GET LIMIT  12.嫌悪


 叩きつけるような大粒の雨が街に降り注いだ。バケツをひっくり返すとはまさにこのことで、窓ガラスに当たる雨粒はびしびしと大きな音を立てている。今日は全国的に晴れ、小春日和のいいお天気となるでしょう、などと朝のニュースで自信たっぷりに言っていた天気予報士は、今ごろ遠い目でこの街の風景を眺めているに違いない。

 流れていく雨水に遮られて外の様子なんて何も判らないのに、アスランは窓辺に立ってひたすら灰色に塗り潰された景色を見ている。

「姫さんが、また泣いてんのかね」

 背後から声をかけられてアスランは振り向いた。キッチンから出てきたばかりのディアッカが、二つのマグカップを持って歩いてくるのが目に入る。

「姫さんが泣いたら雨が降る、だったよな」

 はい、とディアッカは二つのうちの片方をアスランに差し出した。とても何かを口にする気にはなれなかったが、せっかく持ってきてもらったものを断ることもできず、アスランはそれを両手で受け取った。

「つらいだろ」 ディアッカが言った。

「…いや」 アスランは呻くように答えた。

「無理しなさんな。ただでさえ眠れない身体なのに、ずーっとここで待機なんて、やってらんないってね」

 アスランは特に何も返さなかった。事実その通りだったのだ。丸々二十四時間、こうして窓の外だけを睨んで彼は時間の経過を待っている。もちろん体内では力の限りを駆使して、ラクスもまた行おうとしているキラの所在地をトレースし続けているのだが。

 やっていられない、それもまたまさにその通り。できることならアスランも外へ飛び出して自分も捜索に参加したくてたまらなかった。トレースが利かない今となっては出会う人間すべてがキラの可能性を持っているといっても過言ではなく、それならばいっそ全員がホテルに待機しているのと状況は何も変わらないのだとしても。

 何もできないからといって、本当に何もせずただじっと待っているだけというのは、じりじりと心を潰されていくような、得体の知れない恐怖感に負けそうで黙っていられないものだ。

 何かしていなければ。キラは所詮見つからない、それでも何か、彼を探すという行動を起こして気を紛らわしていなければ耐えられなかった。

「イザークのことは」 カップに少し口をつけてからアスランはぽつりと言った。「判っている」

「…そっか」 ディアッカは少しほっとしたようだった。「悪いね、ホント」

「俺が外へ出ることで、また俺の留守を狙ったような事故が起きるのを警戒しているんだな。俺も同じ気持ちだからよく判るよ。爆発事故は確かに、そんなタイミングで起こったんだから」

「オーブへは、何しに?」 ディアッカが聞いた。

「もしかしたらニコルはどこかで生きている、そんな設定が組まれているんじゃないかと思って、カガリに調べてもらっていたんだ」

「アスランらしいね、まったく…」 彼は苦笑した。

「ニコルは確かに死んでいたよ」

 アスランは言い難そうに言った。そしてふと、何か思い出したような顔をする。隣のディアッカが首を傾げる中、マグカップを彼に預けて、アスランは自分のジャケットの内ポケットの中を探って二枚の書類を取り出した。

「ディアッカ。おまえの情報収集能力を見越して」 アスランは二枚のうちの一枚を、内容を確かめてディアッカへと差し出した。「こいつについて、少し調べてもらえないか」

 言われたディアッカが視線を落とした先では、赤をまとった少年が紙の上に凛々しい表情で立っている。シン・アスカの捜索願いの書類だった。そこにはシンの身体的プロフィールと外見的特徴とが簡潔に書かれており、彼が確かにザフト軍所属であるという証明として軍印が押されてある。

 戻ってすぐに皆に確認してみるつもりだったのに、事故が起こったせいで、アスラン当人もすっかりこの書類の事を忘れてしまっていたのだ。

「え、こいつ…?」

 ディアッカはカップをサイドテーブルに置いて、受け取ったその書類をまじましと見つめる。

「カガリに頼まれていたんだ。もう一週間以上も前になるんだが、向こうで『神隠し』に遭ったと騒ぎになっている。どうせ今は待機中だ、何をしてても問題は無──」

「俺、こいつ知ってるぜ?」 ディアッカがあっさりと言った。

「へ?」 アスランは一瞬きょとんとした。普段は意識して引き締めている表情が崩れ、あどけない素顔がちらりと覗く。

「や、ザフト軍の中では全然知らないけど……あれ? じゃあ別人なのかな」

「ど、どういうことだ」 アスランは首を傾げた。

「こないだ、姫さんを探しにイザークと病院を回ってたとき、そこでこいつを見たんだよ。……えっと、どこだっけな。そうだ、目黒の総合病院だよ。イザークのこと、珍しそうにジロジロ見てたから、それで覚えてたんだ」

「この写真の人物だったのか?」

「そこまでハッキリ覚えちゃいないけどさ」 ディアッカは困ったように言った。「でも向こうの人間なんだろ? だったらこっちで見かけるなんて──」

「何のために俺がその書類を貰ってきたと思ってるんだ」 相手の言葉を遮って言い、アスランは腕を組んだ。「シン・アスカはキラと同質の能力者だったらしい。それならこちら側に居る可能性もある」

「おいっ、今かなり重要なことをサラッと言ったぜアンタ!」 ディアッカは慌てた。「こいつが能力者? 姫さんとか、代表みたいな?」

「自力で能力をコントロールすることができないらしいんだがな。……目黒か。行ってみる価値はありそうだな」

「行くんなら俺も付き合うよ、今は単独行動厳禁なんだしさ。能力者ってのも興味あるしね」

「しかし何故、病院なんかに…」

 アスランはディアッカの手から書類を返してもらうと、プリントされたシンの顔をまじまじと見つめた。

 険しいとも厳しいともとれる鋭さの見える表情は、とても十六歳の少年がするものとは思えない。軍属の人物なのだから、相応の覚悟と体能力を持ち合わせているのが当然なのだが、何だか見るものすべてを敵視するような危うさを持ち合わせているように見えた。

「知り合いが入院してるとか?」 もっともらしいことをディアッカが言った。

「彼は神隠しに遭ってまだ一週間程度だぞ。こちらに来ているのだとしても、そんな短期間で知り合いができるとは考えにくい。それに病院なんて施設を利用する前に、住居や食料の問題も出てくるだろ。こちらの通貨なんて持ってないのが当然だ」

「あ…そりゃそうか」

 下手なことをしたら今頃シンは路頭に迷った挙句、家出した子供たちで形成される不良グループと手を組んだりしているかもしれない。もしそんなことになっていたらアスランはカガリに合わす顔がないばかりか、シンを連れ戻すことが圧倒的に難しくなってしまうのだ。

 こんなとき、こちら側の人間ほど相手にしたくない種類はない。屁理屈をこねて話はほとんど通じないし、だからといって牽制したり排除したりすれば犯罪行為になる。こちらのルールはかなり理解しているつもりだが、それは、すべてに反しないようにしようとすれば、必ずどこかに矛盾が生じるようにできていた。

 万一にもシンが警察にでも保護されていたら、それこそ大変なことになり兼ねない。こちらの人間は自分の頭で理解できないものは受け入れないという、厄介な基本性質を持っている。混乱紛れにシンが余計なことを口走っていたら、そう思うと今から頭が痛くなってくる。アスランの頭には、それこそマイナスの予想ばかりがぞろぞろとわいてきてしまっていた。

 ええい。アスランは首を振って雑念を払った。そんなことは実際に直面してからでも考える余地は十分にあるだろ。そもそもシンが本当にこちらに来ているかは、まだ判らないんだ──。

「その病院はどこだ? とりあえず医師たちを当たってみよう」

「目黒の自由が丘、村上総合病院だよ」

 気を取り直したアスランに訊ねられたディアッカは、懐から携帯電話を取り出すと、液晶をアスランに見えるようにかざした。そこには大まかな地図が描かれていて、ひとつだけ赤いマルが点滅していた。その場所を示しているのは言うまでもない。

「自由が丘…」

「姫さんにピッタリの名前の街、だよな」 ディアッカは茶化すように笑った。

「……行くぞ」

 アスランは身をひるがえすと、冷めかけたカップのコーヒーを一息に喉へ流し込んだ。



「ええ、確かにこの子でしたよ。お兄さんが爆発事故に巻き込まれた、と言って、私を自宅に呼んだのです」

 村上総合病院に勤務する外科医の一人は、アスランから手渡されたシンの顔写真を見て、開口一番に、すこし興奮気味にそう言った。真面目な勤務体制と患者第一の対応によって信頼の厚い初老の男、といえば印象はピッタリだ。

 アスランとディアッカは思わず顔を見合わせた。

「兄、ですか?」 アスランが問う。

「ええ。彼はそう言っていました」 医師はさらりと返答する。「あまりにも酷い怪我だったので入院を勧めたんですが、自分で看病するんだといって、ちっとも聞く耳を持ってくれなくて。ああ可哀相に…今頃、そのお兄さんは…」

 死んでいるだろう。言われなくても続く言葉の予想はつく。

「…自宅、ねぇ」 ディアッカがうーんと唸る。

「その自宅というのは、どこに?」 アスランが続けて問いかけた。

「この近所ですよ、バスで十分くらいの。私も暇を見て、様子を見に行ってみたいと思っていたのですが…何せ横浜の爆発事故で運び込まれた患者がたくさん居るもので。ですから詳しいことは、私もそれほど…」

 ディアッカは医師の話を聞きながらも、持参していたコンパクトのようなものを開いた。その中は小さな液晶のついたモバイルらしきものだったが、何を隠そう、それはディアッカ自身がモバイルを改造して作り上げた、パソコンと呼べるほどの性能を持つものだった。もちろん一言でパソコンなどと口にしても、市販されているそれを遥かに凌駕する性能を持って当然の、である。

「その『お兄さん』の怪我の状況と言うのは? そんなに酷いものだったんですか?」

 何かしらの作業を始めるディアッカの隣で、更にアスランの質問が続いた。

「酷いとか言うものではありませんよ!」 医師は再び興奮した。「骨折は全身に及んでいて…検査をしていないので詳しくは判りませんが、恐らく臓器もずいぶんと損傷していたはずです。あれで生きているのが不思議なくらいでした。助かる見込みは限りなく少なかったのですが、ひょっとしたらと思って入院を勧めたのに…」

 頭を抱えて項垂れた医師の言葉は、途中から力を失って暗く落ち込んでいった。ああ、どうして私はもっと強く出られなかったのだろう。入院させることができれば、あるいは助けられたかもしれないのに──そんな、深い落胆の声色だった。

「アスラン」 ディアッカが小さく呼びかける。

 途方にくれている医師をとりあえずそっとしておいてやる事にして、アスランは彼が持っている小さなパソコンを覗き込んだ。

「シン・アスカに家族はいないな。あの大戦のオーブ戦の折、戦火に巻き込まれて全員死んでるみたいだぜ」

「それはそうだろう。こちらに家族ごと転移しているなんて話になったら、一家揃って超能力者ってことになる」

「どう思う?」 ディアッカは興味ありげにアスランの目を見て訊ねた。

「まず、シンが『自宅』なんてシロモノを持っていること自体がおかしい」 細めたアスランの瞳に鋭気が宿る。「そして『兄』…もしかしたら、こちらに渡ってきたシンを保護した人間かもしれない。あの工業島に勤めていたのだとすれば、巻き込まれたことにも納得がいく」

「なるほどね」 ふむ、とディアッカが己の顎に手をかける。「俺はちょっと、コイツの能力ってのを調べてみる。どういう特徴があるのか、気になってきたからさ」

「ああ」 アスランは頷いた。

 キラと同質、というだけでは輪郭しか判らなくて不便だと思っていたところだった。自力でコントロールすることができないとしても、意図せず発現する超能力の種類くらいは、把握しておけるならそれに越したことはない。宙に浮けるのか、念力はあるのか、あるいは動植物と意思を通わせることが可能なのか──キラにできたことを例に挙げれば、それこそ照らし合わせねばならないことは大量にあった。

「先生」 アスランが改めて口を開くと、医師は大きく溜息を吐きながら顔を上げた。「その、彼の『お兄さん』の名前は判りますか?」

「ええ、判りますよ」 医師は立ち上がると、その応接セットから少し離れたところにある自分のデスクの引き出しを開いた。「カルテを作成するときに聞いたんですが…」

 医師がゴソゴソと引き出しの中をあさる音を聞きながら、アスランはハズレだと思った。『力』という、おぼろげでありながら強力な共通点を持つシンの捜索の先にキラがいるのではないかと睨んでここまで来てみたが、無駄足──と言ってはシンがあまりにも可哀相だが──になってしまった。

 いったいどこへ行ってしまったんだ、キラ──アスランは祈るように項垂れる。

 ──ガンッ。鉄製の引き出しが床に落ちる衝撃音で、アスランとディアッカはそれぞれ我に返った。どうやらデスクの引き出しは、めいっぱい引き過ぎるとレールから外れてしまう種類のものだったようで、入っていた書類やらファイルやらが床にバサバサと散乱している。

「あーあー、何やってんのおっさん」

 ディアッカが立ち上がるが、医師はデスクの前に立ったまま足元を見ている様子もなければ、彼らの方を振り向く様子もない。

 おかしい。アスランだけに留まらず、この場合は誰でもそう思うだろう。

「アー…アー…」

 医師の口から声が漏れる。何だか、小学生が放送室でマイクテストをしているような単調な声だ。

 アスランもまた立ち上がり、ディアッカと並んで様子を見る。いやな感じがした。とても、とてもいやな感覚が身体の底から全身に広がっていく。

 悪意、そう呼ぶのがもっとも相応しかった。ビリビリと肌に突き刺さるような敵意、殺意、おぞましいものがまさに今、アスランに向けられている。

「ア、アァ…ス、ラン…ザラ…」 次に医師の口から漏れたのは、先ほどまでの彼の声ではなかった。

 『影』か、あるいは──アスランとディアッカが懐から銃を抜く。

「ア、アアアアアスラァァァンッ!」

 医師だったものが絶叫した。それは痛みや苦しみというよりも、怒りや憎しみの方面に傾いた声だった。白衣の下で、変化を始めた彼の肉が波打っている。ベコボコと異質な音がそこから発せられ、見る間に人間だったはずの肉体が膨れ上がっていく。二人が臨戦態勢で見守る中、男の身体は数分もしないうちに異形の化物へと変貌を遂げてしまった。

 長く太い丸太のような腕。腰の辺りから無数に増えて、すでに元のそれの所在が判らなくなってしまった脚。膨らんだ胸の筋肉に埋まってしまい、人相も判らなくなった顔の下半分、そして──。

『アァ、スゥ…ラァン…!』

 地獄の底から響いてくるような重低音の声を放っているのは、元は額だった部分に新たに開いた口だった。パクパクとそれが言葉を発するそのたびに、暗い口腔の中に白っぽい塊がわだかまっているのがちらつく。その表面に走っている赤や青の筋なんて、あまり直視したいものではなかった。

「お、お呼びだぜ、アスラン」 ディアッカが一歩後退する。

「この期に及んで、まだそんな軽口が叩けるのか。おまえは」 アスランも同じように後退する。

 二人は目の前の、身の丈三メートルはあろう化物から目を離せなかった。随分と前の話になってしまうが、それは群馬の高速道路で初お目見えした化物と酷似していた。あのときの化物どもは、出現から間を置かず勝手に滅びてくれたからよかったのだが、どうやら今度はそうもいかないらしい。

「ディアッカ」 アスランは両手で銃を握り締めた。「イザークとラクスを呼んで、病院の敷地に結界を張らせるんだ。前例の無いことだが、『影』が人間に憑依したらこうなると見ていいだろう。早くに結界で囲んでしまわないと、次々に似たようなものが発生することになる」

「オ、オーケー。了解。アスランは?」 ポケットにしまったはずの携帯電話を手探りするディアッカの表情が引きつる。

「俺は…」 言葉の中途で、アスランの瞳がきょろりと動き、化物の背後にある大きな出窓を視界に捉える。「こいつを中庭に連れ出して、仕留める!」

 呼び止める間もあらばこそ、アスランは言葉の終わりと同時に床を蹴り、化物へ向かって駆け出していた。

 再びアスランの名を叫んだ化物が大きな腕を振り回す。デスクがその激突を受けて簡単にひしゃげ、壁はクッキー菓子のように砕けて破片をばらまく。しかし大振りな攻撃ほど見切るのも簡単なもので、アスランは身を屈めた素早い動きで化物の腕をかいくぐり、ガラスを破って窓から飛び出す。

 もちろん化物も彼のあとを追う。無数に生えまくった脚はどうやらハリボテではないようで、しゃかしゃかと不気味な動きをしながら、見るからに鈍重な外見とは裏腹なスピードで走り始める。

 飛び出した先で窓のほうを振り向いたアスランは、続けざまに飛び出してくる化物を見てぎょっとした。まさかあの図体で、自分と──人間とそう変わらぬ速度の移動が可能だとは、夢にも思っていなかったのだから当然である。

「殺られんなよ、アスランッ!」

 ディアッカの声に見送られて走り出すアスランの表情には、形容できない何かが浮かんでいた。あえて表現しろと言われれば、それは『期待』や『歓喜』に限りなく近いものなのかもしれない。

 あるいは当たりなのか──先ほどまでの落胆を一転して、アスランはそんなことを考えていた。ただ『影』が雪崩れ込んでくるのならよくある話だと済ませられたのだろうが、人間が化物へ変貌する瞬間を目撃したのはゆうに一ヶ月ぶりなのだ。メディアというのは便利なもので、欠かさずに彼らが目を通している新聞やニュース番組は、どこかの地方・地域で人間がモンスター化したなんて話題を、群馬以来で一度も口にしたことがなかった。

 『あれ』が絡んでいる、アスランは早くも確信を得ていた。シンのことを調べ出したアスランたちのことをいち早く嗅ぎ付けて、その妨害をしに来ているのだと推測するのは容易なことだった。そして『あれ』が動く理由なんて、考えるまでもなくひとつしかない。

 キラだ。

 アスランは強く地を蹴って跳躍すると、病院の壁に足をつけた。カッと踵を鳴らすと、待ってましたとばかりに靴がスケートに変貌する。そのままアスランは浮遊能力を発現させて、植木や茂みをなぎ倒しながら背後を追って来る化物とは地を直角にした壁を滑走した。

 建物の角でジャンプして、敷地を囲っている塀を蹴り、ようやく目的の中庭へと到達する。

『アァァァスラァァァァン!』 化物が再び咆哮しながら、やっと足を止めたアスランへ向かって突っ込んでくる。

 懐に銃をしまったアスランはすっと右手を持ち上げると、化物へ向けてかざした。見ろ、というように。

 ズドンッ! 彼を身体ごと撥ね飛ばすと思われた化物の巨体は、目標に届く数メートルのところで見えない何かに激突した。暴走した車がコンクリートの壁に突っ込む様子に似ていたが、いくつか違ったのはその壁が見えなかったことと、その壁が崩壊しなかったことだ。

 化物が止められた代わりのようにアスランの髪が大きな風圧になぶられる。

「身の程をわきまえたまえ下等の闇よ。我は汝らが王の力を授かる者である」 アスランは言った。「その肉を捨て己が世に戻らば良し、聞き入れぬならば、我は王に代わり汝を討つものである」

『ウガァァァァァァッ!』 化物はまるで聞く耳を持っていなかった。

 見えぬ壁をかきむしり、殴り、肉や骨が砕けそうになるのも厭わず、その先にいるアスランに届けと祈るような咆哮とともに、無駄な攻撃を繰り返す。

 ふ、とアスランは溜息を吐いた。そして右手を胸元へ引き戻し、そこで左手を添えてひとつの印を組み上げる。

「地よ、王の代行たる我が願いを聞け! 我が命に背きし愚か者に、永劫の闇の裁きを!」

 バン、とアスランの両手が地面を叩いた。たちまち化物の足元で地面が二つに割れ、大きな口を開く。断末魔の絶叫とともに、もとは人間であったはずの化物は地の底へと落ちていった。

 異物を飲み込んだ地割れはすぐに閉じ、何事も無かったような平静を取り戻す。アスランは立ち上がると、先ほどとは違った意味の溜息をひとつ吐く。裏庭を化物と共に疾走したのはまずかったかもしれないが、明確な目撃者というものが出現する前にカタをつけられたことへの安堵だった。

 キラのように『気』を無限大に送り込むことができるなら、わざわざ命令文を読み上げる必要も何も無いのだが、いってしまえばキラ以外の者にとってそれは自爆戦法でしかない。一体の敵を破裂させるのにどれだけのエネルギーが必要になることか──そんなことはキラでしかできないのだ。

 ふと、アスランの視界のあちこちで桃色の柔らかな光が揺らめいたように見えた。どうやらラクスとイザークが到着したようだ。ラクスの結界はイザークのそれとは違い、内部に閉じ込めた不浄を消滅させることができる。これでもうこの病院に『影』が入り込むことはない。

 ほっとしたその刹那、アスランの脳に、これまで感じたことの無い鈍い衝撃が走った。びくん、全身が震えて思わず周囲を見回す。

 有り得ない、こんな意識がこの世に存在しているなんて──。

 それは視線だった。恐らく通常の人間が真正面からこの視線を受け止めれば、間違いなく発狂に至るであろう、悪意の視線だった。深い憎悪、激しい怒り、明らかにアスランを疎む意識を持った視線が、彼に向けられていた。

「………っ」 ぞわりとアスランの全身が総毛立つ。

 『あれ』だ。『あれ』がすぐ近くにいる。予測というよりは直感に近く、彼はその相手の姿を探した。イザークたちの報告にあった、かけがえのない戦友であるニコルの姿を。

「居るのなら出て来いっ!」 アスランはついに叫んでいた。無音で過ごすには、このプレッシャーは大き過ぎて。

 ザリ。何者かが土を踏む音がして、アスランは一度はしまった銃を再び引き抜いて、その方向へ向けて構えた。と、そこで彼の表情は、言い表せぬ驚愕に満たされる。

「──どうした。お望み通りに出てきてやったのだぞ、アスラン」

 若いと言うには老いを含んだ声が耳に入ってくる。その姿は、見覚えだとかそういうレベルのものではない。パトリック・ザラ。大戦の果て、誤った道の中で潰えたアスランの父親が立っていた。

「ち、ち、うえ…?」 アスランの唇がわなないた。

「ほう、おまえにはそう見えるのか」 男は己の手を見るような仕草をする。「おまえたちの反応のおかげで、私は随分と、私というものが判ってきたぞ」

 まさか本物のパトリックであるはずがない。アスランは首を振った。今の言動を聞く限りでは、見る者によって姿が変わるらしいことが判るが、何故よりにもよって『父親』なのか。いっそニコルであった方がまだマシだ──そんな気がしてならない。

「…おまえに会うのは初めてだったか」 男は手を下ろしてアスランを見た。「一度は相見えてみたいと思っていたのだ、おまえとだけは直接、な」

「どういうことだ」

 アスランは自分でも判らない程度に片足を引きながら問いかける。身体が逃げ出そうとするままにすれば足は一歩退いていたであろうが、それを理性で抑え付けたことによって、ほんのわずかしか動かなかったのだ。

「どういう?」 男は片眉を跳ね上げると、可笑しそうに笑った。「自分で判っていないのか、アスラン。これはいい。何も知らずに力を捨てようとするヤツの意志に従って、それを守り続けてきたというのか、傑作だな」

 やがて男は盛大に笑い出す。どうやら相当可笑しくてたまらないらしいが、何も判らない者からすれば不快この上ない。アスランはじりじりと心の底からわいてくる怒りが全身を満たし始めるのを意識した。いっそ鉛玉を撃ち込んで黙らせようかとも考えたが、それを見越したように男はぴたりと笑うのを止めた。スゥ、と目を細めて、前に立つアスランを見据える。

 万が一ここで襲いかかられても、悪意の視線にさらされて背筋まで凍りつきそうな今の彼には、撃退どころか抵抗さえできずに殺されるかもしれなかった。

「貴様は邪魔だ、アスラン」 男ははっきりと言った。彼の父の姿と、声で。「私のために死んでくれ。貴様さえ居なければすべてが上手く運ぶのだ」

 男が右手を伸ばして空を握る仕草を見せると、その手の中に銃が現れた。口の狙いをアスランに定めた黒い武器が、かつて狂気にはしった男の姿をした者の手に。

「彼の心を得るのは、貴様ではいかんのだ。彼を支配する権利は、私にだけ許されていなければならん」 男は絡みつく声で言った。

 キラのことだ、それだけはすぐに理解できた。

「もはや貴様に彼は帰さん。彼は私が支配する。恐怖と絶望に着飾らせ服従させる。私が」

 アスランは呆然とそれを聞きながら、自分に向けられた闇のわだかまる小さな銃口を見つめていた。たった一息で人を死に至らしめるそこを。

 まるで引き付けられるような錯覚があった。男が紡ぐ欲望の言葉が呪文のようにアスランを縛り付けていた。足が動かない、腕も動かせない、父の目から発せられる悪意の視線に毒されて、脳だけは逃げろ逃げろと騒ぎ立てているのに、身体がまったくついてこない。

 男は嬉しそうに笑った。

「我が身に流れし、高貴なる姫の血よ!」

 まさに引き金が引かれんという瞬間、突然、あらゆる建物の陰から高らかな声が響いてきた。聞き覚えのあるその声に、ハッとアスランが我にかえる。

 それはイザークの声だ。

「我は誓わん、我が勝利はすべて汝の為であることを!」

 男がはじめて焦りと言えるものを見せた。アスランを撃つことを早くに諦め、イザークの声が完全な命令文を組み上げる最中、宙に浮いて遥か上空へと舞い上がる。

「──いざ目覚めよ、デュエル!」 イザークの声が最後の言葉を放ち、命令文が完成する。

 地面が、中庭の木々が、草が、花が騒いだ。抜け落ちた若い木の葉、ちぎれた草の葉、地面の石つぶて、あらゆるすべてが一斉に、上空で逃亡を図る男へ向かって弾丸のように飛んでいく。しかし『あれ』の反応は素早く、それらに囲まれて身動きが取れなくなる前に、空に溶けるようにどこかへ転移してしまっていた。

 目標を失った自然界のミサイルたちが空中で激突し合い、次々に消滅していく。アスランはそれを途中まで眺めてから、改めて周囲を見回した。

「何をやってるんだこのバカ!」

 アスランが姿を確認する前に怒声が飛んでくる。裏庭に通じる路地の奥からイザークは駆け出てきた。扱えるうちでも最高位に属する力を行使した彼は強制的に白をまとわされ、『彼本来の姿』に戻されてしまっている。

「…すまない。助かった」

 アスランはあっさりと項垂れ、そして傍まで走ってきたイザークに頭を下げた。ぎょっとしたように中途で足の速度を下げ、イザークは形容し難い複雑な表情を浮かべる。あまりにも簡単にアスランが自分の非を認めたものだから調子が狂った、というのが一番正しい表現だった。

「今のは『あれ』だな?」 イザークが気を取り直して問う。

 アスランが頷くと、彼は盛大な溜息を吐いて上空を見やった。

「よりにもよってザラ議長とは…とことんタチの悪い遊びが好きと見える」

「ディアッカとラクスは」 アスランは訊ねた。

「先に出たバケモノを目撃した連中の記憶を抹消して回っている。ナースステーションやら事務所やら、一瞬見ただけの場合も含めてな。…だがおまえの判断は正しかったぞ。目撃者は少ない方だ」

 珍しくイザークが他人の行動をフォローした。アスランもまた調子が狂うような気がした。

「貴様らがここへ何をしにきたのかは、大体ディアッカから報告してもらった」 腕を組みながらイザークは息を吐く。疲労しているようだった。「…院内庭園で合流する予定になっている。話はそこでまとめよう」

 先に歩き出すイザークの背を負うように足を進め、アスランは『あれ』が消えた空を仰いだ。曇り空の合間にちらほらと青い空が覗いている。

 『あれ』が放った呪いのような言葉が、アスランの心の片隅に引っかかっていた。恐怖、絶望、支配、服従、そのまま口に出せば間違いなく負のエネルギーを発する言葉ばかりが耳に残ってたまらない。

 そしてその言葉を耳にしたときに感じた表現できない激しい怒りが、今も心の底でくすぶっているのが判る。真っ向から違うと叫んで否定したかったのに、口を開けばそれこそ動物のような咆哮を上げてしまいそうでできなかった。

 ちがう。ちがうちがうちがう。そんなことは絶対にさせない。それは、それは──。

 自分が何を否定しようとしたのか。その否定の先に何を言おうとしたのか。今のアスランには、考えたくないことが多すぎた。だが彼は気付いてしまった。『よりにもよって』このタイミングで。

 俺がキラに抱いてた感情──それは、友情なんてきれいなものじゃなかったんだ。

 それは支配と服従だ。あのとき口を突きそうになったのは、その権利が『あれ』のものではなく、自分のものだという強欲な宣言だったのだ。

「何をしてる、さっさと来い!」 いつの間にか足を止めていた彼に、イザークからの怒声が飛ぶ。

 アスランは死にたくなった。






                                         NEXT..... (2004/12/11)