ね が い 




 思い返すのは溢れる緑、溢れる木漏れ日、溢れるぬくもり。

 しわがれた枯枝のような手が、指が、優しく頭を撫でてくれると、とてもうれしくて、とても満たされた。飽きるほど聞いたはずの昔話を何度も繰り返しせがむのに、しかしいやな顔ひとつせず、あたたかな笑顔で応えてくれた。

 平和な世界の温和な統治者、誰からも慕われて、誰からも愛された。名前を聞いたことは一度もなかったから、爺と呼ぶのがいつの間にか定着した。はじめて爺と呼びかけられたときの、あの本当にうれしそうな笑顔が、脳裏に鮮明に焼きついている。


 それなのに──。


   1


 祖父が突然の失踪を遂げ、そのあとを追うように父親も行方不明になった。

 親を失っただけなら先代王の子である現王たちも話は同じだったが、時を同じくして祖父までも失ったサイガはずいぶんとヘコんでいるのではないだろうか──。

「おっ。なんだエドガーではないか。すまんが今は忙しいでな、夜になったらまた来るがいい。時間を空けておいてやろう」

 前言撤回、という言葉はこういう時に使うのだとエドガーは思った。聖龍殿をあっちへこっちへ、部下や重鎮どもを連れてバタバタ歩き回るサイガを、やっと裏庭でひとりになったところを捕まえたと思ったらこのセリフだ。

 しかも「なんだ」とか言いやがるのだ。戴冠の儀を終えて数週間、それは中央大陸が国交を閉ざして数週間、という言葉と同じ意味だったのだが、ありえないくらい忙しいのはどこの大陸でも同じのようだった。

  先王がいなくなって国の政が著しく滞り、そのあいだ各部族たちは統率を失って混迷するばかりだった。それを立て直すために選挙によって大陸民から相応しい ものを選べば、という意見がもちろん出たのだが、先王の子らが王になればいいだろうと真っ先に言い出したのはサイガだったと聞く。

 年端もゆかぬ子供たちに国の未来を委ねることには四大陸で多くの者が反対した。しかしサイガの意見が正しかったことは、現王が戴冠してから現在までの、ほんの数週間の間で証明されることになる。

  先王の子らは、政治のやり方をよく知っていた。親の傍でずっと親の背中を見てきた彼らは先王の見よう見まねで「王」の仕事を始め、見る間に国の政治を安定 させてみせた。何も知らない子供というものは恐ろしいもので、これには反対派も黙らざるを得ず、かくして四大陸はそれぞれの国交が断絶された状態でありな がらも、体勢を立て直すことに成功したのだった。

 で、すこしはヒマができて心に余裕が出てくると、ここに至るまで忘れていたいろんなことを思い出すもので、エドガーはふと、サイガのことを思い出して聖龍大陸へとこっそりやってきたのだが。


「なんだアイツは」

 エドガーがぽつんと文句を言った。身を隠すにはもってこいの、里の奥にそびえる神木の枝の上で。

『ちっとも堪えちゃいねェようだな』

 エドガーと共にこの地へ入った白い虎のモンスター、ゼクシードがにやにや笑っている。

『王ともあろう者が長いことウダウダしてるようじゃ、示しがつかねェんだろうゼ。エドガーも王だろ、わかってやりな』

 エドガーは何も答えず、ただ枝葉の合間から聖龍の里を見下ろしていた。建物がいやに小さく見えるのだから、そこで生活している人民など到底見えるはずはない。

 あの野郎、本当にちっとも堪えちゃいねェ。オヤジとジジィが揃っていなくなったんだぞ──?

  心配していた分、あの明るい言動には肩すかしをくらった気分だった。忙しさのかげに寂しさやらなにやら、もっといろんなものを隠していたっていいのではな いのか。飛天王アレックスは報を聞いてからの数日間を自室にこもりっきりで過ごし、鎧羅王ポラリスに至っては戴冠の儀の最中にほろほろと泣き出して国民の 同情を誘ったというが、あのサイガには、そういった強いショックを受けた形跡などカケラも見受けられない。

 エドガーもエドガーでこの性格だから父親との衝突が絶えなかったせいもあり、最初の数日こそいなくなって清々したものだったが、時が経つに連れてその実感が深まり、戴冠の前夜には初めて父親のために涙を流したくらいだ。

「ゼクシード。オレは夜まで寝る、日が落ちたら起こしてくれや」

 とても眠れる気分ではなかったが、日没までの長い時間に何をする気にもなれなかったエドガーは、大木の幹に背を預けて目を閉じた。


   2


「昼間はすまなかったな」

 エドガーを自室に招きいれたサイガは、扉を閉めると遠慮がちな笑みを浮かべて見せた。

「だがエドガーも気をつけた方がよい、この頃、あちこちに不穏な噂話が流れておる。聖龍殿の爺やどもに見られでもしてみよ、大問題だぞ」

 背中でサイガの文句を聞きながら、初めて見る彼の部屋をきょろきょろと見回していたエドガーは、ふと振り向いて言った。

「この部屋だって聖龍殿の一部だろ。だったら何でわざわざここにオレを通すんだよ」

「それは案ずるな。この部屋には誰も来んよ」

「わからねェだろ、そんなこと」

「わかるさ。みんな、俺が独りになると泣いていると思っているようだからな」

 ──エドガーはアッと思った。

 種族は違えど、考えていることは同じだった。エドガーは自分でも認めるほど感情が鈍い方だったが、そんな彼でもそう思うくらいなのだから、よく考えれば聖龍殿の者たちがそう思わないはずはなかったのだ。

 サイガは強がっている、と。

 身寄りを失ったサイガは政治の場でこそ強い表情を見せてこそいるが、ひとりになったらわからない。人知れず泣いているかもしれない、本当はまだ幼いはずの彼を、このときだけはそっとしておいてやろう──。

「おかげで夜は静かなものだよ。だからこうしておまえが居ても、誰にも見られる心配はないというわけだ」

 サイガは言って、可笑しそうに笑った。どうやら、サイガしかいないはずの部屋から話し声がすることを怪しまれるかも、という危惧感まではないらしい。

 このバカはなんでこう、あちこち必要なトコばっか抜けてやがんだ──。

「それで、俺に何ぞ用か?」

 サイガは改めて尋ねた。

「……オレもおんなじだ。聖龍殿の連中と」

「は?」

「オレも、おまえがヘコんでんじゃねェかと思って、様子見にきたんだよ」

 思い切り笑われるだろうと思いながら、エドガーは言った。余計な心配をかけさせたな、とか、ガラでもないことをするな、とか。とりあえずいろいろと言われるかもしれないことをシュミレートしながら。

 だが、サイガは笑い出しも何もしなかった。ただその代わりに、不意に表情をくもらせて目を伏せる。

 オレに心配されたら終わりだ、とか思ってんじゃねェだろうな──。エドガーはまずいことを言ってしまったような気がして黙り込んだ。

「…すまんな」

 急にサイガは言った。申し訳なさそうに苦笑いを浮かべて。

「まったく、俺は皆の期待を裏切ってばかりだ」

 そんなことを続けて言いながら溜息など吐く。エドガーは何も言わずに、そんなサイガを見ていた。

「もう少しくらい、ガキらしく取り乱したり泣き喚いたりできれば可愛げもあるだろうになぁ」

「…そうだな」

 エドガーは相槌をうった。

 その通りだ。サイガくらいの歳の子供が自分の親に何かが起こったなどと知れば、普通は喪失感に潰されて我を忘れて取り乱すか、あるいは何が起こったのか判らずに茫然自失する。そして最悪の場合、そのまま衰弱死する場合もある。

  親というものは、子供にとってはそれだけ強大な庇護者であり、それを失うことはすなわち防衛手段を失うのと同じことであり、イコール己の死さえ示しかねな いものなのだ。周辺にどれだけの保護者が存在したとしても、親でなければならないことは多々ある。それを考えると、今こうして平然と国の政に携わっている サイガが気味悪くさえ見えるのだ。

 ひょっとしたら聖龍殿の者たちがサイガに構わないのは、『そういう』意識が働いているせいかもしれなかった。

「実感がねェのか?」

 エトガーがたずねるとサイガは首を振った。

「俺にも、よう判らん。エドガーの言うとおり、実感がないだけなのかもしれんな」

 数週間という時を経てなお得られない実感なんてものがあるのだろうか、と思いはしたが、エドガーは何も言わないことにした。

 何を言ってもきっと違う。サイガはまだ、決定打といえるものを受けていないのだ。先王たちの、自分の血族の行方不明をただ「留守」のように考えている状態で、周りが騒ぐほど重大に受け止めていないだけなのだ。

 二度と戻らない、二度と会うことはない、決して返らない──そんな確実なものが何もないから、サイガは悲しむことさえできないでいる。

 いつか帰ってくる……彼は意識しないところで、そんな気でいるのだ。

「…だが、気にはなっていた」

 サイガはぽつりと言った。

「父上方がどこへ行ってしまわれたか。中央大陸に何の異変が起こったのか。民たちは国のことだけで手一杯で、とても中央で起こったコトに考えが及んでおらんようだ」

「このクソ忙しい中、そーゆーことに考えが及んでるおまえの方がオカシイと思うぜ」

 エドガーは呆れて言った。

「では、おまえも変ではないか?」

 サイガがからかうように目を細めて言った。

「何でだよ。オレはまともだ、国のことで手一杯だったんだからな」

 エドガーは反論しながら、こういう表現のときに「まとも」という言葉を使うのはおかしいような気がした。まとも、と言うのなら、世界情勢に目が届いているサイガの方がよっぽどまともだ。

 広い視野があってこそ世界の動向を見て自国のそれをも決めることができる。王になる者としては申し分ないと言っていい。

 だがエドガーのそんな内心を知らず、サイガはフーンと、威張って言えるはずもないことを堂々と言った相手を見やった。イタズラが大好きな、子供っぽい目で。

「何を言うておるか。このクソ忙しい中、俺のことを考えておったくせに」

 ぴくっ。宙をウロウロしていたエドガーの尻尾がピンと伸びる。

「ほら、おかしいだろう。ヒトの身を案ずるより自国を気にされた方がよいぞ、獣牙王殿」

 サイガは笑った。エドガーは、不意打ちとはいえ思った以上に反応してしまった自分が恥ずかしくなって、チッと舌打ちして顔を逸らす。

 へんな冗談言いやがってコイツ、まさかカマかけてんのか──。

「くそっ、心配してみて損したぜ」

 ぷい、とそっぽを向くエドガーに、サイガはまだ可笑しいのか肩を震わせている。

 いっそもう帰りたくなってきたとき、ひとしきり笑って一息ついたサイガが、急にマジメな顔をした。

「心配ついでに、俺に付き合う気はないか。エドガー」

「…なんだよ?」

 エドガーは首を傾げた。

 ちょうど国の情勢も一段落したばかりで、時間なら今はいくらでもあった。サイガの状態によっては何日か滞在してもいいなと考えていたところで肩すかしをくらった矢先のこと、何を言われても付き合える自信があった。

 ──常識の範疇でなら。

「中央大陸へ行ってみたいのだ」

 ……………。

 長い間がある。

「はぁっ?」

 なんだコイツ、まるでちょっと旅行に行ってみたい、みたいな口ぶりで何つぅこと言いやがんだ──!

「一度だけでよいのだ。何でもいいからとにかく、ひとめ中央の様子を知りたい。だから頼む、エドガー。俺と共に中央へ行ってくれんか」

 真剣な表情だった。それだけで十分、サイガの言葉が本心からきていることくらいはすぐわかる。

 エドガーをはじめとする他の王たちのように想像の中で親の死を悟り、それを悲しんで感情を昇華させることができなかったサイガは、ひとつき近い時を経てなおも、中央で何が起きたのか、事実をその目で確かめたいと思っていたのだ。

 そしてちょうどいいところにエドガーが訪れた。サイガは彼を見て、今日がその機の日であると感じたに違いない。

「……わかった」

 エドガーはその一言だけを呟いた。

 皇帝がいなくなり、中央は現在もぬけのカラのはずだ。それなら危険はない、そう思えた。モンスターたちが巣食っている可能性もあったが、そんなものはこの二人の敵ではない。

「よしっ。では夜明け前に発とう。爺やどもに見つかると厄介だからな」

 危険はない。そう思ったからOKしたはずだった。そして大した事実が見つかることもなく、ただ廃墟と化した中央を見回るだけで何の収穫もなしに終わるだろうと、エドガーだけではなく、サイガもきっとそんなふうに考えていたはずだ。

 だがそれは違った。幼い二人は考えもしなかったのだ。

 行く先で、想像も及ばない衝撃が待っていることを。






                                    NEXT...(2005/06/11)