戻らぬ時に、思いを馳せども |
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中央王国、皇帝宮。 そこには世界を闇と恐怖のどん底に叩き込んだ魔王マステリオンの討伐後より、聖龍より選抜された新皇帝、光龍帝サイガが住まう。 全大陸の民たちが新皇帝の即位に歓喜し、その存在を尊び、栄光を祝福した。青き髪は空と同一視され、白き肌は舞い散る雪とされ、赤き瞳は朝陽や夕陽の具現と呼ばれた。彼を輩出した聖龍一族は神族となり、四大大陸で行なわれる政の一切を取り仕切る権限を与えられた。 そして、サイガとともにマステリオンの討伐を成し遂げた仲間たちもまた聖の称号をもって呼ばれるようになり、民たちからは神のように愛され、讃えられた。 彼らによって統治された神羅世界は、先一千年にわたる平穏を約束されるとすらいわれる栄華を極めようとしている。
そんな、安寧が訪れし十数年後──。
「聖獣牙王エドガーさま、ご来場です」 ホール全体に響く凛とした女の声とともに、玉座の間への鉄扉がひらいた。 さすがに全部族の重鎮が一同に会せるだけのことはある。皇帝の間は、まさにバカが愚かな設計をしてしまったほどにだだっ広い。そしてそこに誰もいないと、尚のこと空虚のごとき何かを感じずにはいられない。 床には赤いカーペットが敷き詰められ、天井からは白の飾り帯がちらつき、薄いガラスを張り巡らされた窓の外には宮殿の庭に植わる緑が眩しく息づいている。シンと静まり返れば小鳥の歌すら聞こえてきそうな雰囲気は、何度訪れても、エドガーには馴染みがたいものであった。 シャン、と涼やかな金属の音がした。 「よう来てくれた」 空間の重さに圧倒されていたエドガーがふと我にかえると、鮮烈なほどの美しい青が視界に飛び込んできた。 「──久しいな、エドガーよ」 懐かしさすら感じさせる、しかし聞き慣れた声。長い髪は地につかんばかり、そして皇帝にしてはずいぶんと控え目な、しかし決して趣味は悪くない、黒を基調にした装束をまとう信愛の皇帝サイガが、少年の姿のまま、入口からいくらも進まぬところに立っていた。 返す言葉に迷いながらエドガーが一歩踏み込むと、後ろでゴォンと扉が閉まった。ヒトの気配はどこにもない。 今日、このエドガーが個人的に会いに来ると知って人払いをしたのだろう。 ──平穏とは、決して安らかなものではない。統治者にとってすれば平穏こそが最大の多忙の日々と言ってもいいくらいだ。人々が快適に暮らすためには様々な仕事が必要になる。 許可、申請、発表、そのすべてを唯一行なえる王のもとへ舞い込む仕事の量は、戦争をしていた頃をはるかに上回るのだから。 そんな王のひとりエドガーと、そんな王たちの頂点であるサイガには、当然ながらひとめとて個人的に会う時間の余裕はなかった。姿を見たり声を聞いたりするだけならば仕事の上でいくらでもあったが、それはお世辞にも想い合う者同士の心を満たせる会見には成り得なかった。 そこで、彼らの関係をよく知るアレックスとポラリスが、この二人に個人的な時間を作ってやるために一肌脱ぐことにしたわけだが──。 現在、彼らがどんなことになっているかは想像に難くない。 「……サイガ…」 やっとエドガーは相手の名を呼んだ。すっと踏み出して両手を伸ばし、目の前に立つサイガの身を抱きしめる。今の時間が決して夢などではないことを知りたいとして、腕に力を込めて息が苦しくなればそれほどに、確かな充足が心の中に満ちてくる。 数十年、心の中に思い描くだけだったこの瞬間を、いま──。 「可笑しいな」 ふいにサイガが言った。エドガーが腕の力をゆるめると、ひょこりと顔を上げて笑って見せる。 「この程度のことだというに、嬉しゅうて涙が出そうだよ」 本気で言っているのだということは、その潤みかけた赤い瞳を見ればすぐにわかる。嬉しくて、と言われればエドガーも悪い気はしないし、どちらかといえば自 分もそんな気分になる。二人はしばらく何も言わずに互いの存在だけを身体で確かめ合って、すこし名残惜しく思いながらも離れた。 話したいことはたくさんあったはずだ。しかし当人を目の前にして、頭の中で考えていたアレコレはすっかり消滅してしまっている。 「…えらく落ち着いたじゃねぇか」 第一声、エドガーはそう言った。サイガを見て思ったままの言葉だった。衣装や立ち姿だけなら皇帝に即位した頃からずっと見てきたが、こうして自分のためだけに放たれる彼の言葉と声を聞いて初めて、そう感じた。 別人だと捉えてすらいたのかもしれない。戦乱の世を自分と共に駆け抜けたあのサイガと、今のこのサイガを──。 「…うん、そうかもしれん。自分でも近頃は、ずいぶんと大人しゅうなったと思うておるよ」 改めてサイガは自分の身体のあちこちを見た。黒い装束、背中の髪。今や世界中のヒトビトが讃えて止まない自分の姿を、今の今まで知らなかった者のように。 もしかしたら、サイガもエドガーと同じ気持ちだったのかもしれない。戦乱の頃の自分と、今の自分とはまったく別の存在なのかもしれない、と──。
『仕事場』で話し込むのは嫌だということで、二人は皇帝の間の脇に作られた小さなテラスへ歩み出た。 陽の光が眩しく、小鳥の声が風の音に乗って流れてくる。そういう音楽のように。 「他の大陸の連中も、ずいぶんと様変わりしてやがるぜ? ほら、こないだウチのシェイドと飛天のクラウディアが結婚したろ」 「はっは、式はほとんどクラウディアの一人舞台であったと聞いておる。シェイドは緊張のあまりかたーくなって、仲間の祝辞に返事もできなんだそうではないか」 「そうそう。おかげで飛天の連中にいいとこ全部持ってかれて散々だったんだ。アルマの歌は別格だったけどよ?」 「さぞ楽しい式であったろう。俺も見に行きたかったよ」 遠いところを見つめてサイガは目を細める。知り合いらしい知り合いと簡単に会えなくなって、もう長い。 「──そだ。ウチのコランダムが、サイガにヨロシクってよ?」 「ほう、コランダムが。では戻ったら、俺からも挨拶を伝えてやってくれ」 「アイツとなんかあったのか?」 「随分前に、すこし世話になった。今の世があるのも、あのときのことがあっての上かも知れん」 「あ。それって俺の失踪事件の──」 「おう、そうだ。おまえが皇魔の者に誘拐されてしまったのときのな?」 エドガーは頭が痛くなって溜息を吐いた。 「言い回しがイヤミなんだよ、おまえは。コランダムと何があったんだ? おまえ、あのあとしばらく療養がどうのって、聖龍のジジィどもが真っ青になってたじゃねぇか」 「フフ。己の知らぬところで、俺と誰かにナニカあるのが気に入らんか?」 「面白がってんじゃねぇよ」 「なんだ。ちょっとは妬いてくれておるのかと期待したではないか」 「フツーに言うことじゃねぇぞ、そのセリフ…」 くすくすとサイガは笑っていた。面白半分冗談半分といった感じがするが、本気でサイガがそんなことを言うのもまた妙だと思った。エドガーは自他共に認める 直情型ゆえにサイガへの気持ちを隠しきることができないものだが、このサイガが自分へ向けているはずの想いを、彼は確かめたことがない。 何かと言うとサイガははぐらかし、冗談を言う。ハッキリしたことを言ったと思ったら、その論点はズレていることが多い。天然なのかわかってやっているのかよく判らない。 しかしエドガーも妙だった。直情型、と自分を理解しながら、サイガの想いがハッキリしないことに不快を覚えた記憶はひとつもないのだ。 表層ではない、もっと深くて、もっと違ったところで、ふたりはお互いをきちんと理解しきっているのかもしれない。 エドガーはすこし間を置いた。楽しい気分が笑いになって、完全に消化されるまでを待って。何も知らない鳥が木々の合い間からパタパタと飛び出していく。 「…サイガ、聞いたか? シオンやらセツナやらが、仙人になるってハナシ」 「ああ…聞いたよ。マステリオンの一件を風化させぬように…時代と伝説は、語り継ぐ者を必要とするものであろう」 「またえらくあっさり認めてんじゃねェか。おまえなら、もうちょっといろいろ考えてるかと思ったぜ」 「本人たちが決めたことだろう。それに俺は、自分がその者たちの意思まで統治できるとは思うておらん」 『仙人』になることをあっさり容認するのはサイガらしくないと思ったが、こうして彼の考えを言葉にして聞いてみると、これはこれでサイガらしいなとエドガーは思った。 マステリオンという最悪の存在がこの世にもたらした災害の全てを語り継ぐためには、書物や記録だけでは決して足りないだろう。サイガが言うように、語りべがいてこそ痛ましい記憶は生々しくよみがえり、繰り返そうとする者たちへの歯止めとなってくれる。 すでに何代もの聖龍王を教育してきた仙人も同然のライセンと、その弟子であるシオンはともかく、獣牙からセツナがその役目に名乗りを上げることになるとは、エドガーは思ってもいなかったのだ。 それと同時に、エドガーは彼らに何かを重ねてしまっていた。 仙人として政治より外れ、国ともヒトとも関わらず、戦乱の世を記憶としてだけ抱えて静かに時を過ごしていく、静寂の新たな人生。 それが本当に必要なのは、サイガではないのか、と──。 「おまえはどうなんだよ?」 エドガーは口にしてしまっていた。サイガとは話をするだけで、機会がなければ己の内にしまっておこうと思っていたその言葉を。 「…俺か?」 「そう、おまえだよ」 「珍しいな。おまえがそんなことを聞こうとは」 自分らしくないな、と、エドガーは自分でも思っている。 「マステリオンはアノ状態だろ。皇魔だって完全に滅びたとかいうわけじゃねぇ。いつかまた、あの戦乱の世が来る。そうなったとき……オレらの力は必要になるんじゃねぇのか?」 「そうかもしれんな」 サイガはすっと手を伸ばした。空へと伸びたその指先に、飛んできた小鳥がちょこんととまった。鳥は小首を傾げながら、ピピ、ピピ、と鳴いて羽をパタつかせている。 サイガはそんな小鳥を見つめながら言った。 「もしも、あの頃のような戦乱の世が再び訪れたとしよう。人々が苦しみ、大勢が死に…また、俺たちのように近しい者と刃を交える哀しみを背負う者が現れるやもしれん」 実際にその経験をしているだけに、サイガの言葉は重かった。エドガーだって、あんな思いは二度とまっぴらだ。再びそんな戦争が起ころうというのなら、どんなことをしても止めるだろう。 らしくないことを考えている、と思ってみても、エドガーはあの戦乱を駆け抜けて自分の意識が変わったのだと自覚していた。強さだけを求めて戦うことが子供の娯楽に過ぎなかったことを知り、戦争によって失われるあらゆるモノへの悲しみも知った。 だからこそ、そんな痛みを知らない、知ろうともしない愚か者が、また同じ過ちを踏むかもしれないことに憤りを感じるのだ。 「だがな、エドガーよ」 サイガが彼を振り向いた。ピッ、と声を発して小鳥が飛んでいってしまう。 「もしそんな時代が来たとしても、そのとき俺が居なかったら、それは俺が成すべきことではないのだ」 「…なんだ、そりゃ」 「言葉のままさ。大きなことが起こって、世界が苦難に喘ぐ時代が来るとするならば、それを解決するのはその時代に住む者の役目なのだ」 「……おまえの口からそんなことを聞くたぁ、思ってなかったぜ」 「ああ。俺も昔は、できる者がやればよいという考えであったからな。国の統治に関しては特に、責任や仕事を力のない者たちに押し付けて、逆に苦しめているだけではないのかと憤っていたこともあった。──だが、それは違ったのだ」 そこまで聞いて、エドガーはサイガが何を言わんとしているのかを理解した。さすがに乱世を経験した者として、これで判らないほど鈍くはない。 国、地域、大陸──この単位で考えれば、確かにサイガがかつて感じた憤りは理解できる。しかしこれを時代というカテゴリに置き換えたとき、新しい世界が見えてくるのだ。 力のない者、というのであれば、マステリオンを相手にしたばかりの頃のサイガたちもまたそうだった。マステリオンという存在を知らず、目的を知らず、理由 を知らず、焦り、哀しみ、そして怒るだけだった。戦う術を、その方法を知らず、幾多の犠牲を払いながらゆっくりと、しかし確実な一歩を彼らは踏み出し続け た。 そして今がある。 最初からすべてを知ってすべてをこなせる者などいないのだ。 最初は誰もが無知で、誰もが動揺する。 すべての者は、学んでいきている。 力と知識を持つ者がすべてをすすんで行なえば、無知なる者たちの『学ぶ』機会は永遠に失われることになるだろう──。 エドガーはぐっと拳を握った。サイガの言葉がわからないのではなく、わかりすぎるために。 サイガは青い空を仰いで、言った。 「この世の者たちはもちろん、この先の世の者たちにもまた……これからの世にあの戦乱が蘇るやもしれんのなら尚のこと、民たちには、俺に頼ることを覚えさせてしまってはならんよ」 だからこのまま、先の時代の為に消えようってのか──。 「なんでおまえは、そんな不器用なんだろォな…」 「さあな」 可笑しそうにサイガは答えた。どうやら自覚があるらしい。 エドガーがいま、何を考えているのかも、だいたいわかっているようだ。 「すまんな。こんなバカ者で」 「……べつに…」 気にしてねェ、なんて言ってしまうのは完全に嘘だったので、エドガーは言わなかった。 気にしていないわけがない。これまでも、そしてこれからも、このサイガが自分のために使う時間はほとんどないのだ。平和な世界を求めて戦い、そして今度は平和な世界を維持するために仕事に追い回されるのだから。 サイガ自身がそれを自らのためと思い、満足しているのなら問題外だったりするのだが、エドガーには納得がいかない。 オレはまだ、覚悟なんざヒトツも決まってねェんだぞ。ごく近い将来、おまえを『失う』ことになるなんて──。 「……仕事、戻るか?」 エドガーがたずねると、サイガは大きく息を吐き、伸びをした。 「ああ。あまり長いことさぼってしまっては、アレックスとポラリスが哀れだな」 「しっかしまぁ、あのアレックスとポラリスが二人がかりで必死になっても手が回り切らねェ仕事を、普段はおまえひとりでやってんのかと思うと……」 思わず溜息が出てしまう。 皇帝の間へ戻ろうと踏み出しかけていたサイガは、そんなエドガーの背を振り向いてクッと笑った。 「おまえもやってみるか? 十年なんぞ、あっと言う間に過ぎてしまうぞ」 「時間の単位が違ェだろ、それ」 「そうでもないぞ。俺には、戴冠式のあの日が昨日のことのようだからな?」 想像すると妙にリアルで、エドガーはそれ以上の言及はするまいと身を翻した。 「しょーがねェ。今日はおまえの仕事に付き合ってやるとするかな。どうせあの二人も、やりかけの仕事をパッと引き継ごうなんて思っちゃいねェだろうしよ」 「ほほう、それは心強いなぁ。今日の仕事は早く終わりそうだ」 「終わったら、どっか遊びに行くか? 四人でよ」 「では言い出したエドガーの奢りだな?」 「バカ言うな。皇帝ヘーカのオゴリに決まってンだろ」 「言っておくが、俺は誰からも小遣いなんぞもらっておらんぞ」 「それは威張って言うことじゃねェよな」 バカのような、とりとめようもない言葉を交わしながら、ふたりは皇帝の間へと戻っていった。
どんな話をしているときより、今を一番有意義に感じながら。
END (2007/05/20) |