冷厳桜姫 4 あたりはすっかり暗闇に覆われた。 杭を動かそうと力をこめたり、鎖をどうにかできないかと悪戦苦闘するのにも疲れ、ベリルが再び正攻法に戻った時のことだ。 「……ベリ、ル…」 サイガの意識が戻った。 「サイガッ」ベリルは手を伸ばすのをやめないまま言った。「もうちょっと、待ってて……ッ」 首をもたげることも満足にできない彼は、垂れた髪の隙間から虚ろな目で彼女の様子を見ている。 金属との摩擦でベリルの脚は皮が擦りむけ、血が流れ出していた。それでも彼女は力を振り絞った。この程度の傷も痛みも、さっき殺された子供に比べたら──そしてサイガが負ったものに比べたら全然大したものではないのだから。 (お願い、お願い、神様──) そのとき、ベリルの祈りが天に届いた。 メリッ。鎖を繋いでいた杭がわずかに歪んで、伸ばしていた指先がついに鍵に届いた。何日も食べていないところでようやく掴んだパン切れのように、涙が出そうなくらい嬉しかった。けれど感動の涙を流している暇はない。彼女はそれを自分の枷に差し込んだ。今ひとたび、神に祈る思いで押し回す。 ──かちり。 回った。 ロックが外れ、ようやく彼女の脚は解き放たれる。立ち上がると痛みはあったが、走れないほどではない。 「サイガ、逃げようっ。どこかに船があるはずだよ、それで──」 「……待て」 自分に駆け寄ってきたベリルを、サイガは制止した。 そして呼吸を整えて、やっとのことで首を持ち上げる。 「子供は、あのひとりだけではない」 「え」 「昼間、まだ数人の声が聞こえておった。奴め、中央が取引に応じねば次々と殺すつもりでおるのだ」 「そんな……っ」 「おまえが征くのだ、ベリル」 サイガははっきりと、ベリルの目を見て言った。 「手を貸せぬ我が身が歯痒いばかりだが、子供らを解放してやってくれ。そして中央へ戻り、奴のことを報告せよ」 「ちょ、ジョーダン!」ベリルは抗議した。「アンタを置いてけっての!?」 「今の俺は足手まといだ、捨て置け…ッ」どこかが痛んだのか、サイガは身動ぎして息をのんだ。「のちに助けにきてくれれば、それで……よい……」 悩めるような状況ではない。 サイガの言う通りにするのが一番確実だ。あの熊男は、聖龍石が手に入るまではサイガは殺さないと言っていた。……だが、サイガよりも意味の大きい人質であった子供らをすべてベリルが連れ去ったあとのこととなると、わからない。 アイサツひとつであれだけの暴力を平然と振るうのだ。ベリルとサイガが諮り合った上で脱走を目論んだのだと万一にも知れることがあれば、残されるサイガの命は保障外だ。 そのとき──。 何の前触れもなく、唐突にバーンと扉が開いた。 「お邪魔シマース、皇帝陛下ぁ」 舌の回らぬ言葉遣いはどう見ても泥酔した者のそれだ。強い酒の臭いを身にまとわせ、あの熊男が再び踏み込んできた。 「……アレ?」 入ってきた男は室内をぐるりと一望し、ベリルの姿が無いことに気付いた。 「起きてますかあ、陛下」 さすがに昼間『綺麗だ』と言い放っただけのことはあって、男は項垂れたサイガの髪にするりと指を通すと、強く掴んで顔を上げさせた。その目が開いているのを見て、けれど弱り切っているのを見て、満足そうに笑った。 「ベリル様の御姿が見当たらないんですが、お心当たりは?」 「……知らぬ」サイガは吐息とともに言った。「俺が気付いたときには、もう、姿が見えなんだ」 「ひとりで逃げちゃったんスかねえ、けっこー薄情な女だな」 やれやれと他人事のようにそう言う男の目を盗み、サイガはちらりと天井付近に視線を投げる。ベリルはそこにいた。荷物置き用に高く設置された小さな棚。小柄で身軽な彼女ならではの隠れ場所といったところだ。 サイガと目が合ったベリルは、ぐっと言葉を飲み込んで音もなく跳躍すると、男が開け放したままだった扉から出て行った。必ず戻ってくるから、必ず──声の無い決意の思いを強く残して。 「──ま、いいや」 はじめからどうでもよかったように言い捨てて、男は壁に突き立てたシミターを引き抜いた。支えを失って崩れそうになったサイガを軽く抱き留め、床の上へと投げ出す。そして、壁にそうしていたように刃を使って再び両手を頭上に固定してしまうと、おもむろにその身体の上にのしかかった。 「俺ねェ、酒が入ると無性に女がほしくなるんスよねえ」 「──な、なにを……っ」 焦りと動揺の色濃いサイガの声は、中途のところで男の唇に塞がれて切れた。何の迷いもなく口内に酒臭い舌が入ってきて、その臭いに頭がくらりとする。 「う、ぅんっ」 すぐに逃れようと試みるものの、暴力に慣れた男の力はやたらに強く、手負いの身体ではまったく歯が立たない。頭を床に押し付けられて身動ぎもままならず、サイガは男の思うまま口内を蹂躙された。 泥酔のあまり男女の区別もつかぬのか、それとも相手が美しければ見境がないのか。身を起こした男は無礼も無遠慮も極まりなくサイガがまとう衣の合わせを開いて、肌に唇を滑らせていった。 「やめよ、離せっ……うあッ」 自らが放った電撃で焼けた傷に舌を這わされ、刺すような痛みにサイガがびくりと身を竦める。男は構わずそこに歯を立てて滲む血を舐め取り、胸元を下りながら言った。 「皇帝陛下はハコ入りだから、こんなふうにされたコトなんてないっしょ」 「バカか、そもそもあるわけがなかろうっ」サイガは全力で抗議した。「気でもフレたかこの不埒者、死にたくなければそこを退けッ」 「あーあ、いいんスか? 俺にそんな大口叩いちゃって。残ったヒトジチが生き残れるかどうかは、今の陛下の言動ひとつにかかってるんスよォ?」 「は……っ!?」 意味が解らん、とばかりに驚愕する相手の片足を抱え上げ、男はずいと乗り出して身体を密着させる。衣越しに男の昂ぶりを押し当てられ、しかもそれを『本番』のように揺り動かされて、悪寒と虫唾が走るのをサイガは噛み殺した。 これから何をしようと考えているのかを知らしめる動作。圧倒的な不利にある相手がそれを感じ取ってどんな反応をするか。この男はそれさえ隷従支配の一環として愉しんでいる。 「あんたが今スグやめろっておっしゃるんでしたら、俺はこのままアジトに戻って、別の楽しみに移ってもいいんスけどねえ?」 「く……」言葉を失ったサイガが、青ざめながら奥歯を噛む。 「さあ、どうします?」男は愉しげに言った。「やります? やめます?」 何と底意地の悪い問いを放つのか、この男は。 ここでサイガが一言やめろといえばこいつは本当にやめるだろう。そしてアジトへと戻っていく。……さっき出ていったベリルを追う形で。 それだけは、絶対に避けねばならない。 このまま時が停まってほしいと切に願った短い祈りの間を置いて、何もかも投げ出したように目を閉じたサイガは、消え入る声で言った。 「──抱いて、くれ──」 「……」男は身体の底から来る愉悦に、引きつるように笑った。 「おまえの気が済むようにすれば、よい」その発言がまったくサイガの本意ではないことは、言葉を選ぶようなたどたどしさから……そして、噛み潰した苦虫がそこにあるかのような声の震えで充分に察せられる。「おまえの思うまま、俺を、っ……犯せ──」 相手から抵抗の意思が完全に消えたことを知らされ、もともと持ち合わせていなかったのかもしれないが、男は歯止めを失った。 言葉では無抵抗を示しながらも、身体の緊張までを解くことはできず強張ったサイガの腰を引き寄せると、はやる熱に任せて衣を引き裂くのも適当に留めて、その身体を押し開く。 「っぐ、う……ッ」 下腹から押し上げる圧力にサイガが苦痛の声を漏らす。 「あははッ、きついっスねえ。でもイイっスよ陛下ァ」 慣れないところを強引に犯す窮屈さにさえ悦びながら、男は構わず奥まで分け入ると自分だけの快楽を求めて腰を揺さぶり始めた。 まだ少年の域を出ない身体が、底から突き上げられる。 「……っ、ぅ、あ…っ」 サイガは極力、余計なことは何も考えぬよう努めた。思考を停め、目の前の苦痛と恐怖にだけ集中して雑念を追い払う。一瞬でも脳裏に見知った顔がちらついたら自分は終わりだ。そのとき、時間を稼ぐために張った虚勢は儚く崩れて、感情の流出に流されるだろう。 それこそこの男がサイガに求める理想の姿なのだ。来ない助けを求めてわめく声を、泣いて許しを乞う醜態を曝すくらいなら、潔──いかどうかは判らないが──く舌を噛んで死んだほうがマシだ。 けれど男はそんな彼に合わせてはくれない。首や胸に点々ときつい痕を残しながらいよいよ息を荒げ、自分のそれを扱く目的で内側の狭いところを何度も突いてくる。 悲鳴を噛んでぐっと瞑った瞼に屈辱が滲む。 男はそこに在る──嫌でもサイガはそれを身に刻まれた。加減も遠慮もなくこの男は自分の中を激しく打ち付けてくる。 こいつと自分は今、繋がっている。 犯されている。 (駄目だ、考えるな) そうして幾度目かの弱音をねじ伏せたとき、何の前触れもなく男の熱が爆ぜた。 「あ──」びくんと身体が震え、たまらず開いた唇から声が溢れる。「ああぁあ……ッ」 絶対に快楽の声なんかではない。口をついたのは背筋を逆立たせるほど強烈な嫌悪と不快感だ。吐き出された熱が中に散るのが、またそれが奥に流れ込んでいくのが感じ取れて、サイガは居ても立ってもいられなくなる。いっそ蹴り飛ばしてでも自分から引き剥がしたいほどに。 だが、男はまったく満足していないようだった。 「ああすげェ、クセになりそぉ」 恍惚とだらしなく言った男は、離れようと身を捩らせるサイガを抱きしめて押さえ込み、ゆるゆると夢見るような動きでたった今終わったはずの行為を再開する。 「やっ、もう、やめ……っ」 嫌悪に駆られるまま抗議しかけたサイガは、そこでヒッと息をのんだ。 男が動くそのたびに、中を満たした薄汚い欲望が溢れ出しているのが判って。 腹の内側のより深いところへ、それが押し流されていくのが判って。 「さっきよりイイ感じじゃないスか、陛下」男は言った。「どうせあんたも気持ちイイんでしょ? そんな無抵抗でさ、実は犯されて悦んでたりするんでしょ、実際」 何をどう勘違いすればこんな思考回路ができあがるのか、まったく理解できなかった。 どれほど嫌悪を示したか知れない。 どれほど拒絶したか知れない。 抱けと言ったのも、抵抗しないでいるのも、こいつが子供の命を盾にとったからだ。 何故それが解らない。 どこまで自分勝手な解釈でこの世を見ているのだ、この者は──。 (──嫌だ) 気丈であった赤い瞳から、とうとう涙が零れ落ちた。 心が明確な答えを出してしまったとき、サイガはもうそれを振り払えなくなっていた。 「嫌だっ、もう嫌だ、離せ!」 「アッハハハ、なに今更ギャーギャー言ってんスか! もしかして図星だった?」 自分の下から逃れようともがくサイガを大柄な自分の体重で潰すほどにものしかかり、男は抱え上げたその脚にガリリと歯を立てる。嫌がろうと拒絶しようと、捕らわれの身であるコイツに他の運命はない。自分の慰みものになる他ないのだ。 劣情に火をつけられた男はサイガを殴り、その首を絞め上げて言葉を奪っては幾度も犯した。 愉しそうに笑いながら。 道具のように──。 5 小屋を飛び出したベリルはまっすぐに走った。 てっきり小さな島だと思っていたが、潮の香は遠く波の音も聞こえない。海岸は彼方のようだ。サイガを連れて逃げる道を選択していたら、ロクに動けぬ彼を背負って右往左往しなければならなかったところだ。 海は遠かったが連中のアジトが近いのは判っている。人質を閉じ込めた場所にいつでも手が届くようにしておかねば、知らないうちに脱走されて笑えない事態になるからだ。 行く手に木造の建物が見える。小屋というよりはログハウスに近い。奴らのアジトだ。ベリルが脚を早めたとき、バタンと出入り口の扉が開くのが見えた。 自分の到達に気付いた連中の迎撃だ。ベリルは地を蹴って跳躍すると、中から飛び出して来た男の顔面に回し蹴りをぶち込んでいた。 軽く吹っ飛んで気を失ったその者にはもう構わず、彼女は開け放たれた扉の中へ飛び込んでいく。さっさと全員ぶちのめして、サイガを助けなきゃ──。 「覚悟しろおまえら!」ベリルは叫んだ。「私の爪からは逃げられないよっ!」 その声を聞き付けて、奥に居た男が振り向く。 ベリルもその男も、エッという顔をした。 だってその男はコランダムだったのだ。 「ベリル!」彼は言った。「おまえ、無事だったのか!」 「コランダム!」ベリルは地獄に仏を見た気持ちで言った。来てくれた、来てくれたんだ、嬉しい──。 緊張が解けて視界が広くなってみると、中に居たのだろう盗賊団のメンバーはほとんど彼の手でぶちめされたらしく累々と横たわっている。これだけの者を相手に独りで戦わねばならなかったのだと思うと、さすがのベリルも少しばかり自信がないところだ。 「どうしてここが判ったの?」ベリルは言った。「はッ!? もしかしてこの婚約指輪に発信機でも仕込んでた!?」 「ンなわけねェだろ!」コランダムは言った。「昼間、この島からの、ものすげェ魔力の発現が飛天域で観測されてたんだよ。そのレベルの魔力と言やぁ光龍帝のモンくらいだし、状況が状況だろ。対策本部が派遣する鎮圧隊に志願して来たんだ」 あのときのアレが、中央にちゃんと伝わってたんだ──。一気に脱力しそうになりながらも、ベリルは人々の繋がりを、皆の目を確かに感じていた。 みんな、私たちを捜してくれてた。助けに来る機会をうかがってくれてたんだ──。 そのとき、アプローチのほうでギシリと木が軋んだ。ベリルがハッと振り向いてみると、そこにはまたまた見知った顔。三人ほどの子供らを抱えてのっそり現れたのはエドガーではないか。 「おいコランダム、誘拐されてたガキどもってこれで全部──」 「うわあああぁぁぁんエドガーッ!」 「うわああぁぁぁっ!?」 いきなりベリルに跳び付かれて、両手が塞がっていたエドガーは思いっきり転倒した。それでも直前に、子供らが怪我をしないようにポイポイと投げ出していたのはさすがといったところだ。 「お願いだよエドガー」ベリルはわんわん泣きながら言った。「早く、早くサイガを助けてあげてっ」 「サイガをっ?」 彼女の様子から只事でない気配を察し、エドガーの顔色が変わる。 だがそのとき、天井付近で何かが走る気配がした。 「ベリル、てめぇよくも!」 一同がハッと顔を上げると、そこから飛び降りてくるネズミ族の男の姿があった。彼は手に金属のカギ爪を着け、鋭い歯を剥き出しにして襲い掛かってきた。 ギャリリッ。肉を引き裂く鈍い音は、ベリルの身体から発生したものではなかった。彼女を庇うために間に割って入ったコランダムの腕がカギ爪を受け止めて斬り裂かれたのだ。 「ちィ…っ」深く傷を受けた腕を押さえ、コランダムが膝をつく。 「コランダム!」ベリルは悲鳴を上げた。 「野郎ッ」エドガーが身構える。「まだ残ってやがったか!」 「よくも、よくも裏切りやがったなベリル!」男はほとんど半狂乱で、金切声で叫んだ。「これで俺たちは終わりだ、運よく逃げ果せてもあの男に殺されるっ!」 「何よ、裏切るとかふざけんな! 私は最初からおまえらに加担する気なんか──」そこまで怒鳴って、ベリルはふと我にかえった。「……え、ど、どういうこと? 殺されるって、もしかして、あの熊男のこと?」 「そうだ! あの野郎は気がフレてる、生き延びるにはあいつに従うしかねえんだよ!」 「……ねえ」 ベリルは少し考えてから、言った。興奮しているところを刺激するかもしれないから、一歩も動くことなく。 「私がいた時は、あんなヤツいなかったよね? あいつはいつ来たの? なんであんなヤツが頭領はってんの?」 エドガーとコランダムはちらりと視線を交わす。傷を負ったコランダムが仕方なくすっと立ち上がり、放り出されたままだった子供らを連れて場を離れた。どこかに連絡係が待機しているのだろう。 「あ、あいつは……」ネズミ男が震えた。その態度はどう見ても、情報を漏らすことでの報復を恐れる態度だ。 「よく判らねェが」ふとエドガーが言った。「有力な情報だって言うなら、それを話してくれりゃ、おまえの身の安全は中央が保証してやるぜ」 ぎょろりと動いた男の目が、そんなことを言った獣牙の王を見る。信じられない様子だったが、エドガーに限っては真偽を確認する必要なんかない。世界のどこを探しても、この男ほど実直な者はいないのだ。 怯えと恐れに満ちていたその男は急に大人しくなり、その場に膝をついた。カシャンと金属の爪が床に転がる。 彼の戦意はあっけなく、完全に消えていた。 「ひとつき前……」両手で顔を覆った男は、呻くように言った。「あの男は俺らのところにやってきた」 ベリルもエドガーも、何も言わずに聞いていた。 「あいつは獣牙のくせに、聖龍にも飛天にもねえ魔術が使えたんだ。それで頭領が珍しがって仲間に入れた。そのときアイツは言ったんだ。『自分が居りゃできねえことはねえ。光龍帝の聖龍石を狙おう』って。俺らは久しぶりにでけぇ仕事ができるって、舞い上がってよ」 「それで、私のところに来たのか」 「そうだ」男は泣きながら言った。「昔みてえに、おまえも一緒にって思ったんだ」 けれど状況は変わった。 ある夜の酒の席。誰も原因に思い当たらない些細なことで、頭領があの男に殺された。昼間の子供とおなじように首を一撃で落とされて。 その場は一時的に乱闘騒ぎになったが、あいつにあっという間に鎮圧されてしまった。更に数人が死ぬ結果となって。 このネズミ男をはじめとする生き残った者らは、あの男が危険人物であることを遅まきに理解した。逆らえば死ぬ。機嫌を損ねても死ぬ。頭領のように簡単に死ねるか、あるいは乱闘の時に殺された者のように腕や脚をもぎ取られた上にハラワタまで引きずり出されて無残に死ぬかは判らないが。 恐ろしさに震え上がって逃げ出そうとした者まで同じように死んだことを本人から意気揚々とひけらかされたとき、彼らはいよいよ思い知る。 生き延びるには、こいつに従い続けるしか無いのだ──と。 「……皇魔くせェな」ぽつりとエドガーが言った。「おいネズ公。その熊野郎、身体のどこかに、四部族の誰にもねェ特徴とか無かったか?」 「わからねえ」男は力なく首を振った。「……ああ、でも……」 不意に視線を上げ、彼は何かを思い出そうとしているようだった。 「チョーカーだ」 男はそう言った。 「あの男、風呂んときも寝るときも、チョーカーは絶対に外さなかった。もしかしたらその下に何か隠してるのかもしれねえ」 証拠としては弱い話だ。……しかし、普段は確証を得ぬまま動くことをよしとしないポラリスでさえ、この話を聞けばそれ以上を求めまい。それほどに明白な証言であった。 「光龍帝の……」男は、ぽつりと言った。「サイガ様の枷の鍵は、あいつが首にかけてる」 「あんた──」 「すまなかった、ベリル」男はさめざめと泣きながら言った。「こんなことになるなんて、まさかこんなことになるなんて、思わなかったんだよ……」 6 地を蹴り草を掻き分けて、ベリルは疾走する。 目指す小屋が急速に近付いてくるにつれて、彼女の心臓は早鐘のように鳴り響いた。 頭の中に何度もイメージを思い描く。チャンスは一度きりだ、絶対に失敗はできない。彼女がしくじればそれで終わり、浜に待機した連絡兵のもとへ伝達のために一旦戻ったコランダムとエドガーは、彼女とサイガの無残な死体を見つけることになるだろう。 「わたしがやる。わたしにやらせて」 そう言い出したのはベリルだった。 エドガーは何も反論しなかった。 彼女の目に浮かんだ悲壮にも近い決意と覚悟を汲んだのかもしれない。 ただ一言、 「頼む」 そう答えただけだった。 半開きの扉が迫ってくる。まずはそこを蹴り開け、激しい音を立てればいい。 サイガの枷を外し、彼の魔力を解放できればこちらの勝ちだ! バァン! ベリルは渾身の力で扉を蹴り飛ばしていた。簡素で薄っぺらい木の板に過ぎなかった扉はいとも簡単に砕けて吹き飛ぶ。 「なンだよ、うっせぇなあ!!」 サイガにのしかかっていた男が苛立ったように叫んで振り向いた。 驚いた様子は皆無だったが、これでいい。ベリルがわざわざ激しい音を立てたのはあいつを脅かしてスキを作るためではない。 注意を自分に向けるためだ。 「シャァッ!」 ベリルは吼えて熊男に襲い掛かった。顔面に跳び付き、鋭い爪で頬に深く傷を刻む。 「いってえ、このクソアマッ!」 男は声を上げ、剛力の腕でベリルをぶん殴ろうとした。 けれどすでに彼女は男の頭から離れて、ひらりと宙に舞っている。 上へ逃れた彼女を男の視線が追うがそこには何も居ない。 だって彼女は、もう。 「な──」 振り向いた男は絶句した。 そこにはすでに着地していたベリルがいた。 そして。 「詰めが甘かったな、不逞者が!!」 ようやく枷を解かれて全身に金色の電撃をみなぎらせたサイガが、地に轟くばかりの怒声を上げた。身体の傷も不浄も、すでに回復魔法と浄化魔法で完全に消えている。 男が逃げねばと考えるより早く、サイガの手に光牙七支刀の片割れが出現し、有無を言わさず彼は床を蹴った。身体を包んでいた電光が刀身に集束し、昼間にも匹敵する光が駆け抜ける。 「──うっ」ここにきて、ようやく熊男が事態を把握した。「うわああああぁぁっ!!」 たまらずベリルは目を覆った。七支刀に貫かれたあと、猛烈な電撃に焼かれて絶命するであろう悪党の末路を想像しながら。 だが。 一帯にすさまじい衝撃波が駆け抜けて、簡素な小屋があっけなく吹き飛ぶ。決着したかと思い彼女がそろそろと目を開けると、ふたりは──いや、男はなんと健在であった。 サイガが構えたままの七支刀は、その切っ先が男の喉に届く寸でのところでその輝きを失っている。一瞬は死んだものと思ったのだろう、涙さえ流しながらガタガタ震えていた男の喉元で、黒いチョーカーがハラリと破れて落ちた。 ぱきん……小さく細かな音が崩れていく。それは、チョーカーの下に隠されていた、古く小さな鏡であった。 崩れて散らばった破片は、夜の闇の中で、それよりもっと暗い光をぼんやりと放ったかに見えたが、ベリルがまばたきをした次の瞬間には消え去っていた。 これが、すべての発端だったのだ。 私、まだそのことを話してもなかったのに──。ベリルは唖然と、七支刀を還して構えを解くサイガの姿に見入った。 「よう戻ってくれた、ベリル」 戻ってきたサイガはすっと膝をつくと、笑ってベリルの頭を撫ぜてくれた。 あの男の性格を、そしてさっき飛び込んだときの場面を思い返せば、何よりその引き裂かれた装束を見れば、彼がとても恐ろしい目に遭ったことは明確だ。 けれど彼は何も言わずベリルの意志を称賛した。笑えるような心境ではないはずなのに、笑いかけてくれた。小屋へ踏み込むためにベリルだってものすごく勇気を振り絞ったし恐かったが、彼はその何倍も怖い思いをしたはずなのに──。 「……はッ」 背後から引きつった笑い声がして、サイガとベリルはそちらへ目をやる。 熊男がいた。その場にへたり込んでいるのは、さっきのサイガの一撃のせいで完全に腰が抜けているからだ。 「なんだよ、あんだけタンカ切っといて、結局殺せねぇんじゃねーか!」 「……」サイガは答えない。どこか涼しい目で彼を見ているだけだ。 「詰めが甘いのはどっちだよ、それとも俺に惚れちゃいましたかねェ!? あんなに熱く抱かれたのは初めてでしたって、どっかの姫様みたいに跪いてみろよ!」 「……貴様の考えなど読めておるよ」 抑揚のない、静かな調子でサイガは言った。 「民の不殺を唱える俺を挑発して、その信念を折りたいのであろう。……確かに貴様のやったことは万死にも値しよう。死した子も、貴様の手で無残に死んだ者らもまた、貴様が同じく死に果てることを望んでいよう」 サイガはベリルから離れ、男へ向かって歩んでいった。 目の前には立つが、そこは絶対に男の手が届かない場所だ。もう二度とこの男に近付きたくないという彼の心底の思いが距離に透ける。 「だが、な」 そのとき、吹き抜ける夜風の中でその男は見た。 サイガが笑うのを。 嘲り、侮蔑し、そして見下した目で彼は微笑む。 「きょうび、姦通とまぐわいの区別もつかぬガキの相手をしてやるほど、俺も暇ではないのだよ。──悪く思うな、権助殿」 ぞっとするほど美しい、凄絶な表情。 男は唖然と口を開けたまま、もう何も言えなかった。 「カタはついたみてェだな」 ベリルが振り向くと、そこには何とも苦い表情をしたエドガーが立っていた。 「うん。よかった……」彼女は心底から安堵して頷いた。「わたし、サイガが本当にあいつを殺しちゃうんじゃないかって、ものすごく怖かった……」 「……」 エドガーは何も言わず、ぽんぽんとベリルの頭を撫で叩く。 わかる。おまえの気持ちはすげェわかるぜ、ベリル──。彼は内心、冷や汗が出そうであった。サイガの野郎、完全にスイッチ入ってやがる。来るんじゃなかった。ああ、近付きたくねェ──。 本当ならあの熊男には一発叩き込んでおきたかったのだが、そんな気持ちはもう完全に失せている。あいつにとってサイガの言葉と態度は何より堪えただろう、ぶん殴っても今更だ。このエドガーにできることといえば、あの男の首を軽く捻って気絶させ、運びやすくしてやるくらいだ。 「もうっ」相手の内心を知らず、ベリルはぴょんと跳ね上がって怒った。「エドガーも戻ってくるの遅いんだからっ」 「テメェが自分でやるっつったんだろ!?」まさか自分が責められるとは思わず、エドガーは驚いて反論する。「最後まで責任持てよ!?」 「だって、いざって時にサイガを止められたのはエドガーだけじゃないっ。もし本当にサイガがやっちゃってたらどうする気だったのよ」 「そんな心配要らねェって。サイガにはハナから殺る気なんか無かったさ」 「そんなのわかんないでしょっ。さっきの電撃、あれ完全にマジだったじゃない!?」 「あいつの本気は、あんなモンじゃねえよ」 当たり前のようにそう言い残すと、彼はどこか観念したふうに歩き出した。自分たちのほうを振り向き、歩いてくるサイガのほうへと。 ずいぶんとサイガのことをよく知っている口振り。そして『毛嫌いしていた』はずの彼に向かって進んでいく、慣れ切ったその足取り。ぽかんとエドガーを見送っていたベリルは、そのとき、はたと思い出す。 (そういや聞くの忘れてた。サイガとエドガー、どういうカンケーなのか) しかし、どうやらそれを確かめる機会は、もう巡ってきそうにないようだった。 終幕(2016/06/12) |