わがまま

「ねぇねぇねぇっ! サイガ聞いたっ? エドガー結婚するんだってぇ!」

 どたーん。驚かされたサイガの身体が、今の今まで身を預けていた巨木の枝から転がり落ちた。彼の意識は落ちて初めてまどろみから覚め、そして夢の中で突然響き渡った信じられない言葉の内容をはんすうする。

「聞いてるの、サイガってば!」

 仰向けに落ちたその姿勢のままボーゼンとしていたサイガの視界にピンク色の少女の影がヌッと入ってくる。幼馴染のミヤビだった。

「…いま」サイガの声は心なしか震えていた。「何と言うた」

「ボケてんじゃないわよっ。──獣牙廷でエドガーのお見合いがあるって、今じいやたちが言ってたの聞いちゃったの!」

 ミヤビはぱーっと両手を広げて喚いた。

 まだサイガはボケている。ミヤビが手をぱたぱたさせているのをアホの子のように眺めていた。

「こらサイガッ」

 ぱしんっ! ミヤビがサイガの目の前で手を叩いた。驚きのまばたきと共に、やっと彼の意識が真の覚醒に至る。

「目、覚めた? あたしの話、ちゃんと聞いてたんでしょーね?」

「…ああ…」

 上体を起こしたサイガは、覗き込んでくるミヤビから顔をうつむけて逸らしながら低く呻くように答える。

「ちょっとちょっとぉ」ミヤビは拍子抜けな顔をした。「なによっ。せっかくトップシークレット知らせに来てあげたのに、その態度はないでしょお」

「わかっておるよ」

 すくりとサイガは立ち上がる。パンパンと身体についた砂粒を両手で払うその様子は、ひどく落ち着いて見えた。

 もしかして、そんなに気にしてないのかな──? ミヤビがそんな危惧…というか、抱いていた期待が一気にしぼんでいくような感覚に目覚めかけたとき、彼はぽつりと、あらぬ方向を見つめて呟いた。

「それは…、──気に入らんなぁ」

 ミヤビは一瞬、そこにいるのがサイガなのかどうかを疑ってしまった。

 それほどに低く小さく、彼はその言葉を呟いたのだ。戦場へ出るとき、いや、出たときでさえ、きっとこんな声色は使わないに決まっている。

 この数時間後、哀れにも何も知らないはずのエドガーが思い知らされることになる。このサイガという、男にして『女』の立場にある者の、別の意味での『本領』というものを。


「エドガー様、いかがでございましょう。これほどの女たちが、今現時点におきましても、エドガー様との婚姻を望んでおりますぞ」

 すごいだろう、と言わんばかりに、年老いたイヌ科の従者が頭を下げる。

「今のうちに后を決め、その御方と力を合わせて、将来に渡る獣牙族の繁栄と安寧をお築き頂けますように…」

 老人の言葉は弾んでいる。彼は純粋に、獣牙の中でも突飛した荒くれ者たるエドガーに興味を持つ女がいることを素直に喜んでいるようだが、当のエドガーは、今にも溜息が出てしまいそうになっている。

 彼は結婚とか女との付き合いとか、そういうものは微塵も意識していなかったのだ。追求しているのは自身の力と武力における強さに他ならず、それ以外のことにはほぼ興味がない。だから今回、『縁談』という言葉を聞いて誰よりも驚いたのはエドガー本人だった。

「おいジジイ。これは今すぐ決めなきゃならねェのか?」

 玉座に落ち着きながらも、尻尾を右へ左へユラユラさせながら、エドガーは頬杖を崩すことなくぽつりと言う。できることならもうすこしくらい先送りにしてくれたっていいものを──そんなふうに思っているのが見え見えだった。

  王族の婚姻、というのは、国民にはとても大きな意味を持つ。相手如何によって国民の信頼やら何やらが高まったり一気に沈み込んだりする、ある意味では非常 に危険な賭けともいえるものだ。詳しいことを聞いたことがないが、先代獣牙王が、若くして妃を迎えたときには、国土全体がお祭り騒ぎの大歓迎だったと聞い ている。

「何をおっしゃいます。エドガー様は十代も半ばを過ぎられました、先王はその御歳におかれましては、すでに正妃様と数名の御側室をお迎えになられ──」

 お盛んなこった──。一種の武勇伝ともいえる、父の輝かしい過去を聞いても、エドガーはそういうふうにしか取れなかった。

 広間の大扉の前に待機した数人の兵たちが、そんなエドガーの表情を見て、顔を見合わせて苦笑いを浮かべている。

  はっきりいって女という生物にはカケラも用がない。力も弱く、守られてナンボという生き物がエドガーは苦手なのだ。どうせ自分の后にするというのなら、獣 牙の将軍連中に勝るとも劣らぬ、戦の中においては自らの背を任せられるほどの武芸を身に付けているのが最低ラインかもしれない。

 しかしエドガーがそんな理想を口にすれば、このたび集まった婚姻希望の女たちは、全員が泣く泣く獣牙廷を追い出されてしまうだろう。

 ──と、そこまで考えて不意に、頭の中にある人物の姿が浮かんだ。

 容姿、器量、頭脳、エドガーとの目線の高さ、すべてにおいて文句など出しようもない、エドガーがこの世で唯一認めた者。ただひとつ問題があるとすれば性別が男であることくらいで、そして問題外なことに敵対部族の王である者の姿が。

 ああ、そうだ、アイツだったら申し分ねぇ──。エドガーはそんなことを思った。

「オイ。今回集まった女はまだ居んのか?」

「ええ、それはもう」従者はニコニコしている。「お会いになられましょう? きっと、お気に召す女がいるはずでございます」

「今日はもうヤメだ、ヤメ。連中を引き上げさせろ。何にしろ、オレはまだ結婚なんざ考えてねェんだ」

 一度浮かんでしまった理想の姿はなかなか頭から離れない。そしてこれ以上の女と面通しして、そのたびに比べられてしまっては、むしろ女たちに申し訳ない。

「な、なんと」老人は天地がひっくり返ったような顔をした。「エドガー様、どうかそのようなことはおっしゃらずに…。せめて、あとひとりだけでも」

「いやだっつったら、い・や・だ。──聖龍王サイガが結婚した、っつー話でも聞いたら考えてやらぁ」

 それでは失恋の痛手に起こした自棄以外のなにものでもない。自分で言って悲しくなるが、そうでもないと踏み切れそうになかった。

 ゴォ、ン。石造りの重い扉が開く音がした。今まさに言い争いにまで発展しようとしていたエドガーと従者、そして広間にいた兵たちが何者かと視線を向ける。

 そして、一同の息が止まった。

 美しい者がいた。

  淡い桃色の、地に付かんばかりの長い裾を持つ衣をまとわせた細身と、その衣に負けぬほど長く伸ばした青い髪は、深い場所にある水の雫がそのまま宿ったよう な艶を持ち、足元近くで、見慣れぬ飾り紐によって軽く結われている。妙にまとう色が浮き立つ者だと思えば、それは獣牙の者とは到底思えぬ白い肌によって成 された、色合いの魔術なのだとすぐにわかった。

 言葉もない一同の前を横切り、その者はエドガーの玉座の前ですっと両の膝をつき、頭を下げた。

「そ、そなた」老人が焦った。「候補の者か。名は、何という」

「──サヤと、申します」

 エドガーはハッと我に返った。その声は、多少なり意図して高くされているようだが聞き覚えがありすぎる。同時に顔を上げたその者の、宝玉に等しいあかい瞳と目が合って、彼は思わず相手の名を叫んでしまいそうになった。

 その者はサイガだ。

 見たところ、恐らくは不可視の術か何かの手段で角を隠してはいるようだが、容姿と、それを飾る色のすべては、エドガーが今の今まで頭の中に描いていた人物、聖龍王サイガのものだった。

「ほほう、サヤ殿と申されるか。よい名だ」

  老人はしきりに、その者の美しいいでたちに感動している。名の響きも、決して獣牙の者のそれではない。見慣れない姿と聞き慣れぬ声の響き、そしてサイガ本 人が持つ独特の中性感は、その姿を前にする者に絶大なインパクトを与えると共に、性別さえばれなければ魅了することさえ可能なのだ。

「このたびのこと、お伺い致しました」『サヤ』が言った。「僭越ながら、このわたくしこそエドガー様の伴侶に相応しいと思い、馳せ参じました次第……」

 こうなって開いた口が塞がらなくなったのはエドガーだ。

 なんでこいつがここにいやがる──! その最大の疑問が頭の中でぐるぐると渦を巻く。

  自らに対する大いなる自信を持つ言葉、態度から溢れる気品は、ここにいる誰から見ても文句はないだろう。そして、これまでに頭を下げはしても、衣装が汚れ ることを嫌って膝すらつかなかった女たちとは明らかに違う、夫となるエドガーへの敬意──礼儀だ伝統だに疎く、加えてプライドが高い傾向にある獣牙の者か ら見て、それらを尊重する聖龍の作法に則ったこの『サヤ』の言動は、彼らに確かな充足を与えるには十分すぎるものだ。

 従順で気立ても良い、恐らくは女性の中でも上位にランクする者──。そう思わせることができるのは間違いない。

「エドガー様っ、いかがでございますか」老人はとことん嬉しそうに王を振り向いた。どうやら『サヤ』のことがとても気に入ったようだ。「これほどの女は、この大陸のどこを捜しても二人とおりませんぞ!」

 ああそうだな──。エドガーは引きつったまま思った。二人どころか、この大陸にコレを超えられるヤツはひとりもいねぇっつーの──。

 エドガーは立ち上がると、壇を降りた。そして石の広間に座したままの『サヤ』に視線を注ぐ。

 『彼女』は顔を上げ、エドガーを見た。彼にだけは自分の正体がバレきっているのをすでに知っていたようで、確かな視線が交わると、どうだと言わんばかりに、ひとつにやりと笑った。

 カッと頭に血がのぼる。

「ちょっと来いっ」

 エドガーは『サヤ』の腕を引っ掴むと立ち上がらせ、従者たちが驚きの視線を交し合う中、半ば引きずるように『彼女』を連れて広間を出て行った。


 獣牙廷の裏庭はエドガーの格好のサボリ場所だ。誰も知らない秘密の抜け道を通ってそこへ抜けると、エドガーは掴んだままだった細い腕を放し、頭を抱えて盛大な溜息を吐いた。

「何のマネだ、こりゃあよ」第一声、疲れきった声で言う。

「なんだ、気に入らなんだか?」背中にかかる声は、まるで悪びれたふうもない。「これでも聖龍殿で絶賛を受けて来たのだぞ」

「そーゆー問題じゃねェだろ、そういう問題じゃあ」いよいよ頭痛がしてきた。「おまえが聖龍の者だとバレでもしてみろ、一大事だろうが」

 エドガーは背後に立つ、本当は少年である女を振り向いた。恐らくは聖龍殿に勤める女たちの衣装を無断で拝借したか、あるいは友人の家族の物であるに違いない品の良い衣は、もとから彼のものであったようによく似合っている。

  さっきの広間で見たときもそうだったが、直視すること自体に照れが伴う。見ているこっちが恥ずかしい、とはよく言ったものである。しかもそれはプライドが 傷付くような恥ずかしさではなく、普段の姿をよく知った相手が持つ『知らぬ一面』を見せ付けられたときに感じる、『知らなかった自分』に対する羞恥と同等 のものだ。

 下ろしていた髪を慣れた手つきで結い直し、サイガは、そんなエドガーの表情を見ると満足そうに笑った。

「心配するな、バレはせぬだろうよ。この通り、角もきちんと隠せているのだからな?」

「……おまえなぁ…」

 言い返す言葉が出てこない。普段は国の情勢だ政だに厳格なはずのこのサイガの、何をどうすればこんな言動が出てくるのか、エドガーには想像もつかなかった。

「…なんで、こんなことしたんだ」

「──わからぬか?」

 不意にサイガの声の調子が変わった。驚く間もなく、すっと相手の身が近づいてくる。

 手を伸ばせば届くところに立つサイガは、どきりとするほど表情を引き締めていた。

「気に入らん」彼は言った。

「は?」

「気に入らん」サイガは繰り返して言った。「俺の知らぬところで、こんな話が持ち上がろうとは」

「サイガ──」

「許さんぞ、エドガー」

 き、と強い目で睨みつけられる。心臓をじかに掴まれたような錯覚が襲ってきた。ごくりと喉が鳴りそうになるのを踏み止まって、エドガーはサイガの赤い目を見つめ返した。

「俺ではない誰かのものになるなど許さん」

 淡い色の衣をまとう腕が伸びて、サイガはエドガーの胸にすがる。

 こんなことを言われずとも、『サヤ』を見せ付けられた獣牙廷の者たちは、もう二度とエドガーに見合いの話など持ち掛けないに違いない。それほどまでに彼らに刻まれた印象は強かったのだから。

 判りにくい嫉妬しやがって──。

「わかってるよ」エドガーは表情を緩めた。「だからそんなに躍起になんな」

 そっと腕を回す。サイガは何も言わなかった。ただ互いの身体に回した互いの腕が、それぞれに相手の所有権を主張しているだけだ。

 このまま戻れば果たして何を言われるか判ったものではない。とりあえず今は、何かいい口答え…もとい、言い訳……でもない、口上を考え付くまでは、こうして触れ合っているのが一番いいだろう──エドガーは、ある意味での覚悟を決めて息を吐いた。



 このあと数ヶ月間、獣牙大陸では『サヤ』という名の女を捜す政府関係者の姿が絶えなかったという。


                              END(2005/11/06