GET LIMIT 20.開幕
たくさんの、何に使うのかよく判らないボイラーや機械が、大きなホールのような場所で所狭しとひしめいている。常に稼動状態にあるらしいそれらすべては、ゴウンゴウンと轟音を鳴らしながら運転を続けていた。
キラは、そんな場所の真ん中に立っていた。
何だかよく判らない。どうしてここにいるのか、ここはどこなのか。夢の中にしては、空気の感触やオイルの匂い、機材の稼動音がリアルすぎる。キラが周囲を見回していると、巡回のようにあちこちをうろついている男たちの姿が目に入ってきた。
懐中電灯をぶら下げてボイラーをチェックしていたり、お菓子の箱を立てたような機材ボックスの前に立って、そこにつけられた画面をしげしげと眺めていたりするその様子から、どうやらここがどこかの工場か何かであることを知ることができるが、彼らは誰一人として、そこに立っているはずのキラに目を向けない。
現在のキラは、実体化を解除しているときの状態と同じようだった。
何もわからないままにキラはその中を歩き始める。ぼんやり立ち尽くしたままというのもバカのようだったし、ここがどこなのか判るだけでもいいかもしれない、そう思って。
だが、どこまで行っても同じような光景が広がっているばかりで、そして壁に行き当たってしまって結局は何もわからないままだ。出口も一応は探してみたが、この建物が広大すぎて、壁伝いにぐるりと一周するだけでも結構な時間を消費してしまう。
どうしよう──どうする術も見つからず、そんなことを考えたキラの視界が、ふと何かで覆い隠された。
「えっ…?」
それは手の感触だった。何者かがキラの背後から、彼の目を塞いでいる。すぐ肩口に息遣いを感じた。やはり夢にしてはリアルすぎる、生温い吐息の感触が耳元に漂う。
「だれ──」
「──ここが、どこだか、わかる?」
キラの背筋が凍りついた。すぐそこで聞こえた声は、聞こえるはずのない女の声だった。
ビィィィィ───ッ!
女の声を合図にしたように、建物全体に大きな警報が鳴り響いた。
同時に手が消え去り、キラの視界が再び大きくひらける。天井に取り付けられた警報ランプがくるくると回り、周囲一帯に赤い光をばらまいている。作業員たちは慌てふためき、突然の緊急事態を告げる警報を聞きながら、おろおろして立ち尽くしているだけだ。
「フレイッ!」 キラは叫んだ。つい今しがた、自分の背にぴたりと寄り添っていたはずの女の名を。
どこからも、誰からも返事はない。そして虚しく警報の音が応えるばかりだ。
ブシューッ。近くのボイラーで配管が割れ、激しくスチームを噴き出す。あちこちで似たような破裂音と噴出音が続出し、瞬く間に建物の内部は霧に覆われたようになってしまった。
「キラ」
スチームの噴出音に負けないインパクトを持つ声が、再びキラの耳に届いた。右に左にと忙しく走り回っていたキラの視線が正面に戻って、そこにひとりの人間の影を見い出す。
ピンク色の、可愛らしく上品なお出かけ用のドレスに身を包んだ、愛らしい少女の姿だった。彼女の、長く伸ばした赤い艶やかな髪と、白くなめらかな肌の感触が、まざまざとキラの指先によみがえる。
「フレイ…」 キラはまたその名を呼んだ。今度は落ち着いて、はっきりと発音する。
夢なのか現実なのか区別さえつかないここでの彼女との出会いは、彼の弱い精神に、かつてその目ではっきりと見ていたはずの、彼女の死の真偽を疑わせてしまう。
「キラ。はやくここにきて」 彼女は言った。「わたしに、会いにきて」
「え…」
「わたしはここで、あなたを待ってるわ」
直後、キラが次の言葉を放とうとするのを、ボイラー本体の爆発が遮った。
陽が昇る直前のグレーが空を満たしている。
肌寒いというよりも、凍てつくような真冬の朝だというのに、ベッドの上で上体を起こしたキラは全身にまとわりつく汗の感触に気分が悪くなった。頬を流れ落ち、首まで伝っていく汗の粒はとうに冷たくなっていて、彼の身体に鳥肌を立たせるくらいだ。
荒れた呼吸が整うまでに十数分を要した。太鼓を耳元で打ち鳴らすような、うるさい心臓の鼓動がやっと落ち着いてくると、今度は嫌な予感が胸を満たした。
窓の外では風が木々を揺らし、新聞配達のバイクが忙しく走る音がする。耳を澄ませば朝の恒例マラソンなのか、外の道を走っていく誰かの足音まで聞こえる静寂が空間そのものを満たしていた。
耳が痛くなりそうな無音。キラはいてもたってもいられなくなって起き上がると、布団の内かけに使っていた大きなタオルケットをガウン代わりに肩にまとう。そして隣に置かれたもうひとつのベッドで眠っているシンを起こさぬように部屋を出て、リビングへと降りていった。
朝早くに起きることを前提にエアコンのタイマーをかけて寝るわけではないので、当然だが部屋は冷え切っている。そこも寝室と同じフローリングの造りだった。普段は不精で、素足でいることも稀ではないキラに、目を覚まして寝室から出るときにスリッパを履くクセがついたのは、この家全体が床を好んでいたからである。
さすがにこんな冷たい床に素足で出て行こうものなら、三日蓄積された眠気も一気に飛んでいってしまうだろう。
大きな窓のカーテンをそっと開けると、前の住人が大事にしていたのだろうか、きれいに手入れされた庭木のモクレンが見えた。キラが顔を出すのを待っていたように、それはサワサワと葉を揺らし始める。
「…うん…あとでね」 キラは独り言のように、モクレンに向かって言った。
ざあ、と波が引くように葉の揺らぎが止まる。──キラが顔を出す前から風は吹いていなかった。
キラはダイニングの椅子に腰を下ろすと、テーブルの上に放置されていた黒いリモコンを取り上げてテレビのスイッチを入れた。すぐにボリュームを下げて、音量を自分の耳に聞こえる限界まで絞る。
テレビ放送の朝一番はニュース番組と決まっている。つい先日、横浜・工業島の火災がやっと、燃料の全焼を免れて鎮火したというニュースを聞いたばかりだったが、またしてもアナウンサーたちは大きな事件に出くわす羽目になっていた。
それはまだ小さな文字だった。画面の上に白いフォント体で、事務的にスラスラと流れていく、簡単なニュース速報。
『静岡の原子力発電所、第四動力炉で爆発事故が発生。勤務中の作業員15名の安否不明──』
「原…発…」 掠れて、あえぐような声が喉から漏れる。
キラは気が遠くなった。やっぱり、と思った。しかしまさか、よりにもよって、そんな場所が選ばれるなんて──。
どのくらいそうして呆然としていただろう。朝のニュース番組は突然切り替わり、テレビ画面には報道ステーションの様子が映し出された。
『番組の途中ですが、緊急報道番組をお送りします』 アナウンサーが興奮した様子で言った。
画面に映る黒を主体とした背景に、ずらりと並んだモニター、天井からぶら下げられたプラ板のすべては、こうした緊急番組などが放映されるときに目にする機会が多いものばかりだった。
『静岡県郊外の原子力発電所で爆発があり、火災が発生した模様です。現時点、放射能の流失は確認されておりませんが、爆発した第四動力炉にて作業中の従業員十五名の安否は確認できておりません。繰り返します──』
繰り返してほしくなかった。
先ほどの夢が夢ではなく、そしてあのフレイがフレイではないことを知らされた瞬間だった。あれは『あれ』からのメッセージだ。『あれ』はキラを呼んでいる。そしてその場所とは、この報道が大忙しで喋りまくっている、事故が起こった原発なのだ。
行かなければ、恐らく『あれ』はそこを用済みとして敷地ごと爆破するだろう。工業島をそうしたように。しかし今度ばかりは、すべての従業員が避難して死者が出なければ──と言っていられないのは明確だった。
原発──原子力発電所だ。場所が場所とはよく言ったものである。そこが吹き飛ぶような爆発が起これば、大気内に巻き上げられた大量の放射能が雨となって各地に降り注ぐであろう。そうなればこの国は二度と人間の生存できない死の土地となり、最悪の場合、近隣各国にまでその被害域を広げてしまうのである。
こんなバカなことがあるものか。『あれ』はキラひとりのために、遠い未来にまで渡る世界中の人間を、文字通り人質にしたといっても過言ではないのだ。
更に画面が切り替わり、まだ薄暗いグレーに包まれた寒そうな空の下、これまた薄着の寒そうな格好をした男が、震えながらマイクを片手に喋り始めた。どうやら事故を起こした原発近くのテレビ局と中継が繋がったらしい。カメラがぐるりとまわり、遥か彼方に上がっている黒煙の筒を映している。
さすがに放射能漏れが危惧される事故現場へほいほい近付いていくバカはいないだろうが、現場の状況を少しでも知りたいキラからすれば、これほど歯がゆいことはない。
すぐに行かなければ。そして今すぐ、バカなことを止めさせなければ。立ち上がったキラの肩口から、ローブのように着ていたタオルケットが滑り落ちる。その下はもう寝間着姿ではなかった。
そっと玄関へ向かおうとしたキラの視界に、家具ではないものが映る。
ちょうどリビングから廊下への出口、廊下からリビングへの入り口に、シンが立っていた。
キラの顔付きはとても寝起き十数分とは思えないくらい引き締まって、瞳はまるでこれからリングへ向かうプロレスラーのようだった。
シンは今まで、彼が憂鬱そうしている顔や悲しそうにしている顔、そして唯一安らかな表情を見せる寝顔と、泣き顔くらいしか見たことがなくて、だからこそ目の前に立つ意外な一面に、こんな顔もできるんだ、と子供のように驚かざるを得ずにいた。
キラは言葉を探しているシンの姿を見つけると、すまなそうに目を細めて顔を伏せる。
「…ごめん。行かなくちゃ」 先手必勝のように、彼はぽつりと言った。
「どこ…行くんです」
シンは尋ねながら、つけられたままになっているテレビの報道特別番組に目をやった。
そこでは、ほんの一時間ほど前に起こった原発事故の概要だけが、男やら女やらによってうるさく騒がれている。しかし詳しい情報はまだ何も入ってきていないらしい。
キラは答えなかったが、シンが何を見ているのかは判っているはずだった。これでは暗黙のうちに、その報道の舞台へと行くのだと言っているようなものだ。
「…前の爆発事故の時も、あなた、現場にいましたよね」
「うん…」 キラは小さく頷く。
「何でです」
シンはついにそれを尋ねた。以前同じことを聞いたときには、キラはとても答える気ではなかった。だから、話したくないことなら無理に聞く気はなくそのままにしてあったけれど、今はもう状況が違う。
シンからすれば、ただ原発が事故を起こしただけだ。それで何故、キラがこんなにも真面目な顔をして、行かなければならないという必要があるのか。
何も判らなければ、キラにはどこにも行ってほしくないシンは、ただ行くなとしか言えないのだ。
「…あそこに、僕の敵がいるから」 キラはテレビ画面を見つめながら言った。「今度こそ、僕が決着をつけないと」
「あんな怪我をしたのに、また行くっていうんですか!」 シンは大きな声を上げた。「あなたは、いったい…」
「帰ってくるよ」 キラはシンの言葉を遮っていった。「必ず帰ってくるから。どこにも…行かないから」
言いながら、キラはシンの前まで歩を進めて、すっと右手を差し出した。握手を求めるように、いつかのシンが、キラにそうして見せたように。
「こうすれば…君はわかってくれるよね」
シンの視線が、伸ばされた手とキラの顔の間を往復する。
「僕は、君が望む限り…ずっと君の傍に──」
「──わかりました」 シンは俯いて言った。「行ってください」
彼はキラの手をとらなかった。キラの意識の声を聞こうとはしなかった。なんだか悪いことをしてしまって、それを親に咎められた子供のように、気まずそうに顔を逸らしている。
「ありがとう…」 キラは言った。理解してもらえた、その安堵を声に乗せて。
シンがすっと身体を退かすと、キラはリビングを出て玄関から出て行った。ポーチに反響していた靴の音がローラーの接地音に変わり、大きな跳躍音と共に途切れて隣家の屋根から遠くの方へと、上空へ向かって消えていく。
シンはリビングへ入ると、CMを挟んで何度となく同じことを喋っている特別番組を、もう一度だけきちんと見た。
原子力発電所の事故。原子力の意味も判らないほどシンはバカではないし、この事故がさらに規模を大きくすればどういうことになるのか、いくら核使用が不可能な時代の生まれであるとしても、特殊な方法をもって戦争に多く使われたそれの恐ろしさはよく知っている。
キラは敵がいるとは言っていたが、敵なんてものがいなくても、ひょっとすればキラは、この番組を目にすれば一目散にそこへ向かったかもしれない。そんな気がする。
画面の隅に小さな地図が映っていた。事故現場の所在地が、そこに示されている。
ここです、ここで事故が起こってます、赤い点をぴこぴこと光らせている地図は、如実にそう言っていた。
キラはここへ向かったんですよ──。
シンはテレビも消さず踵を返して二階へと上がっていった。
寝室へ入って、ベッドの上に脱ぎ捨てていた自分の服に手早く着替えると、その上に、クロゼットから男物も女物も気にせず適当に選んだクリーム色のコートを羽織って玄関へと向かう。開けたドアに鍵もかけず、彼は朝焼けに染められた外へ飛び出した。
真冬の早朝という特別な空気は、そこへ出ていく人間の脳に、まるで肉体を冷水の中に浸しているような錯覚を起こさせる。シンはすこし身震いしてからポーチに立って大きく深呼吸すると、そろそろ使い慣れてきた感覚を使って身体を宙に浮かせた。
足が地を離れる瞬間にはバランスを崩しかけてしまったが、浮くこと自体には何の障害もなさそうだった。
これならいける──そう思って、彼は確かめるような集中の間を置いて、キラが走り去った空へと飛翔した。
もちろんキラを追うためだ。シンがあっさりと引いたことにキラは何の疑問も持たなかったに違いない。そんなキラには悪い気がするが、彼はどうしても知りたかったのだ。
自分が知らないすべてを。そして、自分とキラが出会うきっかけを作った、その『敵』という存在のことを。
知っておきたかったのだ。
NEXT..... (2005/02/12)