GET LIMIT 13.開花
ここにいるここにいるここにいるわたしはここにいるここにいるここにいるわたしはここにいる──。
キラは逃げていた。何から逃げているのか、どうして逃げているのか、それさえも判らないというのに、彼はどうしても逃げなければならなかった。
怖くてたまらないのだ。何かが背後から追ってきている。キラの背を、肩を、足を、腕をめがけて何者かが腕を伸ばしてきているのがわかる。
それに一度でも捕らわれれば最後、とても恐ろしいことになる、キラの意識はそれだけを強く、とても強く感じていた。
呼吸が荒く乱れ、足がもつれる。しかも水の中を歩くように、前へ進もうとすればするほど足は思うように動いてくれない。声をあげることさえできず、誰の姿も見えないままキラは走っている。
こわい。こわい、たすけて──。
頭が狂い出しそうだった。捕まってはいけないと判り切っている相手から逃げるためにあるこのフィールドは、一面が闇に覆われて他に何もない。部屋でもない、街でもない、ただ、本当にただ真っ暗闇なだけの地平線だ。
たすけて──。
自分の足に自分の足が引っかかり、キラは転倒した。そこまで一定を保っていたキラと追う者の距離が一気に縮まる。
逃げなきゃ。キラは起き上がろうとするが、怖さのあまりに足が震え、急ぐあまり腕に力が入らずその場でもがくだけだ。
そしてついに、背後の何者かがキラの肩を掴んだ。キラはそれを振り解こうと暴れるが、それをものともせず人影は簡単にキラの身体を組み敷いてしまう。
いや。いやだ、こわい──。
じかに心を握り潰されるような恐怖がキラの心にわきあがる。背中に人のものと思しき重みがのしかかってくると、なおのことそれは強くなった。この恐怖を取り払うためになら、二度とこんな思いをせずに済むならどんなことでもできる──いや、どんなことでもしたい。キラは恐怖心を拒絶するあまりにそんなことを思うようになる。
たすけて、たすけて──。
キラは声を上げようと口を開く。今にも声が出る、そんな気がして。叫び声でもいい、何でもいい、とにかく何か声を出して、背後の何者かを否定したい。
と、頭上から伸びてきた手がキラの髪を掴んだ。きつく、振り回すくらい乱暴に、強い力で頭をわし掴みにされたキラは痛みに顔を歪めて視線を上げる。
視界の隅に人影が映る。キラは目を凝らしてその影をよく見ようとした。
伸びている腕が見えた。肩のラインが見えた。そこにかかる髪の筋が見えた。顔の輪郭が見えた。冷たく不敵に微笑む口元が見えた。
そして──。
「捕まえたよ」
声が聞こえた。恐怖のあまり、ついに耳までおかしくなったんだ──キラは自分の耳を疑った。知りすぎた声だった。キラが改めてその意思をもって背後を振り向いたとき、パッとライトが当たったように、闇の中の黒い人影がはっきりと姿を見せた。
「もう逃がさない。おまえは永遠に俺のものになる」
その姿を瞳に映したキラの表情が見る間に崩れていく。キラは己へと放たれた言葉や暴力的な行為を拒絶できなかった。悲鳴をあげて腕を振り払い、そして逃げる、簡単なことなのにそれができない。
恐怖からくるものではない、先ほどまでとは違った震えが身体の底から全身に伝わっていく。
伸びた腕はキラの頭を掴んだまま彼の首を捻り、己の方へ向くことを強要した。見たくない、聞きたくない、そう思っても目を閉じることさえ叶わない、身体は強烈な金縛りに遭ったようだった。
「どう…して……?」
キラの瞳の中で、影は満足そうに笑んだ。キラの絶望に染まった顔を見て。キラの全身に伝播した戦慄を見て。
「あいしてる。──キラ」
舞い降りるように両腕を広げたアスランの影が、キラの視界を覆い隠した。
「あああぁぁぁぁぁああぁぁっ!」
心地好い昼寝から唐突に現実へ引きずり戻されたシンは、ベッドから転がり落ちそうになった。夢の続きなのかと思いはするが、一瞬にして絶大だった刹那の驚愕は、つい今しがたまで彼が眠りの中で見ていた夢の内容を見事に吹き飛ばしてくれた。
キラの声だ。しかも狂ったように泣き叫ぶ声が聞こえた。そしてそれは今も続いている。シンの意識はまどろみを飛び越えて覚醒し、てきぱきと状況を判断する。彼はすばやくベッドから降りて自室を出、廊下を足早に抜けて目的の部屋の引き戸を開く。
その部屋の窓には遮光カーテンがかかっていて室内は真っ暗だ。それは昼を過ぎるまで眠っていることが多い、この部屋の住人のために新しくつけた装飾のひとつだった。
「キラさん?」 シンは呼びかけた。
明かりのない暗い部屋の中で髪が乱れるのも構わず頭を抱えて、何かを拒絶するように首を振って、動物的な声を息の続く限りひたすらにあげているキラに、そんなシンの声は届いていない。
「──キラさんっ」 思い切ってシンはキラに近付いた。
下手に放置して、もし顔に爪でも立ててしまったらそれこそ大変なことになりかねない。今はとにかく落ち着いてもらわないと──。
「さわらないでっ」
腕を伸ばしたシンに拒絶の声が飛ぶ。
ドン、と背が壁に当たるのも気にせず、キラは火を近づけられた獣のように後退した。
「キラさ──」
「僕に触れちゃだめだっ」 キラは言った。「来ないで、僕から離れてっ」
錯乱を起こしている人物が、自分に触れようとする者や近付いてくる者を激しく拒絶するのはよくあることだ。シンもそのくらいのことは知っている。だが、何かが変だ。
シンは眉を寄せてキラを見た。壁に身を預けてうずくまってしまった、未だ激しい戦慄に全身を支配されたキラを。
ゆらり。キラの肩口で何か黒いものが蠢いたような気がした。なんだろう──シンは目を凝らしてそれをよく見ようとして、言い知れぬ驚愕に再び衝撃を受ける。
それはまるでヘドロかタールで構成されたスライムだ。キラの肩口、腕、髪、丸めた背、彼の全身いたるところから煙のように姿を見せている。小さな刺し傷から漏れ出た血液のようにぷくりと現れると、それはゆっくりと身をもたげて空中へゆらゆらと彷徨い出る。水の中に垂れ流された黒い糊、そんな表現がぴったり合う。
それが何なのか、シンはすぐに理解した。
『闇』だ。感情の激昂によって爆発的に高まったそれが彼の身体の中だけに収まっていることができず、外へ溢れ出しているのだ。そしてシンは知っている。身体の中にあるときのそれと、身体の外へ漏れてしまったときのそれが、まったく違う顔を持っていることを。
彼にも経験があるのだ。怖い夢を見て激しい錯乱を起こして『闇』を溢れさせ、様子を見に来た同僚の少女を殺しかけたことが。
もちろんザフト軍部内で起こったそれは、人に知れればれっきとした殺人未遂になるしマスコミにも騒がれる。おまけに下手をすれば外交の上でナチュラルたちのねちっこい愚痴にも似た意地悪のネタにもなりかねないし、加えてその『原因』となったのが得体の知れない能力だなんて口が裂けても言えるものではない。その事件は評議会の手で隠蔽された。能力者としてのシンの人権を護るためという、もっともらしい理由のもとに。
発生の原因は、現場となった部屋が真夜中の暗い室内だったせいもあるし、部屋のドアが自動開閉式だったせいもある。その少女は明るい照明に満ちた廊下から一気に光のない暗い室内へ入ったことで目が慣れず、そのせいでシンの『それ』にまったく気付かずに、不用意にも彼の肩に手を置いてしまった。
『闇』たちは己に触れた命の感触に歓喜し、その手から腕へ、腕から肩へ、瞬く間に少女の体内へ潜り込んで肉体を侵食した。溢れた水に新たな容器が必要なように、溢れた『闇』たちは少女の肉体を新たな受け皿と認識して、彼女に宿ろうとしたのだ。
そのときは少女が苦痛に悲鳴を上げたおかげで人が駆けつけ、大事に至ることはなかったのだが、シンは後に知った。免疫や適性のない者が制御のない『闇』に触れれば、即座に侵食されて命を落とすことになるのだと。理解力と共感力に優れていた少女は自分が悪かったのだとして、その事件のことを謝罪するために部屋を訪れたシンへ逆に謝罪した。恐ろしいものを見て恐ろしい経験をしたというのに、彼女は今でもシンの良き同僚であり、そして理解者だ。
事件があったときの自分の映像記録はあるらしいが、どんなに頼んでも見せてもらったことは一度もない。だから溢れ出した『闇』なんか初めて見た。あのときの自分はこんなふうになっていたんだ、シンは極めて客観的にそう思った。今もしもキラの身体を切り裂いたら、肉の下から溢れ出してくるのは赤い血液ではなく、どろりとした粘着性のある黒い有害物質なんじゃないのか、とさえ感じる。
シンの頭に、かつて聞いた言葉が蘇った。
適性がない者は即死する──では、適性のある者が触れれば、どうなるのだろう? 闇に侵食されても、元から闇を所持している者であれば、いったいどうなるのだろう。
その直感は、ある種、更なる高みを目指す『命』としての本能だったのかもしれない。
「……大丈夫ですよ」 シンは言った。
キラは何も聞こえていないようにシンを見ようともしない。『闇』が落ち着かなければ感情が落ち着くこともない、キラはできる限り無反応を維持して、小さなものであっても感情に波が起こるのを抑えようとしているようだった。
「キラさん。大丈夫ですよ」
シンは改めて腕を上げると、手を伸ばした。視界の隅にそれを捉えたキラがぎょっとして彼を見、ゆっくりと近付いてくるそれから逃れようと足掻いた。しかしすでにそこは壁の角だ、それ以上の後退はできない。
「やめて、やめてっ」 キラは首を振った。髪の先から毒が滴り、周囲に散る。「本当に君を殺してしまう、だからっ」
散った黒い滴はシーツの上でぬらぬらとした光沢を放っている。水滴のようにそこへ染み込んでしまう訳ではなく、かといって蒸発に等しく消えてしまったりもしない。表面張力でぷっくらと盛り上がった小さなそれは、やがてすうーっと滑るようにキラの方へと移動を始める。卵袋から落ちてしまった虫の幼生が、再びそこへ戻っていくように。
キラの素足にぺたりとはり付いて、皮膚の中に溶けて還っていくそれを視界に捉えてから、シンはキラの頬に手を触れた。
永遠のような、一瞬の間。恐怖に満たされたキラの、かちかちと歯が鳴るほどの戦慄がぴたりと止んだ。頬に添えられた手が耳元を通り過ぎ、キラはすぐにシンの身体に包まれる。
「ほら」 確かめるようにぎゅっと一度強く抱きしめてから、シンは身体を離してキラの顔を覗きこむ。「大丈夫だったでしょう?」
信じられないものを見た、キラの表情はまさにそんな言葉をそのまま表したようだった。何が起こっているのかよく理解できないようでもある。
「おれなら平気です」 笑みを浮かべてシンは言った。そしてもう一度、強くキラの身を腕に抱きしめる。「──ね?」
体内の『闇』のざわめきだけが大きく全身に響いている。肉体を隔てた向こうに宿っているものは、二人ともまったく同じだ。ぴたりと合わさったキラとシンの体内でその鼓動がやがて重なる。本当ならいつまでもいつまでも残って消えないはずの巨大な波紋は、唐突に消えてしまった。何の余韻もなくあっさりと。
あれだけキラの心をかき乱して止まなかった恐怖が、今はすっかり影を潜めていた。頬に残る痕と瞳に残る涙の名残がなければ、つい先ほどまで彼が発狂同然に泣き喚いていたなんて嘘のようだ。
「いったい、どうしたんです」
やっとシンはそれを問うた。身体を離すことはなく、彼の背中をそっと撫でてやりながら。
「夢の」 キラは小さく言った。「続きを、見た」
「続き、ですか?」
「夢を見てた。今までは顔を見ようとしたら必ず目が覚めたのに、今日は覚めなかった……今日だけは、声も、言葉も、聞こえて」
何のことを言っているのかよく判らない。錯乱から覚めたばかりなのだから頭が整理しきれないのはよくわかる。シンは黙って聞いていることにした。
「時々、誰かが僕を追いかけてきた。小さい頃からずっと…月に何回か、そんな夢を見てた。いつも上手く逃げられなくて、転んで、捕まって…でも僕がその人の顔を見ようとしたら、いつもそこで夢は終わっていた。それなのに、それなのに…」
キラはまた新しい涙を流した。シンの肩に頭を預け、身を震わせて泣いている。
今日に限って、その人物の顔を見てしまったのだ。とてもたどたどしい話ではあったが、冷静を保っているシンがその結論に達するには十分な情報だ。
しかしキラをあそこまで錯乱させるほどの人物とは。弱々しいこの彼を見ていると、ゾンビや怪物に追い掛け回される夢を見ただけでも十分に錯乱を起こしそうに見えなくはないが、それだけでは『闇』の暴走を引き起こすほどの衝撃には至らないように思う。
決定打があったのだ。親か、友人か、あるいは不特定多数の圧倒的な何かが。しかし今それを聞いても、自分にはどうすることもできないような気がした。話すことで彼の気が楽になるのなら聞くだけでもしてやりたいが、望まれないのなら何も聞くまい、そう思った。
「アスラン…」
キラは小さく呼んだ。シンのものではない名前を、シンの肩口で。同時にシンの脳に、パシッとひとつの刺激が走る。映像だった。ほんの数コマにも満たないサブリミナルに近い映像が彼の頭をよぎった。
一面の桜吹雪。首を傾げるようにして微笑む少年が目の前に立っている。青い髪にエメラルドの瞳、少女ともとれる中性的に整った顔立ち、育ちの良さを思わせる服装──どうやら何かを喋っているようだが、音声までは入っていない。ゆらりと視界がかすんだのは、この映像を記録した『目』に涙がにじんだせいだろうか。
と、映像は突然何かを映した。それはシンにも見覚えのあるものだ。緑色のロボット鳥。しきりに甘えるその鳥をしばらく映してから、もう一度少年の方へと戻って──。
これが『アスラン』? シンは首を振って映像を脳内から振り払う。その単語は決して知らないものではない。それはシン自身がさほどの興味を持たなかったせいで、名前と簡単な経歴くらいしか知らない人物のものだった。
アスランって、あのアスラン・ザラのことか? オーブに住んでいるという噂こそあるのに、オーブ国民でさえ数年に渡ってその姿を目撃したことのない、あの『行方不明』のアスラン・ザラ──。
「…知り合い、ですか?」 シンは極めて無難な問いかけを選んだ。
「きっと今頃、僕を探してる」
「え?」
「──ううん。何でもない」 キラは首を振る。「なんでもないよ」
奇妙な感じがした。ごまかしのようなものを感じた。しかしそれはシンへのごまかしというのではなく、キラが自分自身へ向けたもののような、そんな気がした。
「どこにも行かないよ。ここにいる…君の傍にいるから」 キラはシンの背に両手をまわすと、自分よりもすこし小さな彼の身体を優しく抱いた。「ごめん…」
何故あやまられてしまうのか、シンにはさっぱり判らなかった。常に人の目を気にしてしまうほど、気の小さい性格というわけではないはずなのに。
アスラン・ザラと思しき人物とキラが知り合いらしく、そしてそんな彼がキラを探している──。それを聞いた刹那には、思い出したように彼が『帰らなきゃ』なんて言い出すのではないかと危機感を覚えたシンとしては、傍に居るよと言われれば嬉しくもありがたいのだが、どうしてそこに謝罪が付け足されるのだろうかと疑念がついてくる。
いくら闇同士といえど、そんな刹那の危機感まで疎通したりはしない。彼の謝罪には理由が見つからなかった。
「謝ることないですよ」 シンはすこし困って言った。「でも、落ち着いたみたいでよかった。もう起きます?」
「うん…そうするよ」
起きる、という言葉にキラが枕元のデジタル時計を見やる。つられてシンもそれに視線を移せば、とうに昼を過ぎて久しい時刻だった。
「じゃ、適当に着替えたら出てきてください。朝飯……あ、昼飯? 用意しときます」
キラが頷いたのを確かめて、シンは部屋を出て引き戸を閉めた。リビングへ入って改めて時計を見る。朝のワイドが終わってからちょっとうとうとしていたつもりが数時間の昼寝になってしまった。テレビをつけてみるが、滅多に見る機会がなかったせいで最近夢中になっていた昼のバラエティも、子供用の教育番組もすっかり終わってしまっている。
軍基地に居た頃は絶対になかった、そしてそのままではまず経験することのなかった、一切の時間的拘束を受けない極めて不規則なこの生活リズムを、シンが不快に感じることは決してない。
ここにはキラの気配が溢れているのだ。常にシンの周囲を取り巻くように漂って、そしてシンはそれを感じれば感じるほど心が満たされて止まなかった。長いこと失くしていた腕か足が戻ってきたように、キラをここへ迎えて彼はようやく完全な姿になれたような気がしている。こんな満たされた生活の何を、シンが不快に感じたりするだろうか。
この訳の判らない、しかも程度の低い世界へ来てしまった最初の数日こそは何度も死にたくなったものだったが、こうして確かな生活を手に入れてからは、ここという場所がまるで楽園のようにさえ思える。
シンは窓を開いてベランダへ出た。そこは高層マンションの一室だ。遠いところで車の走行音が何重にも響いて、高いビルがひしめいている。プラントにはなかった光景、そして彼らの世界の地球にもない平和極まりない光景が眼前に広がっている。
おまけにこの世界の住人たちは、隣人に──いや、他人に対してほとんど興味を持っていない。先ほどのキラの激しい悲鳴があってなお、誰かが部屋を訪れる様子さえないのだ。無興味、無関心、これほど楽な環境はない。何をしたって誰もシンに興味を持たない。どこへ行っても誰もシンに注目しない。ザフト軍人であることもコーディネイターであることも、ここでは何の意味もない。
ここは『人間』でさえあれば、すべてが受け入れられる場所なのだ。
シンは不意に室内を振り向き、すっと右手を掲げた。
かたん。リビングのテーブルの上から、テレビ用の黒いリモコンが持ち上がった。誰かが拾い上げたのではない。ひとりでに宙に浮いたそれは、じっと一定の高さに留まっている。シンが指を立てて宙をかき回すと、細長いそれはくるくると風車のように回った。
力の制御が利く──静かに爪先をコンクリートの床から離し、彼は足を組んで空中に座った。
あの人に会ってからだ。シンは確信していた。事実キラが来てから、飛躍的にシンの能力は進化していた。石に蹴つまづいて十回転んだとしても一回発動するかしないかに過ぎなかった浮遊がこんなにも簡単にできる上、どれだけ強く望んでもできなかった『手を触れずに物を持つ』ことだって、今まさにできるようになっている。
ああ、もう帰りたくなんてない。ここでずっとあの人と暮らしていたい──シンは彼の身を抱きしめる想像をしながら自分の両肩をかき抱いた。触れた肌の感触、抱きしめたときに重なり合った鼓動の音を思い出すと心が昂ぶる。もっとあの人に近付きたい。もっと。もっと。
トリィ?
すでに聞き慣れた機械音声がシンの耳に入ってきた。いつからいたのだろう、ダイニングテーブルの上にあのロボット鳥がちょこんと乗っていた。シンを見て首を傾げては、テーブルの上を行ったり来たりしている。どうやら昨晩は眠さに負けたキラに放置されてしまったらしく、鳥は主人である彼を探しているようだった。
シンは床に降りた。ゆっくりと歩いて鳥へ近付く。直接手を伸ばしたら逃げられるかもしれない、そう思ったシンはある程度まで近付くとそこで足を止め、再び右手をかざした。そのロボット鳥へ向かって。
トリィ? トリィッ──急に動けなくなった上、羽ばたいてもいないのに空中へ持ち上げられた鳥が、足をバタバタさせて逃れようともがいた。
「おまえはもう要らないよ」 シンは言った。「これからはおれが、あの人の傍にいるから」
ひゅっ。シンは薙ぎ払うように伸ばしていた腕を振るった。まったく同じ動きがすこし先で再生される。ロボット鳥はまさに投げられたように窓の外へと放り出される。同時に窓を閉められたせいで部屋へ戻ることもできず、予期せぬ相手から室外へ追い出されてしまった鳥は、どうしたものかとその場をうろうろと飛んでいたが、やがてふと思い出したようにどこへともなく飛んでいってしまった。
てっとり早く壊してしまわなかったのは、別にキラがそれをとても大切にしていたからというわけではない。壊せば、壊したシンにキラの非難が向けられてしまうからだ。勝手に逃げてしまった、そういうことにしておくのが一番いい。戻ってくる可能性はなくもないが、もしそのときキラに気付かれることがなければ、今度こそ壊して処分しよう。シンはそんなことを考えていた。
そして彼はキッチンへと入っていく。間もなく部屋から出て来るキラに食事を用意するために。
機嫌よく鼻歌なんて歌いながら。
NEXT..... (2004/12/30)