古の賢者 |
10
『──見事だったわ、サイガ』 龍の神はやっと言った。『よくぞマステリオンを破りました。素晴らしい…本当に素晴らしいわ』 『この力を戦いに使わなくなって何百年も経つが』 虎の神が言った。『それでも、こんなスゲェモンを見たのは初めてだぜ』 座り込んだサイガの傍へ寄って行った虎の神が、グルルと喉を鳴らす。 と、サイガは七支刀を杖代わりにして立ち上がった。ようやく歩けるようになったエドガーは、ひょこひょこと不器用な歩き方をしながら彼へ近寄っていく。 「倒したわけではない」サイガは言った。 歓喜のムードが高まっていた神たちは、水を打ったようにシーンと静まり返った。 急速に、目の前の現実が見えてくる。 力を使い切って割れてしまった聖龍石が乗っている石の祭壇の上には、異界への扉が開いたまま漂っているのだ。黒いような、茶色いような、どす黒い赤のよう な、さまざまな色が混ざり合った絵の具の巣窟。あの向こうは魔物たちの世界、ここにいる神々でさえ全貌を知らない、おぞましい世界なのだ。 サイガが放った結界術によって封じられこそしたが、決して閉じられたわけではない。この世界の光は、あの闇の中に入っていって、あの世界に住まう魔物たちのしるべとなるだろう。 そして何よりも、確実にとどめを討てたかどうかも判らない、マステリオンがあの向こうへ消えた──。 「サイガ…」 エドガーは呼びかけた。何か意味があって呼んだのではない。ただ、ただ今、相手の名を呼びたかったから。 そんな意思に応えたのか、サイガはエドガーに視線を向けた。エドガーが何を言わんとしているのかを知っているように、ふっと静かに笑んで見せる。 「神々よ」サイガは言った。「この地に城を建て、永劫に封をせよ」 龍の神が、虎の神が彼を見た。 サイガは神にすら息を吐かせるほど鋭い瞳をして、自らで封をしたそこを見上げていた。 「マステリオンは生きておる。そして永い時の果て、この地へ戻ってくるであろう」 その言葉に、思わずエドガーは眉を寄せた。 「奴をこの地へ戻らせては、決してならぬ」サイガは神々を振り向いた。「神々よ。あなた方は、あなた方のうちで最も理知と武力に優れし者を帝にたて、この世に住まう者すべてと共に、代々この地を護ってゆくのだ」 ザワ、と一陣の強い風が吹いた。 森がなくなった更地も同然の大地の中心に、禍々しい、闇の口が開いたままになっている──。マステリオンという最悪の存在を飲み込んだままのそこを、いかに強い封印が施されたとはいえ、放置するのはあまりにも危険というものだ。 神々も、そのくらいことも判らないほど浮かれているわけではないらしく、沈痛な面持ちで互いに顔を見合わせている。 サイガは尚も言った。 「俺は『ここ』の者ではない、だから俺には、あなた方と共にこの地を護ってゆくことはできん。最悪の脅威はひとたび立ち去った──あとは、あなた方の仕事であるぞ」 『承知いたしました、──賢者よ』 龍の神が、言って頭を下げた。深く、地につくのではないかというほどに深く。 『ホントならずっとここに居てもらいたいところだが…』 虎の神は空を見上げた。『「神」がこのザマじゃ、民どもに示しがつかねェしな』 そんな呟きを聞いた龍の神は、すっと頭を持ち上げて小さく笑った。 『王虎よ。民たちに国を興させ、この世を統治させましょう。我らはこれからの世に不要な創世の力を捨て、国々の王たちを守護していくのよ』 『ケッ。言われるまでもねェ』 不機嫌な声で言い、獣はプイとそっぽを向いた。 なんだコイツら──。エドガーはつい可笑しくなった。神殿じゃ偉ぶってやがるクセに、個人の付き合いになると、そこらのヒト連中と何も違わねぇ──。 ふと見てみれば、サイガもそんな神々を見ている。彼はエドガーから向けられる視線に気が付くと、神々をちょいと指さして苦笑いを見せた。どうやらエドガーと同じことを考えていたらしい。 「さて、神々よ」サイガは言った。「あなた方は早速神殿へ戻り、この決定を早期に実行して頂きたい。この場におらぬお二方にも、お知らせしてな」 『ええ、判っているわ、サイガ。あなたも、あとで来てちょうだいね』 『エドガー、おまえもだぜっ。あとでなっ』 神々はそれぞれ言い、意気揚々とサイガとエドガーの前から飛び去っていった。 快晴の、とても気持ちのいい青い空へと。
11
「──行かねぇつもりだろ」エドガーは何となく尋ねた。 「さすがだな、俺の考えることは何でも判るか?」 寝床を薙ぎ払われた森の鳥たちが右往左往している様子が見える。サイガはそんな空から視線を外して、隣に立ったエドガーを見た。 「俺の役目は、もう恐らくは終わったであろう。あとは本当に、この時代の者たちの仕事なのだ」 「この時代のマステリオンをあっちに追いやることが、おまえの役目だったっていうのか?」 「まぁ、多分…だが」サイガは肩を竦めた。「マステリオンのことは、この時代の者たちではどうしようもない事態であったのだ。だから俺たちが呼ばれた、きっとな?」 いかにもこいつが言い出しそうなことだった。 だがこうして、実際にその討伐──未遂ではあったが──を二人で行なってみて、神の力まで借りてみて、そんなさっきまでの戦いを思うと、確かにそうだったかもしれない、と思えてくる。 「オレぁ、なーんもしてねェけどよ」エドガーは自分が感じたままを言った。 「何を言うておる」サイガは即座に反論した。「あのとき、王虎と共に俺を助けてくれたろう。あれがなければ、七天伐刀の発動まで間に合わなんだ。おまえには感謝しておるよ」 エドガーであれば恥ずかしくて言えもしないことを、サイガは平然と、しかも力いっぱい言ってくれる。本当ならとても嬉しいことだ。しかしつい照れくさくなってしまって、彼は真顔の相手から視線を外した。 首をめぐらせると、嫌でもあの異界への扉が目に入ってくる。 いやな感じがした。エドガーは眉を寄せ、その光景をじっと見つめた。まるで心に刻み込もうとするように。彼にはあれこそが、マステリオンの心の色そのものであるように、見えてならなかった。 恐ろしく深く、そして決して単純ではない悪意の巣窟の色に。 「──疲れたな」エドガーは言った。 「ああ」サイガは答えた。 何の気なしに放った言葉だが、だからこそ真実味が強かった。事実二人は、この場所が自分の寝床であったなら、即座にぶっ倒れていてもおかしくないくらい疲労している。 神をおろし、限界以上の力を三度も使ったサイガは、特に。 二人は頭上に異界への扉をのぞむ祭壇に背を預けて座り込んだ。森がなくなったせいで、今の自分の身を預けられるものがそれ以外になくて。 終わった──。そう思うと、張り詰めていた神経の緊張が切れて、どっと眠気が襲ってくる。暑くも寒くもない空からの昼間の日差しは、とても心地が好かった。 「帰れるのかな、俺たちは」ぽつりと弱く、サイガは言った。 「役目とやらは終わったんだろ。んなら、寝て覚めりゃ戻ってるさ。余計な心配すんな」 ぶっきらぼうに言い放って、エドガーは隣のサイガの肩をぐっと抱いた。 疲労した身体には、他人の身体の感触が日差し以上の心地好さをもたらす。二人は自然とそれを求め合って、寄り添いあって目を閉じた。 「帰れたら起こせよ」サイガが言う。 「ああ、おまえもな」エドガーが答える。
ひとたびの平穏を取り戻した世界の中心で、二人は静かに、深い眠りの中へと落ちていった──。
END(2006/01/07) |