二人の征く手に、は在りて



『……サイガ……』

 聖龍石の中で、ひとつ、黒い鼓動が波紋を打った。

 これまで、その者は意思を紡ぐことさえできなかった。思考と呼べるものは常に引き裂かれ散り散りであり、いくつかが偶然にまとまることこそあっても、すぐにまたもとの『無』として霧散する。

 そんなことを何度繰り返したあろうか。

 数十年、数百年の虚無。

 そして、時は巡る。

 千年を数えたそのとき、その者は、自分の『意思』が在ることに気付いたのだ。

『サイガ……』

 闇の意識は声となり、形をもって外側へと放たれていく。

 はじめは国を越え、次に空を越えて、それはついに時をも超えた。

 その意志は高い空から現れ、急速に降りていった。山が近付き、海が迫り、その中にぽつんと浮かぶ中央都市が近付いてくる。

 そこにいる。その者は知っていた。黒い落雷にも等しく、その者は皇帝宮に飛び込んだ。

 異変を察知したサイガが振り向いたときには、もう遅かった。

『見つけたぞ、愛しいあなた。──サイガ!』

 ぞっと身が震えるほどの、闇の歓喜。

 次の瞬間、サイガは瞬く間に大きく広がった闇に抱かれ、意識を失った。


 中央都市、皇帝宮。

 皇帝テラスからの緊急招集に応じたライセンとシオンが、リュウガを伴ってそこを訪れると、内部は戦場のごとき慌ただしさでごった返していた。

 突如として世界各地に出現した高位の魔物たちによる被害報告はあとを絶たず、担当官たちは続々と到着する伝令を処理しきれず泣きそうになりながら廊下を走り回っている。出迎えの衛兵たちはそんな彼らを憐れみながら、ライセンたちを皇帝の間へと案内した。

「おそれながら、ライセン殿。そちらの方は……?」

 衛兵がそう言いながら視線をやる先には、ライセンとシオンの背後に控え、リュウガに並んだ見慣れぬ者の姿。──サイガであった。

「わたくしは、サヤと申します」衛兵に深く頭を下げ、サイガは言った。「身寄りのないところをライセン様に拾われ、お世話させて頂くようになって未だ日の浅い新参でございます。どうぞお見知りおきを」

「さ、左様でしたか。これは失礼を」

 衛兵は背筋を伸ばし、サヤと名乗った相手に礼を返した。

 いきなりサイガが自分たちの世話係になってしまい、リュウガは思わず隣の者をぎょっと見やった。だがそんな大袈裟な反応をしたのはリュウガだけで、ライセンもシオンも平然としている上、サイガ自身もリュウガに目配せなどしたりはしない。

 シオンに装束を借り、他に類を見ない角は不可視の術で隠しているものの、リュウガの兄と呼んでも通るその容姿に注目する者は多かった。混乱の最中、誰が見ているとも知れぬこの場での彼らの有様は、これが最適なのだ。

  師匠も姐様もすごいな──。リュウガは口をきゅっと結び、目の前の者たちの凪いだ態度に感服した。サイガの姿を見た時、シオンは手にしていた由緒ある古い壺を投げ捨てて割ってしまったし、ライセンに至っては手入れ中だった高名な刀を手元が狂ってへし折ってしまったというのに、そんな動揺など今や微塵も感じられない。

 皇帝の間に通じる最後の大扉を前にした衛兵は、周囲に響き渡る声量で言った。

「大魔導ライセン様、征嵐剣シオン様、並びに光の戦士リュウガ殿、ご来場!」

「──ほう」その通り名を聞いて、サイガが興味ありげにリュウガを見た。「リュウガよ。おまえはこの地に名の通った戦士であったか」

「伊達に師匠から手ほどきは受けてないからな」リュウガはちょっと誇らしくなった。「でも、光の戦士のリーダーはもっとスゴイぜ! サイガも、会えばすぐにわかるよ」

 重い音をたて、数人がかりでやっと開いた大扉の向こうには、最奥に座した幼い娘──皇帝テラスを囲むように、すでに他の者たちが到着していた。

「遅かったですね、リュウガ。また寝坊ですか?」

「ケッ。侍女連れたぁイイご身分だぜ」

「二人とも、ライセン様に失礼よ。緊急事態なんだから、わきまえなさい」

 リュウガの姿を認めてそれぞれに口を開いた三人の少年少女と、それを無言で見守る一人の青年。

 きりりとした厳しい容姿に、まとった白き装束はこの宮廷内でも唯一無二。立ち姿を見ただけで、衛兵はおろかリュウガらとさえ一線を画する存在であることが察せられる。青年はライセンたちに一礼したのち、自分を見つめているサイガの視線に気付いた。

(ほう。……なるほど、この者か)

 半ば笑みすら含むサイガを、その者は、一片も表情を動かすことなく、何かを見極めようとするように見つめ返すのみだった。

 そして彼らの名も立場も聞かぬうち、テラスが玉座からすっと立ち上がった。

「よくぞお越し下さいました。ワラワが今代皇帝を務めます、テラスと申します」娘はまだ少し舌足らずではあるものの、礼儀をわきまえた言葉を放つ。「本来ならばワラワが御前に馳せ参じねばならぬところを、このようにお呼び立てした非礼、深くお詫び申し上げまする。──光龍帝、サイガ様」

 当然ながら何も知らされてなかったのだろう、控えた小年少女がまさかとサイガに目をやる。驚きに声も出ぬまま何故かリュウガを見やった者、信じられぬとばかりに目を見開く者、間を置いて感嘆にも近い吐息を漏らす者と反応は個々に違った。

 ライセンとシオンは、テラスとサイガの間を開くように左右に展開した。ただひとり、リュウガだけはどうすればよいのか判断できず、周囲の者たちを順繰りに見ながら棒立ちになってしまう。

「いやはや、バレねば名乗る必要もあるまいと思うておったが、やはりそうもいかぬか」サイガは感服したように言った。「よもや一目で見抜かれるとは思わなんだ。こちらこそ、そなたを謀ろうとした非礼、詫びねばなるまい」

「勿体無きお言葉でありまする」テラスは頭を下げて言い、玉座を譲るように、身を左へかわした。「さあ、どうぞお戻りください。ここはあなた様のための玉座です」

「不要だ」サイガは一歩も動かず、首を振った。「今、そこはそなたの場所だよ。勝手を言うようだが、『戻る』というのもやめてくれ。俺は『ここ』の者ではないのでな」

「……承知致しました」思うところあってか即答はしなかったものの、テラスは反論なく答えた。ただ、玉座には戻らずに。

「して、テラス殿」ライセンが言った。「このたびの異変、皇魔の仕業とお見受けする」

「そのとおりじゃ、ライセン」

 テラスは背後を振り向き、無残に弾けたガラス張りの頭上を見上げた。

 空は蒼穹にあらず、渦を巻いて赤黒い嫌な色に染まっている。その渦の中心はここ、中央都市だ。時折、渦の中心からゴマ粒のようなナニカがいくつも生まれ出ては、地上から放たれる魔法に討たれて落ちていく。

 それらは、断じてゴマ粒などではない。それらはすべて、先日リュウガが命からがらに倒したものと同格か、あるいはそれ以上の力を持った魔物であった。

「かの暗雲は幻影じゃ。実際にあそこにあるのではない」テラスは言った。「あれは、この皇帝宮の遥かな地下……封印が解けてしまった『異世界への扉』が空に映ったものなのじゃ」

「異世界への扉!?」

 思わずリュウガが身を乗り出すと、他の者たちもざわめいた。

「そんな……」驚きを隠せず少女が呟く。「この世界のほかに異世界が存在するなんて……!?」

「封印が解けたのは先日の地殻変動が原因と見られるが、調査している暇は、もはや無い」テラスは続けた。「混乱に乗じて、かつての皇魔一派がボーンマスターを筆頭に、この皇帝宮より聖龍石の宝玉を奪い去ってしもうた」

 一同の中でも、特にライセンやシオンに緊張がよぎり、サイガが何かを堪えるように口を結ぶ。

 千年前の死闘の果て、その聖龍石の宝玉に、かの魔王の魂を封印したのはこのサイガだ。それが皇魔の者に奪取されることの意味は、そして皇帝宮の地下にある『扉』が開いたことの意味は、誰よりも彼が一番よく知っている。

「ボーンマスターの狙いはただひとつ、魔王マステリオンの復活じゃ。いかなる事態になろうとも、それだけ絶対に阻止せねばならぬ」

 空に映った『扉』の幻影を見上げていたテラスは、一同を振り向いて言った。

「光の戦士たちよ、おまえたちに聖龍石の奪還を命じる。ボーンマスターが向かったのは『扉』の向こうにある『魔界』じゃ。そこにはおそらく、マステリオンを復活させる術があるはず。──よいか。奴がそこへ至るより早く討ち取り、聖龍石を取り戻すのじゃ」

「はッ!」

 白き騎士とも称すべき青年が応え、もとより正しい背筋を整えて、揃えた踵をカッと鳴らす。それを聞きつけて、異世界だ魔界だとざわめいていた少年少女らが我にかえったように揃って姿勢を正し、テラスへ向き直った。

「命令じゃ」テラスは──否、幼き娘は、その目に悲哀を湛えて言った。「絶対、生きてワラワの下に帰ってくるのじゃぞ」

「テラス様、心配ご無用です」青年は表情を崩しもせず、さらりと言った。「必ず任務を遂行して戻ってきます!」

 未知なる世界、魔界──。そこはすべての魔物たちの故郷であり、巣窟でもある場所だ。そこへ赴くともなれば、話だけでも不安を感じて然るべきところなのに、この青年にはそうした感情は片鱗も見えない。

(やっぱりスゴイ人だ、リーダーは)

 凛々しく、立派な立ち振る舞いには非の打ちどころがない。リュウガは彼の発言に、誰よりも強く安心し、また奮い立っていた。

(──聖龍石、必ず取り戻すぞ!)


 旅立ちの準備のため、光の戦士たちが皇帝の間をあとにしていく。

「皆よ。ひとつ、よいか」

 扉が閉まるのを見届けて、その場に残ったライセンとシオン、そしてテラスに向かってサイガが言った。

「いかがされた、サイガ」ライセンが促す。

「俺は、リュウガたちについて行こうと思う」

「──な」

「何を言うの、サイガッ……」

 たまらずライセンが絶句し、姐弟子であった頃の癖がうっかり出てしまい、素を口走ったシオンがしまったとばかりに言葉を改めようとしたところを、サイガは制する。

「皆にはまだ言うておらなんだが、俺は『ここ』へ、何者かに呼ばれて来たのだよ」

「呼ばれた?」ライセンが言った。「あなたほどの者を、この時代の者が召喚したと?」

「うぅ、む……その言い方はしっくり来ぬな」サイガは腕を組み、考えながら言った。「俺にも確かなことはわからん。しかし、誰かの意思でここへ導かれたのだと感じるのだ」

「あなた様は、来るべくしてこの千年後の未来へ来られた……と?」テラスが言う。

「ああ」サイガは頷いた。「有体に示すならば、宿命とでも言っておくか」

「地殻変動、封印の崩壊、ボーンマスターの奇襲……そして、この異変に居合わせたサイガ様。その『意思』を持つ『者』は、今再びあなた様に、マステリオンと戦えとでも言いたいのでありましょうか……」

「──いや」サイガはきっぱりと言った。「それはないな」

 笑みすら交えた即答であまりにはっきり否定するものだから、誰しもが当たり前に考えそうな可能性を思案していた周囲の者たちはぽかんとしてしまった。

「サイガ」気を取り直して、ライセンは言った。「あなたのことだ、リュウガたちの足手まといになるようなことは決してあるまい」

「ああ」サイガは言った。「そのつもりでおる」

「そして、この世の礎を築いたあなたに、危険を理由に反対するのも今更だ。あなたがそう決められたのであれば、我々から申し上げることは何もない」

「すまぬな。千年も経とうというときに、また俺のわがままをきかせてしまって」

「フフ。そのお言葉も懐かしい」ライセンは目を伏せ、小さく笑った。「サイガ、ここは我らに任せられよ。あなたはもとより『ここ』に居られなかった方、どこへ行かれるもあなたの自由だ」

 かつての師弟の変わらぬやり取りを見て懐かしさに胸が軋むその一方、内心に不安がないわけではなかったシオンは小さく息を吐いた。

(むしろ問題はリュウガたちね。サイガが同行するなんて聞いたら、かえって緊張してしまうんじゃないかしら……?)


「なあ、みんな」

 長い廊下の片面が中庭にひらけたとき、最後尾を歩いていたリュウガは思い切って仲間たちに声をかけた。

「あ? どうした、リュウガ」

 ぶっきらぼうな態度で面倒くさそうな顔をしながらも、何気ない言葉で相手への気遣いを忘れていないタイガを筆頭に、ショウ、シズク──そして、先頭にいたオウキが振り向く。

 仲間たちはリュウガの顔を見るなり、不意に心配そうな表情を見せる。本人にその自覚はほとんどなかったが、どうやらよほど思い詰めた顔をしてしまっていたらしい。リュウガは特に取り繕うことはせず、先ほどから、考え込むあまり皆に歩調を合わせることすらままならなかったことを言った。

「リーダー。この遠征に、サイガを連れていくことはできませんか」

「はぁっ!?」

 顎が外れるほど驚いて声を上げたのは意外にも、普段はキザにさえ見えるほど穏やかで沈着な態度がウリのショウだった。

「なに言ってるんですかリュウガ! 今あなたが言っているのは、神を危険に晒すのと同義ですよ!?」

「いやいやいや、それ大袈裟すぎるだろ!?」リュウガは慌てて、詰め寄ってくるショウを諫めながら言った。「話してみたら全然フツーだし、オレたちと同じように飯も食うし寝坊だってするし座禅中に居眠りして師匠に肩ブッ叩かれてたし身支度は下手だし──」

「何の話にズレてんだソレ全ッ然カンケーねェだろォが!?」

「なんでタイガが怒ってんの!?」

「大体テメェ、羨ましすぎンだよ!」タイガは不満を爆発させた熟年夫婦の妻のように言った。「あの光龍帝サイガとタメ口利けて寝食共にしやがって! もう手合わせしてもらったのか!? 秘伝の奥義とか必殺技とか伝授してもらったりしたんだろ!?」

「シ、シズク! リーダー! 何とか言って下さいよぉっ」

 リュウガはたまらず、黙りこくっていた残りの者たちに助けを求めた。

 奥義にしても秘伝にしても、さすがにたった二、三日で全容を教わるなんてできるわけがないし、仮に教わっていたとしてもリュウガの技術や能力を考えればとても修得できはしない。尋常ならぬ存在を前にして思考が突飛してしまっている仲間らと、これ以上言い争っても仕方がない。

「リュウガ」

 オウキが一言そう呼びかけると、ぎゃあぎゃあと大騒ぎしていたタイガとショウが一発で静かになった。自分らの統率者が、リュウガの提案をどのように受け止めるのか──個人的な感情・意見など関係なく、それが決定に代わることを彼らはよく知っている。

「おまえは何故、あの方を我々に同行させたいとする?」

「それは……何となく、です」

「何となく?」オウキは、ではダメだと切り捨てることはせず、リュウガの言葉に先を求めた。「まさかおまえは、そんな言葉で話が通ると思ってはいまい?」

 もちろん、思っていない。リュウガにとってこの『何となく』は足掛かりだ。

「最初にサイガを見つけたのはオレでした」リュウガは言った。「そのときにオレは、誰かが呼ぶ声が聞こえたんです」

「声?」オウキは言った。

「サイガに会うまでの間、声はずっとオレを呼んでました。そうやってサイガに会って、声は聞こえなくなって……そのすぐあとに異変が来たんです」

「変な話ね」シズクが考えながら言った。「まるで、異変のほうが、リュウガとサイガ様が出会うのを待っていたみたい……」

「だろっ?」自分の言わんとしていたことを形にしてくれたシズクに、リュウガは勢い付いて身を乗り出した。「やっぱりそう思うよな!」

「……」

 オウキは子供たちの──否、部下たちの言葉を噛みしめるように沈黙の間を置いた。だが否定の言葉や感情がないところを見るに、リュウガの話を肯定する方向で思案しているのかもしれない。

「リーダー! だからオレ、思うんですっ」仲間からの後押しを受けて、リュウガは強く言った。「サイガとこの異変には、絶対に何かあるって。ここに置いていくべきじゃないって」

 ひどくもっともらしい話ではあるものの、残念なことに、この発言にはまったくもって根拠が無い。自分でもわかっているからこそ、リュウガは『何となく』と言ったのである。

 実のところリュウガが言い出すまでもなく、オウキもすでにその可能性を考えていた。この異変に合わせるように皇帝宮へやってきたサイガの姿を見たとき、彼もまた、マステリオンと聖龍王家の因縁のようなものを確信していた。ならばこの遠征、サイガが居なくては何も始まらないのではないか──と。

 しかし、そうなるとこの話はオウキが独断できるものではない。何といっても相手はかの光龍帝だ。本人の同意か、あるいはテラスの認可が必要になる。

 どうしたものかと思案していたオウキの目が、ふとリュウガたちのはるか後方を捉えた。しかしそんなオウキの些細な反応に気付かず、眼下では少年少女らがああだこうだと言葉を交わしている。

「なるほど、そのようなことが……」ショウがやけにシリアスに、顎に手をかけながら言った。「やはり宿敵同士、あの御方とマステリオンの魂は、決着に向けて引き合っているということなのでしょう」

「そういうことなら、オレも賛成だなっ」タイガが言った。「あの光龍帝の戦いが目の前で見られると思ったら、今から血が騒いで来るぜ!」

「あらぁー、タイガは手のひらを返すのが早いわねぇ」フフ、とイタズラっぽく笑ったのはシズクだ。「私、聞き逃してないわよ? 皇帝の間でサイガ様を見た時、アナタ言ったわよね?」

「ちょ」タイガが動揺を見せ、左右を見回した。「余計なこと言ってんじゃねェよシズク! どこでダレが聞いてっか──」

「おお、そういえば言うておったなあ」背後からかかった声と同時に、タイガの肩口に誰かの手がポンッと置かれた。「侍女連れ、だと? 今更シオンをそのように称することもあるまいに、はてさて貴様は誰に向かって、そのようにクソ無礼な口を叩きおったのかなあ?」

 その声色、姿を見てもいないのに感じるすさまじい存在の圧迫感、テラスによく似た独特の口調──一発で凍り付き、その場にへなへなと崩れたタイガの陰から現れたのは、誰の予想にも外れぬサイガであった。

「はっはっは! 好いリアクションだ!」やたら嬉しそうに崩れたタイガの前に屈み込むと、彼はその頭をぽんぽんと叩いて大笑いした。「驚かせてすまなんだな、タイガとやら。なに、俺は気にしておらんよ。もとよりそのつもりで来ておったのでな、おまえの言い草こそが俺たちの狙いに叶うものであった」

 サイガの態度を見るに本当にまったく気にしていないようだが、タイガにしてみれば心臓に悪いことはこの上ない。一瞬の間でこそあれど生きた心地がしなかったことだろう。それを体現するように、タイガは未だ泣きそうな顔で抜けた腰が治まらない様子だ。

「あああああぁぁふっざけんなああぁ!」タイガは自棄を起こしたか、拳を振り上げて怒った。「さっきのアレは全面的にオレが悪ぅございましたからとっとと忘れやがれ!」

 怒りという感情のさなかにあっても、相手の肩書を完全に忘れ去ることができないタイガの不器用さに、サイガはとうとう腹を抱えて笑い出した。

「あっはははは! やはり獣牙の者には、いつの時代も面白いヤツがおるのだな。よしよし、気に入ったぞタイガ。このたびの遠征、俺とともに在れることを光栄に思うがよい」

「いい加減にしやがれ! 今でさえ充分神経スリ減らしてンのに、遠征にまでアンタみたいなのがついてくるとか有り得ね……え?」

 タイガの言葉が中途で切れ、シズクが、ショウが、エッとばかりにサイガを見る。その後ろの通路から、遅れてライセンがやってきた。

「ライセン様」オウキが言った。「今の話は決定ですか」

「うむ。テラス殿も承諾されたよ」

「サイガ!」リュウガはつい嬉しくなって、サイガに駆け寄っていった。「よかった、本当に一緒に行けるんだな!」

「ああ」サイガは頷いた。「ことの顛末、見届けさせてもらおう。それがきっと、ここへやってきた俺の役目であろうからな」

「冗ッ談じゃねえ! オレぁ反対だ! 絶対やだかんな!」泣きそうになりながらタイガは言った。明確な理由を言わないあたり、もはや子供の駄々である。

「タイガは、もうすっかりサイガ様にアレルギーができてしまいましたね」ショウがたまらず苦笑いした。

「ホントね」シズクも同じように笑う。「さっきまでは、光龍帝の傍で戦える! なんて言って息まいてたのに」

「テメェが余計な茶々入れやがったせいだろシズクウウゥゥゥゥ!!」

 光の戦士──。未だ幼くありながらも、この四大陸が統一された世界の未来を担う次世代の者たち。肩書きだけを見れば随分と大層なものに見えるが、本人たちを見れば何のことはない。本当に年相応に泣き、怒り、騒いでは笑う姿は微笑ましくさえある。何と心持ち豊かな集団であろう。

 サイガらが同じくらいの歳の頃といえば、マステリオンの策略にハマり、国は先王を失ってデマに惑わされ、戦いに明け暮れていた。楽しかったことなど数えるほども無く、思い切り笑った記憶もほとんどない。この者らがこれから歩まんとするのは、そんな俺たちが歩んだ死闘の歴史そのものかもしれぬ──そう思うと胸が痛んでやまない。

 けれど、戦いの記憶を痛ましく抱える反面、『戦争の無い世界』が世迷言であることをサイガはもう知っている。何者とも、何物とも戦わずして生きられる命はない。未来を切り拓く手段は、戦うことより他にないのだ、と。

 しかし今、この敵だけは。

(──マステリオンよ。千年の時を経て尚、おまえは俺を欲するか)

 上空に広がる暗黒の渦を見上げ、サイガは遠き仇に戦意を馳せる。


 彼は自分がここへ来たときのことを、何も覚えていなかった。




                               to be continued...(2016/05/29)