GET LIMIT  2.先駆


 気遣いなんてものは、するだけ彼を疲れさせる。判ってるんだけど──。

 犬の遠吠えと呼ぶには野性味が強い、真に迫った凶暴性を持つ咆哮が周囲一帯に響き渡った。

 公園の木々で休息をとっていた小鳥たちが殺気を感じ取って一斉に騒ぎ出し、野良猫や野良犬は背を丸めて物陰に慌てて飛び込む。そこにいる絶大な悪意の吐息にさらされたそのとき、野生動物たちはただただ隠れ潜んでその通過を待つしかない。

 その時、一羽の小鳥が。

 枝から足を滑らせたのか、スズメが夜闇の中に飛び出した。ピピ、ピピ、と助けを求めるような細い鳴き声が無情に響いていく。一生懸命に羽ばたいているが、夜目が利かないその動物は元いた位置に戻れずに、闇の中を必死に彷徨っている。このまま疲れ果てて地面に落ちれば、それこそ夜が明けるまでに犬か猫の食料になってしまうだろう。

 そんな小鳥の傍らで大きな影が飛んだ。瞬く間に小さな生き物は闇からさらわれ、影に飲み込まれた鳥の小さく鳴く声が空に溶ける。

 ざん、と並んだ木の枝の上に大きな影は着地した。それは少年の形をしていて、公園前の道路をヘッドライトが通過すると、彼が持つ大きな瞳は鮮やかな紫の光を反射した。

「…大丈夫? もう落ちるなよ」

 キラ・ヤマトは、掌に大事に抱いていた小鳥を枝へ戻した。警戒心の強いスズメは下ろされてすぐにまた暴れ出すかと思われたが、もう落ちてなるものかと強く枝に掴まる方を優先したらしく、大人しいものだった。

「このバカ、どこを見てる!」

 スズメの仕草を見て小さな笑みを浮かべたところで響いた男の怒声が、キラの注意を呼び戻した。

 キラがその声のした方向を振り向いて見ようとした瞬間と、そんな彼の視線の先に巨大な黒い影が覆い被さるように跳び上がってきた瞬間はほぼ同時と言えた。何の姿をしているのかは闇に同化し過ぎてよく見えないのだが、それでも生物であるようで、キラの目の前でガバリと大きな口を開く。無数に並んだ尖った歯は鮫の牙によく似ていた。

 食い殺されるのは確実だった。キラがただの人間に過ぎないのであれば。

 鼓膜をぶち抜く強烈な金属音が、つい先ほどの咆哮に負けぬ規模で響き渡る。キラの頭を噛み砕くつもりで、刹那までその気だった力任せに振るわれた巨影は、ずらりと並んだ自慢の牙や爪をことごとく砕かれて絶叫を上げた。

 キラと影との間で蒼白い膜のようなものがチカチカと光って揺らめく。それは布一枚よりも頼りなさげに見えてならない光だが、その光こそが影の襲撃から現在進行形でキラを守っている強力な防御結界だった。意識するまでもなく普段からキラを守っているこれを越えて彼の肌に傷を入れた者は、キラが知るところでは二人しかいない。

「やめて」 キラは言った。「君がまだ『生きて』いるなら、僕の声を聞いて」

 巨影はキラの声など聞いてはいなかった。狂った犬のそれに限りなく近い唸りをあげながら、血が噴き出すのも構わず、影は砕けて剥がれた爪の名残りがぶら下がっている腕で結界を殴ってくる。

 ドン、ドドン、とキラの身体に振動が伝わってくる。彼の背後で、たった今ようやく安らぎの時を得られたはずのスズメが、小さくなってがくがく震えていた。

「やめるんだ! 君にこれは破れない!」

 キラの制止も説得の声も右から左だ。結界はまさに鉄壁そのものと言ったところで、飛び散る黒い血の一滴までキラの服にさえ届くことなく、見えないガラス板のようなものに阻まれている。

 この結界は到底、自分の力に砕けるものではない──。この影は最初の一撃でそれを理解できるほどの知能は持っていないのだ。キラは低級なものだからこそ殺すまでもなく、ただ大人しく、影に自分たちの世界へ戻ってほしいだけなのに。

 彼が悲しみに顔を伏せるその合間も、咆哮と攻撃の手は永遠に目標へは届かない無駄な努力を繰り返している。

「痛いのも、もう判らないのか…」

 キラは余計に悲しく、虚しくなっていった。

 次に一帯に響き渡ったのは咆哮ではなく銃声だった。大きな破裂音が周囲にこだまして消える頃には、キラの前で必死になっていた黒い影は浮力を失って地に落ち、もがいていた。今の瞬間ならばきっとまだ意識があるだろうが、その低い知能では自分に何が起こったのかを理解できずにいるに違いない。

 ピクピクと震えるように痙攣している、半ば肉の塊に成り果てようとしていたそれの頭の近くに何者かの足が立った。キラが落ちた影を追うように地面へと降り立つと、そこにいたのはイザーク・ジュールだ。彼は普段の仏頂面をすこし緊張させた顔つきで、手にした小型の拳銃らしきものの口を半死の影へと向けている。

「イザーク──」

 キラが何か言うまでもなく、数発の発砲があった。

 頭を連続して撃ち抜かれてはたまらず、影は抵抗も身動ぎも叶わず事切れた。キラとイザークの視線を一身に受けながら、動かなくなった影は時間をかけてその場から消滅していく。空気に溶けてしまうように色を失い形を失ったそれが完全に消えてしまうと、石畳には銃弾のあとだけがいくつか残っていた。

 しかし小さなものだから、きっと誰も気にかけはしないだろう。どうせ弾も見つからない。

「奴らに心はない。ただ黒い意思に支配されて動いているだけだ。貴様が思うような、きれいな『命』じゃないんだぞ」

 見るものを失ったキラは、言葉をかけてきたイザークに視線を向けた。

 上着の中に隠したホルスターに銃をしまった彼は、キラからの視線に気付いて顔を上げると、相手を目を合わすことなく肩で大きく息を吐く。どうやらずいぶんと呆れている様子ではあるが、人形のように整った彼の顔に浮かぶ厳格な表情が如実に語る文句までを口にする気にはならないようだ。生来なのかは知らないが気の強いイザークの性格を知っているからこそ、キラは彼が何を言わんとして止めたかの想像はつく。

 石畳にはさっきの影が残していった、折れた爪や牙の名残りが散っている。イザークの興味はすぐにそちらへと向き、膝を折るとそのひとつをヒョイとつまみあげる。

「…消えなくなってるんだね」 キラがぽつりと言った。

「ああ」

 イザークは気のない返事をして、無造作にその欠片のひとつをポケットに突っ込んだ。

 本体がきれいに消滅するのだから、そこから切り離されたものなどその瞬間で消えていたっておかしい話ではないのに、こうしてはっきりと白い欠片の数々が散らばっているのが見えている。キラもまたひとつを拾い上げて見つめた。白いそれはいびつに歪んで、おろし板のような無数の棘がついている。こんなものに噛まれたり引っかかれたりした痛みは想像だにできなかった。

 今までのものとは明らかに違う。キラもイザークも、口に出すまでもなくよく判っていた。この世界のどこにでも溢れている動物たちが、自分たちと異なる邪な意識に身を乗っ取られると先ほどのような影が誕生する。身体に入られた瞬間からその意思と同じく邪に変貌してしまうそれらを元に戻す方法はない。

 イザークがやったように、迷わず殺してやるのが一番手っ取り早くそして確実な対処法であり、同じく救済法でもあった。そして命を絶たれた肉体は、生き物としてではなく影そのものとして存在自体の最期を迎えてしまうのだ。

「…?」 ふとキラは顔を上げた。

 不意にどこかで何かが鳴いた気がした。自らに迫った危険を回避できなかったものの、断末魔に近い小さな悲鳴。キラは周囲の様子をうかがった。どうやら幻聴ではなかったようで、イザークもまた同じく公園内のあちこちに視線をやって警戒を強めている。

 不意に、びゅっ、と風の動く音がした。

 キラは反射的にそこから跳躍し、大きな弧を描いて宙に舞った。そして滞空の間に見た。先ほどまで自分が立っていた空間を、新たに現れた影の太い腕が空しく──しかし確実に切り裂くのを。

 着地の瞬間までキラはそれから目を離すことができなかった。背後へ回ったキラを追って、低い唸り声を上げながらゆっくりと振り向く影の瞳だけは、意思に乗っ取られても元の動物としての輝きを失っていなかった。

 ちいさな、とてもちいさな瞳。2メートルはあろうかという、カラスの顔をした人間という表現がもっとも似合う黒い影には似つかわしくない、可愛らしいその瞳だけは。

「──僕がやるよ」

 懐から再び銃を引き抜こうとしたイザークの手を声で制止して、キラは着地の姿勢から立ち上がった。

 現実とは、偶然とは何と残酷な結末を望むのだろう。キラの心の底にわき上がるのは、そんなものに対する怒りなどではない。

 イザークは何も応えず、しかし上着の中で銃を握っていた手を下ろす。

 今、キラの表情を彩っているのは虚しさだった。偶然が生み出す不幸、そこに飲み込まれた者たちの苦痛のあえぎ。それが聞こえていながら、ただ通り過ぎていくことしかできない、それがいまの自分──。

 そんな彼の意思を酌んだイザークが見守る中、キラは再び地を蹴った。

 暴風が吹き抜ける咆哮をあげて再び突進してくる影をジャンプでかわす。強力なサスペンションを組み込んだ彼愛用のインラインスケートが、キラの超人的な跳躍をさらに助けた。空中へ逃れるキラを追って影が巨大な翼を広げて飛翔するが、この時点ですでに勝負はついていたも同然だった。

 いや、そもそも勝負などと表現するには力の差は歴然としていた。

 月に届くかという高さにまで跳躍したキラの瞳が、ほの白い光の中に照らし出された黒い影の姿を映す。己へ向かって腕を伸ばす欲望の塊を。しかしそんな意思に全てまでも支配された訳ではない哀れな姿を。今なおどす黒い意思と胎内で必死に戦っている、生命としての誇れる輝きを。

 その聞こえぬはずの内なる悲鳴を聞いた時、戦う力を強く望んだキラに変化が起きる。

 脳内で闇が弾けて瞳は針の穴ほどにまで収縮し、彼の肉体機能が一気に極限状態へと導かれる。刹那、爆発的に膨れ上がる体機能が、それでも決して失われることのない理性からの指令を受けて、眼前に迫った黒い影を己の標的と認めた。

 真なる姿を現したキラの肉体に牙を突き立てる至福を夢見たまま、影の意識は彼方へ飛んだ。これが競技であったら文句なしの満点となる見事な着地をキラが見せる一方で、どしゃっと肉や骨を砕く音とともに影は全身で着地する。

 ひく、ひく、と泣き止まぬ子供のように引き攣る影の肉体には、ぽっかりと小さな穴が開いていた。

「…よくやるもんだ」

 イザークが言葉を放つが、その調子としては、彼が内心にわき上がる何かしらの感情をひた隠し、なるだけ平静を装おうとしている様子が察せられる。影は空中から落ちる間に事切れていた。先ほどこれは『これ』となる前に木の枝から滑り落ちた。その時点でこれが見ていた現実という夢は終わったのだと言わんばかりに。

 何かを握り締めていたキラの手にはもう何も無い。影の肉体の消滅に従って消え去ってしまった。ぐっと瞳を閉ざしてその時の経過を待っていたキラは、やがて静かにまぶたを開く。封じ切れなかった雫がその拍子に頬へ流れたが、それに続くものは何も無かった。

 頬を濡らしたそれを、彼は袖口でぐっと拭う。

「待たせてごめん。…行こうか」

 呟いたキラがイザークに笑みを向けた。

 どんな言葉よりも、その表情は的確にキラの心の中をあらわして止まない。──そんな質の、ちいさな微笑みだ。

「おい、待て」

 先に公園を出て行こうとしたキラを制止したイザークがポケットを探り、携帯電話を取り出した。液晶とアンテナの先が光って着信を示している。手にしているイザークにだけ、それの振動が伝わっていることだろう。

 スライド開閉式のそれをひねって開き、耳に当ててしばらく応答をする。キラはそんなイザークの口調から電話の相手を推測しようとしたが、誰を相手にしても余程でない限り態度が一貫しているイザークのこと、知り合いの数人にまで絞り込めたがそれ以上の判定は難しかった。

「こちらも終わったところだ、すぐに戻れる。ああ、あとでな。──アスランからだ。知らせたいことがあるらしい」

 締めの言葉と共に通話を切り、電話をしまいながらイザークはキラに言葉を投げる。

 アスランからの電話──。

 本来ならとても嬉しいはずなのに、キラの表情はその報せに再びくもった。






                                         NEXT..... (2004/09/26)