FATAL ASK 33.仮初
「……ぅ、うぅ…っ」
夜が更けて闇が深まると、その部屋には苦しげな呻きが上がった。
整わない呼吸は時に早く、時に深く繰り返される。そこが痛むかのように胸元をぐっと握りしめ、個室の寝床でのたうつのはキラだった。
「ぐ、…ううぅっ」
丸めた背がびくりと震えるのに合わせて、そこで青白い光の翅が明滅する。それだけならまだしも、特に肉体に近い根もとのほうでは、その色は墨が滲んだように黒ずんでいる。
それは、アスランが──否、『絆』を持つ先天マイノリティが傍に居ないことによる『闇』の氾濫。
これまで、アスランと二人でひとつのものとして分かち合っていたチカラが、彼という行き場を失ってキラの中で渦を巻いているのだ。ただでさえキラは『境界』を解き放って飛躍的な進化を行なったばかりだったというのに、あまりに間が悪かった。
更にプラントから発せられた偽りの情報によって、世界の憎しみは『戦犯』デュランダルへ──その『手先』であるミネルバとアークエンジェルへ集中しつつある。キラは、そこに所属する自分もまたその対象となっていることを強く認識し、またその強烈かつ莫大な悪意に触発された『闇』の鼓動を抑え切れず倒れた。
関係者の誰もが、キラはここしばらくの無茶が祟って倒れたのだと思っていて、彼を労わろうとしてくれる。しかし、そうではなかった。むしろその逆で、キラは強まり続けるチカラをどうすることもできなくて、今にも『闇』に身体を突き破られそうな苦痛と危機感に苛まれてロクに口を利くこともできなくなっていたのだ。
「……ァ、スラ、ン…」
助けて──。幼い子供のような、その必死の発信に応えるように、傍に気配が現れた。コツリと近付く足音を聞き付けたキラが、涙すら浮かぶ目を開く。
「キラ」
呼びかけてくる声はアスランのものではなかった。でも、そっと差し伸べられた手が背に触れ、なだめるように撫でていく。キラはそのとき、相手が触れたそこから自分の『闇』が向こうへ流れ込んでいくのを感じた。わずかに呼吸がラクになり、痛みが和らぐ。
こんなマネ、普通のマイノリティにできはしない。それは、アスラン以外でキラの傍に居る、唯一の先天マイノリティ──。
「シ、ン…?」
「すみません、来るの遅れて」 シンは申し訳なさそうに言った。「キラが倒れたって聞いてまさかと思ったんですけど、やっぱりですね」
「だめ…」 キラは身じろぎした。「きみのチカラが、また…強く……」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ、いまあんたを助けられるのは、おれしか居ないんだからっ」
『闇』と『絆』を結ぶ方法は至極簡単、肉体関係を持つことだ。そしていつかもアスランが言ったように、シンも一度はその契りを結んだことがある。彼はそれと同時に、おぼろげな…かつ過去の忌まわしい記憶の中で、『自分』が先天マイノリティに発生する『優先順位』の法則を語ったことを思い出したのだ。
『闇』の支配格になれる先天種は常にひとり。けれど、もしその資格者が権利を放棄した場合、それが自動的に他の先天種に移行するのだと。
アスランに何が起こっているのかは知れない。だが今、こうしてキラとの『絆』が絶たれてしまっているこの現状は、かつて幼い日に、アスランがコペルニクスからプラントへ帰ったことで一度絶たれた時と同じで、アスランから『その意思』が消えている事実に他ならない。
そうなれば、いまその資格を持っているのは──。
「悪いけどおれ、離れませんから」 赤を脱ぎ捨て、キラに覆い被さるようにしてシンは言った。「このままあんたから『闇』が溢れて、モルゲンレーテどころか、オーブが超能力者国家になるよりはずっとマシだと思ってください」
「シン…」
キラはイヤダともヤメロとも言わなかった。シンの言ったことが少々リアルな想像になってしまったか、肩口を掴まれるまま抵抗なく仰向けになり、ただ苦しそうに息をしているだけだ。
そんな彼の目もとにかかった髪を払い、口付けをする。手を繋ぎ合わせたところから、唇を重ねたところから、キラの『闇』が自分に滲み込んでくるのが判る。体内に古い電池があったとして、それを急速に充電されていくような、途方もない充足感が満ちて広がる危うい感覚だ。
愛している、と言えば少し違うと言わざるを得ないけれど、シンだってキラに想いを寄せている自分を自覚している。以前の戦いが終わってから彼はずっとキラの傍でキラと一緒に生活してきたのに、互いの『闇』が強まるどころかどんどん弱体化していっていたのが好い証拠だ。
甘えれば抱き留めてくれるキラが好きだ。名前を呼べば名前を返してくれるキラが好きだ。目が合えば笑いかけてくれて、シンがデートの口実欲しさに、ショップモールで新作の菓子が発売されたと聞かせれば無邪気に目を輝かせたキラが好きだった。
そんなキラに無理強いだけはしたくない。けれどアスランの存在を感じなくなって、こうしてキラに身を寄せるほど、心の端から蟲のように暗い感情が這い出して来る。
このまま抱いてしまえ。こいつはおれのものだ、おれが支配していい、おれが好きにしていいんだから──。
まさに目の前にいるキラが『手に入』らんとしている今、その囁きは途方もなく甘い。もしキラを前にした時、アスランもこれとまったく同じものを日頃から聞いているのだとしたら、あの男はどれだけ鋼の神経をしているんだと疑いたくなってくる。
……いや、誰が見ても判るほどキラに好意を寄せているシンやイザークを物ともしていないあの態度を見るに、アスランはひょっとしたら、この『闇の囁き』を『当たり前』のように感じているのかもしれない。聞き慣れているなんてレベルではなく、自分の思考と完全に同一化している可能性すら。
あいつの『余裕』はここから来てるのか、もしかして──。シンは無性にアスランを殴りたくなってきた。が、残念ながら彼はここにいない。
本能に根ざす原始的な感情──すなわち恐怖によってキラを服従させろと、それが自分たちには一番好い関係なのだと訴えかけてくる『闇の囁き』を改めて目の当たりにした今この時、それでもシンの心は比較的凪いでいた。暴力的な衝動が込み上げてくるのは、キラがアスランのものだということをシン自身が誰よりもよく理解しているからで、そこから来る些細な嫉妬が先天種の独占欲によって誇張されているせいに過ぎないのだと意識できているからだ。
キラのことは好きだ。でも、おれが望んでるのはこんな関係じゃない──。
「シン…」 キラは言った。「ごめん……こんなこと…させて」
「謝らなくて、いいですよ」
あんたは不思議なひとだ。おれの考えてることを、おれがいつの間にか望んでいたことを、おれも知らないうちにちゃんと知ってる──。
「おれはチカラを預かるだけです。あんたは余計なこと考えないで、アスランを取り返すことだけ考えててください」 撫でようとしてくれたのか、伸ばされた震える手を取って頬を寄せ、シンは言った。「議長が帰って来たら、今よりもっと忙しくなるんですから」
「うん……ありが、とう…」
頬に当てていた手が離れたかと思えば、シンはキラの両腕に抱きしめられていた。ぴたりと合わさる胸の間が境を失い、互いの身体が融け合うような錯覚に見舞われる。
熱く、甘く、高まる鼓動がひとつになって満ちていく──。
いや、これはきっと錯覚ではなくて、『闇』と『先天種』とが交わる時の、独特の感覚なのだろう。もしこれが行為のたびに、常に発生しているものだとしたら、キラもアスランもよく自制できているものだと心から感心する。何も知らないままこんなものを感じさせられたら、自分ならクセになってしまうところだ。
「キラ…ッ」
自我を塗り潰す原始の短絡的な意識──感情に流されたくなくて、シンはキラにすがった。愛しい人に救いを求めるのでなく、まるで親に助けを乞うように。
「シン──」
キラの腕は応えた。シンの背に回した手がぐっと爪を立て、現実の感覚を引き立たせることで彼の意識を繋ぎ止めてくれる。
血が滲むほどの傷になったはずなのに、シンはそれを苦痛とは思わなかった。
こんなに優しい傷を刻まれたのは、初めてだったから。
「それでね、こないだ雑誌のインタビューがあって、その時に着て行った服がデザイナーさんの目に留まったみたいでねっ? 限定モデルで販売してみませんかって言ってくれたのよ! もうあたし、信じられなくて!」
キャンドルライトに照らし出された展望レストランの特等席で、目の前に座ったミーアが楽しそうに喋っているのを、向かい合ったアスランはうんうんと相槌を打ちながら聞いていた。
客は他にもいくらか入っていて、誰もお上品な紳士淑女ばかりだ。ふかふかのカーペットが敷き詰められ、クリスタルのシャンデリアが仄かな光でフロア全体をオレンジ色に浮き立たせ、窓の外にはアプリリウス市の素晴らしい夜景が広がっている。
ここへやってきたときのミーアの喜びようといったらなかった。スタッフの案内など何のその、幼い少女のように席へ駆けて行き、早く早くとアスランを手招きしたりなどして。
「プラント市民の皆さんと、もっと近い距離で交流してみたくて、ブログも書き始めたのよ」 ミーアは言った。「毎日更新するのが目標だったんだけど、いろんな局からのオファーが多くて……あ、でもねっ? 写真つけてアップしたら、みんなスゴク褒めてくれるのっ。お気に入りのアロマを紹介したら、すぐ品切れになっちゃったりもして──」
「ラクス。ちょっと落ち着いたらどうだ?」
と、アスランがそっと呼びかけると、彼女はハッと我にかえったように口元を押さえた。
「ご、ごめんなさい、あたしばっかり喋ってるよね……でも、久しぶりにアスランに会えたし、こんなふうに一緒にディナーなんて、夢みたいで」
「こんなの当たり前だろ、俺たちは婚約者なんだから」
ミーアは淡く頬を染め、隠し切れない感激を甘い溜息に変えて吐き出した。スタッフが細いグラスに注いでいった発泡水の香りも、あとから運ばれてきた料理の味も、もしかしたら今は何も判らないかもしれない。そのくらい、彼女のすべての注意は今、アスランに向いてやまない。
アスランはグラスを持ち上げると、それを相手に向けて言った。
「プラントツアー、お疲れさま」
「あ、アスランこそ、おつとめご苦労さまっ」
慌ててミーアもグラスを手に取ると、相手から差し出されたそれにごく軽く当てる。チン、と響く、小さく高い音。ミーアにはそれが天上のベルのように聞こえた。
アスランはアプリリウス市守備隊の隊長として改めての任命を受けており、本当ならばこうして恋人と食事に来られるような暇はない。だがこうしてそれがまかり通っているのはひとえに『ラクスの婚約者』であるおかげで、彼女と会うためにならどんなスケジュールも白紙にすることを黙認されていた。
そしてミーアも同じだ。アスランと会う予定が入ったと言えば、どこの放送局も出版社も黙ってしまう。さすがに放送に穴をあけるわけにはいかないというミーアの意思で、そこまでのわがままを通してはいないけれど。
これが許されているのは、この二人の行動いちいちが、プラントの士気そのものに関わっているからだ。
戦神が如く民を導く歌姫と、その祝福を一身に受けた王子様。インタビューはたびたびアスランにまで及び、市民たちは有難がって言葉に耳を傾け、姿を眩しく見上げる。連合から放たれた無数の核からプラントを守り、先の大戦を終結に至らしめた彼らの力は、プラントのものである限り、市民にとっては神の威光にも等しかった。
ジブリールの策略なのか、それとも、デュランダルという、様々な意味での最高の指導者を失った評議会が打ち出した苦肉の政策なのかは判らない。だがこれでは、まるで自分たちがこのプラントという国の『王族』のようで、それを当然のように受け止めている市民たちが薄気味悪くさえ見えてしまう。
コーディネイターの出現から、『命は神のみぞ創りしもの』という絶対の概念が崩壊し、世界は『宗教』という拠り所を失った。特にコーディネイターたちは自らの科学力で同胞を造り出す術すらも持っていただけに、自分たちこそを神にも代わる新たな種であると考える者が多かったことは、かつてそう唱えたアスランの父パトリック・ザラが投票による後押しを得て議長に就任したことからも証明されている。
だが、どんなに優れた技術をもってしたところで、それでもヒトはヒトなのだ。ヒトは、己が信じるものと、守るべきものがなければ──『心』を支えられるものがなければ、生きていくことができない。
だから祀り上げるのだろう、自分たちの中でも特別に秀でた『力』と『思想』を。
ただし中には、戦後、アスランにオーブへの亡命を強く勧めてきたとある議員のように、そうした考え方が根強くなっていくことを好まぬ者もいて、三人いれば三人ともが違う価値観を呈することも少なくはない。
こんなことをプラントで声に出せば即刻火あぶりにされそうだが、コーディネイターという種は、誕生して未だ百年にも満たない──長い人類の歴史をかえりみれば、本当に生まれて間もない赤子に過ぎない存在だ。経験を持たず、知識を持たず、まさに前世紀の人類がそうであったように、遺伝子欠陥によって真っ当に生きることもままならない状態だと言ってもいいのだ。
それでもコーディネイターは自己を優れた新種であるとし、ナチュラルは自分たちを卑下し続ける。
優劣など関係なく、すべてがただの人間なのだと言ってしまえたら……そしてそれを誰もが受け入れてくれたなら、誰も苦労はしてしない。
キラがコーディネイターの完全体であることを暴露するというカナードの言葉が本当なら、それを知らされたプラント市民は彼を何と称するだろう。アスランやラクスですらこの扱いなのだ、どういう状態になるかはおよそ想像がつく。地球圏の対応だって、だいたいは。
そしてナチュラルの憎悪と、コーディネイターの羨望は集束する。かつてそれを一身に受けたことで、輝くばかりの絶大な『闇』をまとってしまった、キラ・ヤマトという存在へ。
……止めなければならない。しかしそう思っていても、世界は彼らに……アスランに、カナードの動向にのみ注意を向ける隙も与えてはくれない。
せめて、あなたが健在であったなら──。
「議長……」
「──アスラン?」
楽しそうにずっとお喋りに興じていたミーアが、ふとアスランが口にした言葉に不安そうな表情を見せる。
「やっぱり、心配…よね。デュランダル議長のこと」
「すまない、気にしないでくれ」 アスランは申し訳なさそうな笑みを見せ、言った。「君の前だっていうのに、つまらないことを言ってしまった」
「ううん、そんなことないわ」 ミーアは首を振って言った。「あたしも、議長にはとっても恩があるし…アスランだってそうでしょう? あのひとが今まであたしたちに見せてくれてた顔が全部、この開戦に向けた演技だったなんて、あたしもまだ、ちょっと信じられない」
「…俺もだよ。とても…残念だ」
評議会やジブリールは、ミーアにそういうふうに吹き込んでいたのか──。ほんの少し垣間見えた『実情』に目が据わりそうになるけれど、残念ながら肉体の自由はまったく利かない。
今のは、まさか──。まったくそう見えないが、実はアスランはかなり驚いていた。ぽつりとではあったけれど、『自分の言葉』が漏れるなんて今までになかったことだ。それは何もこの場にカナードが来ていないせいではないし、ミーアにそういったものを無効化するチカラが目覚めているせいでもないことに、彼はもう気付いている。
カナードの『加護』によって補われていた、アスランの肉体の損傷部分の『修復』が終わりかけているのだ。生命維持にのみ務める必要がなくなった彼のチカラが、本来の役割に戻ろうとしている。それはやがて彼の肉体を目に見えぬ幾重もの強靭な結界で彼を包み、精神をも防護するだろう。
ハイレベルの能力者に『魅了』は通じない。カナードのそれがアスランに通用しなくなるのももう間もなくだ。普通の人間と同じように夜が来れば『眠る』のも、ひょっとしたら今夜で最後になるかもしれない。
肩を落としているミーアに同意しながら窓の外を見やるアスランは、今でこそ表面的に切ない表情をしているけれど、本心では今にも笑い出してしまいそうなくらい高揚していた。
今に見ていろと考えているのではない。チカラが戻り次第、すぐに攻撃を仕掛けようなどバカのすることだ。そもそもカナードはキラにも匹敵する能力者、アスランでは到底太刀打ちできない。
まずは探すのだ。……『目が合う者』を。
「──ラクス様」
すっと横から出てきたスーツ姿の男が、ミーアに近付いてそっと何か言葉をかけた。どうやら時間なのだろう。
「えーっ、もう帰らなきゃいけないの?」 ミーアは死ぬほど不服そうに言った。「せっかくアスランから誘ってもらえたのにぃ…」
「仕方がないさ」 席を立ちながら、アスランは少女を慰めるように言った。「明日だって、明後日だって、また会える。……そうだ、今度はプレゼントを用意しようか」
「ほんとっ?」 パンと手を合わせた女がみるみるうちに笑顔に輝く。「あたし、新しいイヤリングがほしいなって思ってたの! ピンと合わせた、星型のかわいいのがいいなあっ」
「わかった、君の期待に沿えるようにするよ」
「うれしいーっ! 約束よアスランッ、楽しみにしてるっ!」
タタッと小走りに駆け寄って胸に飛び込んでくる彼女を、アスランは柔らかく抱き留める。そのままミーアが目を閉じ、身を伸ばすのに合わせて彼も静かに顔を寄せた。待て、やめろ、と心で叫んだって無駄なことだ。さっきのような奇跡は二度も起きない。
二人は『ラクス』のボディーガードたちの目もはばからず、甘いキスをした。
「──おやすみ、ラクス」
アスランは温かな笑みで言った。情けない自負だが、普段の自分では絶対に有り得ない、始終相手をリードするこの言動に頭がどうにかなりそうだった。彼はキラにさえ、こんなことをして、こんなことを言ってやった経験はない。そもそも本物の婚約者同士でもないのにこんなことをして、取り返しがつかなくなったらどうしてくれるのか。
ただアスランから見て、あのカナードにそういう責任能力があるようにはとても見えなかった。
「おやすみなさい、アスラン…」
数秒間の夢から未だ覚めやらぬ様子で、ミーアは頬を紅潮させて言った。この調子では、今夜の彼女は眠れるまでに結構な時間を要するかもしれない。
ラクスの姿をした恋する娘がSPたちと共にしずしずと去って行くのを見送って、ひとりになった彼は半ば自動的に、自分にあてがわれた宿舎へと帰っていく。彼はミーアを見ていたから、それ以外に視線を外すことが絶対にできなかったから、まだ気付いていなかった。
数人のSPたちの中に、ずっと彼を窺うように見つめていた男が居たことに。
ジブリールは苛立っていた。
人に同意することしか知らない無能な評議会の連中と別れ、滞在中のホテルへと戻ってきた彼は早々にSPたちを追い払い、上階にあるスイートルームへと向かっていく。豪奢な両開きの扉も、小さな音量でさりげなく流れているクラシックも、足音を吸収するための柔らかなカーペットの感触も、今はすべてがどうでもいい。
「カナードッ」
バン、と音を立てて扉を開くと、そこはどこの城の一室だとツッコミが飛びそうな欧風の部屋だった。
誰が使うのか一切わからない用途不明のグランドピアノが置かれた奥の区画は、壁がそっくりそのまま大きな窓となっていて、一面のガラスが、美しい掘り細工の施された金の枠で柵のように区切られている。その向こうには、今でここそプラント市街の夜景が広がっているが、昼間であればそれは素晴らしい青空が見えたことだろう。赤い布地に金糸の刺繍が入ったカーテンがゆるやかな曲線を描いて垂れ下がっている様は優雅と言って差し支えない。
磨き上げられた石細工のテーブルと、色合わせのソファセットが置かれたそこは、いわばリビングルームである。ジブリールが帰ってくる時間に合わせてホテルマンが準備していた紅茶のセットが程よい湯気を立てていた。
いつもならそこでくつろぐところだが、今の彼はそんな気分ではない。
「カナード、どこにいるっ」
「──ここだ、騒がしいぞ」
声のした方向へジブリールが目をやると、黒い男はグランドピアノに寄り添うようにして、背後に広がる夜闇に紛れて立っていた。はじめからそこにいたのか、それともジブリールの呼ぶ声を聞き付けてテレポートしてきたのか、そこまではわからなかった。
「らしくもないな、何を騒いでいる」 窓から離れ、部屋の中央へ歩を進めながらカナードは言った。
「貴様、このところ顔を見なかったが、どこにいた」
「どこって」 そんなことを聞かれても困ると言わんばかりに、黒い男は肩を竦める。「そんなものはオレの自由だろう」
「ジブラルタルでの、アークエンジェルとミネルバ討伐はどうなった」
「逃げられたさ。キラ・ヤマトが二隻まとめて強制転移させてな」 そんなことをしなくても逃がしてやるつもりだったことなどおくびにも出さず、かと言ってその事実に悪びれたふうもなく彼は言う。「奴らの潜伏先は世界中どこにでもあるからな、どこへ行ったかは皆目見当もつかん」
「貴様が故意に逃がしたのではあるまいな?」
「何を言ってる。……というか、何を苛々している? 逃げられたとはいえ、すでに地球圏には発見次第撃墜との命令が出回っている。どこへ隠れていようと、連合とザフト両陣営で捜索しているんだ、程なく見つかるだろう」
「だが、奴らを逃がしてもうどのくらいになる? そんな悠長に構えている場合ではないだろうっ」 ジブリールは不満と不快感をあらわにして言った。「奴らが潜伏している可能性のある国や施設を徹底的にあたれ、特にオーブは故意に匿っているかもしれんのだぞっ」
「その必要があるのなら、おまえが評議会に進言すればいいだけのことだ。オレに言うべきことではない。表面上、オレはおまえの身辺警護を役目とする傭兵だ。発言権も指揮権もない」
「どうだかな? その割には、プラントの王子様とずいぶん二人きりの時間を楽しんでいるようじゃないか」
カナードはついうっかり黙り込んでしまった。
このところジブリールのもとに顔を出していなかったのは確かで、打って変わってアスランに会う機会が増えていたのも事実だ。
なんといってもアスランはカナードと『二人きり』の時にしか『自分』で居られないし、肉体の『本来の再生』に合わせて『魅了』の効果も薄らいできている。これまでは傍で適当な話をしながらその調整を行なっていたが、いよいよ効果が切れるのも時間の問題となってきた。
そうなれば、彼は今後はますます目を離すべきではない不穏分子へ生まれ変わろうとしているのに、チカラへの知識が無いせいでこの男はその危険性を理解していない。
それどころか自分より立場が上の先天マイノリティを前にして、同じ存在である本能に由来する強烈な『嫉妬』に支配されかかっている。『ジブリールの思惑』というレールの上では万事うまくいっているというのに機嫌が悪かったのは、単にミネルバとアークエンジェルを取り逃がしたことに因るものではなく、単純にカナードがアスランに目をかけて、その仲間である連中を故意に逃がしたのではないかという疑心暗鬼に囚われてのことだったのだ。
ここでカナードがそのアスランの今後について、能力者としてはケタ違いのトップクラスなのだから自分がより確実に管理を行なうなどと言い出せば、さらに難癖をつけてくるだろう。それが本当に必要なことであったとしても。
「どうした、反論せんのか」 ジブリールはいつになくきつい調子で言った。「普段の明晰ぶりが嘘のようだなカナード、本当のことを言い当てられて、言い訳も浮かばないか」
「…バカを言うな」 心底から呆れを含んで、カナードは言った。「予想だにしないことを言われれば、オレだってどう返していいものか迷うくらいはする」
「は、私が気付いていないとでも思ったかっ。ナチュラルごときに見抜かれはしないとタカをくくっていたようだな!」
「違う、そういうことを言っているのではないっ!」
綻びが生じようとしている──。
いくらカナードといえど、たったひとりですべてを管理することはできない。彼の見立てでは、キラですらミネルバとアークエンジェルという大質量を、同時に、かつ恐らくは同じ場所へ強制転移させたことで相当疲弊しているはずだった。その上『絆』の強いアスランが敵陣に落ちたともなれば、もともとさして強くもない彼が受けることになる精神的負担は計り知れず、シンが万一にも立ち直っていれば話は変わってくるが、彼らは今、ロクな行動ひとつ起こせない。
だからこそ今、アスランをしっかり抑え込んでおかねばならない。彼がこちらへ渡ってきたのはミーアの状態を見るためも無論あるが、その真意は自身のコントロールが戻った後、ハイネやイザークといったこちら側の仲間と結託してデュランダルを救出することにあるのだから。
どれほどマイノリティが力を合わせたところで誰一人カナードには敵うまいが、アスランには、誰よりも『攻撃』に特化したシンの全力すらガードしきってしまえる鉄壁の防御術がある。彼がそれを行使するような事態に待ち込ませてはいけない。あの男は自分の命を犠牲にしてでも仲間を行かせようとするに決まっている。その流れだけでも、何としても変えなくては──。
「近ごろ、少しばかり貴様を自由にさせすぎたようだな…!」
だというのに、ジブリールはロクに話も聞いてはくれない。双方の言葉の意図するところが噛み合っていないことなど考えもせず、主観だけで何もかも決め付けてしまうと、彼はカナードの腕を掴み取った。まるで飼い犬のリードでもそうするように乱暴に引き寄せると、その勢いで彼を振り回してテーブルの上へと組み伏せた。はずみでカップが音を立てて割れ、転げ落ちたポットが中身をぶちまけた。せっかく用意してもらったというのに台無しだ。
「放せっ、いい加減にしろジブリール!」
「いい加減にするのは貴様のほうだ、カナード! どちらが飼い主なのか、この際はっきりさせておかねばな!」
こうして腕を引っ掴まれるどころか、話が通じなかった時点で普通の相手ならもう殺している。けれどこいつはまだ生かしておかねばならず、その上、不用意に反撃を行なって信用を失う事態も避けねばならない。しかし冷静に戻ってもらおうにも、先天マイノリティの独占欲と支配欲に、ナチュラル特有の劣等感が拍車をかけていてもはや手の付けようがない。
どこまでオレに面倒をかけさせる気だ、このバカは──。
「オレはどこへも行きはしない、だから──」
「ならば証明してみせろっ」 ずいと顔を寄せ、ジブリールは焦りの見えた相手の反応を愉しむように言った。「今夜、ここで私のものとなることでな…!」
答える暇もなく、そのままキスで口を塞がれる。無理やり押し開くような、喰らい付かんばかりのそれはすぐにカナードの舌を捕らえ、根もとから絡みついてきた。
ざわりと全身が逆立つ感覚は、悪寒に近いがどちらかと言えば不快感から来る殺意とするのが正しい。いづれ関係を結ばねばならないのは計画上避けられないことだと思っていたが、彼にだって自律した思考があり、それゆえにこうした意味で自分を投げうつにはそれなりの覚悟が要る。
だがそれも決まらぬうちに、これほど自分の意思を度外視した暴力まがいの関係を迫られるとは想定外だ。アスランやシンといった『向こう』の先天マイノリティたちはああもキラの意思を尊重しているというのに、この男と来たら、まるで──。
そのとき、カナードの頭の中でバシッと何かが音を立てた。
まるで、アイツラト、オナジ──。
「あ…」
ようやく解放された唇から小さな声が漏れる。ジブリールに合っていたはずの焦点が揺らぎ、急速に色を失う。動揺からくる戦慄が喉を塞ぎ、呼吸が乱れる。男は急に大人しくなった相手を見て、やはり何か思い違いをしたのか満足げに笑みを浮かべると、改めて身を沈めてきた。
耳元と首を伝う、唇と舌の感触。
……何も、何も違わない。
同じだ。あの頃から、何も変わらない──。
「ジブリール様」
コン、コン、と控えめなノックの音と共に、ドアの外から誰かの声がした。悪い夢から覚めたようにカナードがハッと我にかえる一方で、ジブリールは捕らえた獲物の喉笛を押さえつけたまま、そちらへ目を向ける。
「なんだ」 彼は言った。
「『会議』のお時間です」 外の声が言った。「『皆様方』が、すでに『席』にてジブリール様をお待ちでございます」
ジブリールはわずかに沈黙を置いた。おそらくは『ロゴス』メンバーとの連絡会であろうが、それを蹴ってこの駄犬の躾に耽るべきか、それとも地球圏とも今後のことを打ち合わせておくべきかと考えているのは明白だ。
永遠のような、一瞬の間──。
カナードの首からするりと手が退いた。解放され、起き上がらんと身じろぎする彼から離れて扉へ向かいながら、ジブリールは言った。
「今日のところは許してやる、これに凝りたなら今後の行動には気を付けることだ。私だって、おまえの苦しむ顔は見たくないのでね……愛しているよ、カナード」
カナードの表情が一変した一瞬、コーディネイター根絶の悲願が成就する以上の悦びに満たされた奴が何を言い出すのかと思えば、絡みつく言葉は到底『愛』には程遠い。もとより相手の返事など聞くつもりはなかったのだろう、男は機嫌よさげに部屋を出ると、付き人の案内で廊下へと消えていった。
この部屋はしっかりとした防音設備が成されているから、ジブリールの足音は扉が閉まるなりすぐに聞こえなくなる。取り残されたカナードは、ややあってようやく身を起こすと、乱れてしまった黒髪の隙間から自分の手を覗き見た。
震えている。握り締めたままのそれはほぼ硬直していて、指をこじ開けでもしない限り動いてくれそうもない。
「……チッ」
バシーン、と室内でものすごい破裂音がした。窓に使われているガラスが一部、弾け飛んでいる。金素材の枠はひしゃげて折れ曲がり、捻じれている部分もある。人間の手では、一瞬でこうはできない。
バン、と続いた音は飾り暖炉の上の花瓶だ。そればかりか暖炉そのものにも大きな亀裂が走り、組み上げられた石の一部は粉になってしまっている。そうかと思えばソファの上のクッションが突然破裂して白い羽毛が舞い散り、カップと違って難を逃れていたはずのティーポットが踏み砕かれたように砕け散る。
「く……っ、う」
ガリッと音がするほど奥歯を噛んだカナードの表情に苦悶の色が浮かぶ。その間も部屋の至るところで破壊の音は止まらない。頭が痛い、耳鳴りがする。
「やめろ、とまれっ」 誰にともなく命じるように声を絞るが、おさまらない。
『攻撃』の意思が、抑えられない。
手が震えているのは恐怖のせいではなかった。そんな感情、彼はとっくに忘れて久しい。
もう少しで殺してしまうところだったのだ、ジブリールを。不快極まりないその手を吹っ飛ばし、聞くに堪えない声を発する喉を破り、その顔の内側で頭蓋を粉々に打ち砕いてもまだ足りぬ怒りと憎しみが、制御を取り戻さんとする理性を焼き切ろうとする。
ろくに呼吸を整えることもままならないカナードは、それでも何とか立ち上がると転移していった。
残された時間は、思った以上に少なかったのだと思い知って。
NEXT.....(2017/09/07)