FATAL ASK 1.忘却
水平線が白み始めて、オーブの海は夜明けの時間を迎えた。
シン・アスカはひとりそこを見渡せる岩場に立ち、間もなく訪れる光の時間を待っている。波が静まり、水面までもが空と同じく白んできらきらと金色の光を発し始めていた。
──特別な朝だ。
視線を落とすと、さほど高くない岬に小さな石碑がひとつ、シンと同じように寂しく佇んでいる。海から渡ってくる風のせいか、すこし腐食しているように見えなくもないそれに刻まれた小さな文字の羅列。
『ここに眠る魂よ、永久に安らかであれ』
名前が刻まれているわけではない、ただ無念に散った霊たちを慰めるために彫られた言葉と、それを置くための石碑。それは慰霊碑だった。
さまざまな想いが心を巡った。ここがすべての始まりの場所なのだ。本当はこんなにも静かなはずの海は、あの日、想像を絶する劫火に見舞われ、数々の死と憎しみと、悲しみを生み出した。その結果が、ここに置かれたたったひとつの慰霊碑だ。今やここを訪れる人間は限られている。これが作られたときでさえ、それほど多くの花や何かが手向けられたことはなかったという話だ。
それがどういう意味なのか。それは考えてみればすぐにわかることだった。
つまり、ここに祭られているのは『遺族』がいない者たちの霊ばかりなのだ。娘、息子、父親、母親、そういう者たちも含まれてこそいたのかもしれないが、誰も何も関係なく死んだ。一家もろとも、友人もろとも、あらゆる関係の者たちが一斉にここで死んだのだ。
残される者の苦痛を知るシンとしては、死の不幸を差し引いてもなお、そうしてまとめて死ねたほうがどれほど幸せかの察しはつく。そして自分を残して逝ってしまった者たちの霊はここに祭られている。だから彼はここを訪れるのだ。日を決めて、というのではなく、思い出したときにフッと、フラリと。
忘れないこと。それが最高の手向けであることを、彼はよく理解している。
「シン」
背後から、よく知った声に呼びかけられてシンは振り向いた。いよいよ海から顔を出した朝日を受けて、キラ・ヤマトがそこにぽつんと立っている。現れたばかりの陽の光は、昼間のそれには決してない美しい輝きを持っていて、それを浴びたキラの髪は金の粉を散りばめたようにきれいだ。
「──あ…」 シンは、振り向いて初めて、そこにいるのがキラなのだと気付いた。いつの間にか、彼の気配ですら感知できなくなって久しい。「おはようございます」
「おはよう。──今日は早いね」
「朝起きるの、ここんとこ、あんまりつらくないんです」
照れくさそうに言うシンの横に、キラは立った。ザーン、とやけに遠いところで波の音が聞こえてくる。そろそろ海鳥たちが騒ぎ出す頃だろう。
「それは、いいことだね」 隣に立つ相手を見て、キラは笑って言った。
「はい」 素直に嬉しくて、動物が主人に甘えるようにシンはキラの腕に身を寄せる。布越しに身体が触れ合うと、それだけで今日一日良い日だったと言ってしまえる幸福感が満ちてくる。まだ朝だというのに。
「僕ね、朝の空気が好きなんだ」 キラは言った。「駅のラッシュとか、通学路の学生とかさ。起きるのがつらかった頃は夕方のそういう風景を見てた」
「学校とか、行きたいんですか?」
「さすがに、まだ無理だろうけどね」
何気ないシンの問いに、キラは恥ずかしそうに笑って答えた。言葉は不確かでも、いつかは戻れるようになる──そういう確信的な想いが詰まっている。
普通ではない者は普通に憧れ、そうでない者はそうでないことに憧れる傾向にある。要するに人間は、自分にはないものを求める習性なのだ。だがそうやって『常識』から外れてしまった者はその苦痛をよく知るようになり、『常識』に戻ることを求めるようになる。自分勝手だなあ、なんて思いはしたが、シンは何も言わなかった。
そんなシンが『常識』の枠内に戻ろうとしている理由は、特異になってしまったことに苦痛を覚えたからではなく、特異であるがゆえの悲しみを知るからでもない。彼が『常識』の中に戻っていくのは、それだけ自分がキラを想っていて、キラもその想いに応えてくれているからだという確たる証拠だったからだ。
愛されている。その実感を得られるのが嬉しくて、シンは自ら率先して『普通』に戻っていこうとしている。これだって充分すぎるほど自分勝手だ。何の力もない者が耳にしたら、口を揃えて『もったいない』と怒るだろう。
と、不意にキラはシンの顔から目を逸らした。遠いところから誰かに呼びかけられたようにあらぬ場所を振り向き、そしてそのまま身体の向きまで変えて歩き始める。ほんのすこし離れたところで、キラは膝を折ってかがみ込んだ。何事かと思って近づいてみると、キラの視線の先には小さな草が生えていた。
淡いピンク色の花をつけたばかりの、小さな小さな名も無いような草。キラはそっと手を伸ばすと、その花を指先で静かに撫でた。
「──ありがとう」 キラは言った。「でも…その気持ちだけで、きっと十分だと思うから」
シンに向かって言っているのではない。シンは彼の手元にある草を凝視した。感覚を研ぎ澄まし、自分が持てる集中力を総動員してみるが、どうしても上手くいかない。
その『声』は、聞こえない。
「なんて言ってるんですか?」 シンは問いかけた。
「うん…『手持ちが無いなら、私を供えて』…って」 キラはすっと立ち上がってシンを振り向く。「──慰霊碑に」
それを聞いてシンは慰霊碑を振り向いた。そこには何ひとつとして、石碑を飾るものは存在しない。花も、贈り物も、何も。近い場所にある修道院の子供たちがここに来ることは、危険だからと禁じられている。
「ここの大地は、ここで起こったことを忘れていないんだ」
キラは空を仰いだ。まだ薄黒い雲が、朝日に照らされて赤い光を宿している。厚いそれの隙間から天に向かって伸びていく何本もの光の筋は、壮大そのものの光景を作り出している。
「不思議だね。人間は、いろんなことをすぐに忘れてしまうのに」
ザッと強い風が吹いた。シンの黒い髪が、キラの茶色い髪が、岩場に宿ったかわいらしい花が揺れる。
「戻ろうか」 キラは言った。「朝ごはん作るの、手伝わなきゃ」
「あらキラ君、シン君。二人して、朝からどこへ行ってたの?」
食堂から繋がったキッチンルームのドアを開けたキラたちに、コンロの前に立っていたマリュー・ラミアスが声をかけた。そこに置かれた大きな鍋からは、クリームスープの実においしそうな匂いが漂ってくる。
「ちょっと散歩に」 キラは笑った。「マリューさん、何か手伝ってもいいですか?」
「じゃあ、タマゴ、用意してくれる? スープができたらスクランブルエッグ作るから」
「はぁい」
キラが動き出すよりも前に、シンは冷蔵庫を開けていた。大勢の子供たちの面倒を見ているここに置かれたそれは、業務用と言ってもいいくらい大きい。心得はあるけれど厨房という場所にあまり縁がないシンも、ここでの一年間ほど、毎日の食事の手伝いを欠かしたことはなかった。おかげで今となってはタマゴも片手で割れる。
「そういえば、ラクスと母さんは?」 キラが厨房の中を見回した。「バルトフェルドさんも…」
「やだキラ君、忘れたの?」 マリューが苦笑いを浮かべた。「ラクスさんたち、今日はプラントの式典に出席するんじゃない。お母様は、ラクスさんの衣装の着付けに付き合ってるわよ」
「あ」
キラは本当に今の今まで忘れていたらしく驚いた顔をした。
代わってシンはしっかり覚えている。海で早起きなキラを見たとき、やっぱり式典のことで緊張があるんだろうなぁ、と思ったりしたのに、それは完璧な取り越し苦労だったのだ。
そう、今日はプラントとオーブがある条約を締結してちょうど一年になり、それと同時に、両国間で共同開発が行なわれていたあるモノが世界的に公開される式典の当日なのだ。出席するプラントの代表は、もちろん最高評議会議長であるギルバート・デュランダルだが、同じくして国民の象徴、コーディネイターの神格として、晴れてラクス・クラインが表舞台に返り咲くことになっている。
オーブ代表のカガリ・ユラ・アスハは、護衛を務めるアスラン・ザラと共にその準備にてんてこ舞いで、ここしばらくはこの教会へ顔出しもできていなかった。
「あらあら。キラったら、まだ寝惚けておいでですか?」
鈴を転がす声と共に、カウンターの向こうからひょっこりとピンク色の影が顔を出した。トレードマークとなりつつある白いリボンで結った髪がふわりと揺れる、ラクス・クラインそのひとだ。
「ゴメン。平和ボケ、かもね」
すこしタチの悪い冗談を言いながらキラはキッチンから出て、食堂側へと出て行く。そこにはキラの母親を伴ったラクスが、黒みのあるドレスをまとって品のいい姿で立っている。
「それが式典用の衣装?」 キラは感心して言った。「すごくきれいだよ、よく似合ってる」
「ありがとうございます」 ラクスは微笑んだ。「けれど、さすがに数年ぶりともなると緊張してしまいますわね。今からドキドキしていますもの」
「ラクスさんは、今から官邸入り?」 マリューが言った。
「ええ。バルトフェルド隊長を、お借りいたしますわね」
女たちがおのおのの会話を楽しむのを眺めながら、シンは適温になったスープ鍋の火を止めた。フワッと白い湯気が立ち上って換気口へと消えていく。
と、食堂前の廊下が騒がしくなった。子供たちの声がキャワキャワと聞こえてくる。間を置かず広間のドアが開いて、何人もの子供がなだれ込んでくる。朝食の時間になったのだ。
「わあっ、ラクスおねえちゃん、今日はきれい! どうしたの?」
「わかった、キラと結婚式だ」
「ちがうよ、アスランとだよ」
「じゃあ今日はごちそうなんだ?」
一気に食堂は騒がしくなる。シンとしては聞き捨てならないことを言い出している子供がいたが、ここで感情を抑えられずに一緒になって騒いでしまってはバカも同然だ。彼はぐっと押し黙って溜息を吐いた。
「マリューさん」 シンは言った。「火、止めときましたから」
「ああ、ありがとうシン君。…あなたは、お昼の便でプラント入りだったかしら?」
「まぁ…一応。これでもザフトの軍人ですし」
シンは肩を竦めて笑った。
デュランダルの配慮があり、現在のザフトにおけるシンの立場は『名誉軍人』だ。正規のそれとは違い、特別な式典や祭典にのみ、評議会のメンバーと共に出席することになっている。ザフトを退役するか否かを決めかねているシンに対して、デュランダルは気持ちが決まるまではその立場にいればいい、と言ってくれたのだ。
「頑張ってね」 マリューは言った。「私たちは、テレビでちゃーんと見てるから」
「別に頑張るほどのものじゃ…」
ゴーン、ゴーン、ゴーン…。広間に設置された古い置時計が鐘を八回も鳴らした。
「時間ですわね」 ラクスが言った。「それでは、お先にまいります」
「うん、気をつけて」 キラが言った。
正装した聖女はぺこりと頭を下げると、たくさんの子供たちに手を振られ見送られて食堂をあとにした。
「アスハ代表はまだかっ?」
「もう十分ほどで準備が整います」
「ではこちらでも、クサナギの最終調整を…」
バタバタと政府職員たちが騒がしく廊下を走り回る。国家の代表者というものは、迎える側もそれなりの努力が必要になるが、送り出す側にもそれなり以上の努力があるものだ。
アレックス・ディノ──もといアスラン・ザラは、そんなオーブの代表者カガリ・ユラ・アスハの部屋の前に、カカシのように突っ立っていた。
別にサボッているわけでも、入室をためらっているというのでもない。ただ単純に、カガリのドレスの着付けが終わるのを待っているのだ。護衛者兼同行者として、ここからプラントへ発つカガリを、無事に式典会場まで送り届けること、それが今回のアスランの仕事なのだ。
「ラクス・クライン様がご到着です」
エプロンドレスを着た女の声に、廊下を走り回っていた男たちがザワリと声をあげる。にわかに騒がしさを増すその方向へ首を巡らせて、アスランはアッと声をあげそうになった。
男や女が慌てて道をあける広い廊下の中央を、しずしずと歩いてくるひとりの女。数年前まではほんの少女であったはずのラクス・クラインは、今や誰しもが見惚れる美しい女へと進化している。
「おはようございます、アスラン」
バルトフェルドを伴ってアスランの前まで着たラクスは、ドレスをちょっと持ち上げて頭を下げた。そんな仕草がとても決まっている。ラクスはこういう女だ。気品と慈愛の代表格、万人にそう思わせることができる力を持っている。プラントにも、地球にも、どこにも彼女を超えることができる女は存在しないだろう。
アスランでさえも、そう思っているのだ。
「おはようラクス」 アスランは挨拶を返した。「カガリはまだ、もうすこしかかりそうだ」
「構いませんわ。女性の準備というものは、いつの時代も時間をかけてこそのものです」
「バルトフェルド隊長も、本日はよろしくお願いします」
「ああ、こちらこそな」 アンドリュー・バルトフェルドは気さくな笑みを浮かべた。「同じコーディネイターでも属する国家が違う…とは、時代の変化を感じるねぇ」
そんなことを言いながら伸ばされたバルトフェルドの手と、アスランは握手を交わした。ここしばらくはろくに教会に戻っていなかったから、キラの顔と同じく、すこし久しぶりの相手なのだ。
そして、その久しぶりの顔をもういくつか捜してみるが、どう見てもこの場に立っているのはラクスとバルトフェルドの二人だけだ。
「キラとシンは?」 アスランは尋ねた。「朝の便じゃないのか」
「お二人は、お昼の便で渡られるはずです」 ラクスが答えた。「本当なら朝の便がよいのでしょうけど、あのお二人はまだ、朝が苦手のようですから。──アスランは、昨日はおやすみになりましたか?」
「ああ」 気遣いの言葉にアスランは笑みを浮かべる。「このところ、前よりもずいぶんと眠れるようになったよ。だがちょっと、時間がズレてるみたいなんだ。夕食のあとに眠くなって、そしたら夜明け前に目が覚める」
「まあ」
「だが今日は、そんなズレた時間がちょうどいい日だな」
アスランの目が覚める頃から、官邸がちょうど騒がしくなっていった。カガリこそ緊張やら何やらでろくに眠っていないはずだ。
式典の最中に居眠りをしてしまってはどうしようもないし可哀想なので、クサナギの中ですこしでも仮眠をとらせてやりたいと彼は考えている。だがそれに相違して、式典で述べる記念の言葉や、その流れなどを頭の中に叩き込まねばならないカガリに、眠るだけの心の余裕はきっとないだろう。
こういうときこそ、ラクスのようにリラックスしてかかるのがいい。もっとも彼女の場合、リラックスができているというよりも、本番に強すぎて、緊張というものが縁遠い存在なのかもしれないが。
カガリに代わって式典の進行を頭に入れておこうと思い、アスランは小さな冊子を取り出した。そこにはカガリとデュランダル、そしてラクスがやるべきことやらその行動を起こすべき時間がびっしりと書かれている。代表に渡してください、と、まだ新任して間もない若い首長からもらったものだが、今のカガリにこんなものを見せたら、きっとノイローゼになってしまうに違いない。
「ラクスはもう、スケジュールは頭に入ってるのか?」
「え?」 ラクスはきょとんとした。
何だかすこし、嫌な予感がする。しかしこれを問いただしておかないと、本番でとんでもない落とし穴が突然口を開くような気がした。
「……ラクス」 アスランは改まって言った。「式典には手順があるんだ。リサイタルじゃないんだから、ただ出て行って歌えばいいわけじゃないぞ」
「だいじょうぶですわ」 ラクスはニッコリ微笑んだ。「わたくしのスピーチに、下書きは必要ありませんもの」
そういえば、とアスランは思った。かつて父のもとにあった頃からラクスは様々なイベントに姿を見せていたが、彼女が何かを見ながらスピーチしているのを見たことは一度もない。これも才能というやつなのか、どこまでも政治向きな性質だな──アスランは苦笑いした。
「それならいいんだ」
「ラクス様、そろそろシャトルへ入られたほうがいいんじゃないですかね」
ふところから取り出した懐中時計に目を落としながら、バルトフェルドはちょっと改まったふうに言った。彼女はこれからシャトルで宇宙へ上がり、クライン派の下で厳重に保管されているエターナルへ乗艦する予定だった。
「もうそんな時間ですか? カガリさんの晴れ姿を見てから、と思いましたけど…仕方がありませんわね。──まいりましょう、バルトフェルド隊長」
「はいっ。……アスラン君、またあとでな」
「はい、道中お気をつけて」
踵を返すラクスに続いて立ち去っていくバルトフェルドにも敬礼を見せて、アスランはその背を見送った。
と、そんな彼の背後のドアが開いて、数人の侍女たちがぞろぞろと現れた。
「お待たせ致しました、アレックス様」 ひとりが頭を下げた。「カガリ様の御支度が、整いましてございます」
「ご苦労様です」
アスランも頭を下げて見せると、女たちはおのおのでまた頭を下げて、ぞろぞろと廊下を歩いていった。開けられたままになっているドアからひょっこりと中を覗いてみると、鮮やかなグリーンのドレスが視界に飛び込んできた。
ラクス・クラインが月のように輝く女であるなら、カガリ・ユラ・アスハは太陽のような燦然とした娘だ。本来は手入れも何もされていないクセだらけの金の髪はきれいにまとめられて、そこにはあおい木の葉をあしらったアクセサリーが光る。イヤリングも、ネックレスも、ドレスと同じ色合いが使われていて、朝日の中にいるカガリの姿を、より美しく浮き立たせることに成功していた。
自然界の木々は、太陽の光の中でこそ美しく見える。カガリはそんなイメージの合う女だ。
「カガリ」 アスランは呼びかけた。「もう時間がないぞ、クサナギに急ごう」
「あ、ああ。もうそんな時間なのか…」 カガリはあたふたと壁にかかった古い時計を見た。「ア、アスラン。わたし、どこも変じゃないか?」
白いヒールを履いた足で駆け寄ってきて、カガリは不安そうに問う。そんなことを言われたら、せっかく着付けをしてくれた侍女たちが可哀想だが、彼女も慣れない衣装に戸惑っているのだから仕方がない。
「だいじょうぶ」 アスランは笑んだ。「よく似合ってる。きれいだ」
「う…」 カガリはあからさまに困った様子で真っ赤になった。「よ、よくもそういうセリフを真顔で言えるなあ」
慣れない衣装もそうだが、きれいだ、なんて更に慣れない言葉をかけられて困る様子はとても可愛らしい。もっとつつけばもっと面白いのだろうが、そんなことをしていてはアッという間に遅刻してしまう。
「行こうカガリ」 アスランは手を差し伸べた。「ラクスは先にシャトルに入ったぞ」
「キラたち、まだ来てないんじゃないのか?」
「あいつらは昼の便だそうだ」
慣れないこと尽くしのカガリが転んでしまわないように、伸びてきた彼女の手をしっかりと取りながらアスランは答えた。二人が並んで歩く廊下には、もうほとんど人の気配がない。ほぼ全員が外へ出てしまったのだろう。恐らくこのあとは、結婚式の退場風景さながらに、ズラリと並んだ職員たちが作った花道を歩いて車に乗ることになるのだろう。
今から唇を歪ませて羨ましがるユウナ・ロマの姿が目に浮かぶ。
「あれから、今日で一年になるんだな」
不意にカガリが言った。遠い過去を懐かしむような口調で。
「そうだな」 アスランは答えた。「俺たちにとっても記念の意味が強い日だ。今回の式典は、きちんと成功させないと」
「ああ。そう思ったら、わたしもすこし落ち着いてきたぞっ。あとはラクスとおまえが、世界中の人たちに受け入れてもらえるかどうか…だが」
「ラクスのことなら、きっとみんな受け入れてくれる。俺は…最悪、ダメでもいいさ」
「バカなことを言うなっ」 カガリは怒った。「『これ』はラクスとおまえがワンセットでなきゃ駄目なんだぞ、おまえがそんな態度と気持ちでどうするっ! 許されたい…かどうかは別としても、認めてもらいたいって気持ちが見えなきゃ、プラント市民だっておまえを信用しきれないだろ」
「うん…まあ、そうなんだが」
アスランの返事は曖昧だ。
要するに気が進まないのだな、とカガリは直感したが、そこには触れなかった。今ここで掘り下げるべき話題ではないと思ったからだ。
「今日は、わたしたちにとっても、おまえたちにとっても新しい一歩を踏み出す日だ。わたしたちが掲げてきた『ナチュラルとコーディネイターの共存』という道にも。思うことが多いだろうことは承知の上だ、おまえは、おまえにしかできないことをやるんだと割り切ってくれ」
「…ああ、わかったよ」
アスランは力なく笑った。苦笑い、といってもいいかもしれない。覚悟も気持ちも決まらないが、受け入れるしかないのだと腹は括っている。それに、まさかこれまで自分たちが引っ張ってきたカガリに、こんなふうに諭される日が来ようとは…と、ほんの少し驚いてもいる。
この娘だって、いつまでも鉄砲玉のような考えなしのじゃじゃ馬ではないということか──。父のような目線で、アスランは彼女の成長を愛おしく感じた。
と、不意に視界に黒いものが見えた。
カラスかと思ったがそうではない。官邸の裏庭にあたる窓の下、柔らかな草が植わっているそこに、黒い人影がぽつんと立っていた。すらりとした長身に、整っていない長く黒い髪がひどく印象的だ。あまり見慣れない黒い服をまとっているその者は、かろうじて男だと判別はつくが、アスランの立つ三階の廊下という場所からは、顔立ちまでを見ることはできなかった。
だが視線を感じる。彼は、確かにアスランを見ているのだ。
「アスラン」
カガリの声に呼びかけられてアスランはハッと我に返る。そして改めて視線を落としたとき、もうそこに『彼』の姿はなかった。木があり、草があり、小さな池がある。ただそれだけの裏庭の光景だ。
「すまない、いろいろと考えさせてしまったか?」 カガリが申し訳なさそう言った。
「いや」 アスランは取り繕うように笑む。「なんでもない、急ごう」
再びカガリの手を引いて廊下を歩き出しながらも、アスランは通り過ぎていくいくつもの窓から、その場所を何度も見た。しかしもう二度と、その場所に『彼』がいることはなかった。
ただの錯覚に過ぎなかったのか、それとも式典へのぞむ緊張が生み出した幻だったのかは判らない。
だが。
あれは──。アスランの眉が寄る。
あまりにもかけ離れた、程遠い外見だったというのに、彼にはあれがキラであるように感じられてならなかった。
NEXT.....(2005/12/30)