天上の雷光 3 空が、白む。 聖龍大陸の西にある広大な森の果て。その切り立った崖の上に立ち、サイガはその時を待っていた。地に突き立てた七支刀にはすでに、宝玉に置いた両手を通してサイガの魔力が絶えず循環しており、いつ引き抜かれても万全の力を発揮できることだろう。 崖の下、森の出口付近にはライセンとシオン率いる数万規模の軍が待機し、その中にミヤビとテッシンの姿もある。 鳥の声も聞こえぬ完全なる静寂に、幾度、風が吹き抜けたか知れない。だがその風が来たとき、サイガはじっと閉じていた赤の双眸をばちりと開いた。 ──来る! それは猛烈な突風だった。海をふたつに裂かんばかりに飛来したかと思えば、眼下に控えた軍勢の一部を激しく巻き上げるとともに、サイガの身をも掠めて上空へと舞い上がっていく。 ピィ──ッ。相手が空を駆けることをいち早く察知したサイガが、振り向きざまに指笛を吹いた。主の命を受け、彗星にも等しく上空より降下するのは飛電だ。サイガは地を蹴りその背に降り立つと、はるか上空へ舞い上がり初めて敵と正面から対峙した。 ささくれた金色の甲冑に身を包み、いつか見た皇魔の者と同じ異形の翼と尾を持つ巨躯は、ミコ婆の予言にまったく相違ない。だが顔を覆い尽す兜の隙間からこちらを見ている赤い瞳と視線が交わった時、サイガは不意に奇妙な懐かしさにとらわれていた。 マステリオンのそれに似た瞳。だが、自分にも似た何かが、その奥で揺れている──。 「……ォ、オ……」 金色の敵が喉を震わせる。直後、すさまじい咆哮が発せられ一帯を駆け抜けた。 (我が名は、竜王) サイガは咆哮の中に、敵なる者の声を聞いた。 (竜王、ファフニール也! 我が主君マステリオンの命により、貴様の首、貰い受ける!!) 「はッ、よもや名乗りを上げようとは、敵ながら天晴な奴! ならば俺も応えねばなるまい!」 サイガは七支刀を相手に向け、腹の底から声を張る。 「我が名はサイガ、この聖龍の地を預かる王である! ファフニールよ、俺を討たんと望むならば、その命を賭す覚悟はできていような!!」 双方ともに深く身構え、ファフニールの両手とサイガの七支刀が見る間に白く帯電する。互いに全力でぶつかることを確かめ合ったこの二人に、小手調べやお手並み拝見といった概念は存在しない。 「七天、伐刀ォォォ!!」 次に撃ち放たれたのは、成層圏にまで達しようかという大放電の激突だった。 「サイガッ!」 「よそ見してる場合じゃない、ミヤビ! こっちも来るぞ!」 テッシンの叫びに、上空に気を取られていたミヤビがハッと気付いてみれば、すでに前方は海や空間を渡って現れた魔物の波に埋め尽くされていた。この地の原生動物やモンスターらは、その野生の本能ともいうべき能力ですでに危機を察して逃げ出しており、この戦による不慮の犠牲が出ないことがせめてもの救いだ。 だが、それでも。 こんな数──。ミヤビがたまらず戦慄したとき、すぐ傍を駆け抜けた者がいた。 シオンだ。 「私が道を拓く! 皆の者、私に続け!!」 彼女が走る動きに合わせ、周囲から続々と風が集束してゆくのが解る。真っ黒い軍勢の中へ飛び込んだ彼女は、そこで深く腰を落として一息に抜刀した。 かまいたちを含んだ一陣の竜巻が、力の弱い魔物らを切り刻んで上空へと吹き上げていく。そうしてシオンの周囲に発生したエアポケットへと聖龍の軍が攻め入った。魔物の咆哮と兵らの怒号が入り交じり、瞬く間に合戦の線が展開されていく。 脆弱な魔物の討伐を兵らに任せながら、シオンは目に留まった魔力の高い敵を続々と斬り捨てて進撃する。その横にライセンが並んだ。 「ライセン様」シオンは言った。「この奥です、居ります」 「武運を祈る、シオン」ライセンは言い、先に地を蹴って跳躍した。 「勿体なきお言葉!」 続いて彼女も同じように跳んだ。数十の魔物の頭上を飛び越え、降りる先へ向かって自慢の剣を振りかぶる。 見えたのは、女の姿。血の気の無い肌を惜しげもなく晒した、長い髪を持つ美しい女。けれど異形の角と翼を持ち、シオンの姿を認めて挑発的に笑った魔物の女だ。 ギャギャッ! 金属同士を叩き合うような、耳に痛い衝突音。シオンの剣はその女に届く前に、見えぬ何かに阻まれていた。弾かれたシオンは空中で体勢を整える際、女の周囲でドーム状の光がきらめくのを見た。強力な防護術だ。 「あぁららぁ、大丈夫?」魔物の女は大袈裟な振る舞いで言った。「まさかこんなド直球に突っ込んでくるバカが居るとは思わなくて、ちょっとビックリしちゃったワ」 「やはり、一筋縄ではいかないようね」シオンは構えを改めて敵に向き直る。「あなたがこの軍勢の指揮官? 名乗りなさい! 私はシオン、征嵐剣の称持つ聖龍の剣士、シオンなり!」 「アタシはアスタロット! アタシを討ち取りたいのなら、千をも超えるアタシのペットたちを皆殺しにしてご覧なさい!」 アスタロットが名乗りとともに大きく腕を振り上げると、それを合図にして周囲の魔物らが一斉にシオンへと襲い掛かった。 鋭い爪、牙、強靭な体躯──それらが、次の一閃のもとに細切れになる。シオンは自らの剣撃にかまいたちを含ませて一度に大量の敵を斬り捨てる、対集団戦術に長けていた。これが、彼女が征嵐剣と呼ばれる所以のひとつだ。 「ウフフ。強く気高い意志を持つヒトって、女でも、とても魅力的だワ」アスタロットは嬉しそうに笑った。「それなら、このコはどう!?」 ギュウキ、と呼んだアスタロットに合わせて、シオンの周囲に大きな影が落ちた。 「はっ!?」 すぐに飛び退いたシオンの気配が残る地点に、ドドンと巨大な魔物が降り立った。黒い剛毛に覆われた体躯と頭だけを見れば牛のように見えるが、背に展開する黒い翼と、四本もの大きな角はどんな生物にも覚えがない。 「このコは特別よ、あなたの風の魔法は通じない」アスタロットは言った。「見せてもらうわよ、アナタの剣士としての底をね!」 地震にも等しく地を揺らし、牛の魔物はシオン目掛けて突進してきた。手にしている武器は、傍目にはただの金属の棒切れのようだが、体格差から見ても直にぶつかり合うのは得策ではない。 ならば──。シオンは今一度深く身を落として身構えると、渾身の力で地を蹴って魔物へ突っ込んでいった。 「な──」思わずアスタロットが絶句する。 シオンは風のように身を翻し、魔物と軽やかにすれ違った。ガゴン、と音を立てて地に落ちたのは、真っ二つにされた魔物のロッド。そして──。 ドズン。あまりにもあっけなく魔物は倒れていた。一瞬でその身をズタズタに斬り裂かれ、すでに絶命していたのだ。その速さたるや、最後の傷が刻まれてようやく、最初の傷が出血を始めるほどのものであった。 「我が剣の極意は魔力に非ず」シオンは言った。「目視かなわぬ速さこそ、征嵐剣の神髄よ」 「う……」アスタロットは身動ぎし、顔を伏せる。その肩が小さく震えた。「ふ、フフ……アーッハハハハ!」 「……」シオンは気を抜くことなく、いきなり笑い出した相手の様子を、剣に手をかけたまま見据えている。 「いいワ、アナタ! 気に入ったわよ」アスタロットは言った。「久しぶりにホネのある相手に出会えて嬉しいワ。このアタシが全力で相手してあげる、感謝しなさい!」 翼を広げて舞い上がったかと思えば、黒き魔女は一気に降下してシオンとの距離を詰める。下手に受け止めようとすれば、防護魔術の効果も相俟ってダメージは免れない。けれどシオンとて歴戦の剣士、ここで後退するなどできはしない。 「はああぁぁぁぁッ!」 シオンは気合いを吐き、強靭な風をまとった刃を敵目掛けて振り抜いた。 「お初にお目にかかる、聖龍の将軍よ」 ライセンの前に立つのは、ベリアールだった。 女たちがすぐ過激な戦闘に入ったのとは裏腹に、彼らは一定の距離を置き、身構えもせずに向き合っていた。まるで古い友人にでも出会ったように。 それもそのはず、ベリアールがライセンを待つように待機していたのは魔物の軍勢を駆け抜けた遥かな後方で、支援のためと言い繕うにも無理がある位置だったのだ。 「貴公が、この軍の司令官か」ライセンが言った。 「いかにも」ベリアールは言った。「私はベリアール。我が主君マステリオンの命を受け、ファフニールによる聖龍王討伐を支援する者」 「おかしなことも、あるものだ」ライセンは肩を竦めた。「よもや殺気を持たぬ敵が居ようとは」 「……」ベリアールは一瞬、何も言わなかった。 「この戦、貴公の本意ではないな?」 「私がそれに答えるとお思いか?」 「もしそうだと申されるのであれば、我らは無益な戦をせず済む。それだけのこと」 「聖龍王殿とファフニール、どちらかの勝利無くして我らに退却の選択肢はない。たとえこれが、私の意にそぐわぬ戦であったとしてもだ!」 宣言のように強く言ったベリアールの身の周りで、循環を高めた魔力がバキンと爆ぜて威嚇する。 「聖龍が将、大魔導ライセン殿! 御手合わせ願おう!」 (なるほど、この男──) そしてまた、応えるように身構えたライセンの口元が小さく笑んだことに気付いた者は、誰も居なかった。 「いざ」ライセンは言った。 「──尋常に」尋常ならざる男は言った。 『勝負!』 二人の気迫は、まったく譲ることなく地平に響き渡った。 4 地上で将軍らが地を蹴ったとき、上空ではすでに幾度目かの閃光が交錯していた。 飛電とサイガのふたりから成る波状攻撃のほとんどをものともせず、ファフニールの魔力は無尽蔵を疑わせるほどに持久した。マステリオンを彷彿とさせるあの金色の鎧が力を提供しているのだとサイガは何となく察していたが、いざ破壊となればそううまくは運ばない。 「オオオォォ!!」 そしてまだ、咆哮とともにファフニールが全身から放電した。青白い奔流は自らの意志を持つように、的確に飛電の回避コースを狙ってくる。猛り狂う雷光の大半を飛電が喰いちぎり、あわや直撃かと思われた一撃を七支刀で弾き落として、サイガは再度接近を試みる。 ぎらり。ファフニールの両手に、さっきまではなかった鋭い爪が見えた。 (──いかん!) ハッと気付いたときには、サイガはもう反射で飛電の背から跳び立っていた。上空へと大きく跳躍する相手を追ってファフニールも雲を突き抜け空を駆け上がる。眼下から、主に追いすがる飛電の放つ雷を容易に握り潰し、金色の魔物はサイガの腹を狙って爪を繰り出してきた。 ギャリリリッ。咄嗟に間へ差し込んだ七支刀の牙が爪をとらえ、双方は競り合いになった。 「っぐ……う…」 奥歯を食いしばって押し返そうとするも、サイガは体勢が悪く圧倒的に分が悪い。じりじりと身に迫る凶刃に等しい爪の先に、否応でも注意が向いてしまう。自分が傷付く姿を、自分が血を流すその瞬間を、想像でもしてしまった時点で流れが狂ってしまうと解っているのに。戦いとは、それほどまでに当人らの意志力が際立つ世界なのだと理解しているのに。 (サイガ──) マステリオンのそれと同じ質の声が、サイガの心をざわりと騒がせる。そのとき彼はファフニールの目を見てしまった。 愉しんで笑っている、その目を。 「ぅらァッ!!」 凶悪な拒絶反応に任せたサイガの渾身の蹴りが、ファフニールの胴に決まった。感情の暴発で強力な電撃を帯びたそれは、金色の鎧にビシリと亀裂を走らせた。 続けざまに胸に叩き込んだ蹴りの反動でサイガは素早く敵より離れ、旋回してきた飛電の背に戻る。 「サイガ様、ご無事か」飛電が叫ぶ。 「……っあ、ああ、問題ない」サイガは荒れそうになった呼吸を噛み殺して答えた。 マステリオン。奴は見ておる──。サイガは確信した。奴はファフニールの目を通して、この戦いを……俺を、見ておるのだ──。 「ゆけ、飛電!」サイガは叫んだ。「畳みかけるぞ!」 「承知!」 力強く羽ばたいた飛電は、よろめいたままのファフニールに特攻を仕掛けた。めいっぱい息を吸い込み、腹の内側よりすさまじい電撃を撃ち出す。翼より生まれる気流がその軌道に渦を作り、瞬く間にファフニールはその中に捕えられた。 「覚悟、ファフニール!」 敵の動きを封じた瞬間を狙い、サイガは再び竜の背を蹴ると、雷が展開する網の中を敵目掛けて跳躍する。 ファフニールは──否、その瞳の向こうにいるマステリオンは、その光景を如何に捉えたであろう。 電光の中、ひときわ煌めく白い輝きとともに七支刀を振るったサイガの姿は、まさに刹那を彩る華そのものだ。 「うおおおおォォォォォ!!」 渾身の力でサイガが振り下ろした七支刀は、体勢を立て直せなかったファフニールの頭をまともに捉えていた。兜にバキンと大きな亀裂が走り、ふたりはまとめて真っ逆さまに落ちていく。 このまま地に叩き付ければひとたまりもあるまい、これで終わりだ──。 そのとき、落ちゆくファフニールから離れようとしたサイガの腕を、不意に伸びた金色の腕が掴み取った。 「なにっ?」 サイガの眼前で、金色の闇がガバリと口を開く。次の瞬間、あらゆるものを吹き散らす暴風の咆哮が一帯に轟いた。 地上でミヤビが、テッシンが、シオンが、ライセンがその音を聞き付けて空に注意を奪われる。そこでは、金色の根を持ち、あまりの激しさゆえ各所に雷を抱えた大竜巻が地上へ向けて落ちてくるところだった。 地に到達した竜巻は森を揺るがし草木を抉るだけに留まらず、敵味方を問わず軍勢の大半を上空へ舞い上げてようやく治まる。しかし、吹き上げられた者たちは誰一人として戻っては来なかった。 「な、……なんて力だ…」 呆然とテッシンが呟く横で、顔面蒼白になったミヤビが震えながら、堪え切れず叫び声を上げて走り出した。 「サイガッ!!」 負傷した兵も、動けぬ魔物も構わず、ミヤビはまさに災害が通り過ぎたばかりの荒野を駆け抜け、その中心に至った。痛ましく抉られた地の底に、倒れ伏して動かぬ人影が見える。 サイガだ。 「サイガ!」ミヤビはクレーターを滑り下りると、その身体を抱き起した。「サイガ、しっかりしてっ……!」 呼びかけたところで、ミヤビは手元の違和感に気付いて背筋が冷たくなった。 震える彼女の手から、サイガの首ががくりと前に崩れる。その後ろ頭を支えていた手のひらに、真新しい赤い血がべったりと染みついていた。 あれだけの攻撃を受ければ、普通の者ならば全身バラバラに吹き飛んで然るべきだ。表現はおかしくなってしまうが、この程度の怪我で済んだサイガの身体の強度は留まるところを知らない。七支刀に宿る龍神の加護と言っても充分に通ることだろう。 (治さなきゃ、すぐに──) ミヤビはサイガの耳飾りをひとつ取ると、それを両手に包んでまじないの言葉を唱えた。それは、成りは小さくとも多大な魔力を秘めた聖龍石だ。サイガの治癒に足りぬミヤビの魔力を補い、術の完成を助けるために働いてくれる。 だが、このとき。 ドスン、と重い足音が響いて、ミヤビの視界に大きな影が落ちた。ぎくりと身を竦ませた彼女が恐る恐る視線を上げれば、そこには。 「……サイガ……聖龍王……」 たどたどしく言葉を紡ぎながら、ファフニールが立っていた。ダメージを受けた状態で大技を展開したせいか鎧の破損は今や全身に及んでいるが、倒れるには至らない。 ひっ、と彼女が息をのんだとき、ファフニールの背後から蒼い竜が飛びかかった。翼は折れてしまい飛ぶことはもう叶わないが、鋭い爪と牙は未だ健在の飛電であった。 「ミヤビ、おまえはサイガを連れて早く離れろっ!」 続いて間に割って入ったのはテッシンだ。彼は短く指示を飛ばすや否や駆け出して行った。殴り飛ばされ、尾に弾かれ、蹴り倒されてもしぶとく食い下がる飛電に加勢するために。 だが、ミヤビがサイガを抱えて逃げるほどの猶予は与えられなかった。聖龍の守護獣である飛電が、そして魔物の群れを相手に無傷であったテッシンが、まるで歯が立たず敢無く地に転がる。 そして今、ファフニールはミヤビに迫った。──否、その胸に深く庇われた、未だ目覚めぬサイガに。 ミヤビはサイガをぐっと抱きしめて、己が身を盾とした。この身に、命に代えても手出しはさせまいとして。せめて自分が討たれる間で、わずかでも時間を稼げればいいと思って。 彼女は誓ったのだ。もう、サイガだけを戦わせたりはしないと。 「サイ、ガ……ゥ……オオォォ……」 死に至らんとする危機で張り詰めていたミヤビは、ふと気付いた。 彼女らのほうへ踏み出そうとしていたファフニールの様子がおかしい。苦痛を堪えるように身を捩り、頭を抱えて呻いている。サイガに喰らわされた一撃がよほど強烈だったのか、あるいは──。 そのとき、敵を注視していたミヤビは見た。 憂いと苦悩に満ちたファフニールの目が、涙を流しているのを。 (うそ……) ミヤビは信じられなかった。誰かに嘘だと、タチの悪すぎる冗談だと言ってほしかった。 そんな、そんな。この人は──。 呆然としているミヤビに、ファフニールの震える手が伸びた。彼女のかよわい首など、この魔物がほんの少し力を込めるだけで折れて砕けたことだろう。──このまま、サイガの意識が戻らなければ。 バチィッ! その金色の腕で、白い電撃が弾けた。同時にヒビだらけだった小手がついに砕け散 り、その下から、ヒトのものと大差ない、火傷を負った手が現れる。 「これ以上、俺の仲間を傷付けさせはせぬぞ……」 ミヤビの腕から身を起こし、サイガが言った。失血と負傷のダメージは抜けきらず顔色は今にももう一度ぶっ倒れそうだが、目は戦意に満ち、しかと敵を見定めている。 「サイガッ……」 「下がれミヤビ」苦しげに息をしながらサイガは立ち上がった。その手に再び、帯電した七支刀が出現する。「他の者を頼む」 ミヤビは何も言えなかった。 判っていたけれど、何も告げられなかった。 言えばサイガは戦えなくなる。ならば、言ったところでどうなることでもないと解っていたから。 (神様……)ミヤビは祈った。祈らずにはいられなかった。(どうか、どうか最悪の結末だけは……) 5 最後の瞬間を間近に控え、今や誰も、戦っているものは居なかった。 ファフニールが撃ち出した大竜巻で地上の軍勢は壊滅的な被害を受けており、双方ともに完全に戦意を喪失していたのだ。 「ライセン様……」アスタロットとの戦いによらず、竜巻のせいで満身創痍となったシオンが、力なく歩み寄ってくる。 「手出しをするでないよ、シオン」ライセンは言った。極めて沈着しているように見えるが、彼の左腕はすでに感覚が無く、早急な治療が必要な状態だ。「間もなく、決着する」 竜巻の回避に合わせて戦地より離脱したアスタロットとベリアールも、まだ撤退はしていまい。おそらくどこか離れたところで、このときを静観しているはずだ。 すべての者らが注視する抉れた地の真ん中で、大将の一騎打ちが始まった。 「おぉぉっ!」 気合いを吐き、先手を切ったのはサイガだ。体力の大半を失っているにもかかわらず、身の丈ほどもある大ぶりな七支刀を構えて疾る。 受けるはファフニール。終の病におかされたように足取りはしっかりしないが、それでも、飛電をも素手で圧倒した馬鹿力は健在だ。片側の小手よりゾロリと鋭利な爪を揃えて、飛んでくる剣撃を易々と受け止め、ありったけの力で弾き飛ばす。 ガァン、と重い音がして、サイガの手から七支刀が飛ぶ。しかし彼は決してそれを追わなかった。続けざま首を狙って繰り出される刺突を間一髪でかわし、その手首を掴んで身を翻すと、その巨体を物ともせず息を合わせることで軽々と投げ飛ばす。 そしてサイガは、背からまともに地に叩き付けられた敵を、腰の後ろから引き抜いた小太刀を手に追撃した。ファフニールは、己を地に縫いつける勢いで突き立てられんとした刃を身を転がしてかわす。手負いの獣が這うような動きだが極めて俊敏だ。 金色の鎧が闇色の光をにじませ、サイガの耳飾りがキラリと輝いて、主が消費した魔力を急速に充填する。 「──何故だ」 呟いたのはサイガだった。 「何故、おまえはこのように争いを求める、マステリオン」 「……」 ファフニールは答えない。ウウ、と、苦痛の色濃い、短い呻きが漏れるのみだ。 「俺を殺したいのであれば、そうすればよかろう!」サイガは叫んだ。「他の者など巻き込む必要はない。俺だけを攫い、引き裂いて殺せばよい! おまえがそれで満足するのなら、俺は喜んでこの身を差し出そう!」 「……」 「マステリオン! いったい何が、おまえをここまで狂気に駆り立てる!?」 無駄な問いかけだと解っている。だが、問わずにはいられない。 答えはない。──と、思っていた。 『……ぬよ』 ファフニールをとりまく闇が、笑い声を紡いだ。 『足りぬよ、サイガ……』 マステリオン──サイガは大きく目を見開いた。 『どれほどの傷も、苦痛も、絶望も足りはしない。あなたの身だからこそ、声だからこそ、あなたの心だからこそ、私は先を求めるのだ。「今」を超える「次」を、更なる境地を』 「それが、他の者までも殺す理由だというのか」 『そのとおりだ。あなたがそうしてその心を震わせるほど、私はこの上ない享楽に耽ることができる!』 「おのれ! どこまでも不逞の下種よ!!」 ガッ。サイガの手が、弾かれて地に突き立っていた七支刀を引き抜いた。柄の宝玉が見る間に輝き、刀身にまで行き渡る。サイガがそれを振りかざすと、オォン、と大気が鈍い唸りを上げた。 「ならば、腐り切ったその性根、この俺が討ち取ろうぞ!!」 『来るがいい、そして見せてみよ……サイガ!』 オオオォォォォォ──!! マステリオンの声が途切れると、代わるようにファフニールが咆哮を上げた。叫び声の中で全身の筋肉が著しく隆起し、脆くなった鎧のあちこちが弾け飛ぶ。大型のモンスターほどにも肥大化した肉体を狂ったように振り乱し、ファフニールは地を蹴った。サイガを狙うその両手に、灰を帯びた風が集束する。 もう一度来るのだ、あの大竜巻が。 「──撃たせはせぬ」 サイガは言った。敵に宣ずるのでなく、自分に言い聞かせるように。 「これ以上、この地で誰も死なせはせぬぞ!!」 主の叫びに応え、七支刀から七匹の龍が立ちのぼった。 ──否、七匹ではない。それは七支刀を肉体とする、七つの首を持つ龍神である。首はそれぞれサイガの五体に宿り、残るふたつがその肩口より現れて、彼とともに正眼の敵を見据えた。 猛るファフニールが狂乱の叫びとともに暴風を撃ち出す。一度真正面から受けたおかげか、サイガにはその軌道が、風が渦を形作る瞬間が手に取るように見えた。 「龍どもよ、風を喰らえェッ!!」 叫びとともに、サイガは襲い来る暴風の渦を七支刀で斬りつけた。魔力によって形成された奔流は、ただ空を斬るのとは違い、確かな手ごたえをもって刃と噛み合う。 回転と摩擦の激しさはそこら中に火花を生む。だがその膠着は長く続かなかった。 バキッ。暴風の内側から何かが弾ける音がした。 「グ、オォォ……」 ファフニールが圧されるように一歩退いた。同時にサイガが一歩進む。 音の正体は、七支刀の限界などではない。その逆だ。暴風を形成する魔力の結界が、サイガとの競り合いに押し負けて崩壊を始めていたのだ。 「はあああぁぁぁッ!」 サイガの気合いに合わせて龍らが吼える。七支刀が全力で振り抜かれ、地より天へ立ちのぼった巨大な雷に貫かれてついに風の結界が弾け散った。周囲で固唾をのんで見守っていた軍勢がオオッと歓声を上げるが、まだ終わりではない。 ファフニールの脚は止まっていない。岩すら容易に打ち砕ける剛腕で、まさにサイガの身体を握り潰さんとして襲い掛かる。 そしてサイガも、そうなることを踏んでいた。七支刀を振り抜く際、事前に力加減をコントロールしていた彼は、それを大きく振りかぶる体勢へと移行する。 「ウガアアァァァァァァァッ」ファフニールが咆哮した。 「おおおぉぉぉぉぉぉ!!」身に宿る龍どもと共に、サイガが吼える。 勝敗は、その激突をもって決した。 伸びてきた金色の腕を斬り飛ばし、七支刀はファフニールの肩口から反対側の脇腹に至るまでを深々と斬り裂いていた。 鼓動が、息が、時が停まったような刹那を経て、敵の巨躯がぐらりと傾き、倒れる。 (見事──) そのときサイガは、倒れゆく敵から懐かしい声を聞いた。 この声は──。鋭い赤の瞳から敵意と戦意が晴れ、その下から驚愕と動揺がちらつく。 「見事だ、サイガ……」 「──父上っ!?」 ガシャーン。倒れ伏したファフニールの鎧が粉々に砕け散る。その向こうから、ここにいる誰もが見知った男の姿が現れたとき、すべての者の時間が今度こそ停まった。 「リュウセン様っ!!」 決着を待っていたように、いち早くミヤビが駆け寄り、その男を抱き起こす。ライセンが、シオンが手負いの身をおして駆け付け、シオンはミヤビが行なう治癒魔法に手を貸した。 「なんと……」ライセンは唖然と言った。「敵の正体が、リュウセンなどと……」 生き残った聖龍の兵は武器を取り落し、ある者はがくりと膝をつき、またある者は泣き伏した。気付いてみれば、同じく生き残っていたはずの魔物らの姿はもうどこにもない。ファフニールの敗北を受けて撤退したのだろう。 ドサッ。背後で重い音が聞こえ、ライセンはハッと振り向いた。 七支刀を取り落し、サイガはそこに膝をついていた。疲弊で倒れようというのではない。その双眸はしっかり見開かれ、女たちに囲まれた父の姿を穴が開くほど見つめている。 ただ、それ以外の誰の声も、姿も、意識に入って来ない様子で。 「サイガ」ライセンは慌てて駆け寄り、サイガの視界を遮るようにして言った。「しっかりしなさい、サイガ!」 「お……俺は……俺は──」 肩を揺さぶられても、サイガの目は動かない。見るものを無くしたように揺れているだけだ。同じように吐息が震え、喉が引きつる。 俺は、父を討ったのか──。 自分が戦い、とどめを討ったのだ。他の誰かが手にかけたのとは訳が違う。今ごろサイガの頭の中では、先ほどまでの戦いの記憶が走馬灯のように溢れかえっていることだろう。マステリオンの意思に、言葉に触発され、相手の本質を見極められなかった己の不手際だという、深く激しい自責とともに。 ここで気を失えたらどれほど楽だったか知れない。けれど、他者が鋼の意志と称するように、類まれに強いサイガの自我は、逃避することを望まなかった。それが拷問にも等しい自虐であることなど知りもしないで。 うわあああああああ──。破けた感情に押し流されたサイガの慟哭が、森に、海に、遠く吸い込まれていった……。 to be continued「静かなときを。」(2016/06/05) |