ふと気付いたら、リュウガはその光景を見つめている。

 街へ買い出しに出かけた時。

 中央へ集会に呼ばれた時。

 仲間との会合のために各大陸へ出向いた時──。

 それは、仲睦まじく、寄り添い合って歩く若い男女の姿。

 男が女の肩を抱き、いたずらに耳元で何か囁いていて。

 女がくすぐったそうに、嬉しそうに受け入れて。

 そうして、彼らは口付けを交わす……どこにでもある光景かもしれない。

 ただ、たびたびリュウガの目に停まるその者らには、総じて恥じらいという概念が無い。人が見ているかも知れない通りの傍で、あるいは少しばかりうらぶれた路地の裏で、彼らの交わす行為は徐々に激しさを帯びて、小さく声が漏れるほどになっていく。

 リュウガ、と離れたところで師に呼ばれ、彼はいつも我にかえる。慌ててもとの道へ駆け戻ると彼らに謝って、時に笑ってごまかしたりする。

 そして、彼は歩きながら考えるのだ。

 どんな感触がするんだろう──。

 その光景を思い返して、ぼんやりと開いた自分の唇を指でなぞる。

 触れてみたい。欲求は強くなるけれど、記憶の中にいる男女らは常に白い眼で見られ、あるいは自ら人目を避けていた印象ばかりが強く、だからいつもリュウガは胸にわきあがる背徳的な罪悪感に駆られるまま首を振り、邪念のようにそれを打ち払ってきた。

 いけないことなんだ。悪いことなんだ──。誰に教わるより早く、リュウガはそう思い込んでしまった。

 自身による過剰なまでの抑圧。物理の世界において、それがあらゆるものの正しい形を歪めてしまうことさえも、彼は知らないままだった。


 ザワリ。

 嫌な音を聞いた気がして、リュウガは目を覚ました。

 周囲の闇の深さから見て、時はまだ夜明けに遠い。

(何の音だ? 今の)

 今の一瞬で睡魔など完全に払拭されたリュウガは、辺りの気配を探る。

 それは、大勢の虫が一斉に這うような音だった。だが壁の隅、天井の際、壁や障子に至るまで、どこにもそれらしいものは見えない。夢の中の出来事だったのだろうか──。

 ザワ。

 リュウガはハッと振り返った。確かに嫌な音はもう一度した。彼はついに寝床を這い出し、自室の外へと歩み出る。

 肌寒い夜だ。表皮ではなく、肉の内側から冷え込む感がある。リュウガが身震いしながら戸口のところまで出てきたとき、ふいにそこを歩いていく人影が見えてギクリとする。

(……サイガ?)

 開いた戸口から射し込むのは、眩いほどの月明かり。白い光に照らされて、サラリと輝き揺れた蒼い髪は師のものではない。夢遊の病でも持つように静かに、しかしどこかおぼつかぬ足取りで、サイガの背は母屋から離れていくところだった。

  何やってるんだ、こんな時間に──。リュウガは履物も忘れてその背を追った。サイガはまるでリュウガから逃げるように、母屋に隣接した修練場へ入っていく。まだ幼かった頃、仲間の誰かに「ユーレイ」なるものの噂話を聞かされて恐怖に震えた記憶がよみがえり、あのサイガの背は、実は本人ではなくて──? などと要らぬ想像が頭を巡るのを彼は打ち払った。

 扉のない戸口の陰から、中をうかがう。

 サイガは板の間の真ん中に立っていた。明かり取りの格子窓から射し込んでくる月光を浴びて、その光が降る切り取られた夜空を、故郷に思いを馳せるように見上げている。

 ──美しい横顔だった。

 リュウガは息をのみ、その姿に見入った。

 初めてサイガを見つけたときの、あの不可思議な畏怖が再び胸にわく。ここにいたのがライセンであったなら、あるいはシオンであったなら、彼らは畏れるままに息を殺し、静かに身を引いて床へ戻ったことであろう。

 だが、リュウガは。

 ごくりと固唾をのみ、あろうことか彼は中へ一歩踏み出していた。

 ギ。床材の板が、その体重を受けて小さく音を鳴らす。

 そのときサイガが振り向いた。素早く、ハッと驚いたように。刹那その顔にちらついた鬼気迫る色は、隠れていたところを暴かれたようであった。

 一瞬とはいえ自分に向いた明らかな恐怖、焦燥、戦慄。それを意識した時、リュウガはぞっと背筋が逆立った気がした。

「なんだ」サイガは言った。「リュウガか。脅かすでない」

「ご、ごめん」リュウガは謝りながら、彼の前へ歩いて行った。「どうしたんだ? 眠れなかったのか?」

「いや」と、サイガは少し視線を落とし、困ったように言った。「ちと、夢見が悪うてな」

「夢……?」

 皇魔の上位者二体を相手に戦闘する能力を持ち、かつてはその皇魔との戦争を終結に導いたこのサイガを、いったいどれほどの夢がこれほどまでに脅かしたのか。リュウガは心底不思議に思いながら、何気なく彼の一瞬前の表情を思い返した。

 ……じんと胸が痺れる。

 それは痛みにも近い感覚だ。リュウガはその痛みを拳で潰すようにしながら、それが、自分がサイガの胸中を慮った同情的なものから来ているのだと錯覚した。

 ──ザワリ。

 リュウガはぎくりとした。

 同時にサイガの表情も強張った。

 とうに聞こえなくなったはずのあの嫌な音が、また聞こえたのだ。

 けれどそれは、もうはるかに遠いところからのもので。以降、リュウガがいかに耳を澄ませどサイガが気配を殺せど、どこからも聞こえなくなってしまった。

 悪夢が去った感覚。リュウガは今、初めて目が覚めた気がしていた。

 と、ふいにサイガがよろめいた。

「サイガッ」

 リュウガは慌ててその身体を支えた。サイガは腰が抜けたようにその場に崩れ、寒さに耐えるように己の身をかき抱いている。光度が足りず目視には至らないが、触れた肌を通して、明らかな戦慄が伝わってきた。

 心配……しなければならないところなのに、リュウガは声をかけられなかった。

「……っ」

 口元がゆがみ、サイガは悔しげに奥歯を噛んだ。この者にだけわかる何かが、あの音にはあったのかもしれない。

 リュウガでさえ、あの音は嫌なものだと直感するくらいだ。あれがもっと傍に来ていたら、もしその正体が万一にも目の前に現れそうなことになったらと思うと、そこから先は想像だにできない。身の毛がよだつとはこのことだ。

 けれど。

 リュウガもう、もっと違うものを見て、もっと違うことを考えていた。

 冷たい月光の下で見るサイガの姿は、壮麗と称して通る。その見たこともない表情、見たこともない感情、聞いたこともなかった吐息の音──何もかもを、今よりもっと近くで、もっと傍で感じられたら。

 この美しい者が、オレのものだったら……。妄想にも近く、切実にリュウガは思った。 


 ああ。触れてみたい──。その欲求が、首をもたげる。


「すまぬ、リュウガ……」重い吐息とともに、サイガは言った。「見苦しいところを曝して──」

 そのとき、一歩どころか、身体ひとつ分ほどもずいと距離を縮めてきた相手に驚き、サイガの言葉が中途で停まる。その一瞬の空白、リュウガはサイガの唖然と開いた唇にキスをした。

 わずかな間を置いて身が離れたとき、サイガは何が起こったのか判らず呆然としていたが、リュウガもまた呆然とサイガを見ていた。

 今まで知りもしなかった多くの感触が刺激となってリュウガを貫いていた。触れ合った髪の柔らかさ、ただ近付くだけでは判らなかった相手の匂い、漏れる息の音、直の体温。手に伝わる、肌の温もり。

 気持ちいい──。それは考えて行き着いた答えではなく、完全な直感だった。

「なにをするリュウガ、……こら、やめんかっ」

 文句など聞こえない素振りで、確かめるようにもう一度身を寄せようとしたリュウガを、サイガは慌てて取り押さえる。だが周囲への影響を配慮してか、声は極めて控えめだ。彼のそんな態度からにじむ内密性や自粛性に、異様に心を掻き立てられるのはどういうことだろう。

 思えばさっきから自分はそうだった。

 ここでサイガを見つけたとき、誰もが退く場面で踏み込みたい衝動に駆られた。

 サイガが崩れたとき、誰もが心をかける場面でそれをしなかった。

 彼は踏み込んでみたかったのだ。神聖なものに、土足で。

 彼は見たかったのだ。誰かが何かに脅かされ、怯えるその様を。

 師や仲間の教えに従って、今まで当たり前のように正義をふるい、あらゆるものを守ってきた反動なのかはわからない。けれどよりによって今、彼は気付いてしまった。

 背徳を犯す行為へ、昏い悦びを感じている自分に──。

「待て、リュウガッ」

 こうなったら相手の抗議などBGMも同然だ。距離を作るべくサイガが伸ばした手を無造作に捕えて、リュウガはその身を床の間へ押し倒すともう一度唇を重ねた。

 今度はもっと強引に、もっと深く。

 サイガからは柔らかな風の匂いと清らかな水の味がして、今それを組み敷いているのが自分なのだと思えば背筋が逆立つほど気分が好い。リュウガは抵抗が割って入る隙間もないくらい自分の身で相手を床に押し付け、逃れようとする首を掴んで思うまま口内を蹂躙した。

 タガが外れたように、もう一度繋がりたいと求める自分を抑え切れない。押し殺し続けてきた欲求がやっと満たされそうなこのとき、リュウガは極度の興奮状態に陥り、空気の肌寒さを涼しく感じたほどだ。

 けれど──。

「……?」

 ようやく身を起こしたリュウガは、違和感を覚えていた。

「……満足したか」

 乱れた息を整えようとしながら、サイガは言った。散々噛み付かれ、絡みつかれ、吸われた舌がうまく回らないのか言葉はかなり舌っ足らずだ。逸らした顔が、口元に置いた手がこれ以上の接触を危惧し、拒んでいるのは明白だ。その手を掴み取り、ねじ伏せるのも悪くはない。

 だが、何か足りない。

 サイガの肩を掴んでいる手は熱い。自分の体温もそうだが、サイガの身体も同じくらいの熱を持っている。触れれば触れるほど欲求は解消されていくはずなのに、この熱は高まるばかりで、一向に満足できないのはどういうことか。

 持て余すばかりで、どうすればよいのかわからない。

 リュウガはまだ知らないのだ。

 サイガが危惧する領域を。

 この先、を。

「──許せっ」

 相手が惚けた一瞬をチャンスと見たか、サイガが手を伸ばしてリュウガの首を掴んだ。

 ばちんっ。

 的確な力加減でその手から撃ち込まれたのは、彼がその身に宿らせる電撃だった。衝撃は瞬く間に延髄へ至り、リュウガから速やかに意識を奪う。

 倒れたリュウガはサイガに抱き留められたが、彼はその感触を覚えていなかった。


 この夜のことは、彼の記憶に残らなかった。




                                END?(2016/06/11)