至高の宝玉
6
ゴポ、と地面から黒いヘドロが湧いたと思ったら、それは瞬く間にニョロリと立ち上がって、ヒトの形になった。 サイガのそれに似た長く青い髪と、血の気のない青白い肌、そして、一種の毒々しささえも感じられて止まない金色の瞳。皮を張ったかのような不気味な黒い翼と大きな同色の角──。 見たこともない男。見たこともない姿。この世のどこにも、こんな者は存在しない。 「な、なんだ、テメェ…」 コランダムは信じられないものを見る思いで、その者に声を飛ばす。 ギョロ、と、黒色の眼球の中に座した瞳が動いて彼を捉えて、その者は口を開いた。 「…なかなか楽しいショーだったよ、獣牙の将軍」 「ショー、だと…ッ?」 その言葉が先ほどの、文字通り血が滲むような攻防のことを指しているのだとすれば、随分とタチが悪い。 「マステリオンでは、ないようだな」 身を預けていた木から離れてきたサイガが、その者の前に立った。痛んで痛んで仕方がないだろうに、いまだに新しい血を流しているはずの傷から手をはなして。 「聖龍王サイガ、お初にお目にかかる」 異形の男は、相手に向かって一歩踏み出して言った。 「私はベリアールと申す者、我が主君、マステリオンの使いでここにいる」 聞くだけでもゾッとした名前を持つ者からの使い──。 思わずコランダムは固唾を飲む。 「やはりマステリオンの使いだな。──エドガーに仕掛けたのは、おまえか?」 サイガの眼光が鋭く相手を射る。普通の原生モンスター程度ならば、それだけですくみ上がってしまうだろうに、ベリアールは表情を崩すことなく、挨拶のようにぺこりと頭を下げて見せた。 「獣牙王殿に危害は及ぼしていない。彼は、あとから来る捜索隊の前に放り出しておこう、心配することはない」 「それは何よりだ。てっきり人質に取られるかと、ヒヤヒヤしておったのだがな」 怪我を負いながら、そんな手負いの窮地に立ちながら、それでもちっとも減らないサイガの口に、ベリアールの瞳がスウッと細められる。興味深いものを注視するように。 「あなたをこうして見るのは、今回が初めてになるが…」 ぽつりと呟き、ベリアールはサイガへと歩み寄った。五体満足な新しい敵と、深いダメージが残るサイガとの戦闘が始まるのではないかと危惧したが、どうやらそうではない。 手を伸ばせば届くほどにサイガに近づき、異形の男はその姿を見つめる。 その間ずっと、互いの視線が互いの目から逸れたことは一度もなかった。 と、ベリアールの右腕がピクリと動く。直後にその腕は振るわれた。鞭をそうするように自らの腕を、その腕の先にある鋭い爪を、サイガの頭目がけて。 ビュッ! 風が裂かれる音が耳に届く。 「サイガッ!」 コランダムは叫んでいた。 ベリアールの腕は、一歩どころか一ミリとて動かなかったサイガの耳元を掠めていた。サイガは動けなかったというのではない。ベリアールの腕の軌道を目で追い、相手に攻撃を当てる気がないことを最初に見切って、動かなかったのだ。 わずかな身動ぎでさえ余計な体力を奪われ兼ねない、今だから。 しかし。 ──ぶつん。小さな音と共にサイガの頭の上で飾り紐が切れた。支えをなくした彼の長い髪の形が崩れてバラリと落ち、血が染みたばかりの赤い肩口に散る。 「なるほど」 ベリアールはここにきてようやく笑みを浮かべた。 「確かに、あなたは手負いのほうが美しい…」 「──くだらぬことを」 明らかに気分を害したようにサイガは言った。 「我が主君が興味を示すのも、判らない話ではないな。私も、あなたに興味がわいたよ」 そこまでは気分こそ悪くしながらも、それらしい反抗の意思までは見せていなかったサイガの表情がピクリと動く。 バチィッ! ベリアールの腕で、強烈な炸裂音がする。同時にそこで青白い電撃がスパークするのが見えた。 「…ふっ」 とうとう可笑しさを堪え切れずに──といった感じでベリアールが笑った。 「御気の強いことだ。──だが、ご安心を。何も、あなた方と戦闘を行なうために現れたわけではないのでね」 火傷を負った腕を退き、ベリアールはサイガから離れる。 「主君の命に反してしまう前に、私も退散させていただこうか」 やや自嘲を含む調子で言って、彼はサイガとコランダムの二人に背を向けて、そして現れたときと同じように、黒いヘドロと化して地面の中に融けて消えてしまった。 『またお会いしよう、聖龍王サイガ…』 禍々しくも甘い、闇からの囁く声だけをその場に残して。
エドガーを発見した、という意味のナタージャの笛の音が山岳中に響き渡ったのは、それから一時間もしないうちのことだった。
7
「これでいい」 キュッ。サイガの肩口に真新しい白い布を結びつけてコランダムは言った。 傷口を保護したそれにはすぐに赤い液体が滲んできたが、さすがに処置のやり方はマスターしていたようで、それ以上の出血でそれが汚れてしまうことはなかった。 「すまぬな」 言ってサイガは、抜いていた装束の袖に腕を通した。近くの泉で軽く血を洗い流したばかりの、乾かぬそれに。 謝るのは俺のほうだろう──。コランダムはすこし気まずい感覚で少年の後ろ姿を見つめた。
水を含ませた布で清めた傷は思いのほかひどかった。彼の肩に食い込むまでの間で、樹木や地面を幾度も穿った爪には、たくさんの土や木片が付着していたのだ。そんなもので傷を負わされれば、下手をすれば破傷風で死んでしまい兼ねない。 傷そのものよりも、その周辺の被害がずっとひどかったのだ。 痛々しく腫れ上がったそこは、恐らくコランダムやエドガーでも触れられれば声をあげてしまうだろうに、ここに至るまでの間、サイガはじっと黙って耐えていた。 聖龍殿に戻る前に獣牙廷に寄ってもらって、そこでできる限りの処置をさせてほしいところだ。 コランダムは堪え切れずに口を開いた。 「…聖龍王…。すまねぇ…」 「すべては、己の至らなさゆえ──」 ぽつりと放って、サイガは相手に背を向けて座り込んだまま、切られた飾り紐の長い切れ端で髪を結った。両手は使えないから、首の後ろで軽く束ねるだけにして。 「そう思うておるのなら、コランダムよ、今は口を噤むがよい」 「──え?」 「ベリアールと名乗ったあの者…あの口ぶりからして、獣牙の兵たちも、おまえと同じように身体を支配された果て、あのように死したのであろう。そして、それを行なったのはあやつなのだ」 「…………。」 「この世の中に、動物や植物こそ操ることのできる者はいても、ヒトまでも支配できるものはおらぬ。あやつは、俺たちの──この世界の寸法を超えたところに存在する者ということになる」 耳が痛くなるほどの、互いの息遣いまで聞こえてきそうな沈黙がある。 「だから──至らなくて、当たり前なのだ」 思わずコランダムは眉を寄せた。そんな彼の表情の変化など知らず、サイガは立てた膝を支えにしてヨッと立ち上がる。 そして振り向いた。面と向き直るのではなく、すこしだ。肩越しと言ってもいいくらい、すこしだけ。 傷を負い、血を失い、青白い顔色をしていたせいかもしれない。コランダムには、その姿が、今にも消えてしまいそうな幽霊か何かのように見えた。 それと同時に、彼はサイガを見て、『この者が王だ』と思った。聖龍王という彼の立場を思い出したのではない、そしてエドガーを見て獣牙王だと認識するのとも違う、まさに王を見て王と思う、そのままに。 「精進せよ、コランダム」 刹那の錯覚とも言えたその意識に駆られ、呆然と我を忘れたコランダムにサイガは言った。 「今やまだ、敵は己の息を潜めておる。──このとき、二度とないぞ」
─────………。
音でもない、映像でもない、そんな物理的な感覚からくるのではない強い衝撃がコランダムの心を揺さぶった。 恐らくはこの場の雰囲気、戦闘──というのではない、非現実的なおぞましいものと対面した直後の心理状態、そしてこのサイガという人物が放つ、かつて感じたこともない何か──。 それを秘めているのは、あのあかい、瞳だ。 「は……、──はっ、言われずとも」 コランダムはやっとそれだけを答えた。 どうにも緊張した彼の面持ちを見たせいかもしれない。サイガはすこし申し訳なさそうに笑みを浮かべると、肩の傷を気遣うのかヒョコヒョコと歩いてきて小首を傾げて見せた。 「戻ろうか。…悪いが、また聖龍殿まで届けてもらわねばならんしな」 「あ、っああ、そうだな。エドガーも見つかったみてぇだし」 何故かあたふたと焦りながら、コランダムはふところから取り出した銀色の笛を吹いた。 ピィィィ───……ッ…。遠く、遠い山々にその高い音が響き渡る。捜索隊と共にこの地に来ているゼクシードが、すぐにこの音を聞きつけてやってくるだろう。
まだかまだかと、高い空を見上げるサイガの背を、そしてそれを覆い隠すように伸びた弾力のある青い髪を、コランダムはずっと見つめていた。 恐らく、今の彼が抱く気持ちと同じ意味でそれに触れたことがあるのは、きっとエドガーだけに違いない。 「…まいったな」 「──ん。どうした?」 コランダムの独り言が聞こえたのか振り向くサイガに、彼はベツニと手を振って見せた。
だが、本当にまいってしまう。
太陽とは違った光がキラリと空に生まれ、白い獣が空を走ってだんだんと近づいてくるのが見えてくる。 怪我を免れたほうの腕を上げ、オーイとサイガが手を振る声を聞きながら、コランダムは思った。
ホント俺って、あいつとは生来のライバル関係なんだなァ──。
END(2006/01/01) |