GET LIMIT  24.慟哭


 なんだ、おれは夢でも見てるのか?──シンはおざなりにそう思った。

 年単位の過去に、この目の前で無残な死を遂げたはずの妹が走ってくる。きれいに束ねていた髪はとうに乱れ、可愛らしい服のあちこちを赤い血で汚して、一生懸命、今にも泣き出しそうな表情を浮かべて。

 何かの間違いかもしれない。よく似た誰かを見間違えているのかもしれない──この場所がどこであるかを完全に忘れてしまった脳が激しい混乱を起こしている。なんでもいい、言葉でも声でも、この混乱を何かに乗せて吐き出したい。しかし喉が引きつるだけで、まともな言葉なんてひとつも出てこなかった。

 どうしたんだ。どうしたんだマユ、怪我したのか──。

 かわいい妹のもとへ駆け出そうとしてシンはふと、別のものを視界の隅に捉えた。

 捜し求めていたキラの姿がそこにあった。出て行ったときと同じダークブラウンの服を着た彼もまた、シンの方へ向かって駆けていた。だが彼は信じられないものを見るような目をして、首を振ってシンに向かって何かを叫んでいる。勢いよく横から吹き付けてくる独特の海風のせいでほとんど聞こえなかったが、来るなと言っているような気がした。

 なんでここに居るんだ、早く帰れ──そう言われているような気が。

 危険な場所へ興味だけで出てきてしまったことを、シンはあとで謝ろうと思っていた。自分に危険が及べば、しかもシンがそれを知った上で追いかけてきたなんて知ればキラは怒るだろうし悲しむだろうが、結果的に怪我も何もなければ許してくれるさ、なんて考えていた。

 でも今は違う。シンはキラから視線を外して、もう少しで手の届くところまで近付いた妹の姿を見た。自分の妹が助けを求めているというのに手も差し伸べず踵を返すなんて、そんなものは人間の行為ではないのだ。

 助けたい。あのときに助けられなかった妹を、今度こそ助けたい。でもそのためにはキラの力が必要だ。今すぐに、この場でマユが負った怪我の治療を行なうことができるのはキラしかいない。

「キラ…ッ」 シンは震える声で、空に向かって声をあげた。「キラ、助けてっ」

 マユを助けなければ。キラは必ず手を貸してくれる。シンはそう直感していた。自分の直感を信じれば間違いない、今までもそうだったんだから──。

 だが、やはり彼は知らなかった。今までかたくなに信じてきたその直感がすべて、人ならざるものによって操作されていたことを。



 あいつ、マユの姿でシンに取り入るつもりなんだ──。

 キラの心は、これまでにない激しいざわめきを発した。

 そんなこと、そんなことは絶対にさせない、あいつだけはこの場で倒してしまわなければ──!

「シン!」 キラは必死の思いで叫んだ。「そいつから離れて! シンッ!」

 何とか力を凝縮して撃ち放ったとしても、シンを巻き込まないとは言い切れないし、その自信もない。敵への砲撃のために、二度も人間を巻き添えにして殺してしまうなんて──そう思うと身体が凍りつきそうになる。

 離れて、シン。そいつは敵なんだ、僕たちの敵なんだから──。

 だが悲しくも叫び声は海風にかき消されて届かない。シンはキラに気付いていたが、キラよりも目の前にいる妹の幻影に気を取られて、キラの声を聞くことに集中できていない。

「姫さん、こりゃどうしようもないだろっ」 ディアッカが言った。「姫さんに酷なことはさせたくないけど、あいつにトドメをさせるのはおまえしかいないんだ」

 言われなくたって判っていることだ。キラはギリリと奥歯を噛みしめた。

 人間は一生のうち、一回くらいは誰かを殺してしまうことがあったとしても、同じ人間を二度殺すことは絶対にない。だが、その絶対の法則がいま、この場で突き崩されようとしている。この世の寸法を超越した者たちの手によって。

「キラ…ッ」 シンの声がした。「キラ、助けてっ」

 キラの耳に届いた彼の声はひどく震えていた。怯えと苦悩、あらゆる痛みが込められた悲しい声だった。

 この一瞬で運命を分けるのは、放つ者と受け止める者の見解の違いだ。入ってくる情報を判断するためにかかる時間は人それぞれで、十数秒を要する者もいれば一秒とかからない者もいる。そして後者は大抵、自分勝手で都合のいい解釈であらゆる誤解を招いてしまうものだが、キラはまさか、このときの自分が後者に属することになるとは夢にも思っていなかった。

 キラはこれまでの数多の経験から、こういうときの状況判断にかけては慎重を心がけていたはずだ。だがキラの脳は誤ってしまった。

 シンが助けを求めている。そこにいるのがかつて愛した妹ではなく、化物なのだと理解している──。

 キラは標的へ向かって右手を突き出した。掌に収束する熱い力を、できる限り放射状にならないようにと意識する。火炎放射器のバルブを絞って口径を細くするように。シンに当たらないように、絶対に当たらないようにと細心の注意を払って。

 これで終わりだ──。



 スローモーションですべてが流れていく。

 天から飛来した一条の光が少女の胸を貫いた。シンが妹を抱きとめるために伸ばした両腕をすり抜けて、同じく伸びたマユの手が虚しく宙を薙いだ。足から力が抜けたせいで最後の一歩を踏み切ることができなかった幼い少女が、目の前で無情にも崩れていく。

 ドクン。心臓が自分の存在を大きく誇示して跳ね上がった。シンは膝をつき、砕けたコンクリートの上へ叩き付けられそうになったマユの身体を今度こそ抱きとめる。

「マユ…?」 シンは独り言のように名を呼んだ。「マユ、なのか?」

 先ほどまでは少女がマユであればどんなにいいかと強く望んだ。彼女がマユであることを切に願った。しかし今は違う。胸を撃ち抜かれるという致命的な傷を負い、誰の目にも確実な死を予期させる状況に入ってしまうと、勝手にもシンは少女がマユでなければいいと望み始めていた。

 マユじゃない。こいつはマユじゃない。だってマユはあのとき死んだんだから──。

 シンの腕に抱かれながら、呼びかけに応えるように少女が目を開いた。ドクン、また心臓が跳ねる。見覚えのありすぎる大きな瞳と視線が合い、今まさに手に触れている髪の感触もまた、シンが知っているものだった。

「マユ…」 この少女は妹そのものだ。それを確かめてしまったシンの表情を絶望が貫く。

 少女が何か言おうとした。小さな唇を震わせて口を開き、そこから吐息を漏らす。冷たい息だ。そんなマユが手を伸ばした。愛らしい天使の手がゆっくりと、シンが着ているコートの腰に掌を当てる。

 シンはハッとして、その手が触れている場所を見た。コートのポケット、いや、その中に入れているもの──。

「マユの、ケー、タイ…」 少女は言った。「……ありがと、う」

 ──取ってきて、くれて。先を言うまでも、聞くまでもないその言葉にシンの呼吸も鼓動も五感さえもすべてが止まった。ドクン、ドクン、ドクン──耳奥でうるさい音だけが響き続ける。この携帯電話のことを知っているのは、シンが知る限り『こちら』ではシンひとりきりだったはずだ。

 この少女はそれを知っている。やっぱりこいつはマユなんだ──。

 だがシンが受けた衝撃など知るふうもなく、少女は薄く微笑んでいた。そして一生懸命にシンに触れていたその手が、するりとコートの上を滑り落ちる。

「マユ? ──マユッ」

 落ちた手に気を取られ、視線を戻したときには、すでに少女は目を開けていなかった。長い前髪に目元が隠れ、最後の言葉を放ったままの白っぽい唇があまりにも悲しい。

 完全に時が止まって呆然としているシンの耳に、海風の音が戻ってきて、そしてローラーの接地音が響く。ドクン。シンは呼吸することを止めてしまった、体温を失いつつある少女の身体を抱いたまま顔を上げた。

 なんでだ? なんでこんなことになってるんだ? 誰か、誰か教えてくれ。おれは──。

 上げた視線の先にキラの姿がある。もう数回もジャンプすれば、彼はシンの前へとやってくるだろう。だが視界の中に映るすべては、つい数分前のものとは何かが変わってしまっていた。妙な違和感がある。感じたこともない、世界観そのものが変わってしまったような違和感が。

 いま、マユを撃ったのは誰だった──? 凍りついたままだったシンの脳がやっと動き始めた。

 助けてって言ったのに。マユを助けてくれって言ったのに、なのに、なんであいつはこんなことをしたんだ──。

 視界が暗く歪む。目の前が真っ暗にってしまう。体内で何かが膨れ上がっていた。あるいは歓喜して、あるいは狂喜して、シンの視界を、脳を、何かが真っ暗に染めていく。

 ああ、この感じ。いつかも感じたことがある、身体のどこかにあるスイッチが次々と切り替わっていく感じ。

「ウ」 シンは呻いた。猛烈な吐き気が胃の底からこみ上げてくる。

 違う、これは吐き気じゃない。ドクン、ドクン。もっと違うものが、身体の中から外へ飛び出そうとしている。出してはいけないもの、決して表に見せてはいけなかったものが現れようとしている。今のシンに、それを抑え込む理性は欠片も存在しなかった。

 あいつ、あいつだ、あいつがマユを撃った。おれの目の前で、おれが見ているこの場で──。

 どうしてこんなことをしたんだ。それを彼に問うことも、そして彼からこのときの話を聞く機会も、シンにはもう、ない。

「アァッ」 ドクン。ひときわ大きな鼓動がシンの身体ごと跳ねた。「うァ、アアァッ」

 身体が熱い。ドクン熱いドクンド熱いクンドクあつンドクあついンドク熱いン熱い──。

 そして。

「アアアァァァァアアァァァ───ッ!」

 背中の皮膚を、何かが内側から突き破る強烈な感覚を最後に、シンの意識は深い闇の底に沈められた。



 衝撃の直前、誰かがキラの身体を、背後から折れるほど強く抱きしめた。

 心のどこか、いや心そのものが崩壊してしまったような凄まじい絶叫をあげたシンは、コンクリートが砕ける力で地面を蹴り、一直線にキラへ向かって飛翔して一撃をくらわせた。悲鳴を上げる暇もなかったのだから、声をかける暇というものが存在するはずもない。思いもしない人物からの全力攻撃に、キラの身体は何の抵抗もなく吹き飛ばされて『二』と記された建物の壁に、ミサイルのように突っ込んでいった。

 彼を守っていたすべての結界がガラス同然に砕け散り、それでも吸収しきれなかった衝撃によってキラの身体のあちこちで骨が折れる。かつて大戦の最中に、そしてつい数週間前にも経験したばかりのあの激痛が胸にはしった。それはキラの呼吸さえも止めて、彼の肺と喉にまで押し潰したような痛みをぶちまける。

 一瞬死んだ、そんな表現こそ相応しいダメージ。

「姫さんッ!」 いやに遠いところからディアッカの声が聞こえた。

 状況を把握していなかったのは彼もまた同じだった。いきなり前からシンが消え、そして横からキラまで消えたと思ったら、背後で爆発に等しい轟音がしたのだから当然だ。そこでようやく彼は、自分の反応範囲を遥かに超えたスピードによって、シンがキラを殴り飛ばしたのだということを理解したはずだ。

 にわかにも、そしてこの目に捉えた現実であってもなお信じ難い速度だった。

「…うぅっ」

 深いところへ落ちていこうとしたキラの意識が、胸や腕や足に突き抜ける骨折の激痛によって現実に引きずり戻された。異常に重い瞼をゆっくりと開く。

 視界がうっすらと暗いのは、半分気絶している間に夕刻を迎えてしまったせいではない。

「シ、ン…?」

 名を呼んで眼球だけをくりくりと動かしてみるが、どこにも目的の人物は見当たらない。緑色の芽のように、地平線ともいえる場所に立っているディアッカの姿が入ってきただけだ。彼はいま何か言っているかもしれないが、何を言っていたとしてもキラには聞こえないに決まっている。

 打ち付けたせいで痛む首を何とか動かして空を見上げたとき、キラは、強制的に視界へ飛び込んできたとんでもないものを目撃する。

 シンは建物の上に滞空していた。まるでそこに地面があるように空中に立っている。その背中に大きな翼が広がっていた。だがそれを形成しているのは、羽毛とか革とかそういうものではない。

 光だ。白みを帯びた虹色の光が寄り集まって、シンの背中で翼状に展開されている。

「シン…」 その言葉しか知らないように、キラは再び彼の名を口にした。

 驚いたことに、そうして浮かんでいるシンの表情はひどく落ち着いている。あれだけの絶叫をあげてあれだけの攻撃をしたのだから、呼吸が乱れていたり激情に染められていてもおかしくはない。むしろそのほうが自然なくらいなのに。

 何とか身体を動かそうとして身じろぎをしたとき、はた、とキラは違和感に気付いた。

 背後に誰かがいる。確か自分はシンに吹き飛ばされて、背中からこの建物の壁に激突したはずだ。誰かが割って入るなんて、そんなことが──。

 痛む身体をおして座り込むように起き上がり、上手く動いてくれない首を回して背後に視線をやると、そこには白い瓦礫に半ば埋まったイザークがいた。

「イザークッ…!」 キラは信じられないものを見る気持ちで叫んだ。

 起き上がる気配も目を開ける様子もなく完全に気を失っているようだが、彼はキラがシンに殴り飛ばされた瞬間に駆けつけて、キラの背を抱いてくれたのだ。自らの身体をクッションにして、キラに届くであろう衝突のダメージを和らげるために。

「そんな…イザーク、しっかり──」

「姫さん、くるぞッ!」 ディアッカが叫んだ。

 動揺から我にかえって上空のシンを見上げたキラの瞳の中で、彼が右腕を振り上げた。そこに風が収束して、やがて大きなエネルギーの黒い光を放ち始める。シンが、この場でイザークもろともキラにとどめを撃つつもりでいるのは明らかだった。

「動けよオイ!」 ディアッカは自棄になって叫んだ。「反撃とか防御とか、なんかできること、あんだろ!」

 シンの目がちらりとディアッカの姿を捉えた。まさかディアッカを最初の標的にしたのかと思ってヒヤリとするが、シンはただ遠くでうるさく騒いでいる雑音の源を確認しただけに過ぎなかったようで、すぐにキラの肌に、突き刺さるような視線が戻ってきた。

「シン、やめろ!」 キラは叫んだ。「どうしたんだ、どうして、こんな…!」

 キラの言葉の終わりを待たず、シンの腕が振るわれる。

 痛みのせいで防壁を作るために集中している余裕はないし、下手に反撃すればシンを殺してしまうかもしれない。これ以上だれかを殺すくらいなら、いっそ──。

 キラはイザークの身をきつく抱いて身体を強張らせた。

 せっかく守ってもらったのに、僕は君を守れなかった。ごめん──そんな、イザークへの辞世の言葉が頭をかすめたとき。

「我が身に宿る、愛をも超える甘き闇よ!」 アスランの声がした。「我が力と存在にかけ、我は今こそ汝を守る盾とならん!」

 キラは硬く閉ざしていた目を開けて周囲を見回した。アスランの姿を確認することはできなかったが、その代わりのように、キラたちの足元の地面に赤い筋が模様を描いていく。

 二重の円、その中に走る無数の直線、曲線──光はその名に相応しい速度で地を走り、キラたちを中心とした直径三メートルほどの魔法陣と呼べるものを作り出す。表れたものの形状に、キラは見覚えがあった。

 これは──そう、これは、アスランの最高位命令文のひとつ──。

 キラがそれに気付いたとき、キラとシンの間に立ち塞がるように上空からアスランが降り立った。

「いざ」 アスランは両手にエンターコマンドである印を組んだ。「目覚めよ、イージス!」

 命令文の完成と同時に、アスランの着ていた黒いジャケットの裾が大きく伸びて広がり、一転して目にも鮮やかな赤い軍用制服へと変わる。

 おぉぉ…ん。獣の遠吠えにも似た音が空間を低く震わせて、地面に描かれていた魔法陣がアスランの前に起き上がった。直後、魔法陣と闇の球体がぶつかりあって激しいプラズマをまき散らす。

「アスランッ」 キラは叫んだ。遠くからもディアッカの同じ声が聞こえた。

「いったいなんの騒ぎだ、これはッ!」 アスランが叫び返した。

「『あれ』は倒せたんだ、けどシンの様子がおかしくて…!」 キラは今にも泣き出しそうになりながら訴える。

「そんなもの、見れば判っ…!」

 アスランの言葉が途切れる。上空のシンが、自分で撃ち出したそれに掌を当てて力を注ぎ、さらなる加重をかけていた。ズン、と腹の底に堪える衝撃と共にアスランの腕の骨が軋み出す。とても何分も保つような状況ではなかった。

「キラ、『フリーダム』を発動しろ!」 突然アスランが言った。

「え?」 キラの表情が強張る。

「こんなもの、どうやって押し返せっていうんだ! 早くしろ、このまま三人仲良く潰されたいのかっ」

 アスランの続く言葉にキラがぐっと押し黙る。

「キラッ!」 アスランは苛々して叫ぶ。

 今は問答をしているような場合でもなければ、その判断を思案するような余裕ある場面でもない。もちろん子供じみたケンカなんてもってのほかだ。そんなことをしているうちに『イージス』を支えるアスランの体力に限界がくる。

 しかしキラは判断をためらった。その迷いの半分以上を占める、自分自身の私情のために。

「でもっ…」

 イザークを胸に抱いたまま、キラは助けを求めるように上空のシンに目をやった。アスランが『イージス』で支えている闇のエネルギー球に掌を当てて、さらに、さらに重い圧力をかけ続けているシンを。

「シン、やめるんだ!」 キラは喉から声を絞り出して叫んだ。胸に激痛が走るが、構いもせずに。「落ち着いて、降りてきて! 僕の話を聞いて…っ!」

「いい加減にしろキラ!」

「シン!」 キラはなおも呼んだ。

 ふ、と。アスランの手から重圧が消えた。

 まさか本当にキラの説得に応じるのか──? アスランがシンへと視線を戻す。

 シンは大きな球体を片手の掌に乗せて高く持ち上げていた。それはシンの頭上でパリパリと帯電するような音を立て、表面には黒いプラズマが走っている。

「シンッ」 キラが嬉々として呼びかける。

 やっぱり、やっぱりシンは判ってくれた。さっきまでのは、ちょっと混乱して力が暴走しただけだ──とても『ちょっとした暴走』で負うようなものではないレベルの怪我を負いながら、それでもキラはそんなことを思っている。彼の、根拠のない盲目的なシンへ向けた信頼は、莫大な罪悪感に裏打ちされたものであることは言うまでもなかった。

「…キラさん」 シンがぽつりと呟いた。

 へんだ──アスランは目を細めた。その一方で役目を終えた『イージス』の魔法陣が光の粒子になって消えていく。

 シンが本当にキラの説得に応じて攻撃をやめたのだとすれば、あのプラズマをまとった球体が消滅しないのは絶対におかしい。すでにシン当人の力では抹消できないほどパワーが膨れ上がってしまっているのだとすれば、異次元へのゲートを展開して放り込んでしまえばいいことだ。あとは勝手に浄化され無害化されるのだから。

 シンは攻撃の意思を捨てていない。どう考えてもそうとしか思えなかった。

「おねがいです」 シンが続けた。「──死んでください」

「え…」 キラの表情が固まった。

「死んでくださいよ。先にいったマユが、ひとりで寂しがってるんで」

 アスランが弾かれたようにキラを振り向いた。キラはシンを見上げたまま凍り付いていた。何を言おうとしているのか、わずかに開いたままの唇がわなないている。

 キラはやっと理解した。またしても自分が取り返しのつかないことをしたのだと。シンの前で、二度も同じ悲劇を起こしてしまったのだと。もっと早くに詳しい事情をシンに話すことができていれば別の道があったかもしれないのに、自分の立場を悪くするのが怖くて何も話さなかった勝手が、ついにこの結末を招いたのだと。

「あ…あぁっ…」 キラは呻いた。

 自業自得だ。それも、キラをとびっきり上等の地獄へ案内してくれる、とんでもない自業自得──。

「あああぁぁ──っ!」

 キラは叫んで泣き崩れた。すがるものを求めた両手が、ぐったりしているイザークの身体をより強く抱きしめる。

 アスランは再びシンへと視線をやった。クククク…喉を鳴らして上空の彼は低く笑っていた。キラが絶望の暗闇に叩き落されるのを見届けて、とても満足そうに、そして嬉しそうに。それは、まさしく地獄の底から響いてくる、悪魔のもののような笑い声だ。

「おまえ…っ!」

 アスランはキラをなだめるよりも、シンと対峙することを選んで立ち上がった。

 キラが悪いことは判っている。キラのバカが勝手に立ち回って勝手にこの結果に至ってしまったのだと、アスランは痛いほど判っている。高層マンションで最初にキラとシンを見つけたあのとき、意地でも二人とも連れ帰っていればよかったのだと、もう遅いことも承知の上で今更ながらに激しく後悔している。

 だが、傷ついた者同士が互いの傷をえぐり合う、こんな惨状を黙って見ているなんてできなかった。

「──いかに汝、剛かれど…我が身に在りしは、我が愛せし、弱き姫……」

 不意に。シンでもない、アスランでもない、まして自棄になったキラでもない誰かの声が弱々しく命令文を放った。ともすれば海風の音に溶けて気付かなかったかもしれないくらいの、囁くような小さな声で。

「闇よ、しかと見よ。今より放たれるこの力こそ、汝が授けし真なる強さなり」

 イザークがその言葉を呟いていた。キラの胸の中で身動ぎひとつせず、黙々と唇だけを動かしているその様子からは、意識が戻っているのか、それとも無意識に敵を認識して半覚醒状態になっているのかは判らないが、どちらであるにしてもこの状況で攻撃の意思をはっきりとあらわせる辺り、彼の精神力は誰よりも強いといえた。

「いざ目覚めよ」

 イザークの命令文が完成に近付くと、シンが焦りを見せた。言葉の放出とともに彼の体内で大きく増幅される力を察知したに違いない、シンは持ち上げたままにしていた黒い球体を、ピッチャーが全力投球でも行なうように、眼下の数人めがけて投げ飛ばす。

 今から『イージス』が間に合うはずはない。弱ったイザークの命令文が完成するのと全員が消し飛ぶのと、どちらが早いかの単純勝負だ。

 頼む、頼むイザーク。間に合ってくれ──。

 ふとイザークの片手が持ち上がり、自分の身にすがりついて状況もわきまえず泣いているキラの頭をポンと叩いた。

「──スラッシュ」

 音も風も地響きも何もない。莫大なエネルギー同士が接触した眩い光に、すべてが塗り潰された。






                                         NEXT..... (2005/03/05)