GET LIMIT  17.悲愴


 待ち望んだときが間もなく訪れようとしている。

 わたしは深い悲しみと後悔と、痛ましい記憶に埋もれて苦しみ、泣いている君を、今日ほど強く抱きしめてやりたいと思ったことはなかった。君の精神の奥底に、心の深層に、鋭利な刃のように便利な代物では到底つけられない、醜くて大きな傷が刻み込まれた今日という日を、わたしはこの上ない喜びの日として祝福したい。

 君は何て美しい悲しみを流すのだろう。闇のわだかまる瞳から溢れこぼれるきらめく雫がわたしを潤して止まない。

 やはり彼を呼び出したことは、そして君に会わせたことは効果的だった。彼はわたしが思うままに君を捜し求め、そして君を手にして、君に甚大な影響を及ぼした。これを運命と言わずしてなんと呼ぶのか。彼と君が出会うことは運命の輪に刻まれた必然であったのだ。そしてわたしがその手引きをすることさえも。

 大いなる闇である君は、わたしというもうひとつの闇と、彼という更なる深みを呼び寄せた。君はまだ、自分に宿る力の根源を知らない。人目には輝くばかりの栄光の力、人知を超えた場所に立つ君をすべての人間が称えるだろう。天使、神、あるいはこの神の子として。何も知らない可哀相な者たちは、何も知らない哀れな君にこれ以上ない祝福を送るだろう。

 だが君は知っている。決してそれでは満たされないことを。平穏、安寧、それが一体君に何の充足を与えるのか。君は起たねばならない。君は醜い闇の渦巻く深い夜の帳を背負って空を羽ばたき、死を振りまくこの世の救済者だ。君と出会うすべての者は、君をたとえてこう言うだろう。

 『あれは光をまとった闇だ』と。

 ああ、何と美しい称号なのか。わたしはその日が来ることを思うと感激のあまりに我が身が震えだすのを抑え切れない。君を囲う者たちは、君に戦いの道を望まないとしながらも、心のどこかで君の手が振りまく死を心待ちにしているのだ。いつしか己の頭上に降り注ぐ、天空のきらめく星々よりも壮大にして、生けるうちに得るあらゆる愛よりも甘くとろけるような、君から与えられる死を。

 だから君は行かねばならない。そしてどうかわたしにも、その絶大な甘美である死を与えてほしい。そのときこそ、わたしの求めた理想が実るときだ。わたしが描いたイメージがその場に形成され、そして導かれるときだ。君はわたしを討つ刹那、この世に生を受けたことを、そして己の存在を激しく呪い、憎悪し、いつしか絶望するだろう。

 しかしそれでいいのだ。そうなればこそ、わたしは君に教えてやれる。やわな憂鬱など生易しい、本物の闇を。

 だから、さぁ、君よ。わたしを討ちにくるがいい。

 生まれたときから君に宿っていたその力で。君が長く疎み続けてきたその力で。そのとき、わたしは君に教えてやろう。その力の本当の意味を。君がその力を持った本当の理由を。そして、君がその力を持たねばならなかった本当の道理を──。

 だからはやく。わたしのもとへおいで。



「マイノリティ、か」

 大病院の個室、という、人によっては随分と羨ましがられてしまう環境に置かれたアスランは、起こされたベッドの背もたれに身を預けて大きく息を吐いた。

「俺の意識があれば、もうすこし込み入ったところまできちんと説明できたんだが」

「ご無理は禁物ですわ」

 ベッドのわきに座っているのはラクスだ。見舞いに買ってきたのか、サイドテーブルの上に置かれた真っ赤なリンゴをひとつ持ち、皮をシャリシャリと手際よくナイフでむいている。

「アスランは、ご自分がマイノリティであるという自覚がおありでしたの?」

「いや」 彼は首を振る代わりに目を閉じた。「だが、今はある」

「まあ」 ラクスは首を傾げた。「ごく最近のお話ですのね」

「『あれ』に、色んなことをズバズバと指摘されてな…」 アスランは疲れたように言った。「おかげで知りたくもなかった事ばかり判ってしまったよ。何だか、長いことキッチンに放置して忘れてた、ゴキブリホイホイの中身を見てしまった気分だ」

 ラクスはくすくすと笑う。

「…害虫ばかりがごちゃまんと閉じ込められた禁断の箱ってやつだ」

 言葉の軽さに比較すれば、アスランの目付きは鋭く険しかった。

 その言葉を聞いたラクスの目が、すうっと細められる。

「認めたくはない。認めたくはないが……でもそんな箱の中身を、自分がそんな箱を持っていたことを、俺は知ってしまった」

「本物のゴキブリホイホイのように、捨ててしまうことはできませんものね」 無感情にラクスは言った。

「捨てることができても、それを所持していた過去の自分は何も変わらない。それを宝石箱か何かみたいに大事に抱えていた昔の自分が消える訳じゃない。おまけにこれまで、それをそれと知らずに未だ大切にしていたなんて」

「よろしいですか、アスラン?」

 呼びかけられて、アスランは閉じていた目をゆっくりと開いた。視線をやれば、ラクスはきれいに八等分されたリンゴを自分で食べ始めている。

「命の重みを知らぬ子供が興味本位に、苛立ち紛れに小動物を傷付け、昆虫を踏みにじる──それはとても直情的な行動ですが、その子が将来大人になったとき、その記憶は深い痛みと後悔を伴って必ず襲ってくるものですわ」

 アスランは黙っている。

「己が成した行為であるからこそ他者が行なうあやまちよりも、人は遥かに効率よく自身の間違いに気付き、悔い改めることができます。そして思うのです。二度とやるまい、二度と同じことはするまいと。ならばアスランもそうすればよいのです」

「…簡単に言うなよ」 アスランは呟いた。

「何故?」 ラクスは突っ込んだ。「あなたは今もなお、子供の頃に抱いていたキラへの征服欲のためだけにキラを想い、戦っているというのですか?」

 ぼんやりと虚空を眺めていたアスランの目が、瞬く間に大きく見開かれてラクスを捉えた。

「あなたがキラを想う気持ちは、かつてのそれだけではないでしょう?」 ラクスはぴしゃりと言った。「アスラン。己のすべてを受け入れてくださいませ。幼い日の自分が大切に抱えていた宝石箱は、きっと今のあなたにとっても輝くものであるはずなのですから…」

 アスランはやがて視線を下げ、俯いた。

「『あれ』が何を言おうと、それがどれだけ的を射ようと、あなたにはそれだけではありません」 彼女の口調はすこし柔らかくなっていく。「アスラン、どうか忘れないでください。あなたとキラが築いていたこれまでの関係は、それだけのものではないのだと」

「ああ…」

 アスランはぼやくように応える。だがその声の虚ろさとは裏腹に、目付きはだんだんとしっかりしてきた。

「ああ。そうだ…そうだよな」 確かめるように彼は言った。「俺は…それだけじゃない」

 そんな彼の前に、すっ、と小さな皿が差し出される。アスランが視線をやると、そこにはウサギの耳のように皮を残されたリンゴが乗っていた。

 ラクスは頷いて微笑む。

「今のあなたには、栄養が必要ですものね」

「ありがとう」

 アスランも微笑み返すと、果物でできたウサギに刺さっていた小さなフォークを手に取った。

 今度こそ。アスランはそう思っていた。次に会う時にこそ、闇に溺れてとち狂ったシンの目を覚まさせ、そしてキラを取り戻す。彼はそう決めていた。

 マイノリティとしてではなく、キラ・ヤマトの友人、アスラン・ザラとして──。



 隣に誰かがいるのは慣れていた。幼い頃はアスランと二人で、よく並んで眠ったのだから。寒い冬の夜であればあるほど、二人は互いの体温を求めて無意識に寄り添ったものだった。

 夏の暑い夜に限っては、ベッドの上と床に上に分かれて、どちらで眠るかをジャンケンで決めたりしたこともあったのだが、負けっぱなしのキラはあるときついに怒って、勝ったはずのアスランをベッドから叩き落してしまった。大ゲンカはその日の夜半まで続き、翌日は一日中、二人とも口を利かなかったような気がする。

 瞼ごしに眩しい朝の光が差し込んできているのが判って、キラはもぞりと顔を伏せ、反射的に光から逃れようとした。と、頬にシーツではない暖かな感触があった。何だろうと伸ばした腕に、更に同じ感触の何かが当たる。

 キラはよく知っている。それは人の肌だ。ぼんやりと目を開ける。まばゆい白と、対照的な黒が視界にゆっくりと染み込んでくる。

 アスラン──? キラは幾度かまばたきをして、徐々に視界がクリアになってくる。伸ばして触れたままになっていた手を探るように動かすと、うぅん、と誰かがくすぐったそうに呻く声が聞こえてきた。

 違う、アスランの声じゃない。キラはギクリとした。ちょうど視界もしっかりしてくる。そこにいたのはシンだった。キラはシンの腕を枕にして、見も知らない部屋のベッドに横たわっていた。

 希薄だった夢の記憶は吹き飛び、彼は慌ててそこから身を起こす。そのときキラは着衣らしいものを何もまとっていなかったが、それは彼にとっては問題ではなかった。シーツから滑り出た彼の肌は、空気に触れるなり瞬く間に布をまとい、そこに普段着が形成される。もうキラの能力のことを知っているシンの前で、普通の人間のように振る舞っている必要は何もなかった。

 床の上に一歩を踏み出したとき、ずきん、と腹の内側が鈍い痛みを発した。まるで内臓に打撲傷ができたような重い痛みだ。

 のそり。続けて目を覚ましたシンがシーツの中で起き上がる。朝に強い方ではないのは闇を持つ者の特性でもある。彼はすこしぼんやりした顔つきで、部屋の壁につけられたクロゼットのドアと背中合わせになっているキラを見た。

「何やってんですか」 シンは不思議なものを見たように言った。

「ここは、どこ?」 キラは尋ねた。

 まさかプラントだとか言われはしないだろうが、シンの家だなんて言われるはずもない。返ってくる言葉は何となく予想はできていたが、聞かずにはいられなかった。

「さぁ」 シンは部屋の中を見回しながら答える。「適当に目に付いたから貰ったんですけど、……どこでしょうね」

 キラは眩暈がした。

 適当に、とは、予想していた返答よりずっとたちが悪い。この世界の人間のことなんてひとつも考慮していない、それは過激派ブルーコスモスがコーディネイターのことを、人間どころか同じラインに立つ生命だとさえ思っていない光景に非常によく似ていた。

 シンはこの世界のことを、自分が住む世界とはまったく違っていると受け止めているようだ。

 間違ってはいないが、『あちら』と『こちら』がそれぞれ別世界であるならそれぞれに確立された法則があり、命の営みがある。郷に入れば何とやら、例え別世界であったとしても、だからといって何でも許される訳ではない。そう思ってこれまでここで生活してきたキラたちとは根本の部分から意識が違っていた。

 だが今、このシンに、それが判るように説明してやるのは無理かもしれない。自分たちが住む世界の人間ではない者たちのことを、どう考慮しろと伝えればいいのか判らない。次元を渡ったときから人間を『人間』として理解し、極めてストレートに受け止めたアスランやイザークたちとは思考回路が違うのだ。

「なんて顔してるんですか」 シンは可笑しそうに言う。「前の家だって同じですよ。おれはこっちの世界にコネなんてありませんし、あなたみたいに仲間と一緒に住んでた訳でもないんですから。おれみたいなガキがいきなり、こんなワケ判らない世界に放り出されたら、フツーは生きていけません。能力を使うしかないでしょ」

 キラは何も反論できなかった。

 間違っていると思いながらも、シンの言葉は確かにその通りなのだ。キラだって、ラクス、アスラン、イザーク、ディアッカという、財政的にも権力的にも強力な後ろ盾があったから今の生活をやっていけている。彼らが居なかったら、自分の能力の研究のために『こちら』へ渡るなんて到底できなかった。

 得体の知れない力によって強制的に、たった一人でこの世界へ渡らされ、誰も頼る者がなく独りで生きていかざるを得なかったシンが、そのために自分の持てる最大限の力を活用する──それはごく当たり前のことだった。

「なんです?」 シンはキラが黙っていることを不服としたらしく、目を据わらせて相手を睨み付ける。

「なんでもない」 キラはやっとそれだけ言って首を振った。「君の言う事は正しいよ」

「そうですよ」 何言ってんだ、と言わんばかりにシンは言った。「それにあなた、自分で仲間を吹っ飛ばして、そんなおれの所に来たんでしょ。今更文句言われたって困りますよ」

 キラの心臓の鼓動が、それまでの何倍にも大きく跳ね上がった。何か言うまでもなく脳裏に昨夜の映像がフラッシュバックする。ガラスの割れる音、観葉植物が倒れて放った土のにおい、吹き込んできた冷たい風の感触、アスランの声、シンの声、そして自分の声──。

 シンはそんなキラのショック状態をちらりと横目に見てから、特に何の表情も浮かべることなくベッドから降りて立ち上がる。キラの目に映ったのは、上は何も着ておらず下もジーンズ一枚だけ、そんなスタイルが彼の中性的な顔立ちと奇妙なバランスを保った少年の身体だった。

 彼は部屋に置かれたインテリア用のロッキングチェアに引っ掛けられた、誰のものとも判らない白いシャツを取り上げると、ためらいもなくそれに袖を通す。

「何か食べられそうなものがあるか、見てきますんで」

 ふかふかのカーペットの上を、シンの素足が歩いていく。そのベッドルームは本来フローリングだったところに、床いっぱいにならない程度の大きさのカーペットを敷いてあった。シンはその心地好い肌触りが途切れるその場所においてある、また誰のものかも判らないタオル地のスリッパに足を突っ込んだ。

「ここ、二階建ての家なんです」 シンは言った。天井の方を見上げながら、すごいだろ、と言うように。「これからこの世界で一緒に暮らしてくんですから、まぁ、仲良くしましょうよ。──落ち着いたら」

 何が、とは言い切らず、シンは部屋を出る。ドアが閉まる音とともに、パタパタと可愛らしいとさえ言える彼の足音が遠ざかり、階下へと消えていった。



「──アスラン」

 ぽつり、とキラの声が静寂を取り戻した部屋に溶ける。彼の呟きを聞いている者は誰もいない。

「アスラン…アスラン、アスラン…」

 ぽたぽたと大粒の雫が瞳からこぼれ落ちて、毛並みのいいカーペットに染み込んでいく。次から次へと。

「アスランッ…」

 彼はもうたまらなかった。

 胸が、押し潰されそうだった。






                                         NEXT..... (2005/01/04)