天の賛美歌
これはあなたを讃える歌。あなたのためにある歌。 いつの時代かも、本当に存在したのかも知れない偶像の為のものじゃない──。
アレックスは夜の聖龍殿の廊下を歩いていた。時間が時間であるにも関わらず城内には多くの女中や老人がうろついていて、彼の姿を見つけるとペコリと頭を下げてきた。 この城に来ること自体はだいぶ慣れたが、決して他部族たちからの興味の視線に慣れたわけではない。無意識に普段はフカフカした自分の翼がかたく緊張してしまっているのを感じながら彼は何も気にしないフリをして、すれ違う聖龍の者たちに笑顔を返した。 数ヶ月前、初めてこの聖龍殿にきたときには、アレックスは聖龍族を頭の悪いハチュウルイと見下していた。しかし、一度でもこの部族の誉れ高き王を目にしてからは、そんな自分の方こそ頭の足りないチョウルイだったことを思い知った。 理知を持ち、強大な魔力を持ち、神器を持ち、そして古くからのしきたりに凝り固まった老人連中にさえ、どこへ出しても恥ずかしくないと思わせる威光を彼は持っていた。その輝きの強さに魅せられて、アレックスは国交回復への段踏みと称してここへ足繁く通っている。 「飛天王さま。このようなお時間に、どちらへいかれます?」 動物園のクマを見るような目をしていた女中連中から、ひとりの女が仰々しく歩み出てきて言った。この聖龍殿のどこかにある湯殿からの帰りなのか、濡れた長い髪と淡い桃色の衣がいやに艶やかだ。 「いえ。ちょっと…聖龍王殿はどちらに行かれたかと思いまして。…ご存知ありませんか?」 アレックスは相手の女からさりげなく視線を外しながら言った。その声は自分でも驚くほどよくできた余所行きの声色だ。 他国の王を前にして女がこんな格好で出歩くなど、この国の習慣からはまずありえないことだ。それを知っているから余計に嫌な感じがした。 ナメられてるな、ボク──。 「さあ」 女は背後に待たせている連れたちと顔を見合わせてホホホと上品に笑った。 「王はこの時間になりますと、ふらりとお出かけになるんですのよ。御用がおありでしたら明日になさられませ?」 「…ええ、そうですね、そうします。ありがとうございました」 ニッコリと笑って言うと、アレックスはくるりと女たちに背を向けた。気のせいに違いないが、廊下を歩き去るまでの間でさえ背中に嫌な視線を感じる。ただの 被害妄想だと思っていたいのに、この聖龍殿で上層の者に会うたび、そう考えること自体が逃避にすぎない気がしてならない。 この城でひとりになりたくない。なのに、こんな時間にボクをひとり置いてドコへ行ったんです──。 溜めたストレス分にしてはずいぶんと些細な代償になる苛立ちを覚えながら、アレックスは求める姿を探して窓の外へと視線を飛ばす。 「──あっ」 知らずと声が出た。そのときにはもうそこに誰もいなかったから不審な目を向けられることはなかったが、次の瞬間にはアレックスはもう走り出していた。 ここがどこなのかなんて、もう頭からきれいに吹っ飛んでしまったあとだった。
聖龍の里には、大の大人が十人手を繋ぎ合わせてもまだ足りない幹を誇る神木がある。 最初にこの地に降り立った龍神のひとりが姿を変えたものだとか、かつての時代に役目を終えた伝説の宝剣が、眠りにつく己の寝台として創り出したものだとか大層な伝説があるのだが、アレックスは詳しく知らない。 聖龍の里と交流を持つにあたって、その地の伝承やしきたりを学ぶのは当然の行動なのだが、この地には何かというと大地や森や空にまつわる伝説が多くて困 る。大抵の勉学は難なくこなすはずのアレックスでも、目の前に百科事典ほど分厚い本が何冊も詰まれた日には何もかもが嫌になった。 何でこう、古いアタマは何でもかんでも神だナニカに見立てるのが好きなんだろう。科学主義の鎧羅族がこんな話を聞いたら、きっと笑い出すか怒り出すに決まってる──。 「…サイガッ」 荒れた呼吸を整える間も惜しんでアレックスは呼びかけた。神木の根元にじっと座っていた、この里の支配者に。 千年の眠りからようやく覚めたように彼は目を開いた。その表情は清水を湛えるように静まって微塵の乱れもない。まるでかけらの感情もない人形が目を開いたようだった。 それを見てからアレックスは、いま呼びかけてしまったことを後悔した。 彼に目を開かせただけなのに、とても大それたことをしてしまったように思えたからだ。 「──おお、アレックスか」 サイガは言った。沈静した表情は不意にどこかへ消え、いつもの笑みが戻っている。 「おまえはいつも俺を見つけてしまうな。…眠りが浅いのか? それとも聖龍殿の者が何か無礼でも働きおったか?」 「あ、い、いえ。姿が見えなかったので、どこへ行かれたのかと思いまして…」 「気にせず眠ればよかろうに」 気が小さいな、とサイガは笑った。 眠りが浅い、というのは、実は正解だった。飛天の者は強い魔力こそ持っているが、肉体的な特化を好まない。パワーよりもテクニックに重きをおく彼らにとって、深い眠りに落ちるときこそがもっとも無防備な自分を晒す瞬間に他ならないのだ。 同種族で形成した国に住んでいようとも、遥かな時代の頃より遺伝子に刻み込まれた浅い眠りの習性だけは消えることなく残り続けている。 だからこそ。不意に庇護者の気配が消えると、自然と目が覚めてしまうのだ。 「何をされていたんです? こんなところで」 部屋に戻る気のなかったアレックスは、サイガに質問を投げかけた。言ってから上でいっぱいに枝を伸ばした一本樹を見上げる。ようやくあたたかくなってきた 夜風に揺らされた葉がサワサワと鳴く。芽吹いたばかりの緑の匂いが独特の風に乗ると、それは心に響いて不思議な感覚をもたらした。 奇妙なほどに気持ちが落ち着く。まわりの光景が夢幻にかすんだように見えて心地好い。 普段は里の喧騒によって気にもかからないあらゆるものが、今は驚くほど鮮明に見えるのだ。 「精神統一も立派な鍛錬のひとつ、と教えられているものでな。本当なら騒がしい中で行なえば効果もあろうが、俺はそういうのは好かんのだ」 「だから、こんな時間に?」 「皆に言うなよ。真っ先にここを探されては、俺の楽しみがなくなってしまう」 「言いませんよ」 アレックスはくすくすと笑った。 「けど、わざわざここでそんなことするなんて。もっと上へ行ったらいいんじゃないですか? この木は大きいですし、簡単には見つからないと思いますよ?」 「ん…。まぁ、な」 急にサイガは言葉をにごした。他にやることがなくなったように頬を指先で掻く。 何か事情があるだろうか、とアレックスが首を傾げていると、ふと彼は言った。 「夜の空はな、こわいのだ」
………。
「…はい?」 思わず聞き直してしまう。 サイガは照れくさそうに苦笑いを浮かべ、頭上に広がる森とさえ呼べるものを見上げた。 「夜、高いところで空を見るのは苦手なんだ」 「今日は月がないから、ですか?」 「いいや。──落ちる、ような気がしてな」 「え?」 「空の遠いところへ、この身が落ちてしまうように思えてならんのだ。空から地へ落ちるようにな」 しみじみと放たれる相手の言葉を聞きながら、アレックスは空がある方を見やった。夜目の利きにくい飛天の者が夜の空を好んで飛ぶことはない。だから彼は、夜の空など見上げたことしかない。 さして意識したこともない、ふかい、ふかい闇がそこにあった。普段は真っ白でとても爽やかなはずの雲までがその侵食を受けて黒ずんだ色をしているほどに。風に流されていくそのちぎれ端を眺めていると、急にザワリと心が騒いだ。 とても不吉なものを見たような気がした。決して見てはならない井戸の底を覗き込んでしまったような焦燥感が這い上がってくる。 長く見ていると頭がおかしくなりそうだ──。 「自在に空を駆けるおまえたちには、判らぬことかもしれんが。おかしいかな」 「い、いえっ。とんでもない」 アレックスはぶんぶんと首を振る。 「ボクもいま初めて意識しましたが…翼があっても、落ちるときは落ちます。あなたのおっしゃらんとしていることは、わかりますよ」 そう言ってまた空に視線を移す。ザワ、と木の葉がやってくる風で騒いだ。持ち前の色と周囲の色とで己の姿を見失い、ふかいグレーに染められた雲の姿など、ノンビリ浮かんでいるというよりも、不気味に漂っているように見えてならない。 アレックスの背筋がまたいやな感覚に貫かれそうになったとき、サイガが立ち上がった。どのくらいそこに座り込んでいたのか知れないが、彼はウーンと大きな伸びをして関節のあちこちを鳴らした。枯れた小枝を勢いよく折るような小気味よい音がする。 「まぁ、そんな訳でな。夜はあまり好かん」 立ち上がったばかりの聖龍の王がアレックスの隣まで歩いてきた。 ちらりと視線を投げかけてみて彼はまたハッとする。 月の光も何もない、ただ在るだけのこの闇の中でさえ、彼の身は強い存在感をもっていた。自ら輝く意思を持つ恒星のように、長い髪の一筋までが輝いてさえ見える。 ああ、きれいなひとだ──。 「──だいじょうぶですよ」 アレックスは言った。 「あなたは落ちません」 「ん?」 サイガがきょとんとアレックスを見る。同じように視線を返しながら、アレックスは、議会の最中にだってこんなにもそうはならないと思うくらい真摯な気持ちと真面目な表情で、相手の視線をひたと受け止めた。 「ボクがあなたの翼になりますから…」 言ってアレックスは四枚の翼を広げた。 サイガによく見えるように。これがあなたの翼なのだと、よく見せるように。 夜の闇の中を翔んだことはなかったが、サイガという大切なものを背負ってなら、絶対に落ちてしまわない自信があった。きっと疲れることもない、きっと闇が怖くなることもない。 だってボクには、あなたを先に進ませるという使命があるんだから──。 「…そうか」 サイガの表情がほころぶ。 「それは心強いな」 サイガは相手の返答を待たずに数歩ほど前に出る。 その姿を目で追うアレックスの胸の奥がじんとしびれた。視界の端を通り過ぎる彼は、その残り香さえも尊い。 このまま時が止まればどんなにいいか。叶わぬ願いが心に芽生える。先へ進むことのない自分の足と、伸ばされることのない自分の両腕が、今はとても。 名を呼ぶことさえ、触れることさえ身がおののく。
聖なるかな、聖なるかな──。
「では、行くか」 相手がそんなことを言って振り向くのを、アレックスは夢を見ているような気分で見ていた。間を置いて不意に、今の彼の言葉が耳から脳に届いてハッとする。 「え?」 「自分で言い出しておいて断ろうとは言わんだろうな?」 アレックスが戸惑うと、サイガは可笑しそうに言って片手を伸ばしてきた。 「おまえの翼は俺の翼なのだろう」 きれいな衣を着た白い手。白い光をまとったような神聖なその手に誘われて、アレックスもまた手を伸ばした。 ワルツの始まりを告げるように、手に手が置かれる。 「──俺のために翔べ、アレックス」 まさに主なるものに命じられるまま、彼ははあかい翼を広げる。一面の闇の中に一陣の風が吹き抜けた。胸の中ではまだあのメロディがずっと鳴り響いている。 決して終わることのない、決して変わることのない、一定律のエンドレスリフレイン──。
聖なるかな。聖なるかな……。
END(2005/06/25)
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