聖龍殿はひどく静かだった。 すれ違う誰もが口を噤み、軽い会釈だけをする。それは何も、獣牙代表のエドガーが聖龍殿の中をウロついているから、というわけではない。 真実の敵が明らかにされ、それぞれの部族は争っている場合ではないとして休戦協定を結んだ。そして挑んだ本当の敵、マステリオンの部隊。四大部族は数と力 で圧倒され、各部族の中からは、弱い者から続々と死者が出た。王に継ぐ、いや、王を越えるとも言われる者までが苦戦を強いられた戦いの中、一番最初にその 事実を知ったのはサイガであった。 金色の鎧に身を包んだ、竜王ファフニール。冷徹な攻撃は容赦なくサイガを、ライセンさえも苦しめ、痛めつけた。敵だと、思っていたはずだ。倒すべき、憎む べき敵だと。だからこそ全力で戦ったのだ。サイガが渾身の力を振り絞って撃ち放った最後の一撃は、遠く離れた飛天宮からもその光を見ることができたとい う。 そして彼は、世界は知った。その敵の正体を。
「──エドガー殿か」 角からすっと誰かが現れたと思ったら、ライセンがいた。ひどい戦闘で傷を負ったのはサイガだけではない。さすがのライセンも腕の一本くらいは覚悟して挑んだらしく、その出で立ちには普段の威厳を感じない。 「獣牙廷のことはよろしいのか?」ライセンは言った。「このたびのような敵、恐らくは…」 「わかってる」エドガーは相手の言葉を遮って言った。「ウチも今は厳戒態勢だ」 「………左様で」 何かしら言いたいことが山ほどあるのに、それをすべて飲み込んだような返答がある。ライセンの言わんとしたことは、何となくだが察しがついた。エドガーとて鈍いばかりの獣ではない。 厳戒態勢の最中に、一時的に戦闘が中断されている別大陸を訪ねている場合ではないだろう──王であるエドガーが、この事態で国を離れるとは何事か──そういうことだろうか。 「あんたも苦労したみたいだな」 エドガーは言った。何気ない言葉だが、帰る気はないとハッキリ示すものだ。 「…私のことはお構いなさらずに」ライセンは言った。「すこし、お話をさせて頂きたいのですが…よろしいですかな?」 思ってもいない言葉が出た。返す言葉に詰まるエドガーを見て、ライセンは、普段の厳格さをすっかり忘れ去ったような暖かな笑みを浮かべた。 ぽつ、と廊下に面した中庭に雨の雫が落ちた。庭木の葉が揺れたと思ったら、次々に落ちてきたそれがあちこちを揺らした。とても静かな雨が降り始める。 気圧の低下に弱いエドガーだが、この雨は何故か不快には感じない。 「──いい雨だな」 彼はぽつりと言った。 「お判りになりますか、エドガー殿も」 廊下の奥から歩み出たライセンが並んで、二人は共に空を見た。灰色一色で、特なる黒さも白さもない平面の雲が広がる空からは、細い細い、絹糸のような雨がさらさらと舞い降りてくる。 「オレぁ雨が嫌いでな」エドガーは言った。「身体がダルくなって、頭も痛くなるし、あちこちの古傷も痛むからよ? ──けど時々こうやって、どこも痛くも苦しくもならねェ雨があるんだよな」 ライセンは膝を折り、廊下の縁側に腰を下ろした。休戦協定が結ばれる以前には決してなかった、敵対する獣牙の者に背を向けるかっこうで。 「あなたはそれを、『良い雨』と?」 「…そうだろ? 悪影響のねェ雨じゃねェか」 エドガーはきょとんとした。本当にそう思っているのだからもう何も言うことはない。 いかにもこのライセンの口からは、水の気がどうのこうのといううんちく話が出てきそうだったが、エドガーはそういったことは嫌いだ。わざわざ火だ水だ大地だのの因果関係を語って、その気の流れがどうこう言われたって判らない。 自分の身体の具合を悪くしない雨、それはエドガーにとっては『良い雨』なのだから。 ふ、とライセンは笑った。 「やれやれ。あなたも、サイガと同じことをおっしゃるか」 今この状況で、こいつの口からは絶対に出ないだろうと思っていた名前がサラリと出てエドガーは面食らった。少なくとも自分の前では、彼はサイガのことなど一言も口にしないだろうと思っていたのに。 「…あいつと?」エドガーは言った。 「ええ」ライセンはあっさり頷いた。「ご存知ありませんでしたか? あの子も昔は、こうした天候の日は一日中伏せっておりました。今でも、急な通り雨には弱いようですが。ですから雨の日なのに体調が良いと、空を見て『今日は良い雨だ』と嬉しそうに…」 さぁっと風が吹いて、雨糸の幕がふわりと揺れる。 エドガーは黙り込んだ。 ライセンも、その先の言葉を切った。 二人の間に沈黙が降りた。 それは気まずいというのではない。互いの出方を見るようなそれでもない。もしかしたら今の二人の頭の中は、まったく同じことを描いていたのかもしれない。心に浮かんだ何かを脳の中で再生するために必要な時間を、彼らは黙って過ごしたにすぎなかった。 ライセンはすっと顔を上げた。 「──小さな子でした」 言葉と共に、彼は自分の膝にポンと手を置く。 「いつまでも子供だと思うておりました」 エドガーは何も言わなかった。 「ですが気がついてみれば、あの子はもう自分の足で、遠いところまで行くことができるようになって。──そして…その遠い地で、誰でもない他者に己を許すようにまでなって」 ひどく、遠くを見ているような調子でライセンは言った。確かに目は遠い空を見ている。だがエドガーには、彼がそんな目の前のものではない、遥かな遠い場所にある何かを見ているように見えた。 「あの子は今、傷付いております」ライセンは言った。 「……ああ」 「気付かずとはいえ、自らの父であった者に敵意を向け、向けられ、刃を向け、向けられ、身を刻み、刻まれたのです。敵を倒す意思をもって、あの子は自らの父を殺すところであったのです」 いっそ死んだものと思っていた先代の王たち。竜王ファフニールがそのひとり、先の聖龍王であったことは世界に衝撃となって駆け抜けた。 ファフニールと同じくして鎧羅に攻め入ったらしい蛇王と名乗った敵もまた、ひょっとしたら──。 そしてこれから、獣牙と飛天にも同じ敵が送り込まれてくるとしたら──。 もはや、ポラリスとアレックスの心を推しはかることができるだけの余裕は、エドガーにはない。 ライセンが立ち上がった。白銀の長い髪をさらりと揺らしてエドガーを振り向く。 種族を越えた瞳が視線を交えた。 「…サイガは、この廊下の奥の間におります」 「あんた──」 「あの子を、たのみます」 ライセンは頭を下げてエドガーの進路をひらいた。 いつ、どんな時にも、サイガを自らの息子のように──いや、もはや命よりも大切にしてきたライセンが、ここぞという場面で自らの役目をエドガーに譲った。 サイガが傷付いているというのならそれを癒すのは自分の役目、それこそが当然の考えてあったろうに、それを、ほとんど知りもしない、しかも獣牙の者に。 エドガーは何も言わないままライセンの横を通り、明らかにされた目的が待つ場所へと歩き始めた。 自らの背から離れていくライセンの気配を感じながら、珍しいことにエドガーはその心を思った。その行動は、恐らくは自分と『立場』を同じくする者への共感に近いものだったのかもしれない。 サイガを思う気持ちは絶対に誰にも負けない、自分の気持ちの強さは自分が一番よく知っている。だがそれだけではいけなかった。どうしても自分でありたいときに、自分ではどうしようもないことにライセンは直面してしまった。 ──癒えない、のだ。 時にヒトの心は残虐だとエドガーは思う。ひょっとしたら、敵が肉親であったこの現実よりも。
『あの子を、たのみます』
頭を下げられたせいでどんな顔をしているのかは判らなかったが、エドガーは、そのときのライセンの表情を知りたいとは思わなかった。 ただ、どんな想いでその言葉を口にしたのか、それだけは切実なくらいに伝わってくる。 「そんなもん…」 エドガーはぽつりと言った。誰も聞いていない言葉を、ここにはいない者へ向かって。
「そんなもん、言われるまでもねェよ」
END(2005/11/19)
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