王の帰還 遠い空を、鳥の声が通り過ぎていく。 早朝から朝餉までの数時間にも及ぶ精神統一の座禅は、リュウガが師ライセンより言い付けられた日課だ。往々にして幼さゆえの落ち着かなさを見せることもあったが、リュウガはこうした修行を苦としたことは一度もなく、むしろ日々精力的に取り組んでいた。 「ライセン様」 土間で朝餉の支度をしていたシオンが、山より戻った師を出迎えた。 「お帰りなさいませ。収穫のほどは?」 「ああ、申し分ないよ」 ライセンが背負った籠を下ろすと、中には数々の山菜や川魚が入っている。働かざる者食うべからずの教えに従い、食料調達は常にこの男の仕事であった。 「いつもありがとうございます。すぐに取り掛かりましょう」 シオンは丁寧に礼を言い、籠を手に調理台へ向かう。そのとき、目の高さの格子窓からわずかな風が吹き込んで来て、彼女はふと足を止めて言った。 「……今朝は、風がよく騒ぎますね」 「そのようだ」ライセンは頷いた。 「どのような事態の予兆かは図りかねますが、やはり本日の式典は取りやめにすべきだったのでは?」 「私もそのように進言したが、他のご予定との兼ね合いで今日をおいて無い、と突っ撥ねられてしまったよ」 「まあ」シオンは少し怒ったようだった。「永きに渡り、歴代皇帝を陰から支えてきたライセン様の御忠告をそのようにあしらわれるとは、まったく、昨今の中央議会は──」 「よしなさい、シオン」師は淡々と、穏やかに言った。「テラス殿には、その幼き御身に余る数多のご予定が控えていること自体は間違いではないのだ。決行される以上、この風の便りが杞憂となるよう見守ることも我らの務めだよ」 「ライセン様がそうおっしゃるのであれば……」 異端なる脅威、金色の魔王・マステリオンとの死闘より早千年。神々の時代より伝わる不老長寿の秘術によってこの世に命を繋ぎ続けるライセンとシオンが、あのリュウガという少年に出会ったのは十年ほど前のことだ。 千年前より続く、聖龍王家の血を継ぐ由緒正しき一族に生まれた新たなる命。その姿を一目見たとき、ライセンもシオンも言葉を失うほどに驚愕し、また、涙が溢れそうな懐かしさに包まれたものだ。 青い髪と、深紅の瞳。生まれて間もない赤子でありながら、誕生の瞬間には青天の上空に雷を呼び寄せ、その霹靂をして産声と成した聖龍の末裔。かつての時代より間もなく千年という節目を控えたこのときに生まれたその子の容姿は、彼らの始祖たる聖龍王サイガに酷似して止まなかった。 「ライセン様」産みの苦しみを乗り越えて間もない母親は、歓びの涙を流しながら言った。「どうかこの子に名を。善い子に育ちますように……」 聖龍一族の間で、祝事の際にのみ用いられる紫暗の御包みに納められた赤子を抱いたとき、普段は厳格なライセンの表情がほころんだ。なんと懐かしい、千年前のあの日を今一度見ているかのようではないか──。 「……リュウガ」子を高く掲げ、ライセンは言った。「この子をリュウガと名付けよう。代々続く聖龍家を担い、未来を託すに相応しい強さを勝ち取るように。悪を砕く龍の咢のように、曇りのない心を得るように」 ──その祝辞が千年前と何ら変わらぬものであったことを知っていたのは、そのときにもその場に居合わせたシオンだけだった。もっともそのシオンも、当時はまだ十を数えて間もない幼子ではあったけれど。 そう──。シオンは懐かしい思い出から現世に戻り、思った。今日は、あの戦いが終結して千年目を迎える日。皇帝テラスが各大陸を巡り、旧王たちの生家である聖龍殿、飛天宮、獣牙廷、鎧羅城の跡地へ献花を行なう式典の日だ。 空は気持ちのよい青天。陽射しは暖かく、どんな行事にも申し分ない。 けれど彼女の足下へ吹き込むそよ風は冷たく、身震いすら感じさせる。遠いところから、嵐の気でも運んでくるかのように。 不安を吐息に変え、シオンは改めて格子窓に目を向ける。 この母屋に隣接する離れには鍛練用の道場が設けられており、今はそこでリュウガが静寂の時を過ごしている。普段から朝餉の匂いにつられて集中を途切れさせてしまい、言い付けの時間より早く出てくることも稀ではなかったのだが、今日は大人しくしているようだ。 リュウガ。あなたも感じているかしら? この、嫌な異変の前触れを──。 彼女は知る由もなかった。 リュウガはこの時すでに、離れには居なかったことを。 『リュウガ──』 誰かの呼ぶ声が、ずっと頭の中に響き続けている。 どうやってそこに到達したのか、リュウガ自身も覚えていない。ライセンたちと生活を共にする山を下り、大きな沢や谷を飛び越えて、彼はそこに立っていた。 最奥に控えた巨木の根を介して芽吹いた、様々な植物に覆い尽された里の廃墟。長く厳しい冬を越え、ようやく暖かくなってきた陽射しを受けてきらめく新たな緑が目に眩しい。そこは千年前、伝説の英雄・聖龍王サイガが生まれ育った場所──聖龍殿を中心とした城下町であった。 旧王たちが過ごした場所として歴史的な価値は計り知れない、と唱える多くの学者たちの支持と投資を得て、各大陸では王廷とその城下町の廃墟が今も保存されている。ただし、かつては莫大な魔力の加護で天空に存在した飛天宮だけが、歳月の経過と共に弱まる魔力を保持できずすでに地に落ちており、落下地点に石碑が祀られているのみだ。 対して、この聖龍の里は真逆であった。最奥の巨大な神木は、その洞から今でも聖龍石の結晶が見つかるほど強い魔力を未だ蓄えており、里の全景の保護に一役買っている。鬱蒼とした多くの緑は早くに家屋や御殿を侵食するであろう、飛天宮と比べてどちらが先に崩壊するか──などと危惧されたのが嘘のようである。 そんな、かつて聖龍殿と呼ばれた大きな御殿の、今や枯れ果てて何も棲まわぬ池がある中庭で、荒れた吐息も整わぬリュウガはその者を見つけた。 『リュウガ──』呼ぶ声は、更に大きく、近くなっていた。 明けの直前、もっとも静まり返った深き夜と同じ色をした衣の後ろ姿。上等な装束で体格が紛れて判別しづらかったが、蒼い髪が艶やかに長かったから女だと思った。純粋な聖龍族たる師ライセンや姐弟子シオン以外では見たこともなかった、頭に戴く大きな四本の角──。 パキッ。そろりと踏み出したリュウガの足が、朽ちて乾いた小枝を踏む。と、その音に誘われて眼前の者が振り向いた。今や貴重品の中の貴重品である聖龍石の耳飾り、額に描かれた守護の術法。寝覚めのようにぼんやりとしていた深紅の瞳が、リュウガを認めて驚いたように大きく開いた。 リュウガもまた驚いていた。 歳や装いに多少の違いはあれど、双方の者は、まるで鏡に映したように瓜二つの容姿を持っていたのだから。 「あ……」リュウガは口を開いた。どうしたことか、声をかけるという単純な行為に畏れすら感じながら。「あなた、は──」 相手が、答えようとしたのか口を開いたそのときだった。 ドドン、と大きく地面が揺れた。 「うわあっ!?」 地の底から思い切り突き上げる衝撃にリュウガが転倒し、もう一人の者は辛うじて足を踏みしめ留まる。さすがに神木の魔力に保護されているといっても物理的な力にはかなわず、里の廃墟では老朽化した家屋がいくつか崩れていった。 聖龍殿の廃屋も例外ではない。 バキバキと乾いた音が響き渡り、支えの柱を根元から折られた縁側の庇がまるごと外れた。無数の塵をまき散らしながら、続く地震の最中で立ち上がることもままならないリュウガ目掛けて倒れ込んでくる。 「うわああぁぁぁっ」 普段ならば咄嗟に飛び退くくらいのことはできたであろうに、地震によって足場を失っていたことが災いした。このときのリュウガにできたことといえば、身体を押し潰されようかというときに頭を守る程度のことだ。 と、そんなリュウガの目の前に、リュウガによく似た者が割り込んだ。その者はリュウガが驚くより早く、素早く両手の指で複雑な印を組み、叫ぶ。 それはたった一音だった。 しかしリュウガの耳には確かに聞こえた。 その『たった一音』に込められた『言葉』が。──『命令』が。 ──この地の精ども、我を覚ゆるならばいざ目覚めよ 我は汝らの主、聖龍王サイガなり── その者を中心に、眩い光が辺り一帯を駆け抜けた。そのうちに地震は治まり、低く嫌な地響きが遠ざかっていく。 あまりの危機と眩しさで目を覆っていたリュウガが、あとに続いた静寂を不思議に思って目を開いてみると、そこには。 「え──」 リュウガは驚くばかりだ。 聖龍殿は崩れてなどいなかった。……否、それどころか内部にまで生い茂っていた無数の植物たちが消え、先数十年は安心して居住できそうなほどにも美しい出で立ちでそこにあるではないか。 「……やはり、ここは『未来』であったか」 不意に男の声がしてリュウガが目をやると、そこに立つリュウガに似た者がやれやれと笑った。 「以前、同じようにして太古に飛ばされたことがあったのでな。もしやと思ったのだが大正解だ。──大方おまえは、俺の子孫であろう?」 すっと膝を折ってリュウガに目線を合わせたその者は、面持ちこそ女に近く美しいが、冷静に見れば男であった。 「おまえ、名はなんという?」 「リュ……リュウガ」唖然としたままリュウガは答える。 「リュウガか。うん、好い名だ。俺は──」 「サイガ」 「え?」 「さっき」リュウガはちらりと、本来の姿を取り戻した屋敷を見やった。「聖龍殿に呼びかける時に名乗ってた……だろ」 「ほう、あの『言葉』が聞こえたか。なかなか素質があるようだな。将来が楽しみだ」 驚きながらもどこか満足そうに笑っている相手──サイガに、リュウガは手を伸ばした。 まだ焦点があっていないような気がする。唐突に色んなことを経験してしまって感情がついて来ないのだ。サイガはそんなリュウガの様子をただ見ているだけだ。間違っても警戒心だけは抱かせぬようにと、笑みまじりに。 伸びたリュウガの手が、風にサワリとなびいたサイガの髪に触れた。 それを。 ぐいっと引っ張る。 「あいたっ」サイガが率直に言った。 「す──」リュウガの声が震えた。次の瞬間、完全に麻痺していた感情が一気に殻を破る。「すっげええぇぇぇぇぇぇ聖龍王サイガだ、ホンモノだあああぁぁぁ!」 面食らって唖然としたサイガの両頬を引っ掴み、リュウガは目を輝かせてその姿に見入った。当たり前のことだが、今日まで彼は、テラスの居る皇帝宮に飾られた肖像画でしかその姿を見たことが無かったのだ。 千年前に比べて鎧羅の科学力は大きな躍進を遂げ、今では各大陸を一周するのに数時間もかからない乗り物だって開発されている。けれど太古の者たちの当時の姿を『映像』や『画像』として呼び出す技術なんてものは無く、当時を覚えている者たちの証言をもとにして絵画として遺すのが精一杯。よって、描いた画家によって旧王たちの姿は細部にあちこち違いがあり、かなりおぼろげな形でしか遺っていなかったのである。 それが今、目の前にいる。千年前の大戦争を終結させ、現在の基盤を築いてくれた最強の英雄サイガがここにいるのだ。物心ついた頃からライセンによって稽古をつけられてきた根っからの武芸派であるリュウガにとって、旧時代の覇者との対面ほど嬉しいことはない。 「なあ、さっきのもう一回やってくれよ!」リュウガは言った。「獣牙廷とか、鎧羅城だってそれでキレイになるんじゃないのかっ?」 「か、簡単に言うでない」サイガは困って言った。「他大陸の王廷ならば、その地の王でなければ精霊たちも覚えておるまい。俺の言葉は届かんよ」 「えー、なんだあ……」 「やれやれ、この無礼者め」サイガはまったく気を悪くしたふうもなく笑った。昔の自分もこうだったことを思い出しているのかもしれない。「すまぬがリュウガよ。俺は元の時代へ帰る手段が無い。誰ぞ、俺を知る者を──」 ゴォ……、と、遠いところで雷鳴に似た音が響いた。 リュウガとサイガが揃って空を見やると、ついさっきまで晴れ渡っていたはずの空が暗雲に覆われ、今朝から少し肌寒かった風が急速な冷気を帯びてすぐそこまで迫っていた。 「あれは……っ」 目を凝らしたリュウガは驚愕した。 暗雲の一団は、中央のある方角からやってくる。それらは決して雲などではなく、おびただしい数の魔物の集団で形成されていたのだ。 尋常ではない事態であることは、この時代をよく知らぬサイガさえも理解していた。そして魔物の集団を率いるように飛翔する者の姿を認めたとき、その顔色が一気に変わる。 ボーンマスター。旧時代においてマステリオンの使者を務め、各大陸を混乱に陥れた魔物。マステリオンの討伐によって皇魔そのものが散り散りになり、奴もまた在るべき世界へ帰ったものとされていた存在──。 だが今、奴が手にしているものは何だ。サイガは反射的に自分の手元を確かめるが、あるはずはない。見覚えのあり過ぎる、本来の輝きを失った──否、内側に閉じ込めたものの影響で、輝くことを忘れてしまった宝玉・聖龍石ではないか。 「いかんっ!」サイガは我を忘れたように叫んだ。「奴を行かせてはならぬ、何としても止めねば……っ」 ドォン。駆け出そうとしたサイガの行く手を阻むように、上空から降ってきた二体の魔物が立ち塞がった。リュウガも見たことがない、筋肉質で鋭い爪を備えた白と、のっぺりとした身体に鋭利な武器を握る黒の異形だ。 「おのれ、邪魔をするか!」 サイガが身構える。背に回した手が何かを握るような仕草をした──とき、不意にその表情に異変がよぎった。 えっ、と、驚いたようなそれ。 「クゥエエエエェェ──ッ」 白の魔物が、いきなり気がフレた奇声を上げてサイガに斬りかかる。サイガはすぐに片手に印を結び、先ほどと同じく一音の命令を解き放った。 集束した風が弾丸のように硬化し、魔物の身体に叩き込まれる。衝撃で白が吹っ飛んだ向こうから、今度は黒いほうが襲い掛かってきた。術を放った直後の隙を狙ったのだろうが、サイガは打ち下ろされる刃の軌道を完全に見切っており、首を逸らすだけでかわしてみせた。そうして大ぶりな攻撃をミスした黒は、その顔面に強烈な回し蹴りを見舞われて倒れ伏す。 (すげえ、なんだあれ。師匠でもあんな動きはしないぞ) まるで試合でも観戦しているかのような興奮が湧き上がるまま、リュウガは拳を握り締めて彼らを目で追った。 だが、様子がおかしい。数分としないうちにリュウガは気付いた。 サイガの術を撃ち込まれた魔物たちのリカバリーが速すぎる。術に大した威力が乗っていないのか、それとも魔物の体力が異常なのかは判らない。しかしこのまま続ければサイガのほうが先に疲弊するのは明らかだ。 (ダメだ、サイガが競り負ける!) リュウガは地を蹴り、今まさに再度ぶつかろうとした白い魔物とサイガの間に割って入った。 ガギィンッ。耳に痛い衝撃音で爪と交わったのは、リュウガが抜いた一対の小太刀だ。 「リュウガ!?」 「いくらあんたでも、丸腰は分が悪すぎるだろ!」リュウガは叫んだ。「早く離れろ、このくらいのモンスター、オレでも何とか──」 「コォォォォォォォ!!」 腹の底に響く雄たけびを上げ、白と競り合うリュウガに黒が奇襲をかけた。手と一体化した刃を振りかざし、脇腹を引き裂かんと腕を振るう。 「リュウガッ」 もう一度術を放とうとしたサイガを遮って、リュウガが吼えた。 それは単なる気合いの叫びなどではない。先ほどまでサイガが使っていた、風に命じる術の『言葉』だ。 「風よ! 我に仇成す者を微塵に刻めェッ!!」 一瞬の出来事だった。 一陣の突風が渦を巻いたかと思ったら、次の瞬間、リュウガのはらわたをかっさらうはずだった黒き魔物は、全身をバラバラに切り刻まれて塵となっていた。 さすがのサイガもこれには度肝を抜かれたか、黒い魔物が肉片となり崩れ去る瞬間を唖然と見ているだけだ。 見よう見まねで俺の術を盗んだのか、この者は──。 いや、それよりも。 同じ術のはずが、まったく威力が違う。サイガが使った時には衝撃波を形成する程度だったのに、リュウガが使った時には強力なかまいたちが発生した。これがどういうことなのか、サイガはもうその原因に、その理由に気付いていた。 ガッ、と鈍い音を立てて白い魔物がリュウガから離れる。言葉も発しなければ表情で思考を探ることもできない外見をしているが、リュウガを思わぬ伏兵と認識したことは間違いない。再び術を放っても、同じように仕留めることはもうできないだろう。 そんなことはリュウガだって判っている。双方は互いに身構え、互いの隙を伺い合った。リュウガが右に踏み出せば魔物は左へ動き、距離を一定に保とうとする。その膠着は永遠に続くかに見えた。 「はッ!」吼えて踏み込んだのはリュウガだった。 体躯の小柄さを生かした俊敏な動きで懐を狙い、迎え撃つ敵の爪を手にした左右の刃で払い除ける。右に集中するわけでもなく、左に重心が寄るわけでもない、二つの武器を正確に操る姿はさながら演舞だ。 ただ──。 戦局において、敵の裏をかくことは常に求められる技術だ。しかしリュウガには圧倒的に経験が足りず、自分のステップをごまかす手段すら持ち合わせない。回避の癖、攻撃の隙、踏み込みの距離──あらゆる行動が一定なのである。 (惜しいほどの素質はある。しかし、リュウガはまだ幼い──) サイガが危惧したことはすぐに現実となった。幾度か攻防を行なううち、敵がリュウガの動きを見切り始めたのだ。 「ケェェェ──ッ」 甲高く吼えた敵の行動に気を取られた一瞬、リュウガの小太刀は頭上高く弾き飛ばされていた。 (しまった!)本当ならばそのように思うこと自体、あってはならない。リュウガが弾かれた武器のほうを見上げてしまったとき、ガラ空きになった彼の腹に魔物の爪が叩き込まれた。 「が……ッ」 熱と痛みが同時に襲い来る。爪が引き抜かれたところから、湧き水のように血が溢れて流れていく。自分が地面に倒れ込むまでの間が何分にも感じられ、リュウガは生まれて初めてはっきりと『死』を意識した。 倒れゆく刹那、目を向けて見れば地にひざまずき、両手を組むサイガの姿がある。今を生きる者たちの神にも等しい旧時代の皇帝が、この期に及んで誰に祈ろうというのか──彼は懸命に言葉を紡いでいるようだった。 失血とダメージのショックで身動ぎもできぬリュウガに、白い魔物は血にまみれた爪を振り上げた。その凶器が狙うのはただひとつ、標的の頭だ。 「──よ」サイガが言った。目を開き、天を仰いで。「神々よ! あなた方の秘術、お借りするぞ!」 聖龍殿を包んだものより遥かに強い、金色の光がサイガの身体から発せられた。 ……否、そうではない。 サイガの身体が、金色の光に変わったのだ。 「ケェッ」 破邪の輝きともいうべき光に魔物がたじろいだ隙に、光は地を飛び立って舞い上がったかと思えば、まっすぐにリュウガの身体へ落ちてきた。ほんの一秒にも満たぬ交わりの中でリュウガが負った致死の傷が癒え、意識が回復する。 (俺の力と経験──)サイガの声がした。(究極の光を授けよう……全ての力を解き放て、リュウガ!) 今まさに死にゆこうとしていたことなど忘れ、リュウガは身体のバネで身を起こした。伸ばして空を握った手に出現したのが、自分が愛用した小太刀ではなかったことに彼は気付かなかった。そのくらいそれは彼の手に馴染み、まるで失っていた手足を取り戻したような充足感に満たされたのだ。 「はああぁぁッ!」 踏み出したリュウガの動きは猛攻を極めた。一息の隙も与えず斬りつけ、爪の防衛を弾き、目に見える勢いで敵を押しやっていく。最中、リュウガは自分の視界の隅にサラリと揺れた自分の髪の長さを気に留めなかった。 「クゥッ……ケエエェェェェ──ッ!」 焦りを滲ませた魔物が吼え、振りかぶった爪を繰り出してきた。リュウガの刃とがっきり噛み合い、双方はそこで膠着状態となる……はずだった。 「ここまで来て、競り合いに持ち込むのか?」リュウガの口元がふっと笑む。どこか相手を憐れむような、静かな笑みだった。「さっき自分の仲間の末路を見たはずなのに、もう忘れたと見えるな」 「ケ……ッ?」 ぎくりとしたように、魔物が爪を退こうとする。どんな素人目にも判る格好の隙だった。 「遅いっ!」 叫んだリュウガの全身が帯電し、蒼白い火を宿した刃がその身体を縦に斬り裂いていた。 悲鳴を上げる間も、余裕もない。直後に刃が放った凄まじい放電に焼かれ、敵は見る間に黒焦げになってガサリと崩れ落ちていた。 身体から分離した光が離れて再びサイガの姿を形作った時、リュウガは激しい疲労で立っていられなくなってその場に膝をついた。 息が上がっているわけではないが、手足は筋肉が引きつるような鈍い痛みを発していて、一歩はおろかもう立ち上がることもできそうにない。 「すまぬ、リュウガ」 目を閉じれば即座に意識が落ちそうなリュウガの前に、サイガが膝をついた。沈痛な表情は言葉の通り申し訳なさそうだ。 「こうするより他になかったのだ。俺ではどうにもできなんだ、許してくれ」 「……サイガ……」 「なんだ」サイガは、蚊の鳴くようなリュウガの言葉に注意を向けた。「どうした、リュウガ」 「……怪我、……してないか……?」 サイガは一瞬、何も言わなかった。けれどそのすぐあと、両手を伸ばしてリュウガの頭をその胸に抱き込んでくれる。 質の良い衣の感触は、自分の寝床のそれより遥かに心地が好かった。 「俺ならばこのとおりだ。案ずるでないよ」 重い腕を持ち上げ、リュウガはサイガの肩を、背を探る。どこにも傷や違和感はない。ほっとすると同時に、今の今まで張り詰めていた神経に限界が来た。 「今はしばし休むがよい、リュウガ。──大儀であった」 誇らしい気持ちを胸に、少年の意識は深い眠りへと沈んでいった。 to be continued...(2016/05/15) |