星空の



「よろしいでしょうか、サイガ様」ショウが嬉しそうに言った。「回復魔術の構成について、ぜひご教示頂きたいことがあるんです」

「魔界に来てまで勉強熱心なことだな」サイガは、感心するというより苦笑いに近い表情で言った。「どれ。俺に解ることならば答えよう。何でも聞いてみよ」

「あっ、ショウだけずるい、私も」と、シズクが言いながら彼らに近付いていく。「ねえサイガ様。私、合成術の勉強中なんです。味方を防護壁で守りながら、内側で治癒を行なうための魔力の配置を──」

 魔界の森で迎える何日目かの夜だった。

 凶暴な原生動物とたびたび戦うことこそあったものの、進捗は極めて順調であった。高位の魔物がうろつく危険性を考慮したオウキの判断で夜間の進軍は見送られており、この間は事実上、夜営の中でのみ夜明けまでの自由時間となっている。

 ショウとシズクはその日の任が解けると、待っていたようにサイガのもとへ集まっては昔話や魔術の実演を乞うた。このふたりは光の戦士の中でも特出して座学に長けた優等生であり、此度の光龍帝との同行をまたとない学習のチャンスとしていたのだ。

 旅立ちの日にライセンより目的地として指示された幻惑の塔は近い。だからこそ夜明けを待たず薄明とともに発つ予定である以上、早々に休むのが良いに決まっているのだが……ショウとシズクは楽しそうな談笑を交えながら、サイガとの勉学に余念がない。

「…………」

 そしてその様子を見ているリュウガは、ひとつも面白くなかった。

 組んだ胡座の上に頬杖をつき、その面白くもない光景をただ見つめている。

(なんだよショウもシズクも。サイガはオレが最初に見つけたんだぞ)

 それはやきもちにも近い感情だったのだが、未だ幼いリュウガの意識はむしろ、お気に入りの場所や所有品を勝手に使われた時に感じるような、子供じみた独占欲のほうが強い。けれどまだ自分を客観視できない彼には、そんな自分の心境分析などできはしなかった。

「オイ、リュウガ。おまえ、今すげェブサイクだぞ」

 隣にやってきて座ったタイガがそんなことを言うから、リュウガは睨むようにそちらに顔を向けた。ほら、と目の前に差し出された保存食の干し肉を礼も言わずにむしり取り、苛立ちを噛み潰すように口に運ぶ。

「なんだよ」リュウガはつっけんどんに言った。「おまえはサイガに声かけに行かないのか?」

「なんでだよ」タイガは必要ないとばかりに言った。「オレは光龍帝の戦い方を『見たい』んであって、教わりてぇわけじゃねぇよ。それにアイツ、下級皇魔との戦闘じゃ前線に出て来もしねェんだから、学びようもねェし」

  この森に入ってからというもの、近辺をうろつく下級というのか下等で攻撃性ばかり強い魔物の相手はもっぱらリュウガたちの仕事で、サイガやオウキはほとんど後列に下がっている。力を持つ者が率先して前に出ることで未熟な者が未熟なまま進歩できない危険性を考慮したこのスタイルは、光の戦士の間では極めて基本的な戦闘陣形であり、現在の神羅連和国が構える教訓のようなものであった。

 別にそういったものに不満があるわけではないし、常にサイガと肩を並べていたいというのでもない。どちらかといえばリュウガの意識はその真逆で、彼は戦闘が終わって振り向いたときにサイガが無事でいてくれて、そして目が合ったときに「よくやった」と笑ってくれればそれでいい。彼を守りながら戦う今の状況にはむしろ満足している。

 ただ、平和な神羅国でライセンやシオンに守られ、またオウキに見守られながらどこか安全な戦いしかしてこなかったリュウガにとって、サイガと出会ったあの日の戦いは──それに伴った様々な感情は恐ろしく新鮮で、そして鮮烈なものだった。

 苦痛、疼く熱と死にゆく寒さ、それに伴った虚無にも近い恐怖──あんなものが、いつかサイガにも及ぶかもしれないなんて冗談ではない。自分の親兄弟を守るほどにも……否、まるで自分自身を守るかのように、彼はこの魔界で、率先して前線の中心に立って戦ってきた。

 それだけでいい、はずなのに──。

「仏頂面しやがって」タイガは言った。「おまえにしちゃあ珍しいじゃねェか。実はおまえのほうこそ、光龍帝に教わりてェことが山ほどあるんじゃねェのかよ?」

「べつに、そういうわけじゃ……」

 固い肉をかじりながら答える言葉の調子が異様に陰険で、リュウガは苛立っている自分を意識しては自己嫌悪を覚え、より気分が暗くなる悪循環を意識していた。仲間に迷惑をかける前にこの感情を払拭せんと努力するものの、それがまったく成功していないのも、わかっていた。

 彼がわかっていないのはただひとつ、自分が不機嫌になっている理由だけだ。

「ほーぉ、じゃあナニか」タイガが思いついたように、にやついて言った。からかうように、何の気なく。「近ごろ光龍帝が全然構ってくれねェから、淋しいんだろ」

「な──」

 そんなわけないだろ、と、軽く言い返せるつもりだった。

 だがリュウガは、そのときカッと頭に血がのぼってしまい、弾かれたように立ち上がっていた。

「何言ってんだ! そんなんじゃないっ!!」

 彼が張り上げた怒声に、傍にいたタイガはもちろんのこと、ショウもシズクも、サイガも驚いて振り返った。ただ離れたところで樹木に背を預けたオウキだけが、目を閉じたまま何事も聞こえていないように沈黙を守っている。

「……どう、したんですか? リュウガ」ショウが言った。探るように、静かに。

「あ、いや、なんでも……」

 答える言葉が曖昧になる。リュウガの怒声を誰より一番驚いていたのは、リュウガ自身だった。

 故にしまったと思うことはなく、言い繕おうにも頭が真っ白で何も浮かばない。居た堪れない沈黙の中で、彼は気まずさを堪えて再びその場に腰を落とす。

 そんな大声上げたつもりはなかったのに──つい俯いてしまうリュウガに、横からすっと手が伸びてきた。

「え?」なに、と気付いたリュウガが、手の主──タイガのほうへ首を回す。そのとき彼の頭の上で、その髪を束ねていた紐がぷつんと切れてしまった。爪が引っかかったのだ。

「あっ」解けた髪を捕まえようとしても今更だ。リュウガは文句を言った「何すんだよタイガッ」

「あー、わりわり」タイガはどこか乾いた笑い交じりに、手をひらひらさせながら言った。「ガラにもなく落ち込んでやがるから頭でも撫でてやろうかと思ったんだけどよ、いきなり振り向くから引っかけちまったわ」

「誰が落ち込んでるって!?」かちんときたリュウガが身を乗り出して言い返す。「っていうか余計なお世話だ、子供じゃあるまいしっ」

「うっせーな! だからそうやって血がのぼってるところがガキだっつってんだろ!」負けじと顔を突き合わせたタイガが怒鳴った。「わかったらとっとと顔でも洗って、頭冷やして来やがれっ」

 完全に正論すぎて、まったく言い返せなかった。

 感情に走って和を乱すことこそ、調和をもって規律とする光の戦士としてあるまじき行為。幼いころからこれでもかとライセンに叩き込まれたその教えを、戦地にも等しいここで忘れるほどリュウガとて短絡ではない。

 彼は大きく息を吐くとそれ以上の言葉は口にせず、茂みの向こう側にある川辺へと引っ込んでいった。


 夜営の中でのこととはいえ、仲間らと離れた場所で長く過ごすのは決して得策とは言えない。オウキやサイガがいるとはいえ万一の有事に備えて皆が揃っているべきなのは頭でこそ解っているものの、リュウガはなかなか戻ることができないでいた。

 気まずいということもある。だがそれ以上に、サイガの前に戻るとなると足が竦むのはどうしたことだろう。

 大きな声をあげてしまったとき、彼は驚いてた。せっかく楽しそうに話をしていたのに、自分の感情ひとつでその時間を壊してしまった──今更のようにそういった罪悪感に苛まれる。

 どうせ茂みひとつぶんの距離だ。今日はこのまま、ここで眠ってしまってもいいかもしれない──。いろんなことを諦めかけていたリュウガの後ろで、がさりと茂みが揺れた。

 リュウガは振り向かなかった。どうせまたタイガか、そうじゃなきゃショウだろう──そんな予想をしながらじっと膝を抱いたまま、隣に誰かが座ったけれど、視界に入れないようにした。

 それは何も彼が意地を張っていたわけではない。単にそうする気になれなかっただけだ。だがそんな彼の無気力な意識は、声を聞いた途端に跡形もなく消し飛んだ。

「見てみよリュウガ。星が見えるぞ」

 驚くというよりはむしろもうギクリとした感のほうが強い。リュウガが弾かれたように顔を上げてみると、隣に居たのはサイガであった。草地に手をつき天を仰いでいたその横顔がこちらを向いて、静かに笑う。

 まったく普段と変わらない、つい今しがたの何も気にしていない顔だった。

「な、なんで──」リュウガが言った。

「何故、とは、また難しい質問だな」サイガは言った。「せっかく晴れておるのだから、共に星を見ようと思うただけのことだよ」

「星……?」

 言われるままリュウガは顔を上げ、頭上に広がる空に視線をやる。

 そこには、地上で見るのと何ら変わりない満天の星があった。だがライセンやシオンに教わった星座や輝星などの位置に違いがあるから、まったく同じというのではなさそうだ。魔界へ入ってすでに数日、彼がこのようにして空を仰いだのは初めてのことであった。

 もっと言えば、彼は気付かなかった。魔界にも『空』があることに。度重なる戦闘や、仲間やサイガ──目の前のものばかり気にかけすぎて。

(……すごい。魔界にもこんな空があったんだ)

 規模が大きなものを目の当たりにすると、自分の存在をいやに小さく感じる。人々は古来より自分や世界に嫌気がさすと天空や自然を仰ぎ、自身をそこに同化させて、己の小さな手に負えぬ感情を四散させてきた。

 今のリュウガも然りであった。無数の星屑の瞬きの中で、さっきまでの胸のざわめきが波のように引いていく。

 つまらないことで苛立っていたと、リュウガは反省した。

 サイガはここにいる。それだけで充分じゃないか──。

「……サイガ」

「うん?」

「ごめん」

「それを言うべき相手は、俺ではなかろう?」サイガは面白そうに言った。

「い、いいんだよ、あんなヤツ!」誰、と言われなくても判っているリュウガは、つい焦って怒ったように言った。「あいつとはいつもあんな感じなんだから、どうせ何とも思ってないに決まってる」

「……そうかな? あやつはおまえのことを好いておるよ」

「へっ?」

 いきなり何を言い出すんだ、とばかりにリュウガは目が点になった。そんな彼を見て、サイガは小さく笑う。懐かしそうに、嬉しそうに。

「それにおまえもだな? そのように取り乱すということは、何かしら引っ掛けた情が残っておる証拠だぞ」今しがたの言葉を無かったことのようにサイガは言った。「未練は心にひずみを生む。早いうち解消するに越したことはなかろう」

「う……」

「己の非を認めることに慣れよ、リュウガ。そして相手の非を許し、受け入れるのだ。我ら神羅の民が目指す『調和』を成すは許容と寛容、その真意は、いかに『己』との折り合いをつけるかにある」

「……はい」

 リュウガはつい、神妙に縮こまってしまっていた。

 タイガとの衝突に因して、ライセンやシオンからこうした説法を受けたことは多々あったが、今ほど申し訳なく思ったのは初めてだ。

 それはやはり、言葉の主がサイガだったからなのだろう。

「よし。解ったならばそれでよい」

 サイガはひとつ頷き、リュウガの背を軽く叩いた。

 そして先に立ち上がると彼を振り向き、ほら、と手を差し伸べる。

「さ、戻ろう」

 月の無い夜闇の中だというのに、サイガの姿は髪の先までもはっきりと浮き立って見える。誰もが揃って称賛する月光の如き髪の美しさは言うまでもなく、見る者の心をさわめかす朱殷の瞳はテラスのそれをも超える慈悲を宿す。彼がこの眼差しを獲得するまでに、どれほど凄絶な経験をしてきたのか想像もつかない。

 手に手を重ねる瞬間、伝わってくる温かな感触。リュウガはこの手を、絶対に離したくないと思った。

 世界はここにしかない。ずっと、ずっとこうして手を繋いで、一緒に歩んでいけたら──。

「サイガ」

「ん?」

「……なんでもない」

「そうか」

 サイガは、どうした、とは聞かなかった。

 聞いてほしいわけではなかったから、それでよかった。

 守るよ、サイガ──。

 リュウガは目を閉じ、主君に誓う騎士のようにかつてなく真摯な気持ちで思う。


 どんなことがあっても、サイガのことはオレが守るよ──。


 茂みひとつを越えるまでの短い距離を、ふたりは手を繋ぎ合って戻っていった。

 リュウガはこのとき、この時間が、この関係が永遠に続くのだと、信じて疑ってもいなかった。




                            To be contonued...(2016/06/25)