冷厳


    1


 光龍歴、一年。神羅世界は皇魔との大戦が終結して間もなく一年を迎えようとしていた。

 一年目の当日にまたがる本日からの数日間、中央都市ではその日を祝うべく祭典が始まる。各大陸からの来訪者数は、予想されるだけでも類を見ないものとなろう。宮殿で行政に携わる高官らはもちろん、各大陸から代表として選出され幹事を務める将軍らもまた、神経を尖らせてやまなかった。

 彼らが目指すのは無事の終了。戦乱を駆け抜けるのとは訳が違った、管理のための慌ただしい日々が始まるのだ。

「……して、ライセン」

 玉座にもたれかかるようにして、何とも疲れた顔をしたサイガが投げやりに言った。

「俺は今日、何をすればよい?」

「午前十一時、宮殿前に集まった民らにご挨拶を」

 巻き取るにも相当な時間がかかりそうな予定表なる巻物を手に、聖龍王代行のライセンは厳格な表情を崩さぬまま言った。

「その後は、夕刻に再びお出でいただきます」

「……宮殿の外へは出られぬのか?」

「立場をお弁えください」ライセンは巻物をしまいながらピシャリと言った。「あなたがひとたび表へ出られたなら、押し寄せる群衆で城下は戦乱に勝るとも劣らぬ混乱に陥りましょう」

「その民らをまとめ上げるのも、おまえたちの仕事であろう」

「我々の仕事はあくまで祭典の運営であり、あなたへの憧憬や賛辞を胸に来訪される方々の統率ではありませぬ」

「…………」

「……どうしたのだ、サイガ」小さな溜息とともに、ライセンはとうとう言った。「間もなく祭りが始まろうというのに、随分と虫の居所が悪いではないか」

 そう。ライセンが軽い打ち合わせのためにここを訪れた時から、サイガはどうにも機嫌が悪かったのだ。

 ライセンと入れ替わるように玉座の間を出ていった高官の老人たちは、特に不平も不満も漏らしてはいなかった。ということは彼らと何かいさかいがあったというのではない。このサイガに限って、連中の態度が気に入らなかったということもあるまい。

 ではいったい、なにが彼をこうも苛立たせているのか。

 答えはすぐに、本人の口から出た。

「俺も外へ出たい」

 それはあまりにも率直過ぎて、子供の駄々にも聞こえてしまった。

 そしてこいつがこんな調子でこんなことを言うのは、相手が気の置けぬライセンだからこそであった。

「先ほども言ったが」ライセンは言った。「立場を弁えなさい。聖龍の里で祭りに繰り出すのとは訳が違う。あなたは皇帝だ。この世界の帝なのだよ」

「……わかっておる」

 重く、飲み込むように言うのは、その言葉の意味を本当に理解しているからだ。望みが叶わぬからといって本当に脱走するほど彼も愚かではない。皇帝として、本来ならばこんなことは考えさえもするべきでないと解っているからこそ、彼は制御が利かぬほどの気持ちの強さで感情が揺れているのだ。

 実はライセンは、この祭典が予定立てられた半年前から、サイガがこんなことを言い出すのではなかろうかと危惧していた。

 サイガが直々に、祭典運営の最高責任者として獣牙王エドガーを指名した時から。

 運営責任者となれば、各将軍らと同じく彼も期間中は中央に滞在せねばならない。早い話、サイガはそうすればエドガーに会えると思ったのだ。皇帝として即位してからというもの、公務の場以外では見ることもできなくなった想い人に。

 あとはわずかでも自分に時間があれば──。けれどそんな期待も儚く潰えようとしている。おそらく先ほど高官らと話しているときにでも察したのだろう。

 厳格かつ正義にのっとった意思を持つその一方で、あまりに直球かつ稚拙と言わざるを得ないサイガの考えには、さしものライセンも呆れ半分、可笑しさ半分といったところだ。

「まあ、最後まで希望は捨てないことだ」ライセンは言った。「祭りは数日続くのだからね」

「……無駄な期待はせぬよ」サイガはヨッと玉座から立ち上がって言った。「そろそろ時間であろう。行くとしよう」

「御意」

 即座に心持ちを切り替えたライセンが、うやうやしく頭を下げた。



 猛者揃いの獣牙将軍には、女も少なくはない。

 その中のひとりであり、俊敏さと攻撃の激しさから『烈将』と謳われたベリルには、拭い去れぬひとつの懸念があった。

 それはもう、ひとつきほども前のことだ。

 彼女のもとへ、内密にひとりの男がやってきたことに端を発する。

「昔は四大陸を股にかけた女盗賊が将軍とは、大人しくなったもんだ」

 その男は誘いに応じてやってきたベリルを一目見るや、そう言って嫌味に笑った。

「何か用?」白い猫科の尻尾を揺らめかせ、ベリルは突き放すように言った。「わたし、悪いけど来月の祭典の支度で忙しいの。っていうか、もうあんたたちには関わらないって言ったはずだけど」

「そんなつれねェこと言うなよベリル。今度の話はスケールが違うんだ。これを聞いたら、おまえだって昔の血が騒ぐに決まってる」

 見覚えのあるそのネズミ族の男は、かつてベリルが所属した──といっても、ベリルはそこを寝床か食材調達の場程度にしか考えていなかったわけだが──盗賊団の幹部であった。

 ずいぶん前にセツナのスカウトを受けて脱退──といっても、やはり彼女にしてみればねぐらを変えた程度の感覚だったのたが──してもなお、この男をはじめとした一団の上層部らは、彼女を自分たちの一員と認めて、あるいは欲してやまないようだ。

「──聖龍石だ」

 男の口から出たその言葉を聞いて、ベリルは我が耳を疑った。

「先の大戦で魔王の魂を封印したっていう、光龍帝サイガが持つ聖龍石……」男は得意げに言った。「今度の祭りに乗じて、それを頂こうって寸法さ」

「バカじゃない、できるわけない」ベリルは強く言った。「わたしら獣牙はほとんど総出になるし、各大陸からは名だたる将軍が来るんだよ。そんな警備を掻い潜ろうなんて」

 わたしでもなけりゃ、できるわけが──。そこまで口走りかけて、彼女は理解した。

 この男は、ベリルにその役目を買えと言っているのだと。

「ふざけんな!」ベリルは尻尾を逆立て、次の言葉を待たずに怒った。「わたしはもう、おまえらには二度と関わらないって決めたんだ!」

 どっか行け──。

 その叫びの激しさをもってベリルの逆鱗に触れたことを意識したか、男はチッと舌打ちを残して逃げるように退散していった。

 苛立ちと腹立たしさが胸を埋めた一方で、ベリルはそれを誰にも言えなかった。

 未だにあんな連中が自分と関わりを持とうとウロついていることを、他の将軍たちに知られたくなかった。それにヤツらは、規模の大きさや手口のヤバさこそ有名だが所詮ただの盗賊団。どうあがいても中央の警備を掻い潜ってサイガに接触するなどできはしない。

 仮にできたところで本人から返り討ちに遭うのが関の山だ。皇帝が皇帝として選出される条件が、各部族王の中でも『もっとも理知と武力に優れた者』であることを彼らは完全に忘れている。まあもっともな話、女に見紛うばかりのサイガの容姿を見れば『武力』の点を見落としたり見縊ったりする者も少なくはなかろう。実を言えばベリルも例外ではなかった。

 あんなやつら、放っておけばいい。そのうち全員捕まってイタイ目見ればいいんだ──。

 そもそもベリルは連中のやり口が嫌いなのだ。力任せに小さな集落を襲って金品を強奪するだけに留まらず、若い娘や女を攫っては犯し、遠い町に売り払う。セツナに勧誘を受けたとき、彼女が二つ返事で連中を切り捨てることができたのは、そうした行為への嫌悪が大きい。

 そして祭典当日となる今日まで、連中からの接触は一切なかった。諦めてくれたか、あるいはベリル抜きで実行するのか。彼女の懸念は常にそのひとつだけだった。

「おい、ベリル」

 声をかけられてハッとすると、さっきまで隣を歩いていた婚約者のコランダムが少し先に立って彼女を振り向いていた。

「どうしたよ。足でも痛ェのか?」

「う、ううん。何でもないよっ」

 ベリルは慌てて取り繕うと、彼の隣に戻っていった。

 この祭典が終わったら、次は自分たちだ──彼女はもう間もなく来る、自分とコランダムの婚姻の日を思った。

 この祭り、奴らに手出しはさせない──。絶対に成功させるんだ、と決意を新たに、ふたりは中央へと上陸した。


    2


 宮殿の高台にサイガが姿を見せると、周辺に集まった群衆の歓声はますます高まった。

 思い思いに手を掲げ、声を上げて、彼らは一年目を無事に迎える歓喜と、皇帝の偉業に感謝を放ってやまない。中には小さな花束を投げる娘もいた。帝が手を振って応えれば、彼らはその視線を自分に向けようとアピールする。もしこの大観衆の中で目が合うことがあれば、民らにとってそれほど光栄なことはないのだ。

 ベリルが何かを話すまでもなく、あたりに散った将軍らは周辺に目を光らせていた。それはサイガの背後に控えたライセンやシオンはもちろん、エドガーも例外ではない。

 時代が古かったこともあったが、黄龍帝フガクの頃には、こうして群衆への挨拶に出てきた彼に刃を放った賊も居たのだ。時は移れどヒトの心は変わらない。むしろ何度でも同じことを繰り返すもの。彼らの警戒度合いもうかがえようものだ。

 さすがに最初は何事も起こりゃしねェか──。エドガーが軽く息を吐いたそのとき、彼の獣の鼻は、いつもと違うにおいを嗅ぎ取っていた。

 これは。頭が理解するより早く、エドガーは弾かれたように走っていた。えっ、と将軍らが驚く中、彼はサイガの肩を引っ掴んで抱き寄せるとともに、その傍らに落ちていたブーケを思いっきり上空へ蹴り上げる。

 次の瞬間、空中でブーケが爆発した。十人は軽く吹き飛ばせる火力で。

 驚く暇はない。時を同じくして街の数か所で、同じ規模の爆発が立て続けに起こっていた。建物は一部あるいは大部分が吹き飛び、その場で壊れてしまったかもしれない崩落音が響いてくる。

 エドガーが嗅ぎ取ったのは、火薬のにおいだったのだ。

 ワアアァァァァッ。眼下の群衆が悲鳴を上げ、どこへともなく散り散りに逃げ出そうとした。

「ライセン、シオン! 民の誘導をせい!!」

 とっくに光牙七支刀を手にしたサイガがそう指示を残し、高台の縁を蹴って跳び降りる。彼は群衆のど真ん中に着地すると逃げ惑う彼らには目もくれず、もっとも規模の大きかった爆発のあった方向へと駆け出していた。

 待ちなさい、と声をかける余裕など無かった。当たり前のように彼を追ってエドガーが跳び下りて行くのを唖然と見送ってしまったライセンは、ひとまず私情を飲み込むことにした。

「いくぞ、シオン!」

「はっ」

 二人の将が他国の者らを先導し、民らの中へと飛び込んでいった。



 ベリルは竦む足をおして走っていた。進む時にはもうもうと白煙が上がっており、誰かの泣き喚く声が遠く近く反響している。

 あいつらだ──。その思考が頭をぐるぐると巡る。これじゃまるで戦争じゃないか。あいつら、どこでこんな戦略や技術を修得したっていうんだ──。

 もっとも規模の大きかった爆発は、街の中心部にある噴水広場で起こった。たどりついてみると、見事な彫像で飾られたはずのそれが跡形もなくなっている。爆風に吹き飛ばされた民らが、あるいは瓦礫の下敷きになって苦しんでいた。

「ひどい……っ」

 ベリルがたまらず表情を歪めたとき、こちらへ急速に接近してくる足音を聞き付け、彼女は慌てて身を隠した。ここで一団の者に見つかるのは御免だというのが理由だが、元盗賊としての性分のほうが強かったのかもしれない。

 やってきたのは、光牙七支刀の片割れを手にしたサイガとエドガーだ。どこの国の将軍らより早く皇帝と王がこの場に到着するなど、状況に対して適切かはさておき、こいつらの決断力と行動力は計り知れない。

 サイガは周囲を見回して怪我人の数と状態を確認すると、手にした輝く刀身を地に突き立てた。宝玉に両手を添えて目を閉じ、集中のためのわずかな間を置くと、黄金色の輝きがその身にまで移り水の膜のように身体を包む。

 その光が弾けて、あたり一帯を駆け抜けた。

 それだけだった。怪我人の姿など、もうどこにもない。

(転送魔法だ……)

 そんなもの、ベリルは初めて見た。きっとエドガーも見たことはなかっただろう。だってこれを使える者がどこかに一人でもいたなら、この世界はもっと早くに一致団結できていたのだから。この魔法の使い手には、おそらくかの大魔導ライセンですら成り得ない。

「ここに居るのは判っておる!!」抜き取った金色の刃を手に、サイガが声を張った。「姿を見せよ、賊ども!!」

 あちこちの建物の陰から、ぞろりと様々な国の特徴を持った者が歩み出てきた。

 彼らは各々の国の文化に見合う武器を手に、背中合わせになったサイガとエドガーを取り囲むようにして立っている。

「……油断するでないぞエドガー」サイガが言った。「奴ら、ただの賊ではない」

「ケッ、言われるまでもねェ。テメェのほうこそ、平和ボケしてやられたら承知しねェぞ」

 ベリルは、はじめこそこの『犬猿』の二人に連携など可能なのかとハラハラした。だがエドガーの減らず口を受けたサイガの顔を見たとき、その危惧が杞憂であったことを知る。

 彼は気を悪くするどころか笑ったのだ。それはこれまで獣牙を『見下して』きた聖龍のものでは絶対にない。エドガーに見えぬところで静かに浮かぶその表情は、心地好いと言わんばかりに柔らかかった。

(なに? あいつら。もしかして、実はそんなに犬猿でもない?)

 続く戦闘も息の合ったものだ。ベリルだって、皇魔の魔物連中に比べたらヒトに過ぎぬ盗賊団の一員などあっという間にのしてしまえるが、戦いの中心でマステリオンとさえ刃を交えたサイガとエドガーならば尚更だ。この程度の連中を鎮圧するくらい、将軍の手を借りるまでもない。

 ……どちらかといえば、本人らが出るまでもない、というほうが正しいのだが。

 今、最後のひとりが、サイガに七支刀の柄を腹へ叩き込まれて気を失う。倒れそうになったその身体を、律儀にも抱き留めたサイガが地に横たえてやったとき。

 キャアァ──ッ。上のほうから女の悲鳴が上がった。

 ベリルを含めた一同が揃ってそちらを見上げると、そこでは爆発で根もとを攫われた小さな塔が崩壊しようとしているところだった。

 注目すべきはその高台だ。爆発が起こったときに避難しようとしたのかもしれない。ひとりの女がそこで塔と運命を共にしようとしている姿が見えた。

「いかんっ」サイガが立ち上がりかけたところで。

「任せろっ」エドガーが地を蹴って跳躍して。

(──ダメッ!!)ベリルは叫びかけた。

 あの女の匂いには覚えがある。あいつも盗賊団の一員だ。巻き込まれたフリをして救助に来た者を騙しうちするのが得意な、意地の汚い女であったことをベリルはよく知っていた。

 彼女はそれをエドガーに報せようとした。

 だが、できなかった。

 彼女の後ろ首には、すでに硬い一撃が降り下ろされたあとであった。神経が前方に張り詰めていたせいで、背後からの接近にまったく気付かなかった。ばちりと目の前に火花が散り、ベリルは急激な眩暈で立っていられなくなり膝から崩れる。

 その身体を、誰かが抱き留めてくれる。だがそれは、間違ってもサイガでも、そしてエドガーでもない。

 エドガーは塔の高台で、鎖鎌を手に豹変した『市民』に奇襲され、そして。

「エドガーッ」

 想像もしなかった展開に驚いたサイガが踏み出しかけたとき、彼の足下にあった影が大きく伸びて、魔物のような形に立ち上がっていた。それは薄っぺらい暗幕のようにサイガの前に立ち塞がると、一瞬硬直した彼の身体をすっぽりと包み込んでしまった。

 ベリルに見えていたのはそこまでだ。

 彼女は誰とも知れぬ者の腕の中で、気を失っていた。


    3


 首の痛みが邪魔をして身動ぎもできず、その違和感でベリルは目を覚ました。

「おう」サイガの声がした。「気がついたか」

 目の焦点が合ったとき、思いのほかサイガは近いところに座っていた。ぼやけていた意識のモヤが吹き飛び、ベリルは慌てて飛び起きる。直後に、頭をブン殴られたような苦痛が襲ってきて彼女は床に撃沈した。

 そうだ。わたしは確か、誰かに不意うちをくらって──。

 あたりをよく見てみると、そこは木造の小屋だった。明かりになるものはないが、空がまだ明るいので視界には困らない。床の片隅に打ち込まれた金属の杭から伸びた鎖が、ベリルの脚をしっかりと繋ぎ止めていた。

 サイガもまた、壁に背を預けて平然と座っているように見えるが、膝の上に置かれた両手には鈍い色をした枷があった。よく見るとその表面には、かつて聖龍封じのために鎧羅で開発されたまじないの文字が刻み込まれている。

 これに繋がれた聖龍の者は魔力の一切を封じられる。無理に使おうとすれば──。

「……ごめん」ベリルは今にも泣き出したい気持ちだった。「ごめんなさい、私のせいで」

「どうした」サイガは少し困ったように言った。「何を泣く必要がある。別におまえの責任ではなかろうよ」

 いいや自分のせいだ。ベリルはぶんぶんと首を振った。首の後ろが痛かった。

 要するに、自分たちは不意をつかれて盗賊団に拉致されてしまったのだ。

 かつては皇魔の者らでさえ成し得なかったサイガの拉致をこの一団が成し遂げたのだから、これはこの界隈では称賛されるべき手際かもしれない。けれどそんなことはどうでもいい。この一団のこうした計画は、ベリルはあらかじめ知っていた。それなのに、奴らにできるわけがないとタカをくくって『楽観』してしまった結果がこれなのだ。時代が時代ならば自決をも科せられたかもしれない重大なミスである。

 ベリルはサイガに、こうした事の顛末を話した。エドガーに知れれば将軍を降ろされるだろうし、おそらくコランダムとの婚約もなかったことになる。けれど何もかもを隠して黙っておくには彼女は純心すぎた。

 セツナが彼女を将軍にスカウトしたのは、このまっすぐな心持ちを買ってのことだということをベリル自身はまだ知らない。

「よしよし。もう泣くでない」

 重い鎖を鳴らし、サイガはベリルの頭をそっと撫ぜた。優しい手だった。

「おまえのような心持ちの者が配下で、エドガーもさぞ鼻が高かろう。誰もおまえを咎めはせぬ。もちろん俺もな」

「な、なんでそんな──」

「それよりも問題は現状だ」サイガの目付きが鋭さを帯び、小屋の各所に目を走らせた。「ベリルよ。おまえがかつてここに在ったというのであれば、教えてほしい。奴らの癖を」

 そうだ、泣いてる場合じゃない──。ベリルは慌てて両手で涙を拭うと、一息ついて気を取り直した。

「私がここに居たのはかなり前の話だから、この情報にどのくらい信憑性あるか判らないけど……」と前置きし、彼女は言った。「多分、もうここは中央じゃないと思う。どこの大陸でもない、国境近くの島じゃないかな」

 奴らの手口はこうだ。

 集落を襲撃して『ヒト』の収穫があると、彼らはこうして警備や捜索の目が届きにくい国境近辺に息を潜める。そうして数日中に各大陸で『買い手』を探し、あっという間に売り捌いてしまうのだ。

 もともとこの一団は各地の富豪にパイプがあるため、あらかじめ契約成立の上での犯行である可能性もあるが。

「なるほどな」サイガは頷いた。そしてふと、冗談のように笑い交じりで言う。「では、俺たちも近いうちにどこかへ売られてしまうのだろうかな?」

「アンタ自分の立場解って言ってんの!?」ベリルは驚愕した。「アンタなんか、どんなド変態も買わないわよ! 違う意味で!!」

 そもそも一団の狙いは、光龍帝が玉座の間に所持する聖龍石だ。このサイガを人質に交換、などという構図が頭に浮かぶ。

 まさかこんなチャチな盗賊の一団が、聖龍石を強奪した上にサイガを殺してしまうようなことは絶対に無い……と思いたいが、一度その予測を裏切られているベリルには、もはや否定しきれなかった。

 と、そのとき、サイガとベリルの二人がまったく同じ方向に目をやった。

 そこは唯一の出入り口となる扉だ。近付いてくる足音がある。

「ふたり……三人?」ベリルは言った。

「いや、四人だ」サイガが言った。

 ガチャリと乱暴にドアが開く。その向こうに立っていたのは、シミターをぶら下げた大柄な男だ。成りを見る限りは修験者のようにも見えるのに、その目には皇魔の魔物にも匹敵する、鋭い光が揺れている。下手に刺激しないほうがよい、熊タイプの獣人だった。

 彼は鎖の限りに寄り添ったサイガとベリルの姿を認めて、どこか満足したようににやりと笑って言った。

「ご機嫌麗しゅう、皇帝陛下」

「……」

 サイガは何も答えなかった。相手の出方を見るには至極真っ当、かつ常套的な対応だ。

 だが──。

 急に機嫌を悪くした男はチッと舌打ちするとずかずか近付いてきて、あろうことかいきなりサイガの頭を蹴り倒していた。

 ビクリと身を竦めて息をのむベリルの前で、短い悲鳴とともにサイガが床に倒れる。大男は何も言わぬまま、そんな彼の腹を踏み潰そうとするようにまた蹴った。何度も、何度も。

「あ、あ……」ベリルはたまらず泣き出しそうになった。できることなら庇ってやりたかったが、鎖が邪魔をして踏み出すこともできない。「やめて、やめてよっ! やめてったら!!」

「ハァー?」制止される意味が解らない、といったふうに男がベリルを振り向いた。「何言ってんスか、ベリル様。こっちがわざわざ挨拶してンのに、お答えにならない陛下が悪いんじゃないスか?」

 こいつ、やばいヤツだ──。ベリルは背筋が冷たくなった。変な薬でもやっているのかもしれない。それを疑わせるほどに欠落した常識観念と感情の制御の無さが今の一言に透けている。刺激どころか、対応ひとつをとっても慎重にならねばならない相手であった。

 男の足下でサイガが身動ぎした。自由にならない腕で、それでも起き上がろうとする。その小さな咳き込みを聞き付けた男はぬっと手を伸ばすと、彼の蒼い髪をわし掴みにしてぐいっと引き上げた。

「安心して下さいね皇帝陛下。聖龍石が手に入るまでは、あなたのことは殺しませんので」

「手に、入ると思うておるのか……」サイガは息をするにも苦しげに言った。「あれは誰の手にも渡してはならん物だ……諦めよ」

「ハッ。モノスゲー秘宝ってさ、いつもそういうふうに言われるんスよね!」男は嬉しそうに笑った。「中央の連中だって、いくらアンタが人質でも簡単には渡さないっしょ。だから俺、とりあえず中央に脅迫状でも送り付けようかと思いましてェ」

 おい、とその男が目配せすると、開いたままの扉の向こうから更にふたりの男が入ってきた。先ほどの怒涛の暴力を前にどこか怯えた顔をしているように見える彼らは、ひとりの子供を連れていた。

 子供もまた、真っ青になって震えていた。おそらくは先の騒ぎで中央から攫われてきたのかもしれない。ふたりの男らに押し出されるようにして前に出てくると、ようやく髪を解放されてその場に膝をつくサイガを見て、蚊の鳴くような声でサイガ様、と小さく呼んだ。

 大男は子供の背後にまわると腰を落とし、その肩にぽんぽんと手を置いた。まるで父が子を安心させようとするように。

「さすがの中央も、死体が送られてきたらビビるっしょ。あちらさんにも、これが脅しじゃないんだって解ってもらわないといけませんからねェ」

「……ッ!」サイガの顔色が変わった。「待て、やめろっ!!」

 ざしゅっ。

 サイガもベリルも言葉を失った。時が停まったように唖然とするふたりの前で、いとも簡単に撥ねられた子供の首がゴトンと床に転がる。

 殺した。まだ幼い子供を、事もなげに。

「──き」サイガの身が震えた。「貴様あぁぁっ!!」

「待ってサイガッ!!」ベリルが悲鳴を上げた。「魔法はダメッ……!!」

 激高したサイガがバチリと帯電した──かと思ったら、彼の両手を戒めていた黒い枷の文字が光って浮き上がった。それは光の帯となって瞬く間にサイガの身体を取り巻くと、つい今しがた彼が撃ち出そうとした電撃をそのまま内側に跳ね返していた。

「ぐああああぁぁぁぁっ!!」

 術の暴発をまともに受け、サイガは悲鳴を上げた。

 電撃は崩れかかった雷龍を形作ったかに見えたが、ほどなく術者であるサイガが意識を失ったことで魔力の供給を解かれ、消失する。

 今が夜間であったなら、間違いなく各大陸に居場所が知れ渡ったであろう強烈な閃光。この瞬間、この電撃を受けていたのは、本当なら皇帝の逆鱗に触れた自分たちだった──そう思った控えの者らが震えあがる一方で、大男は堪え切れない様子で残虐に笑っていた。

「あーあ、こんなことでそんな怒っちゃって。ホントはアンタの髪を切って送り付けてやろうと思ったけど、キレイで勿体なかったんでこっちにしたんですよォ? 感謝してほしいくらいなのに……」

 男はにやにやしながら倒れたサイガの枷の鎖を掴み上げると、壁に押し付け、そこに血まみれのシミターを打ち込んで吊り下げた。

「ああ、悪くないなあ……」

 男は嬉しそうに捕えた獲物の頬を撫でながら、首が力なく垂れる様を見て恍惚と言った。

 違う、この男は宝がほしいんじゃない──。ベリルは直感した。こいつは暴力の権化だ。戯れにヒトを殺すことを、傷付けることを、壊すことを愉しみたいだけなんだ──。

「コトが終わったら、ベリル様はちゃーんと解放してあげますよ」男は言った。「これからはこの一団で、仲良くやっていきましょーよ。ね?」

 冗談じゃない。ベリルは身の毛がよだったが、下手な返答をすればどんな暴力が返ってくるはわからず、答えられなかった。

 大男はベリルが故意に返答を見送ったのではないことに気付いていたから、機嫌を悪くすることはなかった。子供の死体をひきずって、鼻歌交じりに小屋を去っていく。続いて出ていこうとした控えの男のひとりが、ちらりとベリルとサイガの様子を気にした。

 ちゃりん。その男は逃げるように身を翻して立ち去る時、何か小さなものを落としていった。それを見たベリルは頭が理解するより早く本能的に跳び付こうとして、鎖に邪魔をされ床にべしゃりと倒れてしまった。

 鍵だ。とても簡素な、銀色の小さな鍵。この場で鍵といえば用途はふたつ。サイガの枷か、自分の枷のどちらかだ。

 サイガの枷であったなら、今は壁に吊られた彼にはいかにベリルが身を伸ばしても届かない。けれどもし自分の枷であったなら逃げることができるのだ。

 ベリルは必死で足を伸ばし、腕を伸ばした。けれど、今一歩のところで届かない。下手に勢い付けて遠くに弾いてしまっては笑えないので極めて慎重な思いで。未だかつて……そう、盗賊として生きていた頃から、これほど必死になったことなんて一度もなかった。

 そのうち陽が暮れたけれど、彼女はそれに気付かなかった。




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