようにラクスが声をかける。だかキラにはそんな声は聞こえなかった。

「あ…あっ…」 キラの表情が引きつった。

 これでもかと目を大きく見開き、身体がガクガクと震え出す。彼は痛んで止まないはずの両手をシーツの中から引きずり出すと、自分の顔の前にかざして見つめた。小刻みに揺れ続ける、ガーゼやテープによって傷を塞がれた手を。

「落ち着いて、落ち着いて下さいませ、キラ」 ラクスが立ち上がって、キラの両肩に手をかける。

 キラは上手く呼吸ができないようだった。息を吸い、吐くたびに喘ぐような声を出している。ラクスは右手を伸ばすと、彼の濃いブラウンの髪に触れようとした。

 頭を撫でられるのが好きなキラのために、彼を落ち着かせてあげようとして。

 だがその衝撃は、キラとラクスに、そんな小さな時間の安らぎさえも与えさせはしなかった。

「──あああああッ!」

 キラが叫び声をあげた。頭の中で回想を続けていた、途切れた記憶の中で何かが弾けた、そのタイミングがたった今だったのだ。

「キラッ」 ラクスはもう一度、彼の肩に両手をかけながら言った。「落ち着いて下さいませ、キラ、キラッ」

「いやっ、いやだぁっ!」 キラはラクスの手を振り解く。

「キラッ」

「どうして僕は生きてるんだっ」 キラは頭を抱えて叫んだ。「シンにあんな思いをさせたのに、誰かのために戦った気になって、平和のためになるって思い込んで大勢の命を奪った、僕みたいなやつがっ」

 現場にいなかったラクスは、このキラの身に何が起こったのかを、皆からの口伝でしか知らなかった。キラの目が覚めて、少しでも気持ちが落ち着くようだったら話してもらいたい──そんなことを思っていたのだが、もはやそうも言っていられない。

 キラはシーツにうつぶせになって、ラクスの目からも逃げようとするように小さくなって震えていた。

「おまけに、知ってなお僕は何も言えなかった…。シンに──人に、嫌われてしまうのが、憎しみをぶつけられるのが、悲しみを向けられるのが怖くて…! そしてまた僕は殺した、今度はシンの目の前でっ」

「キラ、違います。それは違います、しっかりなさって」

「何が違うんだっ!」

 キラは叫んでラクスを振り向いた。抑えようともしない涙が際限なく、ぼろぼろと大きな瞳から溢れて流れ落ちていく。

 普段は心強く、そして勇気づけてくれるはずのラクスの言葉が、今はすべてごまかしのように聞こえてならなかった。できることなら何も聞きたくなかった。なぐさめも気遣いもほしくなんてない、誰も自分のことを知らないような、どこか遠いところでひっそりと命を絶ちたい──。

「キラ」 ラクスは重ねて呼びかけた。「あなたは、誰も殺してはいません」

「…え?」

 キラは豆鉄砲を撃たれた鳩のように、一瞬だけ何もかも忘れて呆けた。

 殺してない、ラクスはそう言ったのか? なんで、何を根拠にそんなことを──。

 キラは急に大人しくなって、ラクスの顔をまじまじと見つめた。まさに滑り込みセーフといったところだ。ラクスの言葉はきちんとキラの心に届いていた。

 彼女は相手の視線を受け止めながら言った。

「ご家族が非業の死を遂げられたあと、シン・アスカが見上げた空にフリーダムがいた…。確か、そうでしたわね」

「…そうだ」 キラは言った。まだ興奮がさめずに声が震える。指先もカタカタと震えている。「──僕が撃った」

「本当に?」

「はっ?」 キラは苛立ち半分に顔を上げた。

 だから何度言わせるんだ、僕がやったからあそこに僕がいたんじゃないか──。

「本当に、そうなのですか?」

 キラの中で時が止まった。混乱の苦痛と罪の意識と、そしてそこから逃げたいとするエゴに囲まれて埋もれてしまいそうだった心が、ひょいと空中に持ち上げられた、そんな感じがした。

「彼のご家族は、確かに誤爆されて亡くなられたのでしょう。ですがそれが果たして、ほんとうにキラ・ヤマトの手によるものなのでしょうか? シン・アスカが見上げた空、あなたはそこにいただけなのではありませんか?」

 キラは信じられないものを見るようにラクスを見ていた。

 フリーダムは他のMSに比べればとても大きく、目立つ機体だ。シンはたまたま、見上げた空で戦闘を行なっていたMS群の中、ひときわ目立つフリーダムの姿を、本当にたまたま、目に焼き付けただけなのではないか──。

 確かに信じられない言葉だった。しかし、キラの閉じかけていた心の扉が止められる。

 記憶というのは面白いもので、おぼろげなものであればあるほど、後々の本人の気の持ちようによっていくらでも背ひれ尾ひれがついてくる。夢の中の記憶、小さい頃の記憶、そして激しい感情と共に刻み付けられた記憶が、主に『それ』に該当する。要するに『思い込み』というやつのことだ。

 集団暴行に遭っている少年を助けに入ったはずの青年が、少年の証言によって犯人グループの一人として逮捕されてしまった、という話がある。恐怖と痛みによって混乱した少年の心が、目に入ってきた全ての人物を誤って『敵』と認識してしまったことによって起こったこの事件と、ラクスは同じことを言っていた。

「僕じゃ…ない?」 キラは言った。

「かも、しれませんわ」

 ラクスは微笑んで、そっと手を伸ばすとキラの頭を胸に抱いた。

「あなたかもしれないし、あなたではないのかもしれない。ですが、それを確かめる術はもうないのです。記憶という、極めて曖昧なものに頼り続けていれば、いつか、あなたも彼も破滅してしまいます」

 暖かく、柔らかな感触がキラの脳を包んだ。先ほどまでは拒絶の対象でしかなかったラクスの言葉が、今はすんなりと耳に入ってくる。

「これほどの悲しみと苦痛を受けてもなお、あなたは生きています。それは生きていかねばならないからです。今のあなたがたに必要なのは、罪の在り処を明確にすることでも、憎しみからそれを討ち、あるいは悼みから命を絶つことでもありません。──乗り越える方法を得ることです」

「乗り越える…」 キラは子供のように言った。

「死して罪の償いになるなど、誰が決めたのでしょう。キラ、あなたはもういちど彼に会い、戦ってでも、彼を救わなければなりません。強大な暴力にさらされたゆえに力に頼ることを覚え、そしてその力に溺れてしまった者を救うことも、力ある者の役目なのですから」

 ラクスの胸に耳を当てているせいか、彼女の声はキラの頭の中に大きく反響していた。何度も、何度もそうして繰り返し、ゆっくりとキラの脳へと彼女の言葉が染み込んでくる。

 力を捨てることを、力に頼らないことを望んでいたとしても、その『捨てたい』とする力を持っている間に限って、所持者には行使に対する責任が発生するのだ。こんな力は要らないんだからといって、やらねばならない事態に何もしなかったら。もうすぐ捨ててしまうからといって、好き放題やりたい放題やってしまうのでは本当にただのバカだ。

 力をもってしか、できないことがある。暴力だけが、殺戮だけが『力』ではないことを、キラは知っているはずだった。

「キラ、まいりましょう」 ラクスは言った。「皆さんが、隣のお部屋でお待ちですよ」

「──うん」

 先に立ち上がった女に手を引かれ、キラはベッドから起き上がった。



 妙にイザークがそわそわしていた。

 さっきからディアッカとアスランが大人しく座っているソファセットの前や後ろを、あっちへこっちへうろうろしている。まるで動物園のクマだ。

「…いくら防音設備が優れてるって言ってもさァ」 ディアッカが言った。「あんな叫び声、ふつうは聞こえるっての…。ここってさ、どっかのコンサートホールとかじゃないんだぜ?」

 キラが目を覚ます、そう言い残してラクスが彼の部屋へ入って行って数分後、それが聞こえてきた。それ以来イザークはもう居ても立ってもいられなくなって歩き回るようになり、アスランは今か今かと閉ざされたままのドアをちらちらと見て、ディアッカはそんな二人を面白半分に見物している。

 原因は言うまでもない、数分前に一同の耳に響き渡ったキラの絶叫だ。

「シンからあんなことを言われたんだ、そりゃ、少しはキラのダメージも想定はしていたが…」

 アスランはディアッカの言葉を受けて言った。もう黙っているのもイヤになったらしい。

「ラクス・クラインは考えがあると言っていたが、いったい何なんだ?」 イザークが苛々しながら言った。「どんな言葉をかければ姫の気持ちが落ち着くというんだ」

「それはラクス嬢にしか判らないだろ」 ディアッカは言った。

「ラクスのことだ、俺たちがやるよりも上手くやってくれる」 アスランが同意した。

「所詮なにを言ったところで、本人が立ち直らん限り同じことの繰り返しだ。…いや、姫に限れば、立ち直ったところで何度でも突き落とされる可能性があるんだぞ」

「…それを言うなって」

 ディアッカが項垂れた。隣のソファでアスランも同じように首を垂れている。頭でも痛むように、額に手をあてて。

 もはや何をどうしようと、キラ最大の難点たる精神力の弱さを改善する手立てはないらしい。キラ本人がどれほど決意を固めても、根底が弱いのだからもろさを否めない。そこを狙われて簡単に突き崩されてしまう。

「……あいつの心」 アスランはぽつりと言った。「何かでがっちり補強できないもんかな」

「何かってなんだ」 イザークが言った。「あのなアスラン。家屋の地震対策とはワケが違うんだぞ、笑えもしない冗談を言うなっ」

「今のイザークのジョークに座布団一枚っ」

「ディアッカ、貴様ッ──」

 かちゃり。皆の注目から逃れた一瞬のすきをついてドアが開いた。待ちぼうけの三人が、弾かれたように視線を集中させる。

 ラクスによって開かれたドアの向こうから、皆の見慣れた普段着のキラが歩み出てきた。このドアからキラが現れるのを見るのはとても久しぶりだった。

「みんな…」 キラは言った。「心配かけて、ごめん」

「第一声がそれかよ」 ディアッカがけらけら笑った。

「謝罪の前に言うことがあるんじゃないのか?」 いそいそとソファに戻りながら、イザークが睨み付けてくる。

 キラは、そうして何とも尊大な態度で足を組む相手を見て申し訳なさそうな笑みを浮かべた。

「みんな、ありがとう…。まさか来てくれるなんて思ってなかった。……ありがとう」

 キラは皆に向かって深く頭を下げた。謝罪の意味でも、感謝の意味でも。

 ネットワークを断って行方をくらまし、迎えに来たアスランに怪我をさせ、何の事情も説明しないままシンと共にあることを選んだ僕のことなんて、きっともう、みんなは愛想も尽きたはずだ──そう思っていた。

 だからひとりで戦うつもりで原発へ出て行ってみたら、皆はぱらぱらとではあるが、ひとり、またひとりとキラのもとへ駆けつけてくれた。

 キラは軽く見ていたのだ。彼らが自分に向けている感情の重さを。

「キラ」 そしてアスランが呼びかけた。「もう、だいじょうぶなのか?」

「…うん」

 キラはアスランを見ずに答えた。アスランが彼の対応に違和感を覚えたのは一瞬のことで、キラはさっさと歩き出してアスランの視線から外れ、リビングセットのダブルソファに腰を下ろしてしまう。

「シンのこと、だね」

 問題は、という枕詞を言わないようにしてキラは言った。

 続いてラクスが彼の隣に腰かける。タイミングを外してしまったアスランは結局、何も言えないままだ。

「話すことはいろいろありそうだな…」 キラは頭をかく。「──えっと」

「『あれ』のことだ」 横からぴしゃりとイザークが言った。「ディアッカから話を聞いただけでは、何がどうなったのかさっぱり判らん」

「悪かったな」 ディアッカが複雑そうに顔をそらす。

「わかった。それじゃあ──」

 金銀コンビのいつものやりとりに、小さくはあるがキラの顔に笑みが戻る。

 だがアスランの心には、一抹の不安がぬぐわれず残っていた。

 アスランはキラの顔を見つめた。イザークやディアッカに視線を移し変えながら話し始めている彼の顔を。

 だが二人の視線が合うことは、一度もなかった。






                                         NEXT..... (2005/03/14)