FATAL ASK  34.覚醒

 頭の中に巡るのは、古い映像。

 ところどころが焦げ付いた、現代にはもう無いかもしれない劣化したフィルム。それはまるで強烈な閃光で石壁に焼き付けられたかのように、決して忘れることのならない、そしてそれを砕いたところで消えてくれることもない、無慈悲で無遠慮な侵略の記憶だ。

『チクショウ、研究部の奴らめ、見下したツラしやがって!』

 激しい口調で怒りをまき散らしながら、その男が幾度も殴りつけているのは子どもだ。大きな手で襟を掴まれて、逃げることのできない状態で、何度も、何度も顔を打ち付けられている。泣き声なんか聞こえない。その子どもの手足はだらんと垂れ下がっていて、しばらく前にもう泣くことをやめていた。そのうち息もしなくなるかもしれない。

 その日、その男はとある実験に立ち会った。それは彼が訓練したこの子の能力値を計る目的のもので、多くの研究者たちが見学に来ていた。けれど、結果は思うように伸びなかった。その能力が、研究者たちの定める合格ラインを超えなかったのだ。

『テメェのせいだ、テメェが教えたようにやらねえからだ! 手を抜きやがったんだろ、俺が気に入らねえから、俺の言うことなんか聞けねえってか! 何が「最高のコーディネイター」だ、テメェは所詮失敗作だろうが! 俺らが手を貸してやらなきゃ、テメェなんざノタレ死ぬだけのそこらのガキと変わらねえんだよ!』

 男は散々殴った子を冷たい石の床へ投げ捨てると、それでも飽きたらずにその腹をも蹴った。容赦など微塵もない。ボール競技の選手だってこんな乱暴で力任せな蹴り方はしないというくらいに。抵抗は一切ない。それだけの体力がもう無いからだ。

 男は焦燥の交じった言葉をまだ何か呟きながら、横たわる子を見下ろした。

 ぐったりと動かない四肢には痛ましい痣が無数に浮き上がり、一部は腫れ上がって出血している。開いたままの目は虚ろで、どこを見ているのかも判らない。

 けれど。

 子は生きていた。同じくらいの年頃の、他の子どもであったなら本当にもう死んでいただろう。だが、苦しげでか細くはあったけれど、確かな呼吸の音が続いているのだった。

『クソが…っ、バケモンめ…!』

 このとき、この男が何を思ったのかなど知れないし、知らない。知りたいと思ったこともない。だが彼は引きつった笑みを浮かべると、死にかけた子どもから着衣を剥ぎ取って性交に及んだ。何の前触れもない。食事をとるためにフォークを手をするのと同じくらい自然に、当たり前に。

 そう、これはこの男にとって当たり前の、そしてこの上なく簡単なフラストレーションの発散方法なのだった。被検体であるこの子には、些細な反抗も抵抗も認められてはいない。役に立たないと判断されたなら廃棄されるだけの使い捨て、だからこそ関係者は子をモノのように扱う。

 その時々で、自分にもっとも都合の良い枕詞を付けた慰み物として。

 自分より弱い者をとことんまで嬲り、相手が怯えて媚びる様を見るのは誰しもの心に安い快楽を植え付ける。この男はもうその虜だ。だから気付かなかった。瀕死のはずの子が手を持ち上げ、自分の首を掴んでいたことを。空虚であったその紫色の瞳が、突然、猛烈な殺意を宿したことを。

 殺セ。相手ハ敵ダ、殺セ──!

 その瞬間のことは記憶にない。傷付いた情報はノイズを放ち、右手を血に染めて立っている子の姿を映し出す。足元に横たわって未だピクピクと痙攣を続けている男は、喉の一部を気管ごとむしり取られたような傷を負って、そこから大量に出血して事切れていた。

 子は少年だった。あれほど痛々しく刻まれていた四肢の傷はもう無く、人相も判らぬほど腫れ上がっていた顔は、愛らしいとさえ言える本来の風貌を取り戻している。手入れなどまったくされていない伸びっ放しの黒髪はそれでも美しい艶をもってサラリと揺れ、闇の中でも、どこかに光源を持つように煌めく瞳を覆い隠した。

 夜空を臨むことすら許されぬ、閉じた監獄の閉じた暗闇──これがカナード・パルスの、『闇』が覚醒した原初の記憶だった。



 月光をイメージした淡いコバルトブルーの夜光が、開いた窓から射し込んでいる。カーテンのそよぐわずかな音を聞き付け、アスランはぼんやりと目を開いた。

 彼が身を寄せている守備隊の宿舎は繁華街から少し離れたところに位置しており、寝静まってしまえばまるで田舎町の夜そのものの静寂に満たされる。季節によっては昆虫類の涼やかな鳴き声を聴くこともできるらしいが、残念ながら今夜はどこからもそんな音は聞こえない。

 でも、その代わりに。

「──アスラン」

 頭の中に反響するように、夢の中で自分を呼ぶ愛しい声がする。

「キラ……?」

 寝返り半分に視線を動かし、声の主を探す。悪い酒に酔ったときのように意識が揺れていて、頭の芯がうまく働かない。音もなく伸びてきた手がそっとアスランの頬を撫で、髪に指を絡ませる。かろうじて開いていた彼の目は、すぐ傍で微笑むキラの姿を捉えていた。

 そのキラが身を進め、寝心地のいいベッドの木材がしなってギシリと音を立てる。シーツに手をつき、膝を乗せて、彼はアスランの寝床へ入ってくると、何を言うでなく口付けをした。

 甘い匂い。優しい感触──キラのほうからこうしてやってくることは珍しかったが、決して無かったわけではない。アスランは誘われるまま両手を伸ばして彼を抱きしめた。ぐっと自分に寄せて、相手の身体がバランスを失ったところで上下を逆転する。

 自分の体重でお互いが密着するだけに満足せず、彼はキラの頭を両手で包んで、幾度も角度を変えて唇を交わす。その髪を梳いたとき、さらりと長く流れたことを彼は気に留めなかった。

「愛してるよ、アスラン」

 囁く声の、何と甘いことか。自分の腕の下で、まっすぐ見つめてくる瞳に揺れる『闇』に惹き寄せられるように、アスランは身を沈める。

「キラ…」

 愛しい名をうわ言のように呟き、彼の意識は再び心地好い微睡みの中へ落ちていった。



 朝日が昇って間もない早朝、アカツキ島の端に一台の軍用ヘリが着陸した。一面の眩しいオレンジに染まる海と砂浜にザッと降り立ったのはカガリだ。今から友人らと夏のキャンプにでも出かけるのかというラフな服装を見るに、公務ではなく私用であることが窺える。

 乗務員に迎えの時間を確認して、再び舞い上がるヘリを見送って、すぐに身を翻して走り出した彼女の足が向かった先はマルキオが営む修道院だ。打ち寄せる波の音だけが繰り返すそこはまだ寝静まったままで、まだ鳥の声すらまともに聞こえない。

 カガリが今日ここへ来たのは、マルキオたちと楽しい朝食をと思ってのことではない。バルトフェルドやマリューはとうにここを発ち、あのヨーロッパでの戦闘を最後に、今となってどこにいるのか彼女すら掴んでいない。自分のチカラが消えていない以上、キラは生きている。けれど他の者たちはといえば確認の手段がなかった。

 地球に駐屯するザフト全軍と地球連合とが手に手を取って──とは少々言い難いが──デュランダルを『戦犯』とし、それに与するミネルバと、あろうことかそのミネルバと共闘を行なったアークエンジェルに指名手配をかけてより、もうどのくらい経ったろう。連合とザフトとの戦闘が治まってくれたおかげでオーブ国内は比較的安定しているが、この国だってかつてはアークエンジェルと徒党を組んだ関係上、その所在に関する照会が時に厳しい言葉を用いて頻繁に入るようになっており、首長らもカガリも困り果てていた。

 トドメにアスランとミーアのツーショット放送。あれにはさすがに夕食のフォークが手から滑り落ちてしまった。それ以来プラントの放送局はひたすらにあの二人を追いかけ回しており、おかげで何やら様子のおかしいアスランに関する情報には事欠かなくなったものの、彼女が本当に知りたいのはそこではない。

 いったいどこへいってしまったんだ、あいつらは──。カガリは度々の照会に『知るか、わたしが教えてほしいくらいだ!』と要約することのできる苛立ち紛れの返答をする一方で、本当にその行方を案じてならなかった。まさかその仲間たちが、もしカガリに知らせてしまえば、隠し事が下手な彼女から簡単に所在がバレるかもしれぬことを危惧して連絡を控えていることなど知る由もない。

 ただそれは信用されていないからではなく、皆が彼女の性格をよく知っているが故だ。そう言われればきっと彼女も納得することだろうが、多分、それを仲間たちに進言したキラはぶん殴られるに違いなかった。

 そうやって何度の夜を乗り越えてきたか知れない夜明け前、カガリは胸の内にひときわ強い鼓動を感じて、短い仮眠から飛び起きたのだ。

 たった一度の鼓動で全身の血液が煮え立ったような強烈な高揚。まともな呼吸を取り戻すのにどのくらいの時間を要したかしれない。彼女はまるで呼び寄せられるように、夜勤も間もなく終わろうとしていた公邸の従業員をとっ捕まえ、ヘリを飛ばせたのだった。

 果たして彼女が走りついた砂浜に、人影があった。

 上がってしまった息を整える間も惜しんで、カガリは、朝日の逆光の中にいる『彼女』のもとへと歩み寄って行く。

 大きなリボンをあしらったワンピースに包まれた、すらりと細く、白い肢体。長く伸びた、ちょっとくせのある柔らかな淡い桃色の髪。カガリが砂を踏んだ音に気付いてゆっくりと首を巡らせて振り向いたその髪を飾るのは、三日月を彷彿とさせる二連のヘアピン。

「おはようございます、カガリさん」 カガリに会えたことを喜ぶように、ラクスは言った。「ふふ、お早いのですね」

「ラクス……」 カガリは呆然とその姿を見ていた。会いたいあまりの夢ではないようだった。

「長い…とても長い夢を見ていましたわ」 視線を海に戻し、ラクスは言った。「哀しい子たちに出会って…醜い姿を晒して……戦争が始まって……」

 それはまさしく、キラの『経験』だった。

 カガリは天然の能力者だからその感覚は解らないが、ラクスはキラから直に『血液』という形でチカラを受け取った人工のマイノリティだ。閉じている間、ずっとその意識がキラと連動していたと考えても不思議ではない。

 デュランダルの見立てではあと数ヶ月は目覚めないはずだった彼女がこうしてここに立っているのは、おそらくキラが度々行なった『進化』の影響であろう。彼が形態を変えるたびに、アスランやシンのチカラも格段に強まっていた。いくら『エターナル』で外界と隔絶されていようと、内部で繋がっているキラからの影響をまったく受けないわけがない。

「キラも、もうわたくしの目覚めに気付いているでしょう。──わたくしも行かなくては」

「ま、待ってくれ!」

 カガリは咄嗟に、テレポートの気配を見せた相手を呼び止めた。カガリには転移の能力などないから、今ここでラクスが居なくなってしまっては、キラたちの居場所を知る手がかりが途絶えてしまう。

「ラクスはキラたちが今どこにいるのか知ってるのかっ? 知ってるならせめて、居場所だけでも──」

「……カガリさん」

 穏やかな笑みを湛えた聖女は、今にも置いて行かれそうになって不安そうにしているカガリに歩み寄っていった。

「あなたには、あなたにしかできないことがあるはずです。今はそれを、精一杯果たしてくださいませ」

「でも…っ」

「あなたはオーブという国家を預かる身。ならばあなたが見守り、知るべきはキラたちの居場所ではなく、この世界の行く末と在り様です。どうかあなたはそのままで、この世界の人々が最後に頼れるこの地を、守ってください」

 自分のような者には、知らなくていいこともある──暗にそう諭されたのだと察したカガリは、肩を落として苦笑いを見せた。

「……かなわないな、ラクスには」

 そうだ。不用意にアークエンジェルやミネルバの所在、あるいは構成員との関係についてを他者から詮索されるような事態は避けねばならない。ただでさえ、今は手を取り合……っているかは定かでないにしろ、ザフトと連合の両陣営が彼らの居所を血眼で探していて、オーブはその第一候補となっている。

 万一にこの国に隠れていたとしても、カガリはそれを知るべきではない。彼らとの関係の一切を絶ち、オーブにあらぬ疑いの目と要らぬ戦火を招くような真似をしてはならないのだ。

「行ってくれ。手間をかけさせて、すまない」 カガリは言った。

「とんでもないことですわ」 ラクスは微笑んだ。「目覚めてはじめにお会いできたのがカガリさんで……こうしてお話しすることができて、嬉しく思います」

「ああ。わたしも、こうして話せて良かったと思ってる。……キラたちに、よろしくな」

「はい。それでは」

 ワンピースの裾をちょっと持ち上げて上品な会釈をしたラクスは、身を翻した瞬間、消え去っていた。



 アスランが『目を覚ました』時、だいたいはすでに身体が先に動いていることが多く、最初の記憶は食堂であったり、守備隊の部下らと話している時だったりした。

 けれど今朝は違う。室内に吹き込む柔らかな風を受けて彼が目を開くと、そこは就寝したときと変わらぬ自分の寝室で、白いシーツの感触がとても心地好い。プラントへ渡ったことでキラとの連動が途切れ、彼からのエネルギー供給が絶たれたせいで随分長いこと『人間』として暮らしてきたせいもあって、まだもう少しここで眠ってたい……などと甘えたことを考えてしまうのは時差ボケに似た症状であろうか。

 え──? 再び目を閉じた分も含めたしばらくの間を置いて、アスランはばちりと目を開いた。慌てて身を起こし、室内を見回す。

 寝る前にはきちんと閉まっていたはずの窓は開いていて、爽やかな朝の風を室内に流している。片手を持ち上げ、信じられない思いで手のひらを見つめ、それをぐっと握ってみる。

 何の違和感もない。そう、自分の意思で身体が動く……ついにカナードの『魅了』が解けたのだ。

 やった、と思わず声に出しかけたところで、不意に彼は自分の隣に横たわる、不自然なシーツの盛り上がりに気が付いた。

 なんだろう──? 本当に何の気もなく、そして何の疑いもなかった。ばさりとシーツをめくった彼の目に飛び込んできたのは、妖艶なランジェリー姿ですやすやと眠っているラクス・クラインの艶めかしい肢体だった。

「いっ…!」 さすがのアスランもこれには仰天した。「うわあああぁぁっ!」

 ゴキブリを見れば飛び上がる女のように、身体が反射的に逃亡をはかろうとするも、彼はそこが狭いベッドの上だったことも忘れていたから、思いきり踏み外して床へ転倒する。どたーん、と重い音が響き渡り、女がもぞりと動いて目を覚ました。

「んん……なぁにぃ?」 眠たそうな目をこすりながらミーアは言った。少し寝不足らしいことは見て判る。

「ミ…ッ、ミーアッ!」 アスランはやっとのことで声を絞り出した。「なんで君がこんなところにいるんだっ!」

「えへへっ…」 軽いイタズラを咎められたように、彼女はぺろっと舌を出して笑った。「アスランのこと、どうしても忘れられなくって…もう一回だけでいいから、キス…して、もらえたらって、思ったの」

 言葉の終わりにかけ、彼女はもじもじと恥ずかしそうになっていく。素晴らしく大切で、煌めく宝石のような美しい思い出でも語るように。

 しかして言っていることは夢見る乙女だが、ほんのりとした薄化粧に、肌が透けるほどの薄い布地しかまとっていないその姿はだれがどう見たって娼婦そのものだ。こんなところを誰かに見られでもしたら、自分の信用が地に落ちることなどどうでもいいが、ラクス・クラインという女性を多くの男たちが誤解してしまう。

 もう一度キスできたなら、なんて方便もいいところだ。この女の目的は完全にアスランを誘惑することにあった。

 返す言葉も出なかったアスランだったが、ぞっと背筋が冷たくなった。そういえば昨晩、誰かが部屋に来たような気がする。あれはそう、キラだ。忘れるはずも見紛うはずもない、月光に照らし出されて微笑むその幻想的な姿を、彼は確かに見たはずだった。

 でも、ここにいるのはキラではない。まさか、と嫌な予感が胸に渦巻く。

 俺が昨日抱いたのは、この女だったのか──?

「アスラン、大丈夫? 顔色が悪いわ」

 おまえのせいだよと叫びたかったが、とにかく今は一刻も早くこの場を出て、プラントの状態を自分の目で確かめなければならない。アスランはベッドシーツをぐいっと手繰り寄せて自分の身にまとわせると、物質転換でそれを赤の制服へと変えた。

「ミーア、とりあえず君は戻るんだ」 アスランは相手をまともに見ないようにしながら言った。もし今この時にも『魅了』が適用されたままであったなら、自分がこの女に何をしていたか、想像するのも恐ろしい。「俺には仕事があるんだから」

「あ、あのねアスランッ」 ミーアはベッドに座り込んだまま言った。「あたし、今日はオフなの。開戦からこっち、やっと今日一日だけお休みがもらえたのよ! だからあたし、今日はアスランと一緒に過ごしたくて…」

 それはつまり、アスランに今日の仕事を蹴ってほしいということだろうか。

 そもそも彼女の態度は、相手の男が昨夜までとはまったく違う『人格』に『戻って』いることに気付いていないように見える。……いや、アスランがプラントへ戻って以降──むしろ彼がプラントを出る以前から今に至るまで、彼に対する言動がまったく変わっていないところを見るに、何の疑いも変化も感じてはいないに違いない。

 それはどんな言葉でも態度でもアスランの一部だからと受け止めているのもあるだろうが、彼女がアスラン・ザラという存在を前にして、その外側しか見ていない証拠でもあった。

 いくら評議会の……ロード・ジブリールの小汚い口車に乗せられていたとしても、ここまで事態を把握できていないのは、『ラクス・クライン』として手抜かりも甚だしい。もともとはラクスが傷を癒して目覚めるまでの半年間を乗り切るために用意された、デュランダルの指導を受けることが前提となっていた身代わりだ。わずか数ヶ月でそこまで順応しろというのも酷な話かもしれないが──。

「……すまない、ミーア」 そう思えば、彼女の無邪気さを無下に叱りつけるのも可哀想だ。アスランは何とか自分を落ち着かせることに成功し、改めて言った。「せっかくだが、今日は俺も大事な用がある。また連絡するから、それまで……」

 ピピピピ……どこからか電子音が聞こえたと思ったら、ベッドサイドに置いたままになっていた彼の携帯電話だった。アスランがなかなか起きて来ないものだから、部下たちが心配したのかもしれない。見てみると登録のない番号からだった。

「──アスランだ」 とりあえず出て、名乗る。

『あ、通じた』 向こうから聞こえたのはディアッカの声だった。『もしもーし、アスラン。ひっさしぶりぃ』

 緊張感も何もあったものではない。アスランは相手を確認することも忘れて、アホのように口を開けたままぽかんとしてしまった。

『姫さんがそろそろだって言ってたから電話してみたんだけど』 ディアッカは言った。『おまえ、黒鳥の姫さんの支配は解けてるよな?』

 聞き慣れない単語がポンと出てきたが、彼が『姫』という言葉で、しかも『黒』というキーワードを出してきたならカナードのことで間違いないだろう。

「もちろんだ」 アスランは言った。「というか、解けてなくてもこういう返事をしたと思うんだが、その時はどうする気だったんだおまえっ。こんな不用心に電話なんかかけてきて、どういうつもりで──」

『ご心配なく、電話ならとっくに切ってるよ。今はテレパシー通信』

「えっ?」

 まさか、と思って電話を確認してみると、開始から一秒でとっくに通話は切れていた。さすがはテレパシー通信において右に出る者はキラくらいしかいないディアッカである、電話での会話とまったく区別がつかなかった。

 だが、傍で窺うように様子を見ているミーアに下手なことを知らせるわけにはいかない。アスランは電話を耳元に戻し、通話しているふりをして続けた。

「俺とおまえがこうして話せているということは…」

『ああ』 ディアッカは力強く答えた。『おそらくだけど、黒鳥の姫さんのジャミングも解けてるはずだ。けどいつ復活するか判らないし、とにかく俺らはこのあと、ヴェステンフルス隊長に連絡を取ってみるつもりでいる。──アスラン、ちょっと受信の感度上げて』

「ああ…?」

 向こうが容量の大きな情報を送ろうとしていることを感知して、アスランはコンピュータのドライブを拡張するイメージで自分の波長を調整する。と、頭の中にいくつもの映像や声や音がフラッシュした。それは、ここしばらく普通の人間に過ぎなかった彼には少しばかり慣れの戻らない感覚だ。くらりと眩暈がするのを、片手で頭を抱えて何とかやり過ごす。

 『デストロイ』となったステラが討たれたことを、ディアッカが、もう何日も前にオーブからプラントへと『休暇明け』で戻ってきていたことを、そこにレイ・ザ・バレルが同行していることを彼は知った。そしてこの行動の意味が、デュランダルの奪還を目指すものであることも。

 ──何よりキラが、『過労』と思しき症状を呈して倒れていたことも。

「キラは大丈夫なのか…?」 今は彼と繋がっていないから、その状態も判らなければゼロ距離通信ですらできないアスランは、心底の不安を押し隠して言った。

 自分が悪いことは解っているが、カナードが現れたのも唐突なことだった。解ってくれと言うつもりはなかったけれど、絶好のチャンスは最悪のタイミングでやってくるというやつで、今を逃せば二度と、自分という『味方の駒』を『敵陣営』のど真ん中に送り込むチャンスはなかったのだ。

『姫さんのことは心配すんな』 ディアッカは言った。『それより極秘情報なんだけど、地球でラクス嬢が目を覚ましたらしいぜ』

「ラクスがっ? 本当なのかっ」

 思わず声のトーンが跳ね上がる。背後でその名を聞き付けたミーアがエッと驚いた顔をしているのに気付かず、アスランは相手の言葉を真実だと受け止められるまでの数秒で泣いてしまいそうになった。

『ああ。今朝方アークエンジェルに合流したってさ。「ターミナル」からのハナシじゃ、お怪我の経過も良好らしいぜ。さっそくモルゲンレーテの社員サンたちにお茶を振る舞って回ってたとか』

 共に戦い、共に暮らした同志とも言える彼女の覚醒はこれ以上ないほど喜ばしい。マルキオの修道院での昼下がり、アスランとカガリが訪ねた陽の当たるテラスで、先にクッキーをつまんでいたキラと一緒に出迎えてくれたあの柔らかな笑顔が手に取れるほど鮮明に浮かんだ。

 目覚めた。ラクスが、目を覚ました──。

『アスラン。あとはマジで議長だけだぜ』

「……わかった」 アスランは答えた。「各人、波長が繋がったならそのままの状態を維持してくれ。ハイネと繋がり次第、俺にも回してほしい。おまえのチカラが頼みだ、任せるぞ」

「あ、アス、ラン」

 と、横からくいと袖を引っ張る手に気付いてみると、傍にミーアが来ていた。彼女はタチの悪い夢でも見せられたようにどこか怯えた表情で、アスランを見上げている。

「…ミーア」 テレパシーを一時ミュートにし、アスランは彼女に向き直った。「地球で、ラクスが目を覚ましたらしい」

「え──」 彼女の目が、ぎくりとしたように揺れる。「で、でも、予定よりずっと早いじゃない? 何かの間違いじゃ…」

「君はまだチカラが発現していないから解らないかもしれないが、キラの進化に因るものだろう。彼女の『エターナル』の出力も、俺たちのチカラと同じように強まっていたんだ」

「そ、それじゃあ…?」

「ああ。こんな茶番はもう終わりだ。議長を奪還し、間もなく宇宙へ上がってくるアークエンジェルやミネルバと合流する」

「ま、待ってよ!」 うそでしょ、と彼女は両手でアスランの腕を掴んだ。「あのひとたちは、超能力で世界中を混乱させようとしたテロリストなのよっ? アスランは騙されてるのよ、あのひとたちに利用されてるだけ…!」

「利用されているのは君のほうだ、ミーア!」

 アスランが強く放った言葉に女が怯む。

「ここまでこんなに近くで見ていて、解らないのかっ。今プラントの評議会を支配しているのは、ブルーコスモスの盟主なんだぞ! ナチュラルとコーディネイターの融和を真に望む人間が、そのトップで戦争の先導なんかするもんかっ! 評議会も、君も、ヤツのいいように使われているだけなんだっ」

「そっ、そんなことないっ」 ミーアは必死にかぶりを振った。「あのひとはプラントにたくさん貢献してくれたもんっ、あたしのコンサートだって支援してくれたし、そのおかげであたしはやっと、プラントのみんなのために役に立てるようになったんだからっ」

 何かおかしい。アスランは彼女と言い争いながら、その奇妙な違和感を徐々に強めていった。

 どんな視点をもっとしたところで、そしていくら本人が『無関係』を謳ったところで、実際にファントムペインという組織を率いていた過去がある以上、ジブリールを一概に信用してしまうのが危険であることくらい誰にだって解ることだ。評議会の者らはカナードの『魅了』を薄く受けていた可能性があるけれど、ミーアは違う。まだ覚醒していないとはいえ潜在的にキラの血を保有している彼女は、チカラによる自身への作用に対して免疫を持っている。精神操作もなく、そうも簡単に口車に乗せられてしまうはずがない。

 何かある。彼女には、こうまでしてジブリールを信じなければ……否、信じていたい理由があるのだ。

「それに、そのラクス様だってアークエンジェルと関係があるんでしょ!」 ミーアは尚も言った。「だったらみんなテロリストってことじゃない、プラントへ戻って来て、それでどうするの? 今の評議会が間違ってるからって、やっと治まった連合との戦争をまた繰り返させるつもりなのっ?」

「彼女は、そんなバカな真似はしないっ!」

 その怒声があまりにも激しかったから、ミーアは息をのんでびくりと肩口を震わせた。

 アスランも震えていた。ずっと、長いこと堪えていた感情は今の一声で堰を切った。握り締めた拳はそのままに、彼は叫ぶ。

「ラクスが望むのは、ナチュラルとコーディネイターの調和なんだっ! 融和も、平和も、そこから生まれてるものだと、俺たちもそう信じているっ。だからこそ超能力を使って天秤を崩す者を退けなきゃいけない、これはそのための戦いなんだ! 『力』を持ってしまった者が成さなきゃならない責任なんだっ」

「そ、そんなの…」 ミーアはまだ何か呟くように言っている。「そんなの違う…っ、今だってプラントは充分平和だわ、みんな笑ってる。みんな楽しそうにしてる。今は少し苦しくても、それを乗り越えて行くために…」

「そのために君は歌うのか、ミーア・キャンベル。プラントが今でも充分平和だなんて、君は本気でそう言っているのか」

 男の目は極めて厳しかった。鋭利な殺気が宿っていると言ってもいい。きっとここにシンが居たなら、あの少年はこの男のことを今よりもっと見直しただろうが、残念ながらここに居るのは怯えた目をした、ラクスの姿をした女だけだ。

「あたしはラクスよっ」 ミーアは言った。「プラントのみんながそう呼んでくれるわっ。手を振ってくれるし、贈り物だってたくさんくれるっ……あたしの歌を、みんな喜んで聴いてくれるもんっ!」

 コンサートのチケットは完売だった。彼女が紹介したお気に入りの小物類は、同世代の女たちが次々と購入してすぐに品切れになった。インタビューで彼女がちょっと冗談を言うと、みんな微笑ましそうに答えてくれた。彼女が笑えば誰もが笑ってくれた、言葉を放てば声援が応えた。

 それは全部、ミーアが経験してきたものだ。今更ラクスが戻ってきたところで、誰も彼女の声など聞かないに決まっている。だって今のプラントを作り上げたのは自分なのだ。市民にとっての『ラクス・クライン』は、ここにいる自分ただひとり──。

「アスラン…お願いよ、よく考えて」 いつの間にか彼女は泣いていた。「ふたりで一緒に、プラントを導いていきましょう…? ザフトの人たちだって、みんなあたしたちを待ってくれてるわ」

「……ミーア」

「お願い、ラクスって呼んでっ!」

「ラクスの歌は、鎮魂歌なんだよ。……君のそれのように、戦場へ発つ者を送り出すためのものじゃない」

 それは刃も同然の言葉だった。まるで心臓を貫かれたように、大きく見開いた青い瞳の奥から、悲しみと絶望の叫びが響いてくる。彼女は声もなくその場に膝をつき、崩れた。

 ミーアは悪い夢を見せられていたのだ。政治も、戦争も、それに関わる者らの思惑も知らぬまま、ラクス・クラインという存在を都合よく利用せんと目論いだ者たちに祀り上げられた被害者だ。彼女を先導するはずであったデュランダルが『戦犯』扱いとなったことで、彼女が、彼から教えられたあらゆる知識や作法を信用しなくなったのも悪い方向へ拍車をかけた。

 結局ミーアは、ジブリールがプラントを操るための駒にされたに過ぎなかったのだ。けれどそれを、今この場で彼女自身が理解するにも無理があり過ぎる。第一、このアスランからの『手のひら返し』ですら、彼女はまともに受け止めきれていない。

「行こう、ミーア」 だからこそ、アスランはそれでも彼女を置き去りにしようとはしなかった。「この戦いが終われば君もわかる。この戦争のウラに居るのが、とんでもないバカばかりだということが──」

 ぐっ、と引いた腕に強い抵抗があった。

「ミーア──」

「……て」 ミーアはぽつりと言った。震える声が言葉にならなかった次の瞬間、彼女はこれでもかというほど大きな声で叫んだ。「誰か来てえっ! ここにテロリストの残党が居ますーっ!」

 およそ想像だにしなかった言葉だ。ハッと我にかえったアスランはミーアの手を引くことを諦めると、電光石火の速さで開いたままになっていた窓から外へと飛び出していった。同時に『ラクス』のSPたちが、守備隊のメンバーと合わせて部屋へ駆け込んで来て、物々しい銃を手に窓辺へ駆け寄っていく。

「ラクス様、ご無事で!」

 SPのひとりが膝をつき、泣きじゃくっているミーアに上着をかけ、そっと労わった。

「アスランが…っ」 ミーアはやっとのことで言った。「アスランは、デュランダル議長を救出するって…そのためにプラントに戻ってきたんだって…っ。アークエンジェルのテロリストたちの、仲間だったんです…」

 その『証言』を聞いた彼らは、手にした通信機で口々に各所へ通達し始めた。

「アスラン・ザラに、デュランダル派へ関与の疑いあり。被疑者はデュランダル前議長の救出を目的としている模様、アプリリウスタワーを封鎖しろ、逃亡を許すな!」

 ミーアは遠く、遠くその声を聞きながら泣いた。ひたすらに泣いた。

 あなたさえ居てくれたら、あたしはそれだけでよかったのに──。

 彼女をここまで泣かせているのは、ただただ、愛しいアスランからの手酷い『裏切り』なのだった。







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