FATAL ASK 12.断罪
君は僕に会いに来た。
もしかして『ここ』でなら、殺されてすらいいと思っていたの──?
今までの『それ』はとても恐ろしいものだった。
ほとんど記憶も無い、そして得体も知れない悪夢を思い出そうとしてしまったように、『それ』のことを考えると頭がおかしくなりそうな恐怖に見舞われた。その言葉を聞くと気分が悪くなった。言葉から連想される『存在』の姿かたちを何とか思い出そうとすればするほど、おぼろげだったイメージは崩れてぼやけて広がって、捉えられないその輪郭が意味もなくおぞましいナニカに変わっていく。
人ではないもの、獣でもないもの、そしてもう、見たこともない奇怪なバケモノのような姿へと、自分の意思とは関係なく変化するのだ。
それは半分以上睡眠状態に陥っているときに見る夢の片鱗に似ていた。だがどんなに目を逸らしても考えないようにしても、そして逃げ出してみたところで消えてはくれない最悪の悪夢だった。
そう、ほんの、一週間前までは。
今のアウルはもう、その言葉を聞いても恐ろしさを感じることはない。彼は『その言葉』によって頭に湧き出るイメージを、自分の意思できちんとした形に組み立てることができるようになっている。
一週間前、ミネルバで『彼』を見たとき、アウルはすぐに『彼』が『それ』なのだと直感したのだ。
ボクが今まで描きたくて描けなかったもの、ボクが考えようとしてできなかったもの、それはあのひとのことだったんだ──。
何故そう思ってしまったのか。何故たったひとめでそんなイメージに囚われたのか。それは恐らく『彼』が、アウルの──いや、アウルたちの超能力の根源であったからだろう。ラボの者に相談などできるはずもなかったから誰かに聞いたわけではなかったが、そう考えるのが何より自然で、そしてアウル自身にも納得のいくものだった。
仲間のステラやスティングには違う影響が出たようだったから、おそらく『彼』から与えられるイメージは人によってさまざまらしい──彼が理解したのはそこまでだったが、それだけで十分だった。
そして彼は、彼を縛るすべてから開放された。『禁断の言葉』は当然、『クリーニング』による記憶の消去、それに伴うマインドコントロールの一切を受け付けなくなったのだ。
だがアウルたちに『クリーニング』を施す『寝台』の機器は、いつでもその作業に対し成功と終了を示す。だから研究者たちはアウルの記憶が残り続けていることを知らないし、アウルが意図して隠し続けたせいもあって疑いもしない。
特に大きな作戦がない日でも、彼らは毎日それを受けねばならなかった。朝はそこで目覚め、夜はそこで意識を閉じる。そしてまた朝になって、夜までを兵器として過ごす。記憶が消えるから、毎日そこに入ることとそこで目覚めることに何の疑問もなかったし、マインドコントロールによってそこに入るのが当たり前で、それが安らぎだと思わされていたから当然のように受け止めていたが、気が付いてみると何のことはない、まさに工場に置かれたコンベア機械のような単調な毎日。
ナニコレ、毎日毎日ずーっとおんなじことの繰り返し。オレ、ずっとこんなつまんないこと続けてきてたんだ──。
『生きた戦闘兵器』をコンセプトに、好き放題改造されて造り出されたはずのアウルは、こんなことを考えるようになった時点で『それ』としての存在意義を完全に失ってしまっていた。
彼はそんな中の一週間を、仲間たちと共に、ミネルバから奪い取ってきたMSの中で過ごした。彼らの精神とMSのCPUを独特の方法で直結することで能力使用に対するイメージを固定化させ、超能力に新たな『制御』を与えるために。超能力に対し入念すぎる調査を行なっていたアウルたちの上層は、MSの兵器使用に関するプログラムから、新たな能力開発のインスパイアを得ようとしていたのだ。
かくしてその試みは成功した。彼らは今、かつてキラたちが『命令文』と呼んだ特殊な詠唱を必要とする高位能力の行使ができるようになっている。兵器というものはどこまでも便利なものだった。自分の腕から、あるいは掌からミサイルやビーム砲を撃ち出すイメージを、いとも簡単にまとめてくれるのだから。
だがすでに自我に目覚めているアウルが、自らの所属する『組織』に『利用価値』を見出せたのはそこまでだった。
新しい能力を獲得すれば、上層はそれを更に伸ばそうとして彼らを戦闘に放り出す。あるいはそれらを利用した、もっと難易度の高い任務を喜んで押し付けにくるだろう。それまでは何の疑問もなくそれをこなし、何の余地もなくそれを役目と脳に刻まれていたが、今の彼にそれを受ける理由はない。
他の二人にゃ悪いけど、ボク、イチヌケ。新しいチカラも授かったことだし、これ以上ココにいる理由、見つかんないんだよね──。
より強い超能力を持つ者に拘束されるならまだ話は判るが、権力やら武力やら、そんな現実的過ぎるものしか持たないただの人間に、人間以上の力を持つ自分が縛られるいわれはない、だからこれからは自分の好きなように行動する──あっさりそう決めた彼はさっさと短距離テレポートで母艦を離れ、ここアプリリウスへとやってきた。
もうちょっとであのひとに会える──アウルは目の前にそびえるタワーを見上げて胸を躍らせた。能力の気配すらもらさぬ強い結界に守られたそこからは、普通の人間の生活臭以外は何ひとつ感じない。
いま行くよ。ボクを生み出してくれたあなたのところに。
ね、かあさん──。
『侵入者は、連合の制服を着た青い髪の少年』──。アスランからのテレパシーを受けたとき、シンは侵入者が『アウル』だということを直感した。
いや、直感というよりは、もうそいつしかいないだろうという『感覚』に近いものだった。
ミネルバの格納庫で見たあの三人の姿は、忘れようにも忘れることができない。そして三人組の中でも、アウルは一番俊敏な動きと確実な攻撃、そして確かな理性を見せつけてくれた。攻撃の点ではステラのほうが遥かに高い精度を持っていたが、彼女に比べると、アウルは『どうすれば敵に上手く攻撃できるか』ということを考えることができる、『自分の意思』を持っていたのだ。
あのときのアウルには三人の中でかなり『特殊』な印象を受けたが、今は果たしてどうだろう──。シンはそんなことを考えながら、キラがいる部屋への道を走っている。
短距離テレポートはいつでも使用可能だったが、目標はテレポートを使わず自分の足でこのタワー内部を移動しており、これではこちらがテレポートを使うと見逃してしまう。普通ならここでタワー中の警備兵を総動員しなければならないところだが、追跡を行なう能力者──特にシンは、それを必要とはしなかった。
敵の目的がキラで、彼に向かって徒歩で移動しているのなら、キラの部屋に近付けばそれほどエンカウント率も高くなるってもんだろ──シンはそんな、かなり単純な考え方でアウルとの遭遇を目指すことにしたのだ。
キラの部屋が近付く。あとドア五つ、四つ、三つ──。
と、彼の進行方向にあるドアのひとつが開いて、ひょこりと何者かが顔を出した。
あろうことかそれはキラだった。タワーの中は勝手知ったる仲間ばかりだからか、背中の翼はむき出しになっている。シンもアスランも、あれを見るのは随分と慣れた。
「キラッ」 シンは叫んだ。「何やってんですかっ、出て来ちゃダメでしょっ」
「あ、うん…そうなんだけど」
キラは自分のすぐ前で足を止めたシンに、どうにも歯切れの悪い返事をした。その間も、彼の視線は忙しなくあちこちをさまよっている。何かを探すように。
なにかあるな、とシンは思った。キラの様子がおかしい。色んなものの『声』が聞ける『属性』だから、もともと挙動に不審なところが多々あったけれど、今はいつもより更に変だ。
「どうしたんですか」 シンは尋ねた。「今の状況、判らないわけじゃない、ですよね?」
「………水が、騒いでる」 キラは言った。「このタワーだけじゃない、タワーの周りでも……どうしたの、かな…?」
「水?」
「うん、水……」 キラは訝しげに言った。「──えっ、なに?」
急にキラがあらぬ方向を見た。シンもつられて顔を上げるが、そこには天井しかない。タワーの構造はかなりのハイテクノロジーが使われているが、一部の施設では天井近辺に排気ダクトや水道管などがチラホラと見える部分もある。キラが見ていたのは、まさにそんな『一部』の天井だった。
シンは大人しくキラが言葉の続きを発するのを待った。もしかしたらキラの言う『水』が、キラに何か危険を報せようとしているのかもしれない。アウルという侵入者があった今、そう考えるのが一番的確だ。
「どっち?」 キラはもどかしそうに言った。「なにが『こっち』なの?」
また沈黙がある。見えにくいものを見ようとするようにジッと天井の一点を見つめ、そしてふと何かに気付いたような顔をして、彼は自分の前に立っているシンを見た。
一瞬の油断をついた襲撃を予期して周囲を警戒していたシンは、視線に気付いて相手を見る。
「もしかしたら、なんだけど」
「なんですか」 何となくわいてくる嫌な予感を押し殺してシンは答える。
「この水たち……侵入者を…あの子を、ここへ呼んでるのかも」
「はあっ?」 あまりといえばあまりの展開にシンの表情が崩れた。
「ずっと、『こっち、こっち、ここにいるよ』って言ってるんだ。……僕の居場所のこと、言ってるのかな」
「言ってるのかな、って、だったら何ユーチョーに喋ってんだっ!」 シンはキレた。
「あ、ご、ごめん」 キラは場違いな苦笑いを浮かべた。「でも、大丈夫なんじゃないかな。だってあの子──」
カッ。廊下の先で靴の音がした。ハッと気付いたシンが音のした方向へ視線を投げると、そこにはほんの一週間前に姿を脳に刻んだばかりの敵、アウルの姿があった。
「見つけたぜ」 にや、とアウルが笑った。
「キラは離れてて」 シンはキラを手で自分の後ろへ追いやった。「あんたが能力を使ったらタワーが崩れる」
「ちょ、ちょっと待ってシン」 キラは何か焦ったように言った。「ねぇ、キミも──」
「問答無用っ!」 叫んだのはアウルだった。懐から銃を抜くと、真っ先に構えて一発、発砲する。
とっさにシンは背後に守ったキラをも包める結界を展開して防御を図るが、一瞬後に来るはずの衝撃は何も無かった。その代わりに自分たちの少し後方でバギンと鈍い金属質な音がする。
間髪置かず、屋内だというのにドザーッと豪雨が降り出した。今のアウルの一発が天井の水道管をブチ破ったらしい。際限なく降り注ぐ大量の水はすぐに廊下を水路と化し、シンもキラも飛び散る水滴の被害を受けてずぶ濡れになってしまう。
何だよこれ、目くらましのつもりか──。
「シン、あぶないっ」
キラの声がした瞬間、シンの中でバチンとスイッチが入るような音がした。
ザバッ。目の前の水が前触れなくいきなりツイタテのように立ち上がり、そしてマシンガンのように水滴を撃ち出してきた。とっさに突き出した掌にエネルギーを集中してシールドを作ると、重い衝撃が連続して襲い来た。大粒のどしゃ降りを薄い板で受け止めるのに似た音と感触だったが、今の水滴ひとつひとつが本当にただの雨粒程度にすぎないのかどうか、試してみる気は起きなかった。
「へえ。おまえ、防御なんかできるんだ」
ザンッ。水のツイタテが崩れて床の水に戻ってしまうと、その先からアウル本人が突っ込んできた。ミネルバで見たときと同じ、小生意気で気に入らない笑みを浮かべて。
「バカにするなっ、このっ」 シンは怒鳴って、交差させた両腕を相手へ向かって勢いよく振るった。
手によって強い摩擦を与えられた空気が真空となって撃ち出され、刃を得た一対の見えないブーメランがアウルの首を狙って飛翔する。
ひゅっ。アウルが首を横へそらした。次の瞬間、ナニカが彼の髪を薙ぎ切っていく。シンと同じく水に濡れた彼の青い髪が外部からの強烈な圧力に触れ、そこから真珠玉のような水滴がパッと散る。至近距離で展開されるその光景が、まさにスローモーションで見えた。
危険──。シンの脳が、スローモーションが解ける一瞬前に叫んだ。元の速度を取り戻したそこで、アウルの髪から散った水滴たちが、一斉にシンの顔面めがけて飛び出してきた。
「止せっ!」 キラの声がした。
パシャッ。まさにシンの瞳を撃ち抜こうとした水の弾がはじけ散る。シンが反射的に顔をそらしたのは水滴がはじけた直後。キラの声がなければ、目をやられていたに違いない。だが驚く間もなくアウル本人が仕掛けてくる。能力者には強力な物理結界があることを知っているはずの彼が握り締めたままの銃は、まず発砲するためのものではない。
アウルはシンの前で大きくその手を振り上げ、殴打にかかった。
なんの、この程度──。その大振りな軌道を読むのは決して難しいことではない。軽いステップで身をかわそうとしたとき、シンは初めて『それ』の存在を意識して驚愕した。
パシャン。素早く動かせたはずの足が重い。床に溜まった水がシンの行動を著しく制限している。タン、と人ひとり分くらいを飛び退くはずが、その半分も移動できていなかった。
ガツン、とこめかみに衝撃が襲い来た。もし自分の頭が豆腐入りの弁当箱だったとしたら、今の一撃で中身はめちゃめちゃだったんだろうな──変なことを考えてしまった。激しい頭痛と眩暈が同時に起こって、意識がとびそうになる。普通の人間なら、気を失うどころか首から上を失って当たり前だったはずだ。
「もうやめるんだ二人ともっ!」 なおもキラが言った。「どうして、こんなことするんだっ」
シンはその言葉の意味が判らなかった。
『どうしてこんなことをする』のかと聞かれれば、相手が敵だからと答えるしかない。キラはヘンなところが単純すぎるが、決して頭が悪いわけではなかったはずだ。なら逆に、『どうしてこんなことを言うんだ』と疑問が出てきてしまう。
「なんでって」 シンは怒鳴った。「そんなの、コイツが──」
「ヨソミしてんじゃねぇよっ!」
アウルの叫び声と共に、間近に迫った彼から蹴りが繰り出される。
バシンッ! とっさにガードした腕がジンと痺れる。吹き抜けた衝撃波が水を騒がせ、壁にドーンと轟音を響かせるが、骨が折れるほどではなかった。
クソッ、水を操るヤツに水のフィールド、おまけにこっちの行動制限、めちゃくちゃおれに不利じゃないか──。
ん、とシンは思った。自分の心の中で呟いた言葉に違和感があった。反射的な反撃のためにシンが振りかざした腕を回避したアウルは、身軽な素早い動作で飛び退き、距離を置いて着地する。
水を操る、とおれは言ったのか。能力者の中でキラ以外に、今までこんな、明確に『物質』を操るヤツなんていたか? そんなの一人もいなかった。キラに一番近いところまでいったおれやアスランでさえできなかった進化を、なんでこいつが──?
と、嫌なことに考えが及んだ。ラクス襲撃事件のときの、兵たちの死にかた。ルナマリアから聞いた話では、彼らの死因は『内部からの莫大な圧力』によって骨が砕け、肉が裂け、皮膚が破れて胸に穴が開いたことによる失血死だったはずだ。
内部からの圧力。今までそれが疑問で仕方がなかった。一体どうすれば、人間を内側から、しかも局部的に破裂させることができるのか。キラのようにエネルギーを送り込むやりかたでは全身を損傷させてしまう。マイウスのラボでも、頭だけを失った多数の人間が死んでいた。まさかひとりひとり頭を砕いてまわったわけではないはずだ。
では、どうやって。いま答えが出た。
その不可思議な人間の死因は『血液』の暴走だ。頭にしろ胸にしろ、全身の血液をそこに集められ、一斉に外側へ向けて開放させられれば、ヒトの骨や皮など簡単にはじけ散る。ただし瞬間移動的なスピードで集められるわけではないだろうから、やられる側には相当な苦痛が伴うだろうが。
シンはアウルを見た。そのときの自分がどんな顔つきをしていたのかは知れない。しかしシンと目が合った瞬間、アウルはぎょっとしたような、ギクリとしたような、引きつった表情を見せた。
このアウルがやったのだ。ここまでの、シンたちが『首謀者』と呼ぶアウルを含む三人が携わった事件での奇怪な殺人は、すべてがこいつの能力によるものだったのだ。
ザワリ。シンの背筋が逆立った。
「この…やろう…っ」 呟いた声は、自分のものとは思えないほど『深く』、くぐもっている。
市民ホールの兵たちの死も、マイウスの研究員たちの死も、そしてメイリンの大怪我も、ぜんぶ──。それが判ったとき、抑え切れないすさまじい感情が彼の『闇』を急速に増幅させた。
「シンッ!」 キラが叫ぶ。「ダメだ、やめろっ!」
あれだけ命を奪ってこれだけ平然としているヤツに何がダメだというのか。シンはキラの声など無視して、身体の底から溢れてくる爆発的な力に形を与えようとした。
ザザザッ。水が波立った。アウルの危機を察知したのか、周囲に溢れていた水たちが、まるで自分の意思を持つように寄り集まって、シンの身体にまとわりつこうとする。能力の発動を、放出を妨害するかのごとく。
だがそんなものは、ちり紙で作った枷よりもはるかにもろい。
バシャッ! シンは水の拘束など意にもかけず床を蹴った。身体が気体化したように軽い。水の抵抗など赤子の手よりも弱い。このまま廊下を駆け抜けた次の瞬間には、シンの目の前からアウルという敵は跡形もなく姿を消したかもしれない。
アウルの姿を目というレーダーにロックしたシンの掌に、今にも弾けそうな強烈な熱がともった。
おまえがこれまで殺してきた奴らの痛みと苦しみ、全部その身に刻み込んで殺してやる──!
身体の底に溜まり溜まった何かが外側へ飛び出して形を作る。そんなイメージが現実化しようとしたとき、まさに激突しようとした二人の間に青い影が飛び込んできた。
ヤメテ──!
その声は確かに自分の頭の中から聞こえた。だがシンの脳に大反響したその声は、キラのものでもアウルのものでもなく、そして自分のものですらなかった。
驚愕の瞬間、時間が止まる。
見る間に自分の背中に冷や汗がにじむのを、それが額からも頬へ流れ落ちていくのがシンには判った。ほんの数秒で身体がスーッと冷えていく。血の循環を失ったように、命を失ったも同然に。
シンは目を逸らせなかった。顔を覆い隠す近さで目の前に広げられた、キラの掌から。
いよいよ双方どちらかの死でのみ決着を見ようとした二人の間に、背のバインダーをピンと広げたキラが割って入っていた。散々やめろとか落ち着けとか言っていた彼は、ついに実力行使で二人を止めに入ったのだ。
しかし、無理をして引き締めたその表情には、今にも『ゴメン』とか言い出してきそうな雰囲気が漂っている。
「おねがいだよ、シン」 キラは震えかけた声で言った。「──やめるんだ」
まさか本気で力を撃ち放とうというのではない。これはただの、ほんの『脅し』にすぎない。やめなかったからといって、キラは本当にシンの頭を吹っ飛ばそうとしているわけではない。
しかし。しかしそれでも十分以上に身体が硬直した。敵意が、戦意が失われていく。キラの手が引くまではイチミリとて動けそうになかった。
恐らくそれはアウルも──バインダーの切っ先で首を狙われた彼も、きっと同じだっただろう。
「キラッ」
遠いところからアスランの声がした。気付いて視線を上げてみれば、ハイネを伴った彼が廊下の向こうに立っている。しかし現在のこの状況を見て、即座に彼らが事態を理解できるとは思いがたい。
もっとも、アスランの場合はキラが無事なら『大丈夫』と言ってしまいそうだが。
いかに足元を満たす水を操るとはいえ、これだけの能力者を──そしてキラを相手に、このアウルに勝ち目など到底有り得ない。自爆くらいすれば、至近距離に居るこのシンにはダメージを与えられたかもしれないが。
す、とキラの手が退いた。死の暗幕から見逃してもらえた安堵に、シンの膝から一気に力が抜ける。ついさっきまで行動を制限して止まなかった水たちだが、彼が床に崩れた瞬間だけは柔らかく受け止めてくれたように感じた。
「みんな」 キラは言った。「この子を攻撃しないで」
え? アスランとハイネの二人がきょとんとする。広げられていたキラのバインダーが閉じてしまうと、今度はアウルが、シンと同じようにペタンと水の床に腰を落とした。この分では二人とも、少しの間は立ち上がれそうにない。
キラはアウルを見て、言った。
「彼は僕らと戦うためにきたんじゃない」
シンを含めた全員がアウルを見た。当人は皆からの視線を受けて視線を外し、先生たちにイタズラがバレた幼稚園児のような顔をしている。
しばらくの沈黙ののち、彼はバツが悪そうに舌打ちして頭をかいた。
「『水』がそう言ったの? あんたに」 アウルは言った。
「──うん。『この子は違う、この子は違う』って。ゴメンね、怖い思いさせて。立てる?」
キラがすっとさし伸べた手に、最初アウルはギクリとしたような顔を見せた。言ってしまえば今のキラの手は死の手だ、キラに近付いている能力者ほど、それが恐ろしいと思うのは当たり前だろう。
何かしら思案する間を置いて、アウルはキラの手につかまって立ち上がった。気付いてみると、天井からの放水はもうおさまっている。パイプは割れたままだが、アウルから戦う意思が消えたせいだと判断すべきかもしれない。
「シン、大丈夫か?」
横に立ったアスランが、キラがアウルにそうしたように手をさし伸ばす。助けがなければしばらくは立てないと思っていたところだったからありがたいといえばそうなのだが、何だか複雑な心境だ。
「とりあえず」 ハイネが言った。「議長に報告して、ひとまずコイツは拘束ってことになるが、いいな?」
「ボクはいいよ」 アウルが答えた。「もともと、とっ捕まることくらい覚悟してきたわけだしね。手錠とか、かける?」
「彼に抵抗の意思はないんです」 キラがハイネに言った。「できれば、そういうのは…」
話がまとまろうとしている。
だが何とも納得できるものではない。能力者としてはおかしな思考だが、ありえないものが『そう』だと言ったから『そう』であると認識するのはどうしたものだろう。
キラのように、アウルが敵ではないと水に言われたからソウだと知る、彼ほどの能力者ならそんなことは当たり前かもしれないが、『声』が聞けないシンをはじめ、ハイネもアスランも、この事態をどう受け止めているのだろう。
『戦うためにきたのではないアウル』が何故いきなり戦闘を仕掛けてきたのかも、キラはもう知っているのだろうか。
むしろそれ以上に、アウルがこれまで無数の命を奪ってきた前提だってある。何度死刑にされたって足りないくらいの罪だ。戦意がないからといってこれほど簡単に受け入れてしまっては、市民ホールの死者も、マイウスラボの死者もたまったものではないだろう。
「キラ、シン」 アスランが言った。「おまえたちはとにかく、そのズブ濡れを何とかしておけ。俺はハイネと、コイツを連れて行ってくるよ。状況によっては召集があるだろうから、そのときにな」
シンは何も答えなかった。『拘束』という形で全員が納得しているようだし、ここで自分がナニが気に入らないコレが嫌だと騒ぐのはただのわがままだ。
ラクスの襲撃もマイウスラボの事件も、言ってしまえばプラントだけの問題、政治問題に発展して公然で裁かれるということは恐らくない。そして、そんな中でキラが今のようにアウルを庇えば、きっと彼は許されて、生かされるだろう。仲間とまではいかないにしても、共に暮らしていく者にくらいはなるだろう。
真意がわかったわけではない、しかし明らかな敵であった者を、そんなにも平然と受け入れていいのだろうか?
──いいわけがない。
シンはちらりとキラを見た。彼は、ハイネとアスランに連れられていくアウルの背を、すこし不安そうに見守っている。その横顔を見ていると、妙に腹が立つのを感じた。かつてアウルと同じように、笑って大勢の人間を殺せたシンだからこそ、この苛立ちを感じるのは当然のことだったのかもしれない。
過去の自分を許せないシンにとって、今まさに皆から許されようとしているアウルは、到底許せる存在ではなかったのだ。
NEXT.....(2006/08/27)