「このところ若が獣牙の男と密会を…」 「何故にまた、よりにもよって獣牙と…」 「よもや若に限って、その者に心奪われたとでも…」 「ばかな。若とて男…」 「いまのうち、若には自身のご性別というものをご理解頂かねばな」 「そうだとも。若を獣牙の者になど寝取られてなるものか…」
夕食に何か盛られたな──。直感的にそう思った。 サイガは自室への廊下をよろめきながら歩いていた。誰とも顔を合わさないように、誰ともすれ違わないように、あえて回り道をしながら。 頭がボーッとして、視界はハッキリしているのに足元がおぼつかない。脳の芯が溶けるように熱くて、何を考えても上手くまとまらない。病気によって発熱したときと症状はよく似ていたが、もとより丈夫で免疫性の高い聖龍の者がそういった病にかかるのはごく幼いうちだけだ。 「う…」 吐いてしまいそうに気分が悪い。サイガは自分の口元を押さえて壁に肩を寄せ、うずくまった。襟袖、帯、自分がまとっている装束のすべてが重く感じられてならない。 ありがたいことにそれと知らず自分が口にしたのは毒の類いではなかったようだが、いまはそれが本当に地獄に仏的な救いであったのかは判断できない。 「──サイガ様」 不意に背後から声をかけられて、サイガは肩越しに振り向いた。 立っていたのはひとりの女だ。この聖龍殿に仕える女中のひとりのようだが名前は知らないし、顔もあまり見覚えがない。さして若いわけでもなく、二、三人の幼子の母、という印象を受ける。 「いかがされました、このようなところで」 女はすす、と廊下をすべるように歩いてきてサイガの横に膝をついた。 「御顔の色が優れませぬが」 「あ、ああ…ちと気分が優れんでな。じきに治まろう…放っておけ」 「そのようなわけにも参りませぬ。わたくしがお部屋へお連れ致しまする」 「よい、俺に構うなっ…」 言いかけたときにはもう遅かった。女の手が伸び、するりと背に回ってくる。いかに女といえども、この聖龍殿に長く仕えているのならサイガ程度の子供を支えるなど造作もない。彼女はそのまま王の身を抱き起こそうとして、サイガの背に身を寄せた。 ぞく。背後から突然驚かされたようにサイガの身が過剰に反応する。女のあたたかく柔らかな手が触れると、たとえ布越しでもそこから大きな波が起こって広がっていくように感じた。 いやな感じがする。誰にも触れず、とにかく部屋へ戻って回復するまで大人しくしていたい。 しかしここでこの女の手を振り払ったとしても、ひとりで部屋へ戻れる自信はない。仕方なくサイガは女に身を支えられながら、まずは自室へ戻る道を選んだ。
どうやって歩いたか、その中途の記憶はほとんど無いが、ふと気が付いてみたら自分の部屋に踏み込んでいた。座っている気も立っている気もなかったから反射 的に寝床に倒れこむ。シーツの肌触りがとんでもなく心地好い。このまま眠ってしまえば朝が来るまでには回復できるだろう。 まったく、とんだ災難だ──。 「サイガ様」 彼をここまで連れてきてくれた女が呼びかけてくる。もう返事をする気にもなれない。意識半分無意識半分といった感じで、呻くような応え方をする。 と、何かが頭に触れた。ヒトの手だ。ゆっくりと撫でるようにサイガの頭に触れたそれは、彼の長い髪をひとつに束ねている飾り紐の端をクッと引っ張った。 あっけなくそれは解け、ばさりと髪の束がシーツの上に落ちる。 「なにをする…」 サイガは夢の中でそう言ったような気がした。夢の中で目を開け、夢の中でその手の方を振り向く。ぼんやりと白くにごった視界に女の姿が見えた。 さっきまで一緒に居た女によく似ている気がする。 彼女はサイガの視線にも文句にも構わず、自分が着ている装束の襟に手を入れた。ほとんど別世界に意識を浸したサイガが半目を開けて見ている前で、はらりと青の装束が落ちた。 なにをしているのか──。そんなことも判らないサイガの身に重みがかかった。ぎしりと寝床が軋む。自分のものではない黒く艶やかな長い髪が視界に入る。そこからは知らない匂いがした。 甘い匂いだ、夢の感覚をますます強める、しびれるようないい匂い──。 整えも束ねもしないサイガの髪に細い指が入り込み、さらりと掻きあげる。外す間もなかった耳飾りがプツンと取られ、むず痒さを覚えてその重圧を押し退けようとした彼の手はあっさりと捕まって押し戻された。 女が身体を乗せてくる。伸ばされたしなやかな手はサイガの装束に手をかけた。帯を解き、合わせを開いて、彼のまだ薄い胸に掌を這わせる。 「ん…ッ、よせ、何を…」 やっと現実の方へ戻ってきたサイガふと気付いてみると、状況は思ったよりも深刻だった。女はもう裸体の上に薄い衣を引っ掛けているだけで、彼女の手際がよかったせいか自分の装束もいまや腕で着ているようなものだ。 暗い密室で、男と女がこんな格好で寝床へ共に入ればやることはひとつと決まっている。 さぁ、とサイガの背筋から血の気がひいた。 「サイガ様、御身お任せくださいませ」 彼が正気に戻ったのがわかったのか、女は笑みを浮かべて言った。 嫌な笑いだった。当人がどんなつもりであれ、サイガからしてみればそれは嫌なものの分類に入る。はっきりそれとわかる目、女が男を見る目、意識するのもいやになる、考えたくもない感情の目だ。 「な、何を言うかっ…退け! 何のつもりだっ」 慌てたサイガの言葉など聞こえない顔で、女は彼の身体にのしかかる。抵抗しようとしても、腕が、指先が震えて力が入らない。だが変に力を入れすぎて、ここ で彼女の身体に傷を付けてしまえば大問題になる。彼女はそれを判っていて強行に出ているのだということは容易に推測できた。 女は巧みだった。頭を抱いて髪を探り、身を沈めて皮膚の薄い首筋や耳元に唇を触れさせる。逃れようとしたサイガが身を捩ると、押し戻すように自分の身をすりつけてくる。 「はなせっ! …いやだ、こんなっ…いやだぁっ」 むき出しの、そしてあからさまな感情に晒されたとき、普段は沈着なサイガも動転する。 がむしゃらに喚いて女を突き放そうとするのに、全身を支配する麻痺がそうはさせてくれない。自分が知らない感情、一面、繋がり──知らない世界が突然目の前にひらけるのが怖いというのではない。それに直面したとき、それを持って訪れる『誰か』が怖いのだ。 その手が持つ悪意が。 女は力ない抵抗も子供のかんしゃくも気にしない様子で肌を合わせる。サイガのものとはまったく違う質の肉が触れる。こんなにも扱いに困るシロモノが他にあるのかと思わせるほど柔らかなそれが彼を包む。 「サイガ様はまだ幼うございますね」 女は震えているサイガを見ても動じずに笑んだ。細い腕を衣の中に差し入れて背に回し、まだ若く未熟な男の肌に口付けをする。 「御身、楽になさられませ。お騒ぎにならねば、じき心地好うなりまする」 「いやだ、いやだっ。放してくれ、俺は…っ」 くらりとめまいがする。この最悪の状況で、それが唯一の救いであるように意識がかすんだ。何物とも知れない盛られた薬は、今頃になってその本領を発揮し始めたようだった。 いま意識を失ったら、もう絶対に覚めることはない。正確には、幾度覚めたとしても記憶に残らないだろう。サイガは必死で抗った。その睡魔に、この女に、ここにある現状に。 どうしてこんなことになってるんだ、どうして──。 今度こそ意識を手放そうとしている少年を、女はただ見下ろしていた。瀕死の怪我を負わせた獲物が、弱って死んでいくさまを今か今かと待ち侘びる獣のように。 女の肩に触れていた彼の手がするりとシーツの上に滑り落ちる。完全に抵抗力を無くしたサイガは、失われゆく意識の中で女の手が自分の身を包み抱き、ゆっくりと持ち上げるのを感じた。
END?(2005/06/26)
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