気の依代



   1

 闇より暗い漆黒の蛇が体内へ滑り落ちてくる。

 肉体という殻の中で合わさり、交わる魂が、激しい衝動に急かされて居ても立ってもいられなくなる。

 この腕を振るえば地が割れることを、その尾を振るえば雲が吹き飛ぶことをゼルは知っている。意識している。

 ああ──。子供のようにどうしようもなく嬉しくなって、彼は唇を三日月のように歪ませて笑った。

 この力があれば世界は滅びる。

 ぜんぶ壊して、みんな殺して、そして。

 キミと一緒に、僕も死ねる。壊される世界は、まさしくキミと僕の命そのもの。

 そう。

 いま、僕らは世界だなんだ──。

 ゼルとテスカポリトカの融合が完了したその瞬間、凶悪な衝撃波が大陸を駆け抜けた。地表が砕け、巨大な岩が引き剥がされて紙屑のように宙を舞い、森の木々は根が抜けるより早く幹を引きちぎられてバラバラになる。

「うわ──」

 人間の身でこれを受ければ一瞬で挽肉だ。まさに死の衝撃がヴァンにまで至ろうかとしたとき、彼を守るように割り入ったのは赤い法衣の影だ。

「メビウス!」ヴァンは言った。

「く……っ!」

 突き出した両手の先にありったけの魔力を集中させ、メビウスは飛来するエネルギーを受け流そうとするのだが、それが上手くいっていないのは苦悶に近い表情を見れば瞭然なことだ。

 ビキッ。手元で彼の魔力増幅を担っていた錫杖に亀裂が走る。

(やはり、──このままでは!)

 彼が何事か思考する視界に、ふっと黒い影が飛び込んでくる。

「さあヴァン! 一緒に死のうよ!!」

 ゼルだった。無邪気極まりない笑みを湛え、黒き蛇神と化した青年はメビウスを飛び越え、その向こうに庇われたヴァンの首を引っ掴まんとする。

「やめろ、ヴァンに手を出すな!」

 どこで死の衝撃波を逃れたのか、トナトナがゼルの腕に喰らい付いた。離れたところから火球が飛んできたかと思えば、そちらにはティアティアもいる。

「バカかおまえら!?」この瞬間に助けられたにも関わらず、ヴァンは叫ばずには居られなかった。「手を出すな、死ぬぞ──」

 ベキィッ。鈍い音がヴァンの脳幹を貫き、その眼前にバシャリと鮮血が舞う。トナトナが全力で突き立てた刃は切っ先とて刺さることなく砕け散り、彼は邪魔な虫でもそうするように払う動きをしたゼルの腕に腹部を薙ぎ潰されている。

「お兄ちゃ──」

 パン! 悲鳴を上げようとしたティアティアの頭に、ゼルが弾いた石ころがぶち込まれた。兄妹が地に落ちたタイミングはほとんど同じだ。それだけの短い時間で、あまりにあっけなくゼルはふたりも殺した。──否、まだ息だけはあるかもしれないが。

「ゼル……ッ」ヴァンが噛みしめた奥歯がガリリと音を立てた。拳を握り締め、相手を思いきりぶん殴るべく彼は鉄腕を振り上げる。「てめえ、ナメた真似もいい加減にしろよ!!」

 耳をつんざく高い衝撃音が響き渡る。

 それはヴァンがゼルを殴った音でもなければ、ゼルがヴァンの頭蓋骨を叩き潰した音でもない。

 金属が弾け、砕ける音。

 ヴァンの両腕は憎きゼルを捉える前に、相手に触れようとしただけでその身を取り巻く魔力の奔流に負けて構成を失い、砂粒のように粉々になってしまったのだ。

「あ──」

 まさか、とヴァンは思った。

 まさかこんなところで、こんなタイミングで。

 また大切な者の血を見たあとで、こうして二度も腕を失うなんて──。

「いいよ、ヴァン!」ゼルは狂喜して言った。「その絶望に歪むキミの顔が見たかったんだ!」

 ドン、とヴァンの腹の奥に響いたのは、今度こそ死の衝撃だった。

 今の今まで一度としてそんな経験は無かったのに、それが内臓の潰れる音なのだと、これでもかというほどはっきり判る。まともに感じれば発狂を免れないからか痛覚は完全遮断されており、痛みなどまったく無い。

 ただあるのは、これで死ぬのだという確かな確証だけだ。

 動脈をも潰され、著しく循環の鈍った身体から一気に力が抜ける。愛おしげに笑ったゼルがそんなヴァンを受け止めようと両手を伸ばしたそこへ、

 ざんっ! 天空から降ってきた鋭いカギ爪がゼルの腕を斬り飛ばしていた。何事かと思えば何のことは無い。天空での戦いに敗れ、真っ逆さまに落ちるところであったエヘカトルが、通過間際に力を振り絞ってゼルに──敵将であるテスカポリトカに一矢を報いたのだ。

 ざまあみろ──そう言わんばかりの笑みを最期に、彼女は追撃してきたテペヨロトルの牙に喰いちぎられて鮮血の羽根を散らせた。

「ハッ、どいつもこいつも悪あがきばかりだ」

 ゼルは心底から、『防衛』という彼らの行動を軽蔑する。腕なんかもう再生してしまっていた。この散り際の世界の、何と美しいことか。この景色と色を眺めて終わっていけるなんてこれほど幸福なことはない。これこそ僕が望んだこの世の最期、キミと迎える最高の瞬間──。

 恍惚としたゼルがヴァンに目を戻すと。

 意識を失った彼は、とっくに同行者の男に保護されていた。

「おまえが自己陶酔型のアホで助かったよ」金髪の男はバカにするように言った。「この魔力領域を抜け出すには、かなりの力をチャージする必要があったからな!」

 とっくに死体と化しているはずのトナトナとティアティアをも背負って、男はヒビだらけの錫杖で地を叩いた。

「待て…っ!」

 気に入りの玩具を持ち去られる危惧と焦燥、何より愛しいヴァンに見知らぬ男が触れる嫌悪と憎悪に満ちてゼルは手を伸ばす。だがそれは、相手と目があった瞬間にピタリと停まってしまった。

 切れ長のきつい目。自分の陣営が壊滅に陥り今は虚勢かもしれない、自信と挑発に満ちた赤い瞳。

 それを見たとき、ゼルの中に芽生えるものがあったのだ。

 だめだ、やめろと自分の奥底で何かが警告する。

(この御方に手を出したら、自分が死ぬぞ!)

 この刹那はまたとない機会となった。

 カシャン、と涼やかな音を立てて錫杖が砕け散り、それを代償として発動した転送魔法によって、彼らの姿は一瞬のうちにゼルの視界から消え去っている。

「待て──」ゼルは呆然と呟いてから、ぎらりとみなぎる殺意を込めて飛翔した。

「逃がすかあああぁぁぁぁ──ッ!!」

 はるか彼方に出現した、彼らの小さな魔力の反応を追って。



 ──その様子を、天空から見ている者がいた。

「ヴァ、ン……」

 呟く少女の──ジゼルの手がガタガタと震えていた。あんな殺戮紛いの『攻防』を目の当たりにしたのだから無理もない。

「ジゼル。いまここへ降りるのは危険だ」ジゼルとそう変わらぬ歳の姿でマステリオンを駆るリュウガが、彼女を振り向いて慎重に言った。「まだしばらく様子を見たほうが…」

「ううん」ぶるるっと首を振り、少女は目を開いた。その瞳には意志の輝きがある。「ヴァンの傍へ行きたいの」

「……」

「だから私は大丈夫、連れてって」

「わかった。覚悟を決めろよ!」

「もう決まってるもん!」

 ジセルとリュウガを乗せたマステリオンが一声高く吼え、虚空を駆ける。

 敵を振り切らんと、転移と短距離の飛行を繰り返す彼らのもとへと。


   2


「おいトナトナ! まだ生きているかっ」一対のみの翼で三人を背負って翔びながら、メビウスが叫ぶ。

「…………」

「トナトナ!!」

「……うぅ、ぅ……」

 蚊の鳴くような呻き声が、応えているのかどうかも判らない反応を示す。腹を潰されたトナトナには、もう喉で掠れるような声をもらすことしかできない。

「頼みがあるっ」メビウスは、まるで相手に言葉が通じているかのように言った。「死ぬ前に、この組紐を噛み切ってくれ!」

「…………」

「うるさい、つべこべ言うな!」トナトナは何も言っていないのに、彼は怒った。「これは私自身では解けんのだ、早く──」

「追いついたよォ、ヴァアン!!」

 げっ、と声が出そうになった。

 真上は大概の生き物の死角だから、戦闘の際には積極機に狙うのがよいとされる。ゼルはその鉄則に忠実に従って、メビウスの頭上を覆い隠すように純白の翼を翻していた。

「ヴァン、今スグ僕が助けてあげる!」バチリとスパークする闇色のエネルギーを手のひらにたっぷり蓄えて、ゼルは叫んだ。「そんな野郎の腕の中で死ぬなんて絶対に許さない!!」

 発言の筋が完全にねじ曲がっていることに、果たして本人は気付いているのだろうか。

 そのとき、小さく──夢幻を見るように霞んだ意識が浮上する。

(……)

 ヴァンは目を開いて、そこにある極限の危機を見ていたはずなのだが、メビウスも、そしてゼルでさえも彼の意識が戻っていることに気付いていない。

「早くしろトナトナッ」メビウスが祈るように叫ぶ。ただでさえここまで魔力を振り絞って逃げ続けてきたのだ、今度こそ全力で襲ってくるゼルに、対抗するだけの力を蓄えている暇などない。

 その焦れ切った、すがる調子。ろくに覚醒してもいないのに、ヴァンはその叫びが自分に向けられたものではないことに苛立っていた。夢の中で、やたらに重い身体でもがくように腕を伸ばそうとするが、何も掴めない。触ることもできない。

 腕がないのだ。

 自由にならぬ身体。自分を完全に戦力外にした状況。守られ、庇われたこのあまりにみじめな立場に腹の底が煮える。

  数年前、アストラルアームを獲得する前の──生身の腕を失って間もなかった頃、ヴァンは今と同じように心が荒れた時期があった。他者の世話を拒絶し、労わりを嫌悪し、優しさを侮蔑した。周囲の者らは、アデルを失い冒険家としての道さえ断たれたのだから当然だ……と同情を寄せて、よりいっそう彼に気を遣ったが、そうではなかった。

 俺は生きてるんだ──。ヴァンは閉じた精神の底で、ずっとそう叫んでいた。

 アデルは殺された。

 腕も、翼も失った。

 それでも、俺は生きてる。

 やるべきことは、まだまだ山のようにある。

 何も断たれてなんかいない。俺はまだここにいるのに、おまえらの勝手な妄想で、俺の何もかもを死んだことにするな──!!

 ゼルが鋭い刃と化した爪でメビウスの首を刎ねんとしたとき、突然ヴァンが暴動まがいに動いた。芋虫のように跳ねて身を伸ばすと、メビウスの髪を束ねる組紐にかじりつき、思いきり食いちぎる。

「いっ!?」

 この状況で正確に紐だけを狙えるわけがないのだから、いくらかの髪が犠牲になった痛みと驚愕に短い悲鳴が口をつくが、もはやそんなことどうでもいい。

 ガッ! 振り下ろされたゼルの腕は、メビウスの手中に出現した新たな金色の錫杖によって食い止められていた。勢いに乗って撃ち出された、大地すら容易に打ち割るはずの衝撃波は、そよ風程度にふわりと吹き抜けたのみだ。

「──残念だったな」メビウスは言った。そのこめかみから、白く捻じれた長い角がせり上がってくる。「おまえのオンナは、おまえとの心中など望んでいないとさ!!」

 闇色の翼は二対になり、その更に下には魔物のそれに似た異形が控え、事実上の六枚翼となる。鬼人でもない、魔人でもない。少なくとも有史以来、こんな姿の人間は存在しない。

「な──」

 先ほどにも感じたものが、より明確な形となってゼルの背筋を冷たく震わせる。

 畏怖、焦燥──太古の神と融合し、この世を壊し尽して余りある最高の力を手に入れた自分が、今更この男を見て戦慄しているなんて。

 わけが解らないのに、彼は判っている。

 これは理性ではない。本能なのだ──と。

「これ以上、好きにはさせんぞテスカポリトカ!!」

 あまりに遅すぎると文句を言いたくなるタイミングで、彼らの間にケツアルカトルとトラロックが飛び込んできた。二体の魔神はふたりがかりでゼルに──テスカポリトカに殴りかかり、ようやく怯ませることに成功する。

「チェルチー、退避を!」トラロックが言った。

「わかったわ」

 合図を待っていたチェルチーが転移してきて、自身の陣営を淡い水の膜で包み込む。

 そして──。

 パン、とそれが弾けたとき、今度こそ本当にゼルの目の前から、ヴァンもメビウスも、誰も消え去ってしまっていた。




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