気の依代



   3

 トラロック神殿の地下には、彼らが眠る寝台の間がある。人間にとって数百年にも及ぼうかというその時間を静かに過ごすための場所ゆえに、そこは人知を外れた防衛能力を持つシェルター同然の性能を持っていた。

 外の様子が判らないのは残念だが、中の気配や魔力反応が外に漏れることもない。ゼルからの追撃はしばらく無いと思っていいだろう。

「我々は『あなた』が何者か、すでに認識しているつもりです」

 そう言ったケツアルカトルをはじめとした三体の魔神は、メビウスの前に膝を折り、深々と頭を垂れた。

「よもやあなた様が御出座しになろうとは、我らの不手際も極まったもの」ケツアルカトルは沈痛に言った。「何とお詫びすればよいのか、言葉もありません……」

「詫びる必要はない、おまえたちに非は問わん」メビウスはきっぱりと言った。「不手際をやらかしたのはうちの娘だ。私は、その後始末に駆り出されただけだからな」

「……」

 何と答えたものか、相手が相手だけに魔神たちに困惑がよぎる。相手が口答えできないのをいいことに、メビウスはいけしゃあしゃあと続けた。

「それに私は、私自身が攻撃を受けたから防衛しただけのこと。特にこの世の何かを守ったとか庇ったとか、そういうつもりはない。──それより」

 と、彼は自身の傍らでじっと黙り込んでいるヴァンと、もはや生体反応を感じないトナトナとティアティアを見やった。

「『希望の種』は運んでやった。あとはおまえたちが何とかしてみせろ」

 ヴァンの内臓が負った傷は、ケツアルカトルの応急処置を受けてすでに一命を取り留めている。──メビウスは、わずかさえ彼に回復を施さなかった。兄妹に対してもそうだ。ヴァンの陣営を一瞬で壊滅に追いやったゼルの凶刃を片手で止めるだけの力を持ちながら、彼らを回収するだけに留まり自身は何もしなかった。

 それは、断じて無責任ではない。

 本当ならばメビウスは、神力を取り戻した時点で彼らを見捨て、この戦場を離れねばならなかった。人智はおろか魔神たちですら正確に正体を把握していない領域の存在である彼が、この世界に干渉すること自体あってはならないのだ。

 それなのに、彼はゼルの刃を受け止めた。自分が攻撃されたから防御しただけ、などと言ってはいるが、それはヴァンというこの世の民を守る禁忌に他ならないのに。

 物は言いよう──人間の間で広く通用したこの言葉が、こいつのような存在にまで通じようとは、魔神たちさえ夢にも思わなかっただろう。

 メビウスに促されて立ち上がったチェルチーがヴァンの傍へ歩み寄り、トナトナとティアティアの前に膝をついた。

「……この子たちの魂は、まだ諦めていないわ」ほんの短いリーディングの間を経て、彼女は穏やかに言った。

「少年は腹を、少女は頭をやられているのだな」トラロックは言った。

 それなら──。ふたりの魔神は彼らにそっと手を掲げ、ほの白い光を注ぐ。

 ふたりの身体が球状の光となって交わり、沈黙した。ヴァンは息をのんで数秒ほど様子を見るのだが、そのまま変化がない。

「心配は、いらないわ」チェルチーが言った。「あとは二人が目覚めるのを待つだけよ」

「目覚める……って」ヴァンは困惑気味に、光の珠をちらちらと気にしている。

「私たちは力を分け与えただけ。甦るかどうかは二人の意思が決めることだから、少しだけ時間がかかるの。大丈夫よ、彼らを信じて、待ってあげて」

「──ヴァン・クロウ」

 ヴァンの納得を待たず、彼の前にケツアルカトルがやってきた。

「ケツアルカトル。おまえもできるのか? テスカポリトカみたいに、人間と合身することが」

 魔神はまだ何も言っていないのに、ヴァンは相手を認識するや真っ先に訊ねた。それが一番知りたかったのだと言わんばかりに。

「……できる」ケツアルカトルは答えた。「私とテスカは、かつての肉体を失った霊体。この世の物理存在である『依代』を得ることで、実体となり本来の力を取り戻せる」

「なら、俺を使え」ヴァンはきっぱりと言った。「俺の肉体があれば、おまえはテスカポリトカと対等に戦えるんだろ」

「……もとより、私はキミにそれを持ちかけるつもりでいたのだよ」期待通り、とばかりにケツアルカトルは目を細めて笑った。「やはり私が見込んだ通り、キミは世界の破滅を黙って見ていられる男ではない」

「……」ん? と、少々の違和感を思わせる表情がヴァンにちらつく。

「キミの仲間と自由を傷付け、そのうえ世界まで滅ぼそうと目論むかつての同胞に鉄槌を下さんとする、その意気や良し! それでこそ私が力を貸すに相応しい、正義の──」

「違う」ヴァンはずばりと言った。「俺があいつと戦うのは、あいつが俺のものだからだ」

 ……。

 魔神らの間に、少々痛い沈黙が落ちる。

 そんなヴァンの言葉を聞いていたメビウスが、口元に手を当てて顔を逸らした。ぶっ、と小さく吹き出す声が漏れたところを見るに、どうやら笑い出しそうになったのを堪えたようだ。

 誰が何と言ったものかとしたこの沈黙に、ヴァンは尚も勝手を言い放つ。

「俺が居なきゃまともに生きることもできないのを棚に上げて、俺と心中なんてナメたこと言ってるあのバカをぶん殴って、連れ戻す。それだけだ」

「くっ…ふ、ふふふ…あっはっはっは! やはりこいつはこういう男だ!」ついに堪え切れず、メビウスが笑い出した。「おい聞いたか魔神ども! 人間とはこうも愚かで、自己中で、醜い!! ゼルに然り、こいつですら自分のことしか考えていないのだ」

 要するにヴァンはゼルという『飼い犬』に手を噛まれたことに腹を立てているのであって、世界の滅亡など完全に二の次なのである。魔神たちは完全に引いていた。こんなやつに世界の命運を委ねることとなる、自分のと合身を行なわせてもいいだろうか──ケツアルカトルに当然の疑問がわく。

「──だが」と、メビウスは続ける。「『世界』とは、この場合はヴァンとなる『その者』が生きるために必須の場所であることは明確だ。『自分』が死ぬなど有り得んと考える者が世界を守る、これは立派な道理だよ」

「……」ケツアルカトルは答えず、じっと、じっと自分を見上げてくるヴァンの目を見つめ返すだけだ。

「少なくとも私は」メビウスは重ねて言った。「『みんな』や『世界』などと極めて不確定で曖昧なものを守りたいと謳う奴より、こいつのほうがよほど信用できると思うがな?」

「……いいだろう」

 どれほどの葛藤を飲み込んだのかは知れない。ケツアルカトルは静かに目を閉じ、諦めるように呟いた。

 そう。何にしてもこの場に、ヴァン以外の人間はいない。こいつに頼るほかないのだ。

 沈痛にしていた魔神の身体が光に代わってヴァンの身体を包んだ。ぐらりと眩暈がしたかと思った一瞬の違和感を経て、肩から先と腰の周囲に懐かしい感触が戻ってくる。

「ヴァン・クロウ! 私のこの腕と翼をキミに貸す。ともに因縁の仇敵を討ち破らん!!」

 あらゆる私情を棚上げにした口上と共に、ヴァンは光の珠となって神殿の外へと転移していた。


   4


 闇と混沌の気配を帯びる、強い風が身体に吹き付ける。

 その感触。その心地好さ。

「ああ──」

 言葉になど成るはずがない。心が歓喜に戦慄いた。腹の底から込み上げる、かつての怒りや恐怖にも勝る高揚に押し上げられるまま、大きな翼で大気を打ち付けて飛翔したヴァンは歓声を上げた。

 ああ、長いこと忘れていた、翔ぶという至極当たり前のことを。翼で風を受ける快感、自在に宙を舞う万能感。どこへでも行ける、どこまでも行ける。最ッ高に気分が好い。

「見つけたァ、ヴァン!」

 狂気に満ちた叫び声が遥かな眼下から駆け上がってくる。竜の翼にも似た短剣を手に、神聖にすら見える白い翼と、しかし醜悪な黒い鱗をまとったゼルだ。

 ──ああ、何故だろう。

 何故いまのいままで、こいつのことがあんなにも恐ろしかったのか解らない。

 トナトナの腹とティアティアの頭を潰し、自分をも無残に殺そうとしたこの男が、どうしてあんなに怖くてたまらなかったのか。

 どうして。

 ああ、こんなにもこいつは愛おしいのに──。心の内を満たして止まない、優しくも温かな感情が表情に及ぶ。ヴァンは何も言わずに微笑んだ。ビュッと振るった自分の右手に、使い慣れた縄鞭のそれと同じ感触が出現する。

 愛してる。愛してるよゼル──。

 -アークライト・テンペスト-
「光  鞭  乱  舞ォ!!」

 その代わりに、ありったけの声量でヴァンは解放の言葉を叫んだ。柄から先が淡くも熱く鋭い光で構成されたそれを、ゼルの首目掛けて撃ち振るっていた。

 ゼルはヴァンの微笑みを何と勘違いしたのだろうか。まさに不意討ちをくらったも同然に驚愕をあらわにして身を翻して辛うじて断首を避ける。──が、完全には避けきれず肉の一部が光鞭に捕えられ削げ飛んだ。

「ぐ…っ!」

 一撃で頸動脈を深く抉られたゼルの首から血しぶきが舞うが、それはほんの一瞬のことだ。魔神が持つ脅威の再生能力をもって彼の傷は瞬時に癒え、消えてしまう。

「ヴァンッ…」

 ゼルからすれば針で突かれたような一瞬だったかもしれない。しかし自分と同じ高さに滞空し、自分に一撃見舞える武器を手に、まるで弟でも迎えに来たように笑むヴァンを見て、彼は明らかに動揺し、焦燥を見せていた。

『落ち着け…ゼル・ガロン』心の奥底から、黒い蛇神が囁きかける。『所詮はおまえに敗退した存在が、俺の眷属どもに皆殺しにされかかった奴のチカラを得ただけに過ぎん。おまえの勝利は……世界の破滅は目前──』

「また、……またキミはそうやって……」

 テスカポリトカの声など初めから聞こえていない様子で、ゼルが声を振るわせた。竜翼の短剣を握り締めた手がギリリと音を立てる。

「ああ、またそうだっ!」ゼルが叫んだ。「そうやってまたキミは、僕以外の男のものになろうって言うのかい、ヴァン!」

 テスカポリトカが呆気にとられて言葉を失った次の瞬間、ゼルは翼をはためかせヴァンに向かって突っ込んでいった。

「やっとキミと一緒に死ねると思ったのに、キミも喜んでくれると思ったのに! いったい何が気に入らないって言うんだい!」

「……気に入らないこと?」

 子どもの片言のようにその言葉を反芻したヴァンの、静かに笑っていた口元が歪む。

 堪え切れず愉しげに、嗜虐的な悦びを知っている笑みに代わる。

「決まってるだろ、そんなことォ!」

 再びヴァンが振るった光鞭は、手首の動きから軌道を読んでいたゼルの素早い判断でかわされた。さすがに付き合いが長いだけあって、相手の攻撃のクセなんてほとんど知り尽くしている。

 だがそれはヴァンも同じだ。

  転移にも等しい速度で背後に回り込み、短剣で延髄を狙ってきたゼルのほうなど見ないまま、相手がそこに来ていることを完璧に予測したヴァンの回し蹴りが腹に決まった。発射されたミサイル弾のように吹っ飛ばされたゼルが大地に激突するかと思いきや、その姿は中途で消え、いつの間にか彼らは上空で競り合いになっている。

 ゼルが撃ち出した、触れるだけであらゆるものを空間ごと削り取る黒い球体は的確にヴァンの腕や翼、脚といった『行動』する上での命綱となる部位を狙ってきたが、もう彼は以前のように、ただそれを受けて血にまみれるだけの憐れな小鳥ではない。

 大きく振るった光鞭の軌道を、手首のスナップで見事に操ってみせたヴァンは、球体のことごとくを両断して消し去ってしまう。

 そしてゼルは、それが防御のために振るわれたものではなかったことを知る。

 パァン。表面の鱗ばかりか、骨まで断ち切るその小気味よい音はゼルの腕から聞こえた。闇の球体を破壊したそのままの勢いで襲い来たヴァンの一撃は、はじめから防御のためなどではなく、弾幕の向こうにいるゼルへの攻撃だったのだ。

「くぅっ」

 肘から少し上のところで切り飛ばされた腕だったが、それも首と同様に、引き合うようにして接合し再生する。しかし攻撃はその一度きりではない。ヴァンの意志を力の源とするそれは長さですらも彼の意のままだ。光鞭はまさに光の蛇がごとくうねり、ゼルの腕を、翼を、脚を、あるいは頭の一部をも叩き切り、肉を削ぐ。

(いかん、このままでは再生が追い付かん──)

 危機感を覚えてヴァンに注意を向けた時、ゼルの中にいた黒い蛇神は背筋が逆立つような怖気に見舞われる。

 光の翼を得た男は笑っていた。鬼気迫るほどの凄絶さで。

「俺はさ、好きなんだよ!」ヴァンは叫んだ。もう楽しくて仕方ないと言うように。「この手が、翼が……『カラダ』が感じる感触の全部が!」

 肩口から削ぎ落されたゼルの腕が、先ほどまでとは比べ物にならない──それでも『わずか』と言える程度の──間を置いて再生される。

「ああ、おまえの身体をぶった斬る感触は最っ高だよゼルッ! 肉の切れ目で感じる風は冷たいか!? おまえの刃が通った時、俺は冷たいって感じたよ、おまえはどうだ!? それともこの鞭の熱のほうが強いのかなあ!?」

 なんだ。

 何なのだ、この男は──。黒い蛇神の脳髄を、ざわざわとおぞましいものが這い上がる。

「ああ…ッ」ヴァンは堪え切れず笑みを歪め、吐息と声を震わせる。「俺はもっと愉しみたいんだよ、この世界を、この身体を! おまえらのくだらねえ自己満足で殺されて終わりなんてゴメンだね!」

 はっきりと。

 ヴァンの目がゼルではなく『自分』を捉えているのが判って、テスカポリトカはぞっとした。

 それは身の底から震え上がる戦慄だ。それも、このまま滅ぼされてしまうことへの危機感ではなく、このまま死ぬこともできず永遠にこいつのオモチャにされてしまうのではないかという、息が詰まりそうな、光明も根底も見えない恐怖だった。

「そんなに死にたきゃ、俺の手で死ねぇ!!」

 光鞭で斬り裂くばかりに飽きたらず、距離を詰めたヴァンは動きの鈍ったゼルの肩口に渾身の踵落しを撃ち出した。今度こそ中途で羽ばたく余地もなく彼は地に墜落し、これまで再生のために取られた体力が戻り切らず身動ぎしかできない。

 そんなゼルの胸の上に、ヴァンは降ってきた。地を穿ち衝撃波を撃ち出すほどの勢いで、それこそ相手の身体が潰れてしまっても構わないとばかりの渾身の着地を決める。

「がッ…!」

 口から心臓が飛び出すとはこのことだ。悲鳴は潰された胸の──肺によって思うように上がらず、踏み砕かれた骨と入り交じって強烈な激痛をぶちまける。

 ──とどめの一撃は来なかった。

 ゼルが血の混じった咳をする間を置いて、ヴァンはふーっと長く息を吐く。自分の調子を整える時のように。

「……なあ、ゼル?」

 相手の上から降りようともしないで、彼はその顔を覗き込んだ。翼が放つ神々しい光が逆光になって、ゼルからその表情は見えづらい。

「俺がいつ、おまえのことを嫌いになったなんて言った?」

 ヴァンの中に居た光の蛇神も、ゼルの中に居た闇の蛇神も、そしてゼル自身も、みんな時間が停まったような錯覚を得ていた。

「俺の言うことなら何でも聞くおまえの態度は気分イイし、俺の機嫌とろうとするおまえの声が好きだし、そういうおまえとのセックスは最高だよ。他の誰と寝ても、どこにいてもおまえを忘れたことなんかない。──嘘だと思うか?」

 魔神たちは困惑した。こいつの言っていることの意味が、あまりにも解らな過ぎて。

 しかし。

「……ぅ、そ……じゃ、ない…」すこし沈黙を置いて、ゼルはやっとのことで言った。

 二人の意識がいよいよ魔神たちの理解を超えた。

 ──否、どちらかと言えば、こいつらが本当に求めていたことを魔神たちが知った瞬間、とでも言うべきだろうか。

 そもそもが、ヴァンと共に死にたいと望んだゼルの凶行だったのだ。彼の破滅願望は生来に根ざし、蛇神信仰と相俟って強まる一方だったものだ。それがヴァンという、一緒に死ねれば最高だと思える相手を得て極まってしまった。

 だがヴァンはそれを認めなかった。

 神羅神たちがこの世界のすべての存在に認めた『自由』を、自分の価値観にそぐわないからとガン無視してゼルの信仰と理想を否定し、その情愛も存在も全部自分のものだと言い切ってここまでやってきた。

 ふたりとも、根底に在るものは同じだ。しかしヴァンが抱くのは、ゼルのように死んで終わる有限のそれではない、生に齧り付きどこまでもいきたいと望む、醜いほどの飽くなき無限の愛──『欲望』なのだ。

 対極もいいところではあるけれど、魔神らは知っている。

 とある極致を越えた『それ』は、対極存在の始点にも位置することを。

「嘘じゃないんだね…ヴァン」ゼルは言った。やっと肺の傷が癒えてきたところだ。「わかるよ、キミの考えていることが……昔のように、手に取るようにわかる…」

 ヴァンの言っていることは、いつだって真実だった。かつて彼は本当に、どこへ行っても誰のところへ行っても、気が付けばゼルのところへ『戻って』きていた。

 今だってそうではないか。

 こんなところまで僕を追って来てくれた。ゼルが魔神と成れば自身も魔神と成り、対等な立場で在ろうとしてくれる。今だってやろうと思えばあと一撃で殺してしまえるのに、それをしない。

 話をしようとしてくれる。声を聴かせてくれる。声を聴いてくれる。

 自分が『好き』だと言った『肉体の感触』を、こうして極限の痛みをもって与えてくれる。そう、これがヴァンが生きていたい理由。ヴァンが僕の『理想』を拒む理由。

 キミと僕が『生きている』ことを実感できる、最高の瞬間。

 ああ──アデルでも、ここまでは成れまい。恋でも愛でも『死者を超えられない』なんて幻想だったんだ。彼の中で、僕はアデルを超えられたんだ──。

「ヴァ、ン…」ゼェ、と息を漏らしてゼルは言った。「愛してるよ──」

 愛されている。

 いま、自分はヴァンに愛してもらえている。それが何よりも嬉しい。

 このまま死ねたらもっと良かったけれど、そうしてしまったらもう二度とこの高揚は味わえない。ヴァンの体重、声、匂い、そして。

「ああ、俺もだ。愛してるよゼル」

 この嘘も偽りもない言葉を、もう二度と聞けなくなる。

 どうして僕は今まで、こんな──こんなにも単純なことに気付かなかったのだろう──。

『認めん…! こんな茶番は認めんぞ!!』

 ヴァンと同化しているケツアルカトルも、黒い眷属たちを外野で引き受けていたトラロックやチェルチーらにしてもそうだろうが、ここにきて一番納得がいかないのは、ゼルより分離して薄闇の霧となったテスカポリトカだろう。

『ならばヴァン・クロウ! 貴様が愛してやまぬその男を嬲り殺し、希望を失った貴様を引き裂いて──』

「ダレの」ザリッとヴァンの足が大地をしっかりと踏む。「ナニを」腰の奥に拳を握り込んで、深く身構える。「──どうするって…?」

 できるわけねえだろ、と言わんばかりの狂気じみたその笑みが、黒い蛇神が見たこの世の最後の光景となった。

 ヴァンが撃ち出した光鞭に霊体を頭から叩き割られ、ケツアルカトルの光の力で浄化された闇天の蛇神は、とうとう幻として現世に干渉する力すらも失って、薄闇の姿を掻き消されていた。

 何という存在に力を与えたのだ、ケツアルカトルは。奴の理想からは到底遠い、いっそ反射衝動で生きている自分にも似た、こんな身勝手者に世界の命運を委ねるなど──。

 と、そこまで思ってテスカポリトカは気付いた。

 ヴァンの足下にも及ばないとはいえ、バカは自分だったのだ──と。


   5


「どうかね、ヴァン・クロウ」ケツアルカトルは言った。「違和感はないか?」

「………」

 ヴァンは口の利けない子どものように、自分の手を拳にしたり開いたりを繰り返してポカンとしていた。

 今回の礼にと、この光の魔神が与えてくれた生身の腕と翼は、馴染む馴染まないではなくもともとあったものが戻ってきたとしか思えないシロモノだった。蛇神いわく『過去に引き裂かれる以前の時間軸と今のキミを同期している』とのことだったが、意味は解らなかった。

 ずたずたになってしまった服も、この大陸へやってきた頃のものとまったく同じに再生してもらったけれど、彼にはひとつだけ、以前にはなかったものが生まれている。

 頭に生えた、一対の小さな翼だ。

 魔神との同化による代償とのことだったが、現状、天魔人の中にはアーサー王をはじめとして頭部にも翼を持つ者は少なくない。もしかしたら現代におけるそういう者たちは、過去の系統者の誰かが、こんなふうに神格とかかわったことがあるのかもしれない。

「ま、問題なさそう、かなっ? サンキュ、感謝するよ」

 気に入りのハットを頭におさめ、ヴァンは笑った。しかしてこいつの『本当の』笑い顔を見てしまった魔神一同は、ハハ…と乾いた笑いしか出ない。

 それに、本当なら感謝すべきは魔神たちのほうである。何せヒカリの介入があったとはいえ、過去の自分たちが成し得なかった『決着』を、たかが人間に過ぎぬこの男が成してくれたのだから。

 待機しているアジーンの背中で、トナトナとティアティアに見守られ──否、監視されながら未だに意識が戻らないゼルはヴァンが連れて戻ると言ったので、彼らはもう何も言わないことにしていた。

「我々も寝起き早々に力を使い果たして、疲れてしまった」ケツアルカトルが言った。「少なくともキミたちが生きているうちに、テスカポリトカが再び目覚めることはないだろう。無論、私もな」

「そうか…」ヴァンは感慨深そうに言った。「神の眠りって長いんだな。もし俺の子孫に会うことがあったら、ヨロシク伝えてくれよ」

「承った。きっと一目でわかることだろう」

「──行こうか、ケツアルカトル」トラロックが言った。

「さようなら、勇敢な冒険家さん」チェルチーが言った。

 サアッと霧が晴れるように、背を向けた魔神たちの姿が掻き消えて、その場には一瞬の、風が吹き抜ける静寂が訪れる。

 新しい頭の翼を撫でる柔らかな風は、神々の祝福のような気がした。

「ヴァーンッ!」

 ヴァンがその感触を噛みしめる間が過ぎるのを待っていたように、上空から聞き覚えのある少女の声がした。見上げてみると同時にその姿を見つけて、ぎょっとしたヴァンは咄嗟に彼女を抱き留める。

「ジゼル!?」

「えっへへへ、来ちゃった!」

 まったく悪びれたふうもなく、ジゼルは嬉しそうに言った。

「黒い蛇が出てきたあたりからずっと見てたんだけど、危ないから降りちゃだめだって言われてて…」

「言われたって、誰に──」

「私だよ」

 さっきまで誰もいなかったところから声がしたと思えば、そこには赤い法衣を着たメビウスの姿がある。ジゼルの目を考慮してか、はたまた目立つせいか翼は一対に抑え、角もしまっているようだ。

「おまえを追うためにアルゴライセンスを取ったとはいえ」メビウスは肩をすくめて言った。「その娘は成り立てだ。この大陸への渡航権はまだ得られん。だから連れて来てやったというわけさ」

「……驚かされっぱなしだな、あんたには」ヴァンは言った。「最初から最後まで」

「ほう。私がこのまま、ここを去るつもりであることは解るようだな」

「そりゃあんたの『役目』とやらは終わったんだ、帰るのは当然だろ。いくらなんでも引き留めたりなんかしないって」

「そうかな? 一度手を出してみたかったと顔に書いてあるぞ」

「ばっ…!」

 傍に下ろしたジゼルの目に殺気が宿ったような気がして、ヴァンは慌てて両手を振って否定した。こんなところで彼女と命のやり取りをするつもりはない。

 共に過ごした期間に対し、本当にキスですらしたことがなかったのだから、ヴァンを知る者にとってもヴァン自身にとっても、メビウスは非常に珍しく特異な『相方』となった。

 けれど不思議なものだ。これでもう二度と会うこともない、遠いにも程がある存在だというのに別れが惜しいとも思わない。確かにその深い知性と鋭い美貌には、後ろ髪引かれる気がしなくもないけれど。

「ねえ、ヴァン」と、ジゼルが腕を引っ張る。「あのひと……」

 彼女が気にしたのはゼルだった。天魔に連れて戻るつもりではいたけれど、よく考えなくても彼はジゼルの父親、アデルを殺した張本人だ。無論どうあろうと償いはさせるが、その内容は彼女自身が彼をどうしたいかにも因る。

「ジゼル、あいつは──」

「……ううん、ごめん。いいの」自分で振ってしまった話の責任を取ったのか、ジゼルは首を振ってヴァンの言葉を止めた。「お父さんの仇とか、そんなことはもういいの。ヴァンが無事でさえいてくれれば私は満足だから」

「そうか……」

 薄情な言い方になってしまうかもしれないが、まだ幼かったこともあって父親への思い入れが少なかったのが救いだったのかもしれない。万一にも彼女が多感な時期にあんな悲惨な事件が起きてきたらと思うとそれだけでぞっとする。三年前のヴァンなど比較にならない、憎悪と悔恨の権化になっていたかもしれないのだから。

「強い娘だな」ほんの少し微笑ましそうにメビウスが言った。「うちの娘にもこの強さを見習ってもらいたいものだよ。将来が楽しみだ」

「メルクさん──、えっと、メビウスさん」ジゼルは言った。「ヴァンのこと、ありがとうございました」

「なに。私はちょっと共通の目的に便乗させてもらっただけさ。ヴァンを守ったのは、彼が築き上げてきたこれまでの関係だよ」

「やめろって。その、俺が手のかかるガキみたいな立ち位置になる応対」

「え、何か違うの?」ジゼルがくすくすと笑う。「私、いっつもヴァンが無事で帰って来てくれるまで、おうちで気が気じゃなかったんだからね?」

「心配するなよ…俺は不死身のヴァン・クロウだぜ!」胸を張ってそんなことを言ってから、ヴァンはアジーンやトナトナたちのほうをクイッと指で示した。「それより、挨拶なら向こうの奴らにしておいてくれよ。これからこの大陸で冒険していく上で、世話になるんだからな」

「はーいっ」

 すこし子どもらしい返事をして、ジゼルは草原を走っていった。聞かれたくないことを聞かれたこともあってどっと疲れた気がするけれど、とりあえずこれで──、今はこれでいい。

「では、私も行くよ」メビウスが言った。

「ああ」ヴァンは言った。「ありがとうな。イロイロあったけど、あんたと会えて本当に良かった」

「私もだよ。おまえのような者が生まれてくれて、この世界を創造した甲斐があったというものだ」

「スケールでかいな、相変わらず……」

「真実を言ったまでだよ。この世はやはり未知なる可能性に溢れている。いつか私を超え得る者すら現れるかもしれない。私はおまえに会って、それを再認識できたことが嬉しいのだ」

「カミサマの感性ってのはわかんねーな、やっぱり」

「──だから」

 目を閉じて肩なんて竦めていたから、ヴァンは一瞬だけ気付くのが遅れた。

 ふと目を開けた時には、ゼルにそれとよく似ているくせに底の見えない、深淵の赤き瞳がすぐそこにあった。

 風が掠めるような口付けが通り過ぎ、エッと思った時には、相手はもうその長身を起こしている。

「私からの餞別だ」肩口にかかった長い髪を払い、事も無げにメビウスは言った。「これであの男は、もう自分の意思では死ねん」

「ちょ、待ってくれっ」

 咄嗟に伸ばしたヴァンの手が、身体の向こう側へ隠れようとしていた彼の髪の端を掴んだ。

 柔らかく、細い、するりと零れ落ちる艶やかな金糸。あっ、とヴァンの表情に驚愕が疾る。生身の手で、肌でメビウスに触れたのは初めてだった。

「……も、もう一回しようぜ?」

「ブレないな、おまえ」

 異様に真剣な顔つきで、指など立てて要求してくるヴァンに、メビウスは笑みを含みつつ呆れて言った。

「ではな」そしてそのまま、何の余韻もなく法衣を翻し背を向ける。「良い旅だったよ。ありがとう」

 あっけない。

 まばたきをしたその時には、もうメビウスの姿はどこにも見えなくなっていた。



   エピローグ

 天魔へ戻って数ヶ月ほどでヴァンが記した二大蛇竜神の戦争を描いた冒険録は、各国で一斉出版され、また大いに世界を賑わわせた。後世に遺れば間違いなく伝説・伝承にも成り得るとして学者らもそれを重用することになり、早くも原版は歴史博物館にて保存されることが決まった。

 さすがのヴァンも、まさか自分がケツアルカトルと同化してゼルと同化したテスカポリトカとの代理戦争を行なったなどといった『真実』は残さなかった。そんなことが世界に知れたら自分がどんなふうに扱われることになるか想像がついたし、何よりせっかく連れて戻ってきたゼルとの新しい関係に水を差されるのは我慢ならない。

 ゼルには過去を償わせる、とは決めていたが、別にヴァンは彼を裁判にかけて法の裁きを──などとは微塵も考えていなかった。罰は自分の手で散々下したし、『愛している』という贖罪の言葉──到底、他者には理解できまいが──も、すでに受け取っている。一部の者たちはそんなバカなと口をあんぐり開けていたし、また更に一部の者はまったく納得できない顔をしていたけれど、かの事変の当事者であるヴァンとジゼルに、もはや立件の意思が無かったことも相俟って、驚くべきことに『不問』という結果に終わったのだった。

 当然ながら国家側からは、威信を守る意味で、かの悲劇を生んだ巨悪『ゼル・ガロン』は二大蛇竜神復活の際に死亡したという発表がされることになったけれど、その直後、期を狙ったように出版されたヴァンの冒険録があっという間に話題をさらってしまい、ゼルの処遇や存在については人々の記憶から速やかに洗い流されていった。

「狙ったように、じゃなくて」木製の椅子に腰かけてその冒険録を読みながら、ジゼルはまだ床に届かない足をぶらぶらさせながら言った。「狙ったんでしょ? ゼルさんの話題が長く続かないように」

「人聞きが悪いなー」ふふ、と面白そうに笑いながら、ヴァンは懐かしい味のするコーヒーを一口含んだ。「暗い話題は早々に流れたほうがいいだろ? みんな楽しそうなんだから文句はナシだ」

「ほんと、こういう悪知恵はどこから仕入れてくるのかしら」

「情報戦略って言ってくれよな」

「前より口も立つようになっちゃって。ねー、ドクロウくん」

 ジゼルの後ろにずぅんと控えていた大きなぬいぐるみが、まったくだと言わんばかりにウンとひとつ頷いた。

「ヴァン、居るかい?」

 二人が居た書庫の扉が開いて、そのゼルがひょいと顔を出した。ジゼルを前にしても、そしてこのたびの一件で自身の『悪事』が不問になったことなどなど、あらゆることに悪びれた様子も態度も一切見られない。

 口の悪い奴は厚顔無恥だなどというかもしれないが、これがゼル・ガロンという男だ。善悪に対する倫理を欠如し、それゆえにそういったことを呵責する良心も持ち合わせぬこの男には、自分が『許された』なんて自覚はないし、それに気付くことも絶対に無いのだ。

「なんだよ?」ヴァンが応える。

「前にキミが断った王宮の晩餐会だけど、さっき正式に招待状が来てたよ」

 相手の傍まで歩み寄り、はい、と手にした上質な紙の封筒を差し出してみせる。

「うえ……マジか…」

 アーサー王は今度の件にもまた大いに感嘆し、ヴァン自身の意思も問わずに名誉騎士の爵位を贈りたいと言って譲らずにいた。聖杯探索が終わった時には諫言してくれていた円卓の騎士たちも、今度ばかりは止められないことを悟ったのかもはや素知らぬ顔でカカシのように突っ立っているばかりで、ヴァンは逃げるように王宮から飛び出してきたのだった。

 天魔が誇る偉大なる冒険王ヴァン・クロウを名実ともに『貴族』に──そのための晩餐会であることが、招待状には記されている。

「冗談じゃないぜ……」たった数行の文字列を読むことに疲れ切ったヴァンが、ぐたりと机に突っ伏した。「国のお抱えになんかなっちまったら、どこへも行けなくなるじゃないか」

「いっそ行って来たらいいじゃない」ジゼルは面白そうに笑っている。「騎士っていっても名誉騎士なんでしょ。別に王宮に軟禁状態になるわけじゃないんだから、これまでは変わらず活動はできると思うけど?」

「簡単に言うなよ、どんだけの人間が来ると思ってるんだ」ヴァンは辛うじて頭だけを起こして言った。ある種の犬の耳のように垂れ下がった頭の翼が、彼の心情をありありと示してやまない。「ただでさえS級ライセンスを俺の専属にしようなんて話も出てたんだぞ」

 ヴァンが博士号やライセンスを持っている理由はただひとつ、それがないとどこへも冒険に出られないからだ。勝手に上がっていった階級に対するこだわりなど微塵もない。自分に与えられるという爵位にしてもそうだが、そういう堅苦しい『形式』が何よりも彼は苦手なのだ。いちいち人を集めて、大々的に発表する意味もわからない。

「キミはずっとそう言ってるけどね、この際『国家所属』になるのも悪くないんじゃないかな?」と、ゼルが何食わん顔で言った。「この世には盗掘なんて言葉もあるわけで、冒険家を煙たがる学者も少なくはないんだよ。キミ、自分が連中から何て呼ばれてるか知らないわけじゃないでしょ」

「…………」

「キミがあんまり気にしてないみたいだったから、そういうのも気持ちいいのかなって思ってたんだけど」

「この期に及んでおまえは俺を甚だしく誤解してるな、もう一回死にたいか?」

「その申し出はすごく嬉しいんだけど」ゼルは本気でそう言っているとしか思えない顔で、しかし残念そうに言った。「どうも死ねなくなったみたいなんだよね、僕」

「は?」

 もともと意識したくなかった招待状のことなどサラッと忘れたヴァンが顔を上げた。言葉の意味が解らなかったのか、ジゼルもエッと首を傾げている。

「実は」と、ゼルは言った。「こっちに帰って来てから何日かした時に、僕ね、手首を切ったんだけど」

「よしあとで殴る」ヴァンは言った。「それで?」

「治っちゃったんだ」

「そりゃ浅い傷なら治るだろ」

「深かったよ、手首にナイフ半分くらい通ったから」

「おまえソレ…っ、覚えとけよ…!」アホか、アホなのか、と何度も繰り返しながらヴァンはたまらず頭を抱えた。戻ってきてすぐそんな重大な自殺未遂をされていたなんて、今の今まで知らなかった。

「でも、治っちゃって」

「何日かかったの、それ…?」げんなりしたジゼルが言った。「少なくとも私は、ゼルさんがそんな怪我してるの見てないけど……」

「ナイフを抜いたら、すぐ」

「…は?」ヴァンとジゼルの目が点になった。

「見間違えたかなと思ってもう一回刺したんだけど」

「いい加減にしろよおまえ!!?」

「やっぱりすぐに治っちゃったんだ」変だよね、と言いながら、彼は自分の手をまじまじと見つめる。「テスカポリトカと同化した影響なのかなあ…? ヴァンも一度試してみてよ?」

「できるかっ」

「成功しても、キミの死に様が見られるなら、僕はもうこの世に未練なんてないからさ?」

「話聞けよ!?」

 即死の傷を瞬時に再生させ続けたテスカポリトカと同化した影響、というのは大いにあり得る話だ。

 しかしである。ヴァンに意味が通じなかったとはいえ、彼の腕や翼の再生機構についてしっかり説明してくれたケツアルカトルが、たとえゼルのことであったにしろこんな重要なことを言い忘れていたり、あるいは言わなかったりすることがあるだろうか? ──答えは否だ。

 だとしたら、こんな『奇跡』じみたことを成せる者への心当たりは、あとひとりしかいない。

『これであの男は、もう自分の意思では死ねん』──。

「…ゼル。ちょっと手、貸せ」

 チョイチョイとヴァンに指で呼ばれたゼルが、ナニナニと右手を差し出してくる。ヴァンは、いとも平然と伸ばされた彼の利き手の手首をとっ掴んで机に手のひらを当てさせると、引き出しから無造作に取り出したペーパーナイフをこれまた無造作に振り下ろした。

 どん、と鈍い音がしてジゼルがわっと顔を覆い、唐突過ぎた出来事に身構えもできなかったゼルが短い悲鳴を漏らす。

 いたぶることが目的ではないので、それはすぐに引き抜かれる。ずっ、と鈍い手ごたえがあって、ごく小さな穴から出血が始まる。

 ──治る様子は、ない。

「あ、あれ…?」痛みに震える手を押さえながら、ゼルが不思議そうに傷を見た。「治らない…?」

 そういうことだ。

 ああ、そういうことなのだ。

 あのときメビウスがしてくれたのは、単なる口付けではなかったのだ。感触と行為にばかり気が向いて、彼が言っていることをちゃんと理解していなかったが、あれは何らかの術式履行となる行為だったことを確信する。

 要するにゼルは、ヴァンの手によってしか死ねなくなったのだ。ただの自傷に過ぎずとも、自殺しようとしてもすぐに再生してしまう。きっと頭や心臓を吹っ飛ばしても無駄なのだ。

(なんだ…なんだそれ……)

 そう、ヴァンの手でない限り──。

「最ッ高じゃないの…!」

 頭痛を堪えるように項垂れていたと思ったら、膨れ上がった感情を堪え切れず声を震わせて笑い出すヴァンに、ゼルとジゼルが鬼気迫るものを感じて揃ってたじろぐ。

 メビウスは、ヴァンのこれからに最も必要なものが何なのか、そしてもう二度とないとも言い切れぬ危なっかしいゼルの凶行を完全に封じる方法を見通していた。やはりあの男は最高だ、とヴァンは思った。アデルとも違い、ゼルとも違う。これほどの短期間でこれほどヴァンを理解しきってみせた者など居なかった。

 そして、それはすでに与えられたのだ。それならもう、自分にはこれ以上の何も必要ない。

「よーっし」ガタン、と音を立ててヴァンは立ち上がった。「王宮の晩餐会、参加してやろうじゃないかっ! ゼル、返事出しとけよ!」

「え」手を押さえたまま、ゼルがきょとんとした。「い、いいのかい?」

「まさか、俺をエスコートしたくないなんて言わないよな?」

「そんなこと言わないけど、キミ、ずっと行きたくないって…」

「なに言ってんだよ。アーサー王の顔に泥は塗れないだろ、行くさ」

 三年前どころか、それ以前から散々冒険家以上の扱いを受けることに関して拒絶的であったこのヴァンが、今更爵位を受け取ろうなど、いったいどういう風の吹き回しか。あるいは心境の変化か、はたまた今の一瞬でどこかのセンが吹っ飛んだのか、ジゼルはもちろん、ゼルですら想像もできない。

「おっと、勘違いするなよ?」

 二人が唖然としていると、ヴァンはテーブルに置き去りにされ、存在を忘れられていた招待状の入った封筒を取り上げる。と、事も無げにぐしゃりと握り潰してみせた。

「俺は騎士なんてガラじゃないって、キチッとお断りを入れに行くんだからな!」




                           幻双竜の秘宝篇:了(2017/12/01)