天上の雷光


    1


『ベリアール、この愚か者め……!!』

 大地を底から震わせて余りある猛烈な怒声が、中央都市全域を駆け抜けた。

 上空を飛び回っていた下級の魔物らがその波動でショック死し、バラバラと地に落ちていくのを、宮殿の廊下にいたアスタロットは見た。

『私は貴様に、獣牙王を殺せと命じたのだ! 何故命令に背いた! 我が魔力にてこの世に存在を繋いでいる皇魔の者でありながら我が命令に背くことは、万死に値すると知るがいい!!』

「──ケケッ」

 金色の剛腕に幾度とない殴打を受け、今や起き上がることすら他者の手を借りねばできぬほどに負傷したベリアールの耳に、嫌な笑い声が割って入ってきた。

「お待ちください、マステリオン様。せっかく完全復活を間近に控えたあなた様の御力を、このようなクズを殺すためにわずかでも使おうなど勿体のうございます」

 ボーンマスターだ。闇のそよ風のようにつかみどころのない動きでフワリフワリと漂ってくると、奴はマステリオンの傍で耳打ちをするように言った。

「もはやゴミ同然のベリアールなど捨て置けばよろしいのです、あなた様の手にはまだ、『あの御方』の心を揺さぶるに相応しい、最高の駒があるではございませぬか」

『……』

 マステリオンの挙動が停まる。ほんのわずかに沈黙し、考えるような間が空いた。

『そなたの言う通りだ、ボーンマスター。下々の者どもを使って、ちまちま動き回るのも飽いた』

 マステリオンはそう言うとベリアールから完全に興味を失い、その巨体をぐるりと巡らせ、東側の窓へと歩み寄った。

 ──否、未だこの魔王の身体は不完全であり、その身の大半は形のない闇が寄り集まっているだけのものだ。時折、各所が波立つようにざわめく姿はさながら巨大な軟体動物である。ずるずると身を引きずりながら、禍々しき皇帝は眼前に広がる海の向こう、わずかに見え る大陸を見つめた。

 そうだ──。マステリオンは溜息にも近く想った。私はもっと見たいのだ。『あなた』が苛烈な戦の中で吼え、猛り、激しく昂ぶる姿を。そして、その意志を挫かれて絶望に染まる瞬間を──。

『ボーンマスター。夜明けとともに門番どもを出撃させよ』

「な」ベリアールがたまらず声をもらした。

「ケケ」ボーンマスターが楽しげに嗤った。「かしこまりました、マステリオン様」

「お待ちください、マステリオン様!」先ほどのボーンマスターとまったく同じ言葉で、ベリアールは主君を諫めようとした。「かの門番どもはこの地の守護者、奴らを出撃させてしまってはこの地の守備が──」

『黙れ! この私に諫言など、どの口が言う!!』

 次の瞬間、ものすごい速さで襲い来た闇の触手に身体を弾き飛ばされ、ベリアールは今度こそ床に倒れ伏し、動けなくなった。

『アスタロット、アリオク!』マステリオンは怒鳴った。『この不届き者を連れていけ!!』

 ゴゴン、と音を立てて開いた大扉の向こうから、待ってましたとばかりにその二人が姿を見せる。彼らは意識を失いかけているベリアールをさっさと担ぐと、迅速に皇帝の間をあとにした。

 ざまァみろ──。ボーンマスターは笑いが止まらないくらいの気持ちだった。ヒトのカタチに成れるからって秩序だ規則だと偉そうにしやがって。しまいにゃ命令違反とは、皇魔として底が知れるぜ、ケケケケケ──。

 そんな部下らの小競り合いなど、マステリオンは微塵も意識していない。

『……』

 焦がれる娘のように、海の向こうを見ているだけだ。

 この者にとって皇魔はすべてが駒であり、あるいはすべてが手足であり、そしてすべてが糧である。人々が保管した武具や食材に自我があるかもしれないなどと考えもしないように、マステリオンは皇魔の者に『配慮』などしなかった。

『……サイガ』

 ぽつりと、その者は呟く。

 確かめるように。その名を呼ぶことにさえ、深くわきあがる歓びを感じながら。

 ファフニールを討ち取る時……その時こそ、サイガ。あなたが真の慟哭に堕ちる時だ──。

 マステリオンはその時が楽しみでならなかった。待ち遠しくてたまらなかった。

 まるで幼い子供が翌日の遠足に焦がれるように、限りなく純粋な気持ちで。



「こっぴどくやられたわね」

 全身全霊の回復魔法を使ったおかげで疲弊したアスタロットは、大きな溜息とともにそう言った。

「当然だな。マステリオンの命は、獣牙王の抹殺。しかしベリアールはそれを成さなかった」アリオクが低く言った。「それどころか、せっかく誘き出した聖龍王を捕えもせず、両者とも、みすみす返してしまったのだから」

「マステリオンじゃなくても、フツーはブチギレるわね」アタシでもキレるワ、アスタロットは肩を落とした。「よく生きてたものよ。ボーンマスターに感謝しときなさい? あのホネ野郎、いけ好かないヤツだけどたまにはイイトコあるのネ」

「どうせベリアールを見下して楽しみたいだけだろう」アリオクはさらりと言い、手を伸ばした。「立てるか、ベリアール」

「……すまない」

 小さく礼を言い、ベリアールはようやく立ち上がった。呪術に長けたアスタロットの、強力な魔力からの回復魔法のおかげで、どこにも違和感はない。本当によく生きていたものだ。

「念のため、ひとつ聞いておくワ」アスタロットが言った。「なんでアナタ、獣牙王を殺さなかったの? アナタに限って、まさか本当にマステリオンに嫌気がさしたなんて言わないわよね?」

「私の意思にそぐわなかった」

「マステリオンの命令が?」

「そうだ。あんなものは『戦い』ではない」

「……呆っきれた」アスタロットはもう一度溜息を吐いた。

 ベリアールにとっての『戦い』とは、双方の意志のぶつかり合いであり、そこに敵だ味方だという概念はない。勝った者は未来を勝ち取り、負けた者は朽ちゆくのみ──それゆえにもっと正々堂々と、互いの意志を尊重し、力量の限りに全力でぶつかって然るべきものだ。

 子は親を選べない、という言葉かあるが、魔物だって主を選ぶことができない。アスタロットやアリオクをはじめとした一部の者にはすでに周知だが、もともとベリアールは、苛烈な攻撃や残虐な策を『戦い』と称して楽しむマステリオンのやり方が嫌いであった。

  だが間違っても奴は魔王であり、自分たちの主君だ。ベリアールはこれまで、どんな任務にも自分の感情を介入させないよう務めてきた。だから今回も、言われるままハイハイとばかりに聖龍王の目の前で獣牙王を殺して終わりにするつもりでいた。主君が望んだとおり、可能な限りあっさりと、一撃で首でも撥ねて。

 しかし、それができなかった。いや、しなかった。する気が無くなったのだ。

「……」

 あの時、サイガに会って。

 真摯なほどに自分を見つめていた、あのあかい瞳を見て。

 ベリアールは、自分の攻撃が効かない相手を知っている。避けた者を見たことがある。喰らっても起き上がってきた者も居たし、一撃で死んだ者など数えきれない。

 けれど、完全に見切った者は初めてだった。

 手負いの身でありながら苦痛を圧殺した堂々とした立ち振る舞い。『強さ』とは殺すためのものではなく、自身をも含むあらゆる全てを守るためのもの──戦に身を置く者として、その姿はもはや作法の体現と称して相違なく、まさにベリアールの理想であった。

 これほどの者を、あの場で、あの忌まわしい魔王の禍々しい楽しみのために潰してしまうのはあまりにも惜しかった。

 だから殺さなかった。

 ただこうしたことを語ればアスタロットはもっと呆れただろうし、マステリオンは今度こそベリアールを殺すだろう。同意してくれそうな者といえば、自分に近い感性を持つアリオクくらいだ。

「ベリアール」アリオクが言った。「マステリオンからの……否、ボーンマスターからの通達だ。おまえたちはファフニールの後方につき、露払いをしろと」

「魔界でも指折りの実力者たるアタシたちに、露払いですって?」アスタロットは露骨に嫌な顔をした。「本当にナメられたものね。ボーンマスターのヤツ、そのうち骨壺に永久封印してやるワ」

「……わかった」ベリアールは言った。どうせ自分らに拒否権などないのだ。「未明の出立には間に合わせよう」

 仲間というよりは友人と呼ぶべきふたりと別れ、ベリアールは廊下を歩いて行った。

 聖龍王、サイガ──。マステリオンに聞かれる危険を考慮し、ベリアールは心の内でぽつりとその名を呼んだ。

 あなたは強い。きっと、あなた自身が思うよりも、ずっと。この戦いが終わる時、あなたはその本当の意味に気付くだろう。どうか──。

 視界がひらけた。ベリアールは宮殿の東側にある高台に立って、海の向こうを見つめる。

「どうか、ご無事に」

 未だマステリオンの策謀を知らずそこにいるであろう、彼の者に語りかけながら。


    2


 聖龍の里の中心部には、あらゆる催事に利用される大きな堂がある。

 とうに日も落ち、本来ならばほとんどの者が床に就いているであろう夜更け。そこには大勢の住人の姿があった。

 シャッ、シャッ。堂の中では、煌々と燃える祈祷の火を前に、まじないの言葉を唱えながらミコ婆が振るう大幣の音がずっと続いている。左右の壁際に展開した顔ぶれの中には、普段ならば聖龍殿の奥に控えて滅多に人前に姿を見せぬ元老の重鎮までもが並び、堂の中央──ミコ婆の背後に座したサイガに視線を送っていた。

「ミヤビ」堂の外を囲んだ群衆の中で、テッシンが言った。「ミコ婆、どうしたんだ? こんな夜中に聖龍殿に乗り込んで、みんなを叩き起こして回ってさ」

「うん……」身支度の暇もなかったのだろう。ほとんど寝間着のままのミヤビは俯いた。「お婆ちゃん、ものすごく不吉な夢を見たって言ってたわ」

「不吉な夢? まさか」テッシンは身を乗り出した。「とうとう獣牙の連中が攻め込んでくるのか?」

「そんな」ミヤビは慌てて首を振った。「獣牙とは少し前に、やっと休戦協定を結んだばかりじゃない」

「それもそうだ……それじゃあ、鎧羅の輝煌王が言ってた、マステリオンってヤツなのか」

「……」

 とてもこの群衆の中で、世間話よろしく交わせる話題ではない──。ミヤビは口元を結んだ。

 祖母であるミコ婆が悪夢に飛び起きて家を飛び出して行ったとき、同じ血を持つゆえかミヤビもまた感じていたのだ。えも言われぬ気持ちの悪さと、胸の──腹の底からわきあがってくる嫌な焦燥感、恐怖を。

 マステリオンだ、と、そのとき彼女は確証無きまま確信していた。祖母は今、自身と孫娘が感じた悪意の波動を言葉と形にするべく必死に祈祷を行なっている。それが告げられた時、世界は……いや、まだ小さな区画に過ぎぬ聖龍大陸の者たちは、いち早く脅威の正体を知るであろう。

 うるさいほど続いていた大幣の音が、止んだ。

 不安げに辺りを囲んでざわめいていた住人たちはシンと静まり、中の様子に耳をそばだてる。ミヤビも、テッシンも例外ではない。

「──西の海じゃ」ミコ婆は言った。「西の海より、かつてない魔物が、この聖龍の地へ飛来する……」

「西だと!?」誰かが声を荒げた。「やはり獣牙の者どもか!」

「待たれよ」祭壇の傍に座していたライセンが言った。「獣牙の派兵であれば『西の地』とするのが妥当。司祭は『海』と申されている」

「それに……飛来、とは……如何なる意味でありましょうか……」その対照側にいたシオンがぽつりと自問する。

「彼の地より四方へ飛び立つは、金色なる闇……」

 周囲の者らに目もくれず、ミコ婆はのそりと身を回すと、控えたサイガに向き直って更に言葉を続けた。

「朝日に似て非なり、西より出でたる禍々しき雷は間もなくこの聖龍の地を覆い尽すであろう。空を奔る閃光にも等しい深き闇が舞い降り……サイガを、攫ってゆく……」

「俺を……?」

 唖然としてしまったサイガの小さな問いに、ミコ婆は、それ以上は何も答えなかった。

 彼女ははぐらりと前のめりに傾き、そのまま床に倒れ伏したのだ。

「司祭!」

 思わず立ち上がったライセンを筆頭に、周囲の者たちの緊張の糸が切れた。堂の中へ住民たちがワッと駆け込んで来て、シオンの指示のもと大急ぎでミコ婆を医者のもとへ運んでいく。

 それまでの静粛さを一変させ、戦場のように怒号や悲鳴が飛び交う中で、堂の奥まったところに寄り集まり、ひそひそと言葉を交わす者らが居る。元老の集団だ。

「若が闇に攫われると──」

「なんと不吉な」

「先王の神隠しが、若の御身にも降りかかろうというのか」

「どうせ獣牙の者どもに決まっておる」

「彼の狐め、休戦協定などと甘言で我らをたぶらかし、その隙に聖龍の地へ攻め込むつもりで……」

「──だまれっ!!」

 落雷に匹敵するものすごい怒声が老人らの口をぴたりと止めた。ついでに、大司祭が倒れた報を聞きつけて外で大騒ぎしていた民たちまでもが、水を打ったように静まり返る。

 声の主であったサイガは誰に目をやるでもなく、声の激しさにそぐわぬ静かな足取りで堂を出ていった。

「サイガ──」

「ライセン。戦の支度をせい」

 戸口のところに居たライセンが声をかけようとしたとき、それを遮ってサイガは言った。

 そして彼は堂のアプローチに立ち、畏れながら自分を見上げている民らにも言った。

「大司祭は予言された。ほどなくこの地へ、かつてない魔物が襲来すると。その脅威たるや、これまで獣牙との間で繰り返してきた小競り合いとは比べ物になるまい」

 サイガ──。胸騒ぎを押し殺さんとするように両手を組み、ミヤビは息をのむ。

 バチィッ。サイガが大きく掲げた右手の先に、白き雷をまとった七支刀が出現した。彼はそれを握り締め、ミコ婆が予言した西を指す。

「これより我ら聖龍族は、全軍で『金色なる魔物』を迎撃する! 腕に覚えのある者は起て、俺と共に来るがよい!!」

 ほんの一瞬の間が空いた。誰もがサイガの言葉に──否、ミコ婆の予言に驚いている。だが次の瞬間、群衆の中から拳を振り上げ、叫ぶ者がいた。テッシンだ。

「俺は行くぞ、サイガ!」

「私だって行くわ!」ミヤビが声を張った。「もう、あなただけを戦わせはしない!!」

 それに触発され、群衆らは我にかえったようにサイガに応えた。ミコ婆が倒れた時のそれを上回る大歓声が里に轟く。彼らは一様にサイガの名を叫び、夜空に吼えて戦意の高揚を示した。

 無論、この地が戦場になると聞き、顔を不安に染める者も少なくはない。戦のみならず、彼らのような者の安全を確保するのも、管理者としての役目だ。

「シオン」サイガは言った。「おまえは急ぎ、戦えぬ民らの避難をせよ」

「かしこまりました、サイガ様」戸口に控えたシオンが頭を下げる。

 最低限の指示を終え、サイガは聖龍殿へと戻っていった。

 間もなく来たる脅威との戦いに備えるために。



「サイガ!」

 聖龍殿の長い廊下で彼を呼び止めたのはテッシンだった。

 振り向いてみれば一緒にミヤビの姿もある。

「サイガ。ミヤビから聞いたよ」テッシンは言った。「マステリオンのこと」

「……そうか」サイガは言った。

「『内乱』では俺たちを潰せないと解って、ようやく本陣のおでましってワケだ」パシン、とテッシンの拳が音を鳴らす。「この戦い、負けられないな!」

「私も同じ気持ちよ」ミヤビが言った。「これに勝てば、世界はやっとマステリオンのことを知るわ。根拠を言えだの証拠を見せろだのウルサかった鎧羅の連中を、今に黙らせてやるんだから!」

「ああ、期待しておる」

 ──そこまでの問答で、ミヤビとテッシンは互いに視線を交わした。

 なんかサイガ、変じゃないか──?

 自他ともに幼馴染と称し称される間柄であるこの三人である。ことにミヤビとテッシンは、サイガを交える自分らの関係を誇りにさえ思っており、どんな些細な変化もすぐにわかる、とよく自慢している。その言葉は、決して単なる豪語ではなかったらしい。

「サイガ、大丈夫か?」テッシンは言った。「ずいぶん大人しいじゃないか」

「どうかしたの?」ミヤビも言った。「何か気になることがあるのなら、言って?」

 普段から考えを胸の内に秘めやすく、一言二言程度の催促では安易にそれを口にしないサイガに対しては、質問で畳みかけねば何も聞き出せないことを、このふたりはよく知っていた。

 彼のこうした性質については、国の政に携わる者として熟考主義と言えば聞こえはいいし、実際のところこの友人らを含む聖龍関係者のほとんどがそうだと思って止まない。だが本当は違うのだということを、本人から聞き出すでなく察することができたのは、未だただひとり、飛天王アレックスのみであった。

 ああ、この人は──。

「……情けないことよ」

 ふ、と自嘲にも見える笑み交じりにサイガがそう言うものだから、友人らはつい顔を見合わせてしまった。

「敵の本陣、マステリオンの息がかかった魔物がこの地へ襲来しようという時になっても、俺たちは未だバラバラだ」

「え……そんなことないわよ。あなたも見たでしょう、里の人たちを」ミヤビは驚いて言った。「確かに四大陸で見たら全然バラバラかもしれない。けど、それだってこの戦が終わったら変わるわ。本当に戦うべき相手がマステリオンなんだって、気付くわよ」

「いや……そうではない」

 少し遠くへ目をやれば、夜更けだというのに里のあちこちに大きな火が焚かれ、避難や準備を指示する人々の声が絶えない。ミコ婆の予言は急だった。ならば、敵の襲来はおそらく夜明けと見ていい。

 王の間ではすでに高兵と神官らが戦支度をするべく、サイガがやってくるのを今か今かと待ち侘びていることだろう。本当なら、今こうして話している時間も惜しいくらい状況は切迫している。しかし、
終わるころには誰が欠けていても不思議ではない戦を間近に控えたサイガは、里の火に目を留め、口を開くほうを選んだ。

「なあミヤビ、テッシン。俺が王となって、どのくらい経とうか?」

「えっと……ついこないだ、半年目の祭事があったっけ?」テッシンが言った。

「何か月前の話をしてるの?」ミヤビが呆れた。「再来月で一年よ」

「え、もうそんなになるのか? アハハ……なんか、あの戴冠の儀がつい昨日のことみたいでさ」

「そうだな。俺もそう思うておる」サイガは頷いた。「だが思い返してみれば、実に様々なことがあった。この十月は、確かに過ぎた時間なのだ」

「うん」ミヤビは力強く頷いた。「サイガ、本当に立派になったよ。最初の頃はライセン様やシオン姐の補佐がなきゃ大変だったけど、今はちゃんとみんなを引っ張ってる。もうすっかり王様ね」

「ありがとう。この上ない賛辞だ」小さく笑ったサイガの表情が、不意に陰る。「……だが、そう思うておらん者もおる」

「え?」

「元老の老いぼれどもを見よ」彼は溜息交じりに首を振った。「奴らと来たら、未だに俺を『若』呼ばわりだ。此度のような有事の際にも、『西』と聞き付ければすぐに『獣牙』と答えよる。状況が、事態が、日々刻々と変容しておることをまるで意識しておらん。なんと愚かなことよ」

「……」

「……」

 実を言えば自分らも日頃から同じように感じていたことを、あまりにもサイガがあっさりと、しかもずけずけと口にするものだから、ふたりは思わず沈黙してしまった。拳を握って熱く同意すればいいのか、苦笑いで諫めればいいのか判らない。

 サイガは尚も言った。

「世界は間もなくマステリオンという最大の脅威に相対する。だが俺たちの周りはどうだ。これほどに多くの者が違うものを見、違うことを考えておる。こんなことで、本当に俺たちはマステリオンに打ち勝てるのであろうかな」

「サイガ……」

 テッシンがぽつりと名を呼ぶものの、先には何も続かなかった。かける言葉も無いとはこのことだ。

 はじめはミヤビも、呼びかけることさえできず沈黙していた。……だが、不意に彼女は顔を上げ、思い切ったように言った。

「来るよ」

「え?」サイガが面食らって彼女を見た。

「できるよ。私たちなら」

 それだけで終わってしまったなら、それは単なる気休めだ。きれいごとや付け焼刃と称してもい
い。けれど彼女は言葉を続けた。

「前に、リュウセン様から聞いたことがあるの」

「父上から?」

「里の人々の想いや心持ちがバラバラなのは、平和だからこそだって」

「……」サイガは何も言わなかったが、小さく息をのんだように見えた。

「落ち着いて静かに暮らせるから、みんなは自分のやりたいことや好きなことを自由に考えられるんだって。世界中、みんなの心が一つにまとまることがあるとしたら、それは本当に何もかもが『終わる』時かもしれない……って」

「──そうか……」サイガは気付いたように言った。その口元が、わずかに笑む。

「マステリオンが現れてから、世界はずっと混乱してる。けどそれぞれの国ではそれぞれの平和がまだ守られていて、だからみんな、まだ自分の意思があるんだわ」

 元老の者たちも、きっとそうなのだ。戦いという領分をサイガたちのような若い力に頼り切った他力本願なものであろうとも、彼らはこの小さな平和が続くことを信じて疑ってもいない。世界が滅ぶやも知れぬ脅威を、どこか他人事のように見ている。

 ──だが、それでいいのだ。

 彼らのような戦えぬ者にまで、戦わねばならぬと決起させてはならない。個々の心にある『平和』がこれからも揺らがぬように、自分たちは戦うのではないか。

「どうやら、愚かなのは俺のほうであったようだな」サイガは大きく息を吐き、苦笑いした。「今は亡き父上に、今更こうして教えを受けるとは思わなんだわ」

「……それが、受け継いでいくってことよ」ミヤビは言った。

「ああ、そのとおりだ」

 サイガは頷いた。その表情には、先ほどまでの憂いなど片鱗も見えない。その様子を見て友人ふたりは顔を見合わせて頷き合った。もう何も心配することはない。迷いの晴れたサイガに敵など居ないのだ。

「ミヤビ、テッシン」改めてサイガは言った。「おまえたちの働きには期待しておる。俺の背、任せるぞ」

「言われるまでもないさ!」テッシンは言った。「マステリオンの手先なんか、朝日が昇り切る前にぶっ飛ばしてやろうぜ!」

「おう、よい心意気だ! 戦地で会おうぞ!」

 互いの拳を突き合わせたサイガとテッシン、そしてそれを心強い想いで見守ったミヤビはそこで別れた。

 サイガは王の間へ、ふたりは里の支度に戻るために。



「──絶影よ」

 廊下を早足に歩きながらサイガは言った。

「三方大陸に密偵を送り、これよりの状況を視察せよ。ミコ婆の予言の内容、どうも気にかかる」

 答える声も気配もないのに、サイガは独り言のように続けた。

「あと、セツナを通じて獣牙に……エドガーに伝えよ。この戦、おまえたちの助太刀は要らぬと──」

 そこまで言って、サイガはふと考えるような間を置く。そしてほどなく、「いや」と続けて言った。

「邪魔だては許さぬ。──そう、伝えるがよい」

 それを最後に、彼は王の間へ消えていった。

 もはや誰の姿もない時迫る回廊の半ばで、ゆらりと空間が歪む。

(──御意)

 変化は、ただそれだけだった。




                                     NEXT...