天地の守護者 |
1
聖龍の里の夜はよく冷えた。 御殿の者たちによって案内された来賓用の離れ屋敷の窓からは、見事な満月を見ることができる。アレックスはその一室で、豪奢なベッドからシーツを丸々引き剥がして頭からすっぽりとかぶって丸くなっていた。 「寒い。です、よっ」 アレックスはすっぱりと言った。呼び出された別室待機のはずの執事が、その異様に据わった主君の顔付きを見て、頬に一筋の冷や汗を流す。 「アレックスさま──」 「寒いって言ってるんです。ボクは客人ですよ。毛布なり暖房器具なり、用意させてくださいっ」 またアレックスのわがままが始まった。執事は汗をふきふき、かしこまりましたとだけ告げて逃げるように部屋を出た。 きっと戻ってこないだろう。 「信じられない、どうしてこんなに重要な客を、こんな隙間風だらけの部屋に泊める気になるんだか。やはり聖龍族も田舎者に過ぎないってことだな」 アレックスはぶつぶつと、毒の混じった独り言を放った。それは、誰も聞いていないのを確かめようともしない、むしろ誰でもいいから聞けよコノヤローと言わんばかりの大きな声だ。 温暖な気候に恵まれた南の大陸で生まれ育ったアレックスは、魔力の属性も手伝って、寒さというものにすこぶる弱かった。室内温度が15℃を下回るともう我慢ができない。飛天宮の女中たちは日頃からアレックスの室温には気を遣っているのだが、今はそんな優しい女たちは存在しない。 この戦乱の世の中、魔力を持った部族同士で同盟を結んではどうかと考えつき、こうしてはるばる聖龍の都までやってきたというのに、四季というものが存在する東の都は現在真冬で、アレックスがこれまでに経験したことのない低気温が常の日々だった。 「くそ…失策だ…」 もういっそ寝てしまうのが得策かと思えてくるのだが、そうも甘くはない。寒さのあまり手足が冷えて、眠気さえ襲ってこないのだ。 「調印式は明日だなんて…」 この極寒の夜をすごすこと自体がアレックスにとっての拷問だ。単純な爬虫類ども──もとい聖龍族たちは、この飛天との結盟を快く承諾したのだが、さすがにその日にすべての手続きを終わらせる気はなかったらしい。 彼らは客人たちに屋敷を用意し、そこで夜を過ごすようにと告げたのだった。 かなうならこんな場所には一時間だっていたくはない。しかし部族的な問題であるとともに、誇り高き空の王者である飛天の王が、寒くて帰りたいから急いでくれなどとマヌケなことを言い出す訳にもいかず、彼は今、こうしてひたすら寒さと戦っている。 こんなことなら、聖龍王を南の宮に呼べばよかった。プライドばかりの戦闘種族には、まずは低姿勢でイイ気にさせるのがいいのさ──なんてバカなことを考えてしまった自分の浅はかさに、つい、涙さえ溢れてしまいそうになったとき。 「……ん」 アレックスはシーツの中から頭を出した。 口笛だった。冷たく澄み切った空気の中だから、それはより鮮明にアレックスの耳に届く。 「誰だ、こんな…」 こんなにも寒い夜に、外を出歩く者がいるのか。寒さに強くないのは聖龍だって同じなのに──アレックスは寒いのを我慢してベッドから降りると、そっと窓に近付いた。 鍾乳洞が横に伸びたような大地のシルエットの上に、誰かが腰かけているのが見える。 そこは昼間に軽い観光を勧められたとき、御殿の女中が得意げに、とても見晴らしがよいのだと教えてくれた場所だった。 翼を持つアレックスには、そういう場所を求める者の心境なんてわからない。だが地に生きる者たちは皆、大地を遥かに見下ろせる場所に立つことを望む。それはこの戦乱の世にも、同じことが言えた。 その、高い場所を好むバカの姿を見てやろうと、アレックスは部屋を抜け出した。
2
聖龍殿に住まう女中たちは、ほとんどが子を持つ母だ。彼女たちがせっせと育児に励みながら、時に口ずさむ子守歌を聞くともなしに耳にするうち、サイガはそのメロディを知らずと奏でるようになった。 ひとりになって心が空っぽになるときは、特に。 すでになき母に想いを馳せるほどサイガは子供ではなかったが、闇の中にひとり置かれたこの『孤独』を楽しめるほど大人でもない。物悲しさをも含んだ口笛の優しいメロディは、どこまでも夜を渡っていく冷たい風に流されて響いていった。 里で、なかなか寝付かぬ子供が、この旋律によってゆったりと心地好い眠りに浮くことができればと、祈るように。 「聖龍王殿。あなたでしたか」 バサ、と大きな羽ばたきの音とともに、サイガの眼前に浮かぶ月を覆い隠すようにアレックスの姿が浮いた。 ぴたりと高い音が止む。聖龍殿の兵たちは、不意に止んだ恒例の音を訝しむかもしれない。 「おお、どなたかと思えば飛天王殿か。…起こしてしまったのであれば詫びよう」 「いいえ、お気になさらないで下さい。ちょうど眠れず、どうしたものかと思っていたんです」 アレックスはサイガが腰を下ろす地に、トン、と足を付けた。 「きれいな月ですね。いつも、ここで?」 軽く月を見やってからアレックスが問いかけると、サイガはどこか照れたように笑みを浮かべる。 「そんなところだ。なに、日ごろ雑務に追い回されていると、年寄りくさくも、こうした時間も大切なもののように思えてくるものでな」 「わかります。国の政に携わっていると、どうしても心の余裕を失ってしまいますから」 サイガは答えなかった。いや、答えなかったのではなく、無言のうちにアレックスの言葉を肯定した感がある。 さぁ、と風が吹き抜ける。アレックスが堪え切れず、肩を抱いて身震いした。 その様子をふと見たサイガが、どれ、と首をもたげて横に立つ異国の王を仰いだ。 「慣れぬ土地の慣れぬ風は御身体に堪えよう? 戻られよ飛天王殿。これで風邪でも召されては、私は飛天族の皆々方に合わせる顔がない」 「…いえ…」 アレックスは口ごもった。 部屋に戻ったところで何の変わりもなく、眠れないだろう。せめて風を防げる点では室内の方がいいのかもしれないが、執事の爺やも他の聖龍の者もアレックスを気遣ってか部屋を訪れようとしない。これでは寒さと退屈の板挟みで、翌朝には死んでしまいそうな気さえしてしまう。 気遣いが余計な迷惑になることもある。今のアレックスは、誰とでもいいから退屈を紛らわせていたかった。 「やれやれ。今夜はよく冷えるな…」 サイガが独り言のように言った。やはり今夜は特別に寒いらしい。思わず表情が陰険な方向に歪みそうになるのを堪える。 と、ふわりと身体に大きな布がかけられた。サイガの手でアレックスの肩に預けられたものは、つい今しがたまでサイガがまとっていた襟巻きだった。 とても大きくてゆったりとしたそれは、きちんと広げてみればサイガの身体をくるくると包むこともできるくらいの面積がある。アレックスだって最初に見たときはマントだと思ったほどだ。 よほど気に入っているのか、彼は謁見のときをはじめとして、どんな服装のときにもこれを身に着けていた。それが今、アレックスの肩にある。 「せ、聖龍王殿──」 「サイガでよい。仰々しい付き合いは止めだ止め。おまえのことも、今はアレックスでよかろう?」 息苦しそうにサイガは苦笑いをした。どうやら本当に、部族王として他人に接するのが苦手なようだ。 「はぁ…」 アレックスは何とも無難というか、歯切れの悪い返事をする。しかし言われてみれば、確かにこんな夜更けに、互いに公務も何も関係ない場所でまで、仰々しい言葉と態度で接するのはナンセンスな気がした。 「せ…、サイガ、は、…変わってますね」 「はは、よく言われるよ」 サイガは軽く肩を竦めた。普段は襟巻きの布に紛れて見えないことが多い、高く結った彼の長い髪が揺れ、エメラルドの耳飾りがキラリと月の光を反射する。 「…美しい御装飾ですね。この地方の産物ですか?」 アレックスは首を傾げながら無難な話を持ちかけた。 五つの大陸それぞれで独自の文化を持った部族たちからしてみれば、他部族の服装、装飾、食生活はすべてが『珍しいもの』だ。アレックスは、サイガが身に着けているような宝石による装飾を見たことがなかった。 「ああ、北の鉱山で採掘されるらしいが、俺は原石を見たことはない」 「南ではそういった装飾の文化はそれほどありませんが、おいしいお菓子作りが盛んなんですよ」 「ほお? それは一度、食うてみたいものだな」 「サイガも南の大陸にお越しになって下さい。そのときは、できたてをごちそうします」 「それはいい。では近いうちに訪問団を結成せんとなぁ」 互いに退屈を持て余していたせいなのだろうか、ずいぶんと他愛もない話に大きな華が咲く。相手の大陸のことをよく知らないのだから、その話はとても斬新で興味あるものだった。 そして何よりも、相手がサイガであったからこんな話ができるのだとアレックスは思った。サイガは王同士であるにも関わらず、こうして今、アレックスとは『歳の近いガキ同士』という感覚でおしゃべりに夢中になっている。 獣牙や鎧羅の者相手では、いかに懐柔話術に優れたアレックスといえど、こうも楽しく時を過ごせるかといえば自信がない。彼らは戦うことにプライドをかける、アレックスに言わせれば野蛮な種族なのだから。 ここに来て良かった、アレックスは心を決めた。
3
「その昔、我ら四大部族は、巨大なひとつの大陸で共存したと聞く」 サイガは月を仰いで言った。 「知っています。世界が今のように分断されたのは、ごく最近の話であるようですね」 アレックスはサイガの背を見て言った。 「誰がどんな目的で、世界をこのように作り変えてしまったのかは知らん。だがそのせいで、皆が己を筆頭として争い始めたのは事実だ」 「──はい」 「戦うぞ、アレックス」 サイガはアレックスを振り向いた。この夜の闇の中でも、その真紅の瞳は決して自分の意思を失っていない。 「ここは俺たちの世界だ、何者にも好き勝手はさせん。世を戦乱に陥れた愚か者の手から、俺たちはこの世界を取り戻すのだ」 サイガは月の光を背負い、自分の襟巻きにすっぽり包まれているアレックスへと歩を進めた。アレックスはぴんと背筋を伸ばして、向かってくるもうひとりの王に対峙する。 「俺は地で戦う、だからおまえは空を護れ。この世で唯一、天翔けることを許されたおまえの力、頼りにしている」 「はいっ」 アレックスは神妙に頷いた。 すべての者が帝位につくことを狙い、また望んでいる。このサイガもそのひとりだ。 だが彼は、戦うために上の地位を目指す獣牙や、世が戦乱に堕ちたその理由をひた求める鎧羅の者たちとは違う。ひとつしかない皇帝の地位を巡るこの覇権争いの中、自らが帝位につくことでそれを終結させ、そしてその先の未来を導いていきたい── サイガになら、それができるような気がした。アレックスが求めて止まない、この戦乱の早期終結もまた、その目的の中にきっと組み込まれている。 「この飛天王アレックス、必ずや戦争の早期終結を成してみせます。かつての世で史上最強を謡われた聖龍の力、頼りにしていますよ」 「勇ましいことだな。明日より我らは盟友だ、よろしく頼むぞ」 「ええ、こちらこそ」 二人は伸ばした手の先でかたく握手を交わす。 「…あ」 アレックスがふと、何かまずいものを見つけたように声をあげた。 「ん? …どうした?」 「あ、あのですね。サイガ…」 視線を下向きに泳がせながら、アレックスは自分の身を包んでいる大きな防寒具をぎゅっと握り締める。 「これ、一晩だけお借りしておいても、いいですか? …寒くて死にそうなんです…」 顔から火が出る思いでアレックスが言った渾身の一言に、サイガはほんの一瞬の間を置いて大笑いした。
そして、恥ずかしくてもう声も出ないアレックスに、散々笑い倒した挙句、彼は「かまわんよ」と、こたえた。
END(2005/03/26)
|