『夕刻、里のはずれの大樹の下で落ち合おう』──。
陽が沈む間際になってひどい雨が降るのは、この時期にはよくあることだ。大粒の露が大量に、そして激しく大地を打つと、人々は慌てて洗濯物を取り込み、屋根のある場所へ逃げ込んでいく。 分厚いはずなのに容易に陽の光を透かす雲に包まれた、茜色の空気の中を降りしきる雨というのは場所を問わず風情がある。遠くに山だ森だ、昔ながらの古い街並みだを臨むこの聖龍の里でならそれは尚更のこと。 薄赤い水煙は里全体を飲み込んで、今日も激しい雨音を打ち鳴らす。書庫から王の間へ戻る廊下の真ん中で、ふとサイガは立ち止まって、そんな幻想的な外の景色を見やった。 「まこと、よう降る雨にございますな」 背後について歩いていた老人がうやうやしく言う。 「ああ、ひどい雨だ。すぐに止むとよいのだが」 サイガはそんな老人を振り向かずに、ただ外を眺めながらぼんやりと答える。 「若は急激な気圧の変化が苦手でございましたな。──いましばしのご辛抱を、この時期の雨は長くありませぬ」 「そうだな」 サイガの視線は空に移った。叩き付けられた雨の滴はその勢いの強さに砕け散って霧となっていく。 すぐに止む、とはいっても軽く半時は続くだろう。 「爺よ。俺はこの雨が止むまでの間、すこし休む」 「は…」 老人はサイガの体調を気遣い、彼の言葉に頭を下げた。
誰も気付かない。
誰も。
サイガは走っていた。依然として勢い衰えず、ひたすらに雨が大地を打ち続ける中を。 一歩でも先へ早く進みたい彼に傘は邪魔だったし、そもそも傘を持ち出す暇さえ惜しかった。自分と同じ色をした彼の長い髪に魅せられた雨の滴が我先にと染み込んでくるのも構わずに、彼はまっすぐ走る。 ひらけた草原の先に大きな樹が立っている。そのてっぺんから見渡せば、神木には劣るだろうが、けっこうな眺めを楽しめるくらいの大きな樹が。 そしてその根元にぽつんと、白い花のような人影がある。 「──エドガーっ!」 サイガが名を叫ぶと、そこに立っていた彼が振り向き、そして驚いた顔をする。サイガは、自分の次の言葉よりも相手が放つ言葉よりも先に、彼の腕に飛び込んだ。 気温と霧のせいで冷たくなった肌同士が触れ合う。そのとき感じたのは、普段のそれとはまったく違った、水の気を帯びる匂い。 「おまえっ…」 「よい、俺のことはなにも言うな」 エドガーが戸惑いながら何か言おうとするのを、サイガは顔を上げて制した。前髪の先からぽたりと滴が落ちるのを軽く手で払って。 風邪ひくだろ、と先に続くだろうことは予測のうちだ。最初からわかっている文句を聞いてこの短い時間を自ら削るほど、サイガも気の長いタチではない。 「よう待っておったものだ。獣牙は雨が苦手であろうに」 「いきなりこんな雨が降ったら、帰ることだってフツーできねェよ」 エドガーは半分ほど溜息混じりに言って空を見る。サイガもまた、相手から離れないまま首を巡らせて彼の視線を追った。 どしゃ降りという言葉があるが、この雨にそんな表現はとても似合わないような気がする。聖龍大陸の気候には独特なものがあることはエドガーも知っているだろうが、それを直接目にするのは今が初めてのはずだ。 「おまえこそ、そんなズブ濡れでよく来たもんだぜ。今日はさすがにダメかと思ったのによ」 「そんなことを言うな。俺だって今日こそは──」 「ま、いいんだが」 すべてを言ってしまう前にあっさりと遮られたサイガの身が、足が浮くほど強く抱きしめられた。 「会えたときに、会えなかったときの話は野暮だよな」 エドガーはそんなことを言って、自分の腕に収まる身の丈の相手を抱く腕にぐっと力を込めた。 「…ッあ…」 彼の腕が縛り付けるように背を締め、大きな掌が肩を抱くと、サイガの吐息が切なく溢れる。 冷たい雨の霧の中なのに身体の芯が熱くなる。いつまでもずっとこうしていられそうだった。腕の力が強すぎて苦しいくらいなのに、いまはこの息苦しさが心地好い。 いっそ痣になるくらいきつく抱いてほしかった。鋭い爪が食い込むほど力を込めてほしかった。いまこの時間が現実であることを、この夢のようなひとときが本当にここにあるのだと、この身に刻みつけて教えてほしい──。 エドガーはぽつりと言った。 「今日はどうやって抜け出してきたんだ?」 耳元に紡がれる低い声が頭の中に染み込んでくる。雨の音も、雨に打たれる大樹の葉の音もまったく気にならない。サイガはすっと目を開いた。 「…雨が止むまでの間は、寝ていたいと言った」 「じゃあ、誰かが起こしに来たら災難だな。またジジィどもから大目玉だ」 「笑うな…」 サイガはふたたび目を閉じる。合わさった身体越しに声が響く。 むせ返るほどの水の匂いが鮮明に脳に刻まれる。今度からは雨が降るたびに、この感触とこの感覚を思い出してしまうかもしれない。 すり、とエドガーが頬をすり寄せた。獣が主に甘えるように。 「帰るのやめたらどうだ?」 「…いま、俺もそんなことを考えておったよ」 「奇遇だな」 「だが、それも叶わぬ」 ほら、とサイガが促す。身を離したエドガーが振り向いて空を見ると、もう雨はパラパラと細かい粒に変わっていた。もう間を置かずに止むだろう。 交わした言葉は驚くほど少ない、たったいま出会えたばかりのはずだったのに。 雲は切れ、その隙間から真っ青な空が顔を覗かせている。一部は気持ちが悪いくらいどす黒い雲に覆われているのに、いざそれが途切れるとそこからは美しい色がひしめいている。奇妙であり、そして壮大な光景だった。 「止んじまうのか」 エドガーは急に遠くなった空を眺めて言った。 「止まぬ雨はないよ。明けぬ夜も、暮れぬ昼もない。終わらぬ時間も…」 サイガはエドガーの後ろ姿にゆっくり踏み出すと、両手を伸ばしてその背に身を寄せた。間を置かず腕を回して、きゅ、と包むように抱く。自分よりひと回りは大きな相手の身体を。 抱くことには慣れても、抱かれることを知らないエドガーが動揺する気配が伝わってくる。 「お、おい──」 「すこし、黙れ」 小さくサイガが放った言葉にエドガーが口を閉ざす。 「俺を拒むな…」 サイガは吐息と共に言葉を放ち、掌で肌を探るように触れた。 その間に雨は止み、うるさい雨音は耳が痛くなるほどの静寂に取って代わった。まだ森の鳥たちが木々の洞から顔を出すには早い。 さっきのエドガーがそうしたように、サイガは服越しに相手の背に頬を寄せる。 時が止まったような間が静かに流れていく。もちろん本当に止まっているわけがないのは判っている。それがどうしてももどかしい。止まらない時間、流れていく時間、過ぎていくこの一瞬──サイガは決して相手には見えぬ場所で目を細めた。 何故俺たちは王になどなったのだろう──。 「ふため巡るも遠かれば、きみのかげは何を語るや…」 「あ?」 すっとサイガはエドガーから離れた。 「引き止めてしまったな。俺も、もう戻る」 「あ、ああ…」 「今度は俺が会いにいこう。暇を作っておけよ」 「おまえんトコと違ってコッチはおカタいことがキライでな。ヒマくらい、いくらでもあるぜ」 「それは何よりだ」 二人は静かな会話をしながらも慌しくまた会う約束をして、別れた。サイガは聖龍殿へ、エドガーはどこかに待機させた守護獣のもとへと。 立ち去る際、サイガは振り向いた。乾き切らぬ髪が重く感じられる。視線を投げかけたその先にはエドガーの背があって、草原があって、空がある。 本当なら見送りたくはない。この別れがいつ最後の別れになってもおかしくはないのだから。それだけの危険をはらんだ世界と、それだけの立場で自分はいま、生きているのだから。 サイガは目を閉じ、そこでしばらくの沈黙を過ごした。流れてくる風の匂いはまだ水の気を持っている。やがて彼は視界を閉ざしたままで行くべき道へと向き直り、また歩き出した。
永き果て、二度とかなうことなくば、この心、月無き凍える夜のごとく──。
所詮意味は通じない。わかっていたからサイガはエドガーにうたを詠んだ。 到底なにかの言葉で飾り立てられるほど簡単な想いではなかったし、いくらサイガだってそれほど頭がいいわけでも、そして器用でもない。 何を言っても嘘くさくなってしまいそうで、だから。
途切れた雲の隙間から、時間に似合わない白い光が差していた。
END(2005/06/24)
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