遠キ日ニ、君ヲ想フ


    1


ミヤビは木登りが大嫌いだった。

お気に入りの服は汚れるし、てのひらもどろんこになるし、何より木の皮が手に刺さったりして痛い。ささくれた木の皮は硬く、ちょっと指先に触れるだけで、思わず手を引っ込めたくなる痛みを発する。

「もう、なんでこんなところをわざわざ選ぶのよ…っ」

ぶつくさ文句を言いながら、ミヤビは洞に足をかけ、更なる一歩を踏み出そうとする。

ズルッ。露に濡れたコケを思い切り踏んでしまった彼女の足が滑った。

「キャアァッ!」

やっ と登った数十メートルを一気に急降下しようとしたミヤビの身体が空中で止まった。ぶらぶらと足が宙で揺れている。まっ逆さまに落ちて地面に叩き付けられる のを覚悟し、身を強張らせていたミヤビは、いつまで経ってもやってこないその衝撃を訝しみ、きつく瞑っていた目をゆっくり開いた。

サワサワと木の葉が揺れている。自分の身体がまだ木の中にある、そう意識すると、右手に引きつるような痛みの感触が戻ってきた。

「危なっかしいな。おまえなら落ちても死なんだろうが」

「サイガ!」

ミヤビに木登りをさせるきっかけを作った張本人サイガが、見上げた先の大きな枝の上から彼女の手を掴んでいた。

陰の隙間からぽつぽつと差し込む太陽の光と、枝の合間を抜けていくそよ風にさらされた彼の青い髪が、木の葉たちと同じようにさらさら揺れる。

「爺やどもに呼び出されて、俺の捜索でも仰せつかったか? ご苦労なことだ」

「そう思うなら、今度からサボりのポイント変えてよね。木登りなんてもうイヤ!」

宙ぶらりんのままミヤビがキャンキャン喚くと、サイガは一瞬きょとんとして、そして次には吹き出して思い切り笑い出してしまった。

「あっはっはっは! アホかおまえは。誰も来られんような場所でするから、『サボり』の意味があるのだろうが」

「アホとは何よ、せっかく探しに来たのに! もう、何でもいいから早く上げてよぉ!」

足をバタバタさせてミヤビが言うと、サイガは少女の腕を掴んだままだった手にぐっと力を入れ、一息に彼女の身体を、自分がいる大枝の上へと引っ張りあげた。

ようやく、地ではないにしろ足場に足がついてほっとしたミヤビは、ぺたんとその場に座り込む。

「あーっ、もういやぁ。膝は破れるし枝は引っかかるし! サイガのバカぁ!」

「そういうことは、俺のおらんところで言え」

微笑ましくミヤビの様子を見ていたサイガの口元がヒクリと引きつる。

「で。こんなところまでわざわざ何の用だ。まさか本当に俺を探しにきただけなのか?」

「そうだって言ったらどうなのよ」

「…察するぞ」

「同情はいいから、はい」

「む?」

ミヤビはサイガに向かって手を差し出した。ここに至るまでにたくさんの枝や洞を掴んだせいで、それはとても女の子の手とは思えないほど、どろどろに汚れてしまっている。

女の子らしく、普段はきれいにと心がけられている彼女の手をこんなにしてしまった責任が自分にもある、そう思うと、サイガは少しだけ申し訳ない気持ちになった。

「…なんだ?」

だが、差し出された手自体の意図はわからないので、サイガは改めて問いかけてみた。

「連れて降りるのよ、あたしを。あたしはサイガを連れ戻しにきたんだから、見つかったら一緒に戻るのが当然でしょ?」

まさに当然のようにミヤビは言った。思わずサイガの顔つきが、苦虫を噛み潰したようになってしまう。

「何よ、その顔」

「まぁ待てミヤビ。せっかく来たのだ、もうすこしここに居てもよいではないか」

「よくないっ!」

「見てみよ。おまえも昔はここから見える景色が好きだったろう」

サイガが右手を持ち上げ、ほら、と促す。やれやれと思いながら指されたその方向を見て、ミヤビはハッと息をのんだ。

遠くに浮かぶ白い雲と、それを乗せる青空、そして眼下に広がる緑に包まれた聖龍の里を彩る青瓦の軒並みが、それは見事なコントラストを生み出していた。

「きれい…」

思わずぽろりと、ミヤビの本音が零れる。木登りをやめてもう何年も、こんな景色を見ていなかった。

「そうだろう」

得意げに答えたサイガの表情が、柔らかくほころんでいるのをミヤビは見た。

普段、城にいるときの彼はこんな顔をしない。それを知っているから、彼女はふと、彼に安らぎを与えるこの場所に、もうすこしだけなら居てもいいような気がしてきた。

昔は男の子たちと一緒になって、この御神木で遊ぶのがミヤビの日課だった。当時はまだサイガも比較的自由に城下の子供たちと遊びまわることができて、友達もたくさんいた。

だが、何の余興か聖龍王の称号を授けられてから、彼は国の政におわれる日々を送るようになってしまった。まだ十を数えて間もない歳にも関わらず課せられた一国の王という栄光が、本来ならば遊びたい盛りの彼に暗い影を作っているのは、誰の目にも明らかだった。

「昔はよかったね」

ミヤビはぽつんと呟いた。

「楽しかったもん」

「そうだな」

サイガは相づちを打った。

「ミヤビ。覚えているか」

「なに?」

「かつてこの神木に、南の魔物が迷い込んで取り付いたことがあったろう」

「あたし、食べられそうになったのよね。討伐には獣牙族がしゃりしゃり出てきたし、あのあとは大変だったわ。先代の飛天王が、頭下げにこっち来て」

「そしておまえは高所恐怖症になった」

「なってないわよ!」

間髪置かずツッコミを入れたミヤビに、サイガが可笑しそうに喉を鳴らす。

「なってたら、こんなトコ来ないもん」

「おお、それもそうだな。俺の思い違いだったようだ」

サイガははぐらかすように笑った。

ミヤビはその場にストンと腰を下ろし、しばらく、サイガの好きなこの風景を、サイガの好きなこの場所で眺めていることにした。

あの日も、こんなふうに天気のいい、清々しい午後だった。


    2


「なぁサイガ、だいじょうぶかな。今朝、師範が言ってたろ」

「南のモンスターの話か? 気にするな、入り込んだのは一匹ぽっち、すぐに『朧』の者が片付けてくれるさ」

少年たちは大きな木を登っていた。聖龍殿を守るようにそびえる巨大な神木の幹に爪をかけ、ひらりと枝から枝へと飛び渡っていく。

「でも討伐隊が結成されてるって」

サイガの背後を追う少年が不安そうに言った。その態度からは、サイガに無理やり引っ張られてきたというよりも、『この事態』の中でサイガと離れてひとりきりになってしまうのが怖いのだということが伺える。

「討伐隊だと? 聖龍殿でそんな話は聞かなかったぞ」

「獣牙族がそうするって言ったらしいよ」

「ほう。さすが力の部族、争いの気配にはどこよりも敏感と見える」

「飛天のモンスターが入ってきたってのに、飛天の奴らは何も言って来なかったのかな」

「…それは知らんな」

サイガは、面倒な部族間の会話から逃げるように、また足場を蹴って上の枝を目指して跳躍した。

たとえ将来は王になる者といえど、サイガはそういう話が大嫌いだった。どこの部族がどうの、あの地方がこうの、だからこれからの方針は──

ただ面倒だというだけではない。何か事が起こったとき、それが起こった場所を統治する国や部族に発生する「責任」というものが大嫌いだったのだ。

何かが起こったのなら、それを治めることができる者が立ち上がればいい。わざわざ力のない者たちや意識の薄い者たちに、おまえらが責任者だからと義務を押し付けてしまうのではなく、やれるものがやればいいと彼は思っていた。

義務だ責任だと、できないことや無理を押し付けようとするから反発が起き、ゆくゆくは大きな混乱へと変わっていく。国を統治する者としてあるまじきことだと長老衆は怒り出すかもしれないが、持たざる者たちは持つ者たちに守護されて当然なのだと考えている。

それが本来の、聖龍をはじめとする四大部族の存在意義のはずなのだから。

「早いこと用件を済ませて戻らねばな。どんな事態であれ、長く留守にすれば大目玉をくらうのは間違いあるまい」

「ああ、そうだよサイガ。こんな日に、わざわざこんなとこに来ようなんて、どうしたんだ?」

「探し物をしているのだ」

タッ、とサイガの足が大きな枝を捉える。

「すぐに見つかると思っていたのだが…やはり、そうもいかんようだな」

溜息を吐きながら、サイガはその場にどっかり腰を落とした。

枝葉の間から、慣れ親しんだ里が小さく見える。時として、その大きな影が聖龍の里を覆い隠してしまう神木の枝から見下ろす風景は、絶景以外の何物でもない。

モンスターの侵入によって里自体は騒がしいものだが、こうして高い場所から見えるものには何ひとつの変化もない。

視点がちょっと変わるだけで、見えるものもこれほど変わるものなのか。

「…仕方ない、続きは討伐が完了してからにしようか」

独り言のようにサイガがそう呟くと、待ってましたとばかりに少年がウンウンと頷いた。

「そうだね、そうだねサイガ。危ないことして、サイガに万が一のことでもあったら大変だもんな」

モンスターが野放しにされている以上、里そのものが危険地帯と言っても何らおかしな話ではなく、ならばどこにいたって同じことだとは思うのだが、ただでさえ不安がっているこの友人にそれを言って、これ以上恐怖のどん底に突き落とす理由は、サイガにはない。

親元にいて危険の経過を待つことが、今は何よりの安全だ。それはサイガ自身にも言えることだった。

「では戻るか…」

そう言ってサイガが立ち上がろうとしたときだ。

「きゃあ───っ!」

遥か足元から悲鳴が聞こえた。耳をつんざく、高い少女の悲鳴だ。

「ミヤビか!」

サイガの脳が、すぐにその声の主を判定した。だが彼らが枝から飛び降りるよりも早く、何かが地面の方向から神木の頂上目がけて飛翔していった。

目にも留まらぬようなスピードだったが、サイガはその一瞬ではっきりと見た。

紅い鳥の姿を。血のように紅い羽毛に包まれた巨大な鳥が、そのくちばしでミヤビの胴をしっかりと捕まえているのを。

「ひぇぇっ!」

足元から叩き付けられた風の衝撃波にあおられて少年がすっ転ぶ。単にバランスを崩しただけではく、腰が抜けたせいでもあるのは明らかだった。

「ミヤビ!」

「サイガぁ!」

サイガの呼びかけにミヤビが答える。どうやら、見えない部分の肉をごっそり抉られたあと、という訳ではないようだ。

怪鳥は新しい獲物であるサイガたちの姿を見つけて、まっすぐ空へ向かうところをクルリとターンした。金色の毒々しい目が獰猛な光を放っている、それは相当なレベルの上級モンスターであることを如実に物語っていた。

くわぁぁぁぁ! 下手な爆発などよりよっぽど強力な音波を、怪鳥の喉がまき散らす。恐らくはサイガを威嚇するためなのだろうが、そのとたん、ぽろっとミヤビの身体が宙に落ちた。

その瞬間をサイガは見逃していない。素早く走り出して鳥の足元に滑り込み、落ちてきたミヤビを抱きとめる。

「ミヤビ、無事かっ」

「だめ、サイガ! うしろっ!」

ミヤビがサイガの頭の向こうを見て悲鳴を上げた。

振り向いたサイガの目に映ったのは、視界いっぱいに迫った怪鳥の巨大な脚だった。

このまま時が止まってくれればどんなにいいか、と願ったのは刹那の話で、次の瞬間には、ドン、と背中に鈍い衝撃が突き抜ける。

サイガはミヤビの前から蹴り飛ばされて、神木を揺らす勢いで幹に叩き付けられた。

『サイガ!』

連れていた少年とミヤビ、二人分の悲鳴が重なる。

「ぐうっ…!」

サイガは呻いた。背骨がイカレなかったのは何よりの救いだが、尋常ならぬ力で打ち付けられた全身がいうことを聞かない。腕や足がしびれているのは、神経伝達が鈍っているせいだ。

「おのれ、こんなモンスターごとき…」

枝の上にへたり込んだ身体を起こさんとして、サイガは幹に手を伸ばす。

ガッ。無作為に掴んだ小さな枝に違和感があった。

「…!?」

じわりと掌が熱くなる。一度も経験がないのに、それは炎を掴むような感覚だと思えた。

『──抜ける』 何故か、そう感じられた。

掴んだままの手に更なる力を込め、サイガはその枝を幹から引き抜くつもりで立ち上がり、強く引いた。

ずっ、と小枝が動いた。動いたそこが眩しく白い光を放つ。

サイガだけではない。ミヤビも、少年も、そしてモンスターさえも、突然の異変に何もかも忘れて見入った。

もうひとつの太陽がそこにあるような輝きをまとって、引き抜かれた枝は剣になった。一本のすらりと伸びた刃の中に、連れ子のように七つのカエシが浮き出ている。サイガの身の丈ほどもある大きな剣だった。

「これは…?」

くぁぁぁぁぁ! 怪鳥があげた雄叫びによって一同は我に返った。剣から放たれていた光は失せ、それが合図であったように周囲の金縛りが解ける。

使えと言わんばかりのタイミングで現れたその剣を握りしめるサイガに向かって、怪鳥は鋭いくちばしで再び襲い掛かってきた。

まるで、あってはならないものをがむしゃらに否定するように。

──やるしかない。だができるのか、俺に。

「うおおぉぉぉぉっ!」

構うものか! サイガはそう叫んだつもりで吠え、剣を横薙ぎに振るった。当たるのがボールであったなら、きっと文句なしのホームランであろうフルスイングだ。

手応えは驚くほどなかった。サイガを跳ね飛ばすと思われた巨大な鳥は、獲物から大きく外れたコースで神木の茂みから空中へと飛び出した。くちばしの端から、胴をきれいに二枚に下ろされて。

しばらくの間を置いて、遠く足元の地面で、肉が大地に打ち付けられる音が響いてくる。

「…すげぇ」

呆然と、ミヤビの肩を抱いていた少年が呟く。

サイガは鈍い着地音がした方向へ目をやった。信じられない。あんな化物を、自分がこの手で斬り捨てたなんて。できることなら年寄りたちへの自慢話にでもしたいところだが、下手なことを言えばゲンコツが飛んでくるかもしれなかった。

ひどく精神が高揚して、荒い呼吸が落ち着かないサイガの指先ががくがくと震えている。かなりの興奮状態であることが自分でもよく判った。

「サイガぁーっ!」

どのくらいの時間を、そうして沈黙ですごしたかは判らない。

しかしミヤビが、とうとう堪え切れなくなって走り出し、未だ自我を取り戻しきれないサイガに飛びついてわんわん泣き出した。しがみついてきた少女からふわりと漂ったいい匂いが、次第にサイガの心を落ち着けていく。

「サイガ、サイガ、よかったよぅ…あたし、もうダメなんだって…」

「……縁起でもないことを言うな」

サイガはミヤビごとその場に座り込み、泣きじゃくる少女の頭をポンと撫ぜた。指の硬直が解けて、剣がカランと転がる。

その剣に、先ほどの異質な時間に気を取られたのはほんの一瞬で、サイガはすぐに、目の前でまだ泣いている現実に目を戻した。

「すまん。この騒ぎではもう、髪飾りは見つけられまい」

「そんなのいいよ、もうっ」

ミヤビはぶるるっ、と首を振った。

「ごめんね。ごめんねサイガ…あたしがあんなこと言ったから」

「なに、気にするな」

サイガは目を閉じた。

「こうして皆、無事だったのだ…」

過ぎたことだ。今はただ、こうして互いの存在を確かめ合いながら、大人たちが見つけてくれるのを待てばいい。

最悪の事態は、もう過ぎ去ったのだから。


    3

「今思えば、よく生きてたなーって思うのよね」

ミヤビは溜息混じりに言った。

「七支刀が出て来なかったら、あたしたちみんな殺されてたわけじゃない」

「そうだな」

サイガは苦笑いを浮かべた。幼い日の自分の至らなさを恥じる念が強いように見える。

「なんだかまるで、サイガが七支刀を手に入れるために、用意されてあったような出来事よね」

「ほう。やはりミヤビもそう思ったか?」

「あ、サイガもそう思ってたっ?」

いそいそとミヤビが振り向いてみると、立ち尽くしたままのサイガは腕を組み、急に嬉しそうに自分を見上げてきた少女に視線を投げかけている。

サイガは小さく息を吐くと肩の力を抜き、コキッと首を鳴らした。

「だが、七支刀を手にした瞬間のことはもう、何も覚えておらん。頭の中は真っ白だった」

「それが当然よっ。すごかったんだもん、あのときのサイガ。龍王っていうより、龍神って感じで」

「そんなことを言うても、何も出んぞ」

サイガは複雑な表情で眉を寄せた。

「それに…それに、ね」

ミヤビは立ち上がると、サイガに背を向けてパンパンと自分の腰をはたいた。

「あのときのサイガね、すごく…すっごく、カッコよかったんだから」

真正面から顔を見ていてはとても言えないセリフを、ミヤビは背を向けたままで言った。それでも十分に照れくさかったが、ずっと思っていたことだったのだから、今の機会に言ってしまおうと思ったのだ。

「……そうか」

ミヤビの背に、ぽつりとそれだけが返ってきた。

ちらりと肩越しに見てみると、彼は紫暗の襟巻きの中に深く口元を埋め、あらぬ方向に顔を逸らしている。

「コドモみたい」

ミヤビはクスッと笑った。

「なにっ」

「何でもない。そろそろ戻ろ? 本当に、長老衆のゲンコツじゃすまなくなっちゃうわよ」

「…む。それも困るな…戻るか」

何を想像したのか、サイガは言葉の通り、本当に困ったような顔付きをして里の方角──特に聖龍殿がある方を見やった。

「先に降りるねっ、じゃっ!」

「おいこらっ、ミヤビ!」

ひらりと空中へ身を躍らせたミヤビに、虚をつかれたサイガの焦る声が飛ぶ。

「連れて戻れと言うたのはおまえだろうが!」

ガサッ、と枝葉がこすれる音が続く。ミヤビは心地好い緑の匂いの中を急降下しながら、目を閉じて思った。


──さっきの今で、そんなこと頼めるワケないでしょ。


                            END(2005/03/24