古の賢者



    1


「…よォ。おはようさん」

 目を開くと、自分の顔をジーッと覗きこんでいるエドガーと目が合った。

 熱を出したときのように頭がガンガンと痛い。サイガはそれに表情を歪めながらも、相手の顔の向こう側に広がっているのが聖龍殿の天井ではない、どこまでも広い青空であることに気付いた。

「ここは…」

「どこだと思うよ?」

 何ともぶっきらぼうにエドガーは言った。そんな彼の言葉の調子がおかしいことを察し、サイガは痛む頭を押さえながら、ゆっくりと起き上がった。そのために手をついたのも、床ではない土の地面。かろうじて短い草は生えてこそいるが、その土はひどく冷たく、ぱさついていた。

 森というにはすこし木が少ない。周囲の茂みも背が低く、田舎の小さな林といった感を受ける。

 先に立ち上がったエドガーの手を借り、サイガはその地を踏みしめて辺りを見回した。最初のうちは一定の間隔で眩暈が襲ってきたが、目を閉じてやり過ごすたびにその間隔は長くなり、やがて治まっていった。

 長く伸びた髪で風の流れを感じながらサイガは歩を進める。小さな茂みに守られるようにして続いている獣道の向こう側に、高く切り立った崖があった。だがサイガほどの身体能力があれば、さして危険でも何でもないであろう。

 そこに立って、サイガは言葉を失った。背後からついてきていたエドガーが、そんな彼を見て小さく溜息を吐く。どうやらその光景を、サイガよりも先に見てしまっていたらしい。

 広大な緑の平地がそこにあった。どうやら田畑らしくきれいに区切られているのが判る。いびつな木材を使った簡素な家がポツポツと並んでいて、そこかしこで家畜と思しき動物たちが鳴き声を上げていた。

「なんだ…ここは」

 サイガはこんな光景を見たことがなかった。あるとすれば、あくびまじりに無理やり読んだ古い書物に墨で描かれた絵で、くらいだ。

「俺も、おまえよりすこし前に目が覚めてよ」背後からエドガーの声がした。「何なんだここは? どこの大陸でも、こんな生活してる部族なんざ、聞いたことねェぜ」

 その言葉を聞きながらサイガはふと、ここで目を覚ます前の自分が何をしていたか、思い出そうとした。

 今日の始まりは何だったか。どうやって過ごしたか。思い出すのはごく簡単だった。

 何故なら、まったく普段どおりと言っていいことしかしていなかったのだから。ただ特別な出来事があったとすればエドガーが訪ねてきたことくらいで、忙しい仕事の合間、ちょっと休憩のつもりでサイガは彼と共に中庭へ出て、何気ない話をしていたはずだった。

 そして、どうした──? 先ほどまでの頭痛と眩暈は何だったのか。

  もしも意識を失ってぶっ倒れたのだとしても、聖龍殿にいた自分がいきなりこんなところに、エドガー共々運ばれるのはおかしな話だ。それともエドガーが連れ てきたというのか──いや、そうであれば、今こうして自分の横で、彼までこの事態に首を傾げているのはおかしいだろう。

 サイガが何も言わない間、エドガーも何も言わなかった。サイガの邪魔をしてはいけないと思っているのか、それとも判らないことは考えない主義なのか、どちらにしても、横から余計なことを言われて思考を止められるよりはよほどマシだったのだが。

 と、エドガーは顔を上げた。どこか、どこかとても遠いところで誰かが何かを叫んでいるような気がして。

「──サイガ。何か来るぞ」

 慎重にエドガーが口を開き、判っておる、と呟いてサイガが真面目な顔をしたとき、二人の背後でガサリと茂みが揺れた。


     2

 すぐにサイガは振り向こうとしたが、エドガーがその頭を掴んで押し伏させた。身体能力に自信こそあっても、まだ少年に過ぎない二人の身体は簡単に茂みの中に収まってしまう。

 ザザザッ。茂みが揺れてひとりの何者かが二人の前を走りぬけていく。その者は、頭からすっぽりと土の色をした布をかぶって姿を隠していた。確かにヒトの形をしているらしいのは、大きな布だけでは隠し切れない、地を蹴る二本の足で確認できる。

 いったい何事かと二人が思うより早く、その者のあとからいくつもの足音が聞こえてきた。

「こっちだーっ」

「奥へ行ったぞっ」

「早く捕らえろーっ」

 口々にそんなことを言いながら、足音たちはまたサイガとエドガーの前を通過していく。

 だが二人は、事態を察するよりも前にまず驚いた。

 その一団は異形者の集まりだったのだ。ブタのような外見をした者、鳥の頭を持つ者、ぬらぬらとした鱗で全身を覆われた半漁人のような者──。

「なっ、なんだアイツらっ」

 思わずエドガーが呟く。サイガも信じられないものを見てしまって、一団が駆けて行った方向を見つめて固まっている。

 各大陸の原生モンスターも、口を利くくらいの知能があるのは知っている。しかし今の者たちは、どう見たってより高度なそれを持っているように見えた。

 そして何よりも驚くべきは、その身体的特徴だ。見間違いでないのなら、少なくとも今の連中はそれぞれ獣牙、飛天、鎧羅の特徴を持っていたはずだ。

「オイオイ、ここは何大陸なんだよッ」

「エドガー、あの者たちを追うぞっ」

「はっ?」

 サイガはぐっと腕をついて起き上がると、エドガーの腕からするりと抜け出して茂みから飛び出した。

「ちょ、オイッ」

 普段はやたら慎重なはずの相手が見せた意外な行動に驚きながらも、エドガーはそのあとを追って同じく林の中へと走り出る。

「サイガッ、あんな連中に関わったって、きっとイイコトねぇぞっ」

「今の者たちを見たであろう」サイガは走りながら言った。

「見たには見たけどよっ。連中が何でああなってるか判らねぇんだ、巻き込まれたら厄介だろうがっ」

「聖龍以外の特性を持つ者たちが、ある者を追っておった。──ということは、追われている者は聖龍の者かもしれんっ。もしそうであれば、放っておくなどできるかっ」

 ああ、またコイツの悪い癖が──。エドガーは何とも言い難い気持ちで溜息を吐き、青い後ろ姿を追って走った。

 二人はすぐに一団を見つけた。天へ伸びる崖を背にした追われる者と、それを取り囲む追う者たちを。

 追う者たちはおのおのの手に、鋤や鍬などの農具を武器として持っている。今まさに、追われる者は窮地に立っているように見えた。

「待てっ、そこの者たちよっ!」

 真っ先にサイガが茂みを飛び越え、追う者たちと追われる者との間に割って入った。あくまでもどちらの味方になるとか、あるいは敵意などがないことを知らしめるため、ふところに忍ばせているはずの小太刀を手にしないまま。

 追う者の一団は、突然現れたサイガに驚愕を見せた。オオ、と呻くような声を出して一歩退き、そして自分たちの背後の茂みの中に、その仲間──エドガーが立っているのを見てまた驚く。

 追われる者の深いフードの下から、白い肌が見える。エドガーの目に映った限りでは、その者はどうやら男のようだ。突然のサイガの乱入を見て、やはり驚いているように見える。

「この騒ぎは何事か?」サイガが尋ねた。「何故おまえたちは、このように争うておる。──よければ、その事情を聞かせてもらいたい」

「あ、あんたッ、そいつの仲間かっ!」

 獣の姿をした者が震える声で言った。ひどく興奮しているらしく、下手に揺さぶれば、今にも襲い掛かってきそうだ。

「そうではないっ」サイガは言った。「おまえたちが何故争うのか、俺はそれを聞きたいだけだっ」

「何も知らん奴が口を出すなっ、そいつから早く離れろ!」

 甲高い声をあげた鳥の男が、手にした鍬でサイガを追い払おうとする。

 ──エドガーは妙だと思った。

 全大陸中で誰もが知っているはずの、それぞれの部族の王である自分やサイガのことを、彼らは知らないように見えるのだ。確かに彼らはサイガを見て驚いてはいるが、それはまとう装束や姿の見慣れなさに、であるようにしか見えない。

 やはり様子を見たほうがよかったのだろうか──。先ほど、走り出したばかりのサイガを無理にでも止めなかった自分を、彼はすこし悔いる。

「ギィッ」

 いきなり異様な声がした。サイガやエドガーを含む全員がハッと気付いてみると、半魚の男が苦悶に顔を歪ませて一歩後退したところだった。

「ギ、ア、アァァァ!」

 その者が上げた声の異様さにサイガが凍りつき、他の異形の者たちがウワァッと悲鳴を上げて跳びすさる。一同が見ている前で半魚の男の腹がブクリと膨らみ、空気を入れ過ぎた風船のようにバチンと弾け飛んだ。

 赤い血と、白っぽい肉片が周囲に飛び散る。いよいよ残された者たちの混乱は大きくなった。口々に悲鳴を上げて武器を捨て、エドガーに構わず茂みの中に飛び込んで元来た道へと一目散に逃げ出していく。

 まさか──。

 サイガはゾッと背筋が凍る感覚に襲われて、背後を振り向いた。一歩たりとてそこを動いていない、先ほどまで追われる立場であったマントの男を。

「今、のは………おまえが、やったのか?」

 思わず声が震える。

 答える言葉も態度も、ない。事態を察し切れず、しかし逃げ出しはしないサイガとエドガーが見守る中で、その者はかろうじて口元が見える程度に顔を上げた。

 唇までも白い。それがパクリと開いて、口内の赤というよりは井戸の底の闇というべきものが見えた。

『──礼を言おう…。あんなゴミでも、始末するには力を充填する必要があったものでね。あなたがその時間を稼いでくれたよ』

 辺りがシーンとした。その者が放った言葉の意味が、刹那、理解できない。

 男は静かに笑った。そして身体だけはサイガのほうを向いたまま、トンと地を蹴って一歩退く。

 彼の背後には岩壁しかない。しかしそこに、突然ブラックホールのような真っ黒い穴が開いた。男は当然のように、その中へと身を投じてしまう。

 フワリとフードが揺れた。その隙間から、確かに自分を見つめているその男の目と視線が合ったとき、サイガは身体の底から来る激しい焦燥に息が止まりそうになった。

『うつくしい髪と瞳を持つあなた。機会があれば、またお会いしたいものだ…』

「な……っ、オイ待て、テメェッ!」

 我に返ったエドガーが声を飛ばしたがもう遅い。男を飲み込んだ黒い穴はすぐに閉じて、もとの岩壁に戻ってしまった。

 あとに残ったのは、無残に腹の中をぶちまけている半魚の男の死体だけだ。

「そ、んな、バカな」

 呟いたのはサイガだ。がくんと膝から力が抜けて、彼はその場に座り込んでしまった。

「サイガッ、どうした。大丈夫か?」

 茂みから飛び出してきたエドガーが、今にも倒れそうになった彼の肩を掴んで支えた。

 受けたショックがあまりにも強いと、失われた焦点を取り戻すのに時間がかかる。今のサイガがまさにその状態だった。

 バカな、バカな──。サイガの頭をぐるぐるとその意識が巡った。

「あ、あの者は」サイガはあえいだ。「あの者は──」

 と、また茂みが揺れた。今度はあちこちだ。

 エドガーが身をもたげて見回してみると、先ほど逃げた二人の男を筆頭にして、ぞろぞろと似たような者たちが武器を手に姿を見せたところだった。

「あ、あいつらだっ!」鳥の男が、まっすぐにサイガとエドガーを指さして叫んだ。「あいつらが、マステリオンの逃亡を助けた仲間だっ!」

 今度こそ、エドガーもまた一瞬気絶してしまいそうになった。

 鳥の男の叫びを聞いたサイガがスローモーションのように緩慢な動作で顔をあげ、自分たちの周りを取り囲む異形の者たちに視線をやる。

 マステリオン。はっきりと、確かに、鳥の男はその名を口にした。

 先ほどの男が、マステリオン──。

 もはや言葉も出なかった。

 どうなってるんだ、ここは──。






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