夕 闇 来たる、 北の空






 

 ながい、とても長い夢を見ていたようだった。

 それはとても恐ろしく、いやな夢だったはずだ。しかしありがたいことに、目を覚まして最初に流れ込んできた情報の数々が、サイガの脳裏からその疎ましい記憶をすべて消し去ってくれた。

 見知らぬ装飾を施された石造りの壁、そこにかけられている白い仮面やら切れぬ剣やらのオブジェ、そして、頑丈な造りこそしているが抜群の寝心地を誇るベッド──それらはまず、聖龍殿ではお目にかかれない異文化的な代物ばかりだった。

  ここは──。二度、三度とまばたきをして意識に残る眠気を追い払い、身を起こそうとして彼は気付いた。肩口や背中、身体の関節という関節がギシギシとした 鈍い痛みに見舞われていて上手く動けない。それでも何とか力加減に気をつけながら上体を起き上がらせたサイガは、素早く自分の身体の異変を分析する。

 それは極度の肉体疲労からくるものだった。幼い頃、そろそろ休めという師の忠告を聞かず無理な修練をしてしまった翌日の苦痛──あれは、忘れようにも忘れられるものではない。

 ともかく、このままベッドの上でひたすら呆けていたのでは危ない病人のようだったので、サイガは足を下ろして立ち上がった。

 水の滴を編み上げたかのような、青みのある美しい衣がサラリと肌の上を流れる、それが何ともいえず心地好い。自然界との一体化を目指し、精神統一の補助を目的として製作される聖龍の衣とはまるで違う。それは、双方の職人の価値観が違いすぎているといっても過言ではない。

  そして、やはり見慣れぬ壁に埋め込まれた木製のドアは、サイガはそっとノブに触れただけで静かに開いた。金属や木材が軋む音すらしない。その向こう側に は、ここで物音を立てているのはサイガの身体だけの、完全な無音の廊下があった。粉になるまで砕かれた石を使って塗られた白い壁には一定間隔でランプが取 り付けられ、ほのかな赤い光を遠い先にまで灯している。

  床もまた石造りだったが、人が歩くことを考慮してか、毛皮を繋ぎ合わせた長いマットがずっと続いている。サイガはその上を歩いて進みはじめた。ここがどこ なのか、その憶測は何となくついている。だが考えるだけでなく、とりあえずその証明になるものを自分で探してみたいと思ったのだ。

 見るともなくランプを見上げ、意識せずその数をかぞえたりなどとして歩いていったサイガの視界に、炎のものではない明るい光が見えた。それまで完全に閉ざされていた『空間』に空気の流れが入ってきて、急速に現実へ戻ってきたような感覚がする。

 自然と気持ちがはやる。サイガは駆け出したい衝動を身体の痛みに遮られ、わずかに歩幅を広げてその場所へと急いだ。


 ──かくしてそこに広がっていた世界は、聖龍殿では決して見ることのできないパノラマの大自然だった。


  時はまさに日の入りの刻であった。サイガが歩み出た大きなバルコニーの先には大きな山がいくつもそびえ、例外なく白い雪をかぶったそれらは夕陽を浴びて金 色の光を反射している。頭上はすでに深い藍になりながらも、陽が沈みゆく山の周辺はまぶしいほど明るく、空を漂う白い雲もそんな空の影響を受けて見事なグ ラデーションをその身に宿していた。

 美しい──。闇に慣れた目にはすこし痛む光ではあったが、それを差し引いてもなお余る素晴らしい光景があった。

  サイガは目を細めながら、しばらく我を忘れたように、生まれて初めてに等しく見る壮大な光景に見入った。……いや、魅入られた、といったほうが正しいのか もしれない。聖龍殿では屋根にのぼったって、まずこんな景色は見られない。かといって天空に在る飛天宮でも、そして荒野に在る獣牙廷でもそうだろう。

 ではここは──。その答えは自ずと出てくるだろう。

 コツン。靴音が聞こえた。音と同時に背後に現れた気配に気付き、サイガはハッとしてその主を確かめたかったが、慌てて首を回せば、確実にもう二度と動かせなくなるような気がして、できなかった。だからゆっくりと振り向く。まるでスローモーションのように。

「お目覚めになられたか、聖龍王殿」

 遠く記憶の中にある父の声よりなお低い、重低音のその声がいやに耳に心地好い。どこかで見たことのある装飾の甲冑を身に付けた大柄な男が立っていた。

「……あなたは」つぶやくようにサイガは言った。

 もしかしたら夢かもしれないと思っていた、この光景の中で初めて声を発する。遠い空の果てに吸い込まれて、飲み込まれてしまいそうだ。声も、そして自分自身すらも。

「私はシリウス」男は言った。

「……シリウス?」サイガは眉を寄せた。聞いたことのあるその名を、改めて耳にして。「あなたは、輝煌星シリウス殿であられるか?」

「──呼び捨てられるがよろしい。鎧羅の政に携わらぬ私には、敬意など不要」事も無げにシリウスは言った。「時にお身体の加減は、いかがか?」

「身体…」その単語を聞いたサイガの脳に、また全身からの痛覚信号がよみがえってくる。「どうにも…全身が石になったようで、かなわん。俺はいったい……?」

 サイガがたずねると、それまではかなり厳格な顔つきをしていたシリウスの表情が揺らいだ。身体のどこか──いや、心のどこかに小さな傷を隠し持つ者が、絶えず放たれる細微な痛みに耐えかねるそれ。

「覚えておられんか」

「え?」

 あまりに慎重に言ったシリウスの様子が気にかかる。

「いや…それも仕方のないこと。あれほどの絶望を刻まれたのだ、記憶が消えねば、あなたはその御心に、崩壊しかねぬ傷を負われる──」

「シリウス」サイガは相手の言葉を遮って言った。「あなたが言うておることの意味が、よう判らんのだが……」

 絶望。その言葉が妙に引っかかる。チクリと胸が痛んだ気がしてサイガは目を眇めた。

 なんだこの感じ──いやだ、思い出したくない──俺は何か、大切なことを忘れている──?

「──あ」

 サイガは息を吐くように声をもらした。とても耐えられない嫌な物を見せられた時に似て、全身の感覚が一気に鋭く研ぎ澄まされる。それまでは身体の痛みも手伝って視界までぼんやりしていたはずなのに、すべてが一気に吹き飛んでクリアになった。

 サイガが思い出そうという気になったとき、その記憶は意外にも、安易に手が届くところに保管されていた。心の準備もままならないうちに、フラッシュバックのように映像が、声が、感触が、そして──。



 『絶望』が、よみがえる。



「あ、ああ、ぁ」

 サイガの声が震えた。こんなことは初めてだった。確かに自分の意思があるというのに、意識はまるでいうことを聞いてくれない。身体と意識が切り離されてしまったように自由が利かない。

 ああ、そうだ、俺は──。瞬く間に記憶が戻る。思考が揺らぐ。

 自我が閉じる。

「聖龍王殿」シリウスは厳しく言った。「聖龍王殿、落ち着かれよ」

 シリウスの声が遠い。サイガの意識は急速に、記憶の中へと落ちていった。



 すでに何日も、ひょっとしたら何週間も前のことになっているかもしれないが、サイガは中央へ単独で赴いたのだ。

 いつかの日、父らの消息不明を解き明かしたくて初めて中央へ足を運んだあの日を、生涯最悪の日に変えてしまった宿敵、悪夢の新皇帝マステリオンと対峙するために。

 聖龍殿の誰も、それどころか世界の誰も知らないうちにサイガは大陸を離れた。再び忌まわしい地に足を踏み入れた彼の前に現れた金色の魔王。サイガはわきあがる怒りの感情に任せて、敵に戦いを挑んだのだった。


 ──だが、勝てなかった。はっきり言ってしまうと、まったく歯が立たなかったのだ。


 最初は倒せたかに見えたのだ。この腕も足も、すべてが二度と使い物にならなくなろうとも──そんな覚悟で繰り出した一撃は、確かにマステリオンの頭を砕いたはずだった。しかしいざその勝利に安堵し、サイガが気を抜いた次の瞬間、衝撃は襲いきた。

 すぐにマステリオンは無傷でもう一度現れた。そしてあの、耳に残る粘ついた笑い声で言った。


『我が幻影を破るとは、なかなかの腕前をお持ちのようで』


 最初、その言葉の意味が判らなかった。ゲンエイ、という言葉が何を意味しているのか理解できなかった。ハッとするまでのほんの一瞬がまるで永遠だった。

 幻影? 幻影だと? あんな力を持っていたのに、ただの幻影に過ぎなかったというのか──。

 驚愕しながら、しかしサイガは魔力も体力も尽き果て、立ち上がることすらかなわない。限界に達してようやく倒したはずだったのに──マステリオンはわざとサイガに幻影を倒させて、彼の心がもろくなったその瞬間を狙って衝撃を与えたのだ。

 崩れてしまいやすいように、壊れてしまいやすいように。

 あざ笑う敵の声がサイガの頭にぐるぐる回る。同時に世界もぐるりと回った。込み上げる『何か』のせいか、視界が薄暗くなっていく。

 金色の闇が視界を覆ったそのとき、サイガの思考は、決して考えてはならない言葉を紡ぎ出してしまった。


 殺される、俺も。祖父様のように──。


「ああああ、あ、ああぁっ」

 喉の奥に詰まっていた感情が、言葉にならない原始的な声になって飛び出した。悲鳴というのではないその声とともに足から力が抜ける。身体が崩れそうになって、誰かに肩口を支えられた。

「ヤツが、ヤツが来るっ」サイガはわめいた。「いやだっ、もういやだ、あんなことはっ」

 肩口からハラリと、自分の青い髪が滑り落ちてくる。視界が暗い。冷や汗がじっとりと背を濡らすのが判る。

「しっかりなさられよ、ここへはマステリオンの手など及ばぬ」

「ヤツは俺に触れようとしたっ、手を伸ばした、笑ってた──」サイガは必死で耳を塞いだ。「やめろっ、やめろ、その声は嫌だあぁぁっ」

 シリウスの言葉が耳に入ってこない。いや、確かに耳にははいっている。しかし理解することができなかった。言葉として聞くことができない。ただの音にすぎない。

  これまで生きてきた、長いわけではないが決して短いわけでもない時間の中ではじめて感じた心の揺らぎに、恐怖とはまた違ってサイガは動揺を隠せなかった。 心とは、岩石のようなひとつの塊などではない、数多のナニカを組み立てて作られるものなのだと、彼はここにきて理解した。

 それは、まさに自分の心ががらがらと崩れた瞬間を経験したがゆえのことだった。

 いままでに対峙したどんな敵も、これほどの感覚を与えられた者はいなかった。原生モンスターにしろ、クーデターのようなことを試みたテロリスト的な者も、誰もサイガの心に揺らぎを与えることなどできなかった。

 ただひとり、マステリオンが初めてだったのだ。

「──サイガッ」シリウスは意を決したように呼んだ。「私はマステリオンに対抗できる力を持っているっ。その私には、彼奴も無闇に仕掛けては来んっ!」

 サイガはハッとした。今の声は確かな意味を持つ言葉として脳に入ってきた。頭を抱えていた手はまだ震えていたが、ゆっくりとそれを下ろしてシリウスを見上げる。記憶の回想によって再度崩れてしまいそうになった心が、いま一歩のところで難を逃れた。

「あのとき、私がヤツの手を止めた」シリウスは確かめるように言った。「あなたは正気を失われていたから覚えておられぬだろうが、──私には、それだけの力がある」

 記憶の中に在る敵の姿はおぞましく、そして大きかった。しかし今、ここにある現実に勝るものではない。マステリオンに対する力──その言葉が何よりも強い安堵を刻み込んでくれる。

 今、この者が俺を守ってくれている──。

「あなたが…俺を?」サイガは言った。声の震えはなかなかおさまらない。

 シリウスはその問いには答えず、その代わりにひとつ、力強く頷いて見せる。

 そして彼は言った。

「す ぐに聖龍殿へおかえししようともした。しかし万一にも、あなたが聖龍殿へ戻ったとマステリオンに知れれば、聖龍大陸に『派兵』が行なわれる可能性を否定で きなかった。だから秘密裏に、この城へお招きしたのだ。ご安心を、この城は確かに鎧羅のものだが、居住しているのは私だけだ」

 恐怖の記憶と、目の前の現実の事象とがまじり合う。しかしサイガの本質は現実主義、記憶という、いわば『空想の世界』から生まれる感情が、シリウスから伝えられる『現実の真実』にかなうはずもない。

 サイガは、過呼吸を起こしかけていた身体を落ち着かせ、大きく肩で息を吸い、そして吐く。

「…すまぬ。もう、大丈夫だ」

「──あれほどの経験をしながら、この短時間で錯乱が収まるとは大したもの。普通の者ならば、そのまま別の医者送りもやむを得ぬところだ」

「いや…俺もさして強くはないよ。情けないことだ、見よ、まだ膝が笑ろうておるわ」

 言葉の通り、サイガは立ち上がれなかった。足からは完全に力が抜けたまま、膝で体重を支えることができない。マステリオンとの戦闘による肉体疲労──身体に起こった異変の原因を知って、改めてその重大性を脳が理解したせいかもしれなかった。

「あなたには、礼を言わねばならんな」サイガは言った。「俺を死の淵から救ってくれたのだ」

「お気になさることではない」シリウスは厳格に言った。「あなたは自ら望まずとも、いづれはマステリオンと対等に相対する日をお迎えになる御方」

「──俺が?」

 サイガはきょとんとした。いきなり言われると唖然としてしまうが、自分を含めた聖龍王家とマステリオンとの間にあるシガラミを考えると、それは至極当然のことのように思えた。

 顔を伏せたサイガに、シリウスは右手を差し出して言った。

「あのときは、まだそのときではなかった。やがて来る日のために、あの場で無下に『あなた』という存在が失われることだけは、避けねばならなかったのだ」

「……そうか」

 彼の手を借りて立ち上がり、不意に先ほどまでの眩しさが失われた気がして振り向いてみると、太陽はすでに山の向こうに姿を隠していた。かろうじて空は明るいが、これからどんどん藍色を増し、夜へと移っていくだろう。

 反対方向のそこには、もう白いまたたきがチラホラと姿を見せている。


 夜が、来る。


 眠ったままだったこの何日かはともかく、これから意識を保った状態で、果たして幾夜も過ごしていくことができるのだろうか──そんな不安がないといえばまったくウソだ。昨日今日の目覚めで、思い出したばかりの恐怖を簡単に乗り越えられるわけがない。

 サイガは常に強い。力はもちろん心までも。誰もがそう思い、信じている。

 だが、そうではなかった。誰も知らないところで彼は己の弱さを思い知った。ただ普通に生きていくだけならば、こんなにも神経の強度を考え直す機会は与えられなかったはすだ。

 サイガはかつてないほど厳粛で、そして慎重な気持ちで遠い空を見た。

「シリウスよ」彼は言った。「俺は……生きておるのだな」

「……左様」

「『俺』という存在が失われては困るのだったな?」

「左様」シリウスは同じ言葉を繰り返した。

「……では俺は、あなたにまず、感謝よりも先に詫びねばなるまい」

 何を、と問うように、意外そうにシリウスはサイガを見つめた。視線に促された聖龍の王は、すっと目を閉じて、わずかにうつむいて言った。

「俺は愚かであったよ」

「愚か?」シリウスはオウム返しにだすねた。

「世界の災厄であるマステリオンをこの手で倒すことが……誰にも知らせず、誰に気取られることなく闇の芽を摘むことが、俺にとっての『俺の役目』であった」

 サイガは恥ずかしそうに苦笑いを浮かべ、シリウスの視線に応えるように相手と向き合った。

 自分だけの手で災いの種を排除することは、他の誰にも負の感情を与えないということ。戦いで発生する痛みも、苦しみも、勝てないかもしれないという不安もすべて自分だけで請け負い、その中にだけ留めるということ。

 あまりにも不器用な正義。シリウスは目を細めて相手を見つめた。

「…だが、違うのだな」

「左様」シリウスはサイガの言葉を引き継いだ。「かの敵マステリオンは、今やあなただけの敵ではない。四大部族より先王を奪い、中央を乗っ取り、原生モンスターや精霊を狂わせ、あまつさえこの世を戦乱に陥れた」

「そうだ。ヤツは、この世に生きるすべての者の──世界の、敵なのだ」

 うなずいたサイガの表情は、かつてなく厳しいものだった。

 この認識が世界の混乱、あるいは世界の苦痛に繋がるかもしれないことを知ったから。

 明日は誰が、今日の自分のような発狂に似た絶望を味わうことになるのか想像もつかない。だが確実に、マステリオンへの敵対の意思は、サイガの外側へ、世界へと伝わるだろう。

「シリウスよ、あなたに頼もう」サイガは言った。「聖龍である俺が何を言ったところで、信じぬ者は数多現れよう。だからあなたに、この報をふれ回る役目を負っていただきたい」

 シリウスは黙って相手の言葉を聞いている。ただ、応える代わりにひとつ頷いて見せて。

「これよりあなたは『輝煌王』を名乗り、すべての部族より独立した者として、聖龍ゆえに自由が利かぬ俺に代わって、世界の意思をまとめてほしいのだ」

 ざあっ、と風が吹いた。城を囲む森の木々が木の葉を舞い上げ、天空へと駆け上がっていく。サイガの青い髪が、シリウスのまとったマントがざわりと揺れ、それが治まってまだ余りある時間が二人の間に流れていく。

 互いに視線は動かない。サイガはまっすぐ貫くような強い視線で、シリウスは相手を見定めるような慎重な視線で。

「──承知した」シリウスは言った。「他ならぬあなたの言葉、この役目、喜んでお受けしよう」

「…ありがとう」サイガは笑みを浮かべた。

「しかし、あなたはまだ目覚められたばかり。あなたが私の下におられるうちは、マステリオンも下手な動きはするまい。どうか今は、ご静養を」

「わかっておるよ…」

 サイガはすこし残念そうに言った。どうやら自分の身体の状況も理解できないほど、使命感に燃え立つ単細胞というわけではないようだ。

 ふ、とシリウスはひとつ息を吐くと、肩口でマントの留め金を外した。

「鎧羅の夜はよく冷える。部屋へお戻り願おう、風邪を召されては何も始まらん」

 バサリ。途端にサイガの目の前で大きな布がひるがえったかと思ったら、彼の身はシリウスの黒いマントにすっぽりと包まれていた。

 暖かい。さすが極寒地方製の装束だけあって、そのマントひとつで十分以上の保温効果を持っている。

「道が判らぬなら、ご案内させて頂くが…」

「よせ、さすがに俺もそこまでガキではない。あなたも早ように休まれよ。これよりの責務、大役であるぞ」

 嫌な顔をしながら、すっ、とサイガはシリウスの横を通って廊下へと戻っていく。彼から借りたマントを羽織ったままで。

「お言葉に甘えて休ませてもらうよ。また明日、な」




 普段の紫暗とは違った漆黒をまとう彼の背には、言い知れぬ重いものがのしかかっているように見えた。

 シリウスは廊下の闇の向こうへ彼の背中が見えなくなるまで見送る。惜しいものをその目に留めようとするように。

『これよりの責務、大役であるぞ』

 意地を張ったふうに見えなくもない、まだ少年に過ぎない彼からの言葉を思い出す。

 何一つ彼には告げなかったが、聖龍の重鎮がそう思うよりも、飛天の王がそう感じるよりも、獣牙の王がそう言うよりも、シリウスにとってのサイガの言葉は、そして声は、この世のどんなものより尊く、気高い。

 たとえそれが、己の弱さに負けて崩れてしまった者だったとしても。

 シリウスは誰の目もないのをいいことに、サイガが立ち去った闇へ向かって片膝をついた。

 あなたに賜りしは、私のようなものに務まるか知れぬ、勿体無き大役──。

 だが、まっとうすることこそが我が役目。彼は心を決めて立ち上がり、サイガとは逆方向へと廊下を進み始めた。

 サイガは、あれほど話ができるくらいに回復しているのだ、明日にもなればアレだコレだと何かと騒がしくなるに違いない。自分も早く就寝して、明日の、夜も明け切らぬうちからの彼のさまざまな要望に応えねばなるまい──そんなことを考えて、自室を目指す。


 今はしばしの休息を。

 深い傷から立ち直ろうとしているあなたは、今はまだ、とても小さく見える。


 シリウスは口元に笑みを浮かべた。

 未だ幼い、未来の皇帝を想って。


                             END (2006/09/06