とらは りゅうの ゆめを みるか



   7


 まず最初に訪れたのは尻尾の一撃だった。

 エドガーが慌てて少年の身を抱いてその場を飛び退いたおかげで二人は事無きを得たが、茂みの中から歩み出てきた青い竜は全身に怒りを漲らせて、すこし離れたところに着地する二人を睨み付ける。

「青竜だ!」

 少年が叫んだ。

「エドガー、奴を傷付けてはならん! 正気に戻ってもらい、話をせねば…」

「バカ言ってんじゃねぇよアホが! ありゃどう見たって興奮状態だろうが!」

 ウォォォォォッ。二人が口論を始めようとしたのを咆哮で遮り、竜はさらに二人へ向かって突進してきた。

 少年を抱いたままゆえに反撃の手立てがないエドガーがまた地を蹴って避けると、竜はそのまま、消えた標的の先にあった大きな樹木に頭突きをぶちかます。

 ドドーン、と地面が揺れて、あちこちの木々の合間から小鳥たちがワッと飛び出した。

「おまえの血の匂いで狂ったんじゃねェのかっ」

「竜はそれほど動物的ではないっ。理由があるのだ、奴をこれほどに怒らせる理由が!」

 着地したエドガーが身を低くすると、その頭上をブォンと尻尾が掠めていく。これほどの風圧を持つ攻撃を甘んじて受けてやる理由はどこにもないし、むしろ少年さえいなければ、エドガーは間違いなくこの竜と戦う道を選んでいただろう。

 そう、エドガーはもともと竜族を好きではなかったのだ。

  図体はでかいし、陸も空も我が物顔で駆け回るし力も強い。おまけに魔法まで使いこなすさまは反則以外の何者でもない。飛天が空の王者であることは飛行能力 を持たないのだから認めざるを得なかったが、かつてこの竜どもが万物の王者と謳われた時代があったというのだから、獣牙は余計に面白くなかった。

 地の王者は自分たちだ。それを知らしめるためにこそ皇帝の座についてやる──そんなことを、考えてさえいた。

 くそっ、面白くねェ──

「何をしておる、エドガー!」

 少年の声で我に返ったときにはもう遅かった。

 バシンッ。エドガーの背を強烈な衝撃が見舞う。竜が繰り出した尻尾の一撃が、彼にクリーンヒットしていた。少年ごと吹っ飛ばされて、二人はそれぞれで相応のダメージを受けて地に転がった。

 頭がクラリとする。一瞬の衝撃が肉体の自由を奪う。竜は、そんなエドガーの反射的な行動不能をチャンスと見て、前足の立派すぎるカギ爪を、彼の頭めがけて振り下ろしてきた。

 殺られる──!

「愚か者、この地で死す気など毛頭ないわ!」

 かすんだエドガーの視界の中に少年の背中が飛び込んできた。

 バカ野郎っ、おまえ、ケガして──! そう叫んだつもりだったが、言葉が出なかった。

 バシィッ。耳に痛い衝撃音に、思わず顔を逸らしたエドガーは現実を見るまでもなく無残に吹き飛ばされる少年の身を想像した。

 ──だが。

 少年が片付けられたら次に襲われるのは自分だ。しかしいつまで経っても、覚悟した死の衝撃がこない。

 エドガーはそろりと目を開ける。

「な…」

 彼は絶句した。

 竜が渾身の力で振り下ろした鋭い爪は、少年の左腕一本と競り合っていた。思いもよらぬ力で防衛された竜が、ギィィッ、と焦りの声を発している。

「誇り高き竜族が我を忘れてこのザマとは何たる無様、我が怒りに触れぬうち、いい加減に鎮まらんか!」

 ピンと張った糸のような声を発した少年の長い髪が、ざわりと揺れたように見え、うっすらと彼の身体が黄金色の光をまとっているようにも見えた。

 キィッ、キィィッ。弱々しく鳴いた竜は見る間に怯み出し、少年から離れるとその場にぺたんと腰を落とす。すでに身体の自由が回復しているのも忘れて、エドガーはその凛々しい後ろ姿に魅入られた。

 ぐら、と少年の身体がバランスを失う。ハッと我に返ったエドガーが、倒れかけたその身体を受け止めた。

「サヤ、大丈夫かっ」

「情けないことよ、目の前が暗く濁っておる、わ…」

 少年は自嘲の笑みと共に言い、そのまま目を閉じた。

「サヤ? ──おいっ!」

 完全に気を失ったらしく、彼はエドガーがどんなに呼んでも目を開けなかった。非常にまずい状態だということだけが痛いほど判る。解毒ができなければ、確実に少年はこのまま死ぬのだ。

 部族間の政治問題なんてどうでもいい、一刻も早く彼を聖龍兵団の陣営に連れて行こう──

 エドガーがそう心を決めたとき。

 あらゆる茂みの向こうから、青竜の群れが姿を現した。


   8


『闘気をお引きなさい、獣牙の王。我々はあなたと戦うためにきたのではありません』

 ひときわ老いた青竜の一匹が群れの中から歩み出てきて、女の声でそう告げた。

 竜が喋った? …いや、聖龍族だって竜だが普通に喋る。それを考えれば、こうして野生の竜が喋ることなど何の疑問でもないのか──?

『まずは御礼を申し上げねばなりませんね。よく、我が同胞を救って下さいました』

 同胞、と言われて、エドガーは群れの隅で子供の竜に取り囲まれた、先ほどの暴竜を見た。今はすっかり大人しくなって、静かに子供たちと寄り添っている。

『この地に赤竜の子供を連れた賊が現れたとき、我々は先に起こるであろう混乱を避けるため、身を潜めました。ですが賊は、あろうことか我らの若者に目をつけ、精神を操って死体の番人をさせたのです』

「なるほどな…だから、竜の子に近づいた俺たちが襲われたってわけか」

『賊の正体には、おおよそ見当がついています。聖龍王の意識がおありならそれを告げるのもよいと思ったのですが、今は、我らは再び潜める姿とともに、この真実に封をしましょう』

「………せ? おい、今…なんて」

『うすうす勘付いてはおられたのでしょう、獣牙王。あなたが腕に抱くその少年こそ、我ら竜族…いえ、この聖龍大陸の王。聖龍王サイガ様にあらせられるのです』

 言葉が言葉のまま脳に入ってきた。

 聖龍王。聖龍王サイガ。その言葉が、もはや何の意味も無い記号の羅列と化していく。

「んな、バカな」

『……』

「見え透いたような嘘言ってんじゃねェ! こんなガキが聖龍王なワケがあるかっ!」

 エドガーは思わず大きな声を上げていた。がむしゃらに否定したかった。が、否定する要素がどこにもなかった。

 聖龍嫌いのエドガーとも相容れる器の広さ、エドガーが獣牙王であると知っても物怖じしなかった性格、傷付いた己をおして敵と相対する度胸。そのどれもが、彼が聖龍王であることを否定する要因にはつながらなかった。逆に納得さえさせられる。

 エドガーは、そうして納得しようとする自分に無性に腹が立った。

『我々はもう行きます』

 青竜は、そんなエドガーの心中など欠片も察しないように言った。

『同胞の礼として、赤竜には我らが話を通しましょう。今宵のうちにこの地を去るように。サイガ様が危惧された、兵団との激突は回避されるでしょう』

 ガサ、と一匹が茂みの向こうへ身を隠す。一匹、また一匹と、同じようにして消えていく。

 とうとう、エドガーの前にいる一匹が最後になった。

『必要があれば、これをお持ちなさい』

 最後の竜は、そう言ってひとつの黒い玉をポトリと草の上に落とした。親指の爪ほどの大きさの黒い玉。何の変哲も無い泥団子のようにも見える。

『それを砕いてサイガ様にお与えなさい。数時間で毒が癒えるでしょう。負われた傷の分を差し引いても、夜が明けるまでには回復されるはずです』

「……」

『本来なら、獣牙の者など信用もおけぬところですが、あなたなら問題なくサイガ様を救って下さると見ました。…サイガ様を頼みます』

 とんでもなく無責任なことを、無責任にも押し付けるだけ押し付けて、竜はエドガーの返事も待たず森の奥地へと消えていった。


   9


 サイガは目を開いた。まず最初に視界に入ってきたのは石レンガで作られた天井だった。

 いやに瞼が重く、全身が痺れている。目を閉じる前に自分が何をしていたかが思い出せずに、そして自分がどうしてこんな場所にいるのかが判らなくて、彼は首を回してその場所を見渡そうとした。

「…痛ッ」

 肩口に鈍い痛みがはしる。気付けば、着ていた衣の右袖がなくなって、痛む場所に結びつけられていた。

 ああ、そうだ──俺は兵団と竜どもの戦いを止めさせようとして──

 肩に負った傷が痛まないように力を加減しながら起き上がると、そこは石造りの小さな砦の、たったひとつだけの小さな部屋だった。こんな広大な森だ、これほどのものを作る生き物や人物が住んでいてもおかしくはない。

 しかし大方は、古代の建物がそのまま残っていたのだろう。格子も何もはまっていない、あるだけの窓から見える空は白み、間もなく来る夜明けの気配を報せている。

「…よォ。気が付いたか」

 ありきたりなセリフが聞こえたと思うと、部屋の隅にエドガーが座っていた。片足を無機質な床に投げ出し、背を壁に預けた格好で、なんだか不機嫌そうにサイガを見ている。

「あのあと青竜の親玉が出てきてな。おまえに、って解毒剤をくれたんだ」

 エドガーがぶっきらぼうに言った。

「赤竜もそろそろ南に向けて発つと思うぜ。これで一件落着だな」

「…そうか…」

 サイガはすこし気まずくなって、そう返す。

「竜どもは、他に何ぞ、おまえに言わなんだか?」

「………」

 嫌な沈黙だ。

「…すまん」

 サイガはまたそれだけをぽつりと言った。

「何で謝ンだ」

「…隠そうという気はなかった。だが…急いでおったせいでな。何も告げぬ方が、手早くコトが運ぶと思うたのだ」

「……」

「いのいちに名乗った、おまえのような潔さが俺にもあればよかったよ」

「………」

「…エドガー…。やはり、好くは思うまいな」

 サイガは申し訳なくなって言った。視線を向けても、彼はサイガを見ていない。

 何とも言えない重苦しい沈黙がしばらく続いた。この状態のまま立ち去ることもできず、サイガはシーツ代わりに使われていた自分の襟巻きを首に巻き直して、大きなそれですっぽりと身を隠すようにうずくまる。

 白んだ空が淡い黄色の光を帯び、小鳥ののどかな声が森に戻ってきた。

「…おい」

 不意に声を発したエドガーに、サイガが顔を上げて首を回す。

「おまえの名前は、サイガなんだな?」

「……ああ」

「サヤじゃねェんだな?」

「…そうだな」

「なら、いい。もう行きな。今なら引き上げる兵団と一緒に帰れるぜ」

 エドガーはサイガではなく、自分の真正面にある奥の壁を見つめたままでそう告げた。

 サイガは何も答えることなく、しかし言われたまま立ち上がると、まだ体力が完全に回復していないせいでふらつく足を、壁についた手で支えながら出口の木戸に向かって歩き出した。

 失血が少し多かったようだ。帰ったら長老集に、文句より先に医者を用意してもらうか──

 エドガーのことは考えたくなくて、サイガは少し先にある別の現実のことを思い浮かべた。

 クラリ。視界がぐるりと回る。

「あッ…」

 倒れる。そう思ったとき、立ち上がったエドガーがサイガの腕を掴んだ。身体そのものを支えられたわけではなかったせいで数歩ふらふらしてしまったが、何とか壁に背を当てる形で治まった。

「す、すまぬ。もう大丈夫だ」

 サイガは何とか取り繕った。しかし、腕を掴む彼の手の力は緩まない。

 まだ大丈夫そうには見えないのだろうか、失血のせいできっと顔色が悪くなっているのだろう──

 ふと、エドガーの両腕が差し伸ばされた。それはサイガが状況を理解するよりも早く彼の身を包み、引き寄せる。

「おまえがサヤならよかったんだ」

「なに?」

「おまえがサヤなら、このまま攫って行けたんだ」

 エドガーはサイガの身を胸に抱きしめた。

「バカ野郎」

 サイガはすぐに理解した。たった一言の些細な罵倒の中に、数えるのも嫌になるほどたくさんの意味がこもっていることを。

「…すまぬ」

 絞り出すような一言で、サイガもまた返した。

「ほんの短い内であったが、おまえに会えてよかった」

 バサ、と、木戸の向こうで何かの音がした。

「──飛電だ。迎えが来てしまったな」

 サイガは苦く笑ってエドガーの身を、す、と左手で制した。相手が離れると、彼は今度こそしっかりとした足取りで進み、木戸を開いた。

 眩いばかりの朝の陽が、古びた寂しい石部屋の中に差し込んでくる。そんな朝日を背に、サイガより二回りほど大きな青竜が外に立っていた。

「二度と偽名を名乗ンじゃねェぞ」

 エドガーは竜の背に飛び乗る相手に言った。

「忠告、心に留めておく」

 サイガは屈託の無い表情で笑った。

「またいずれ逢うこともあろう、そこが戦場でなきことを祈っておる。──ゆけ、飛電!」

 主君の命を受けて竜が羽ばたく。

 高く舞い上がり、そして森の彼方へと。間もないうちにその小柄な竜は空の色と同化して、見えなくなってしまった。



「そういや…言うの忘れてたな」

 エドガーはぽつりと独り言を口にした。

 ピィピィと高い声で鳴きながら、様々な色の鳥たちが空へ舞っていく様子を眺めて、彼はひとつ息を吐く。

「虎は龍の夢、見ると思うぜ……サヤ」


                              END(2005/04/23