三日月の

   
 調和神バランシールの力と意志を継ぐ八柱の神々によって創造された新世界の誕生、そして天界には絶対の絆を持つ夫婦神が生まれた──。

 天界にとってこれほど喜ばしいことあるまい。主神の神殿より眼下に広がる各地の浮島からは祝いの歓声や囃子が響き、人間の習わしを真似て花火を打ち上げる古い神までいる始末で、彼らは昼夜を問わず月日を忘れて祭典に酔いしれていた。

「……まっ、たく」

 莫大な呆れを含んだ調子で、溜息と共にメビウスが文句を言った。

「神も人間も大して変わらんな。祭り好きの平和ボケもいいところだ」

「まあそう言うなよ」

 神殿のバルコニーから室内を振り向けば、この夜の明けには正式な婚姻の式典を控えた神羅光龍神リュウガが、メビウスの向こう側に上がる花火の彩りを眺めていた。

「バランシール様が邪神の洗脳で『狂われて』から、過去も現在も問わず歴史は蹂躙されてきた。この世界で、いくつの星や国や時間が喪われたか……それを思えば、こんな祭り事は刹那のことさ。浮かれさせてやれよ」

「そういえばおまえも神になって長いんだったな」 メビウスは肩を竦めて言った。「──幼かった頃のおまえなら、先陣を切って遊び呆けていたことだろう」

「……否定はしないよ」

 相手から少し目をそらし、引きつり半分の苦笑いでリュウガは呟くように言った。

 彼は今、本当ならこの天界の誰より も喜び勇んで、この夜の明けを待ち侘びてやまぬ──だからこそ眠ることすらままならず、こうして夜を更かしているのだが──自分の心境を、他の神々に代弁してもらっているような気分である。それゆえに少しだけ客観的に明日を待つことができていて、こうして甘い酒の味もわかる程度に落ち着いているのだ。

「メビウス」 リュウガは言った。「おまえも式典に参加していけばいいのに。わざわざ旅立ちの日を明日にしなくてもいいだろ」

「ライセンとシオンに参列してもらいたいのなら、そうするように託けておくぞ」

「そうじゃなくて」

「私を見れば気分を害する神は多い。それこそ、わざわざ祝いの席に水をさす必要もないだろう」

「だから、なんで他人に気を遣ってるんだよおまえは」

 そう返されて、メビウスは一瞬きょとんとした。何を言われているのかわからない、とでも言うように。

「明日はせっかくみんなここに集まるんだ。アークやアポロ、おまえに縁の深い人たちだって来る。顔も知らない他の神々の『気分』のために、彼らに、おまえに会えなかった心残りを作る必要はないじゃないか」

「…おまえ、どこまでも人間思考だな」 メビウスはまた呆れたように言った。「確かに私は旅には出るが、二度と戻らないわけではない。それに、参列者が嫌な顔をしていれば、明日の主役のおまえたちが心から楽しめないだろう?」

「……」

「私は他人に気など遣っていないさ。私がそうしたいからそうするだけのことだ」

「そうだな……」 そうだったな、ともう一度続けて、リュウガは身を預けていた布敷きのカウチからヨッと起き上がって頭を掻いた。「つまり『他の神々が自分を見て嫌な顔をするのを見るのは、自分だって気分が悪い』ってわけだ」

「なんだ、わかっているじゃないか。さすがだな」

 満足そうに言ったメビウスはリュウガの傍へ歩み寄ると、すっと顔を寄せた。

「だが、もしおまえが私に『自分の傍に居てほしい』と望むのなら、そうしてやらなくもないんだぞ?」

「どう解釈したら今の会話からそう繋げられるんだよ」 当たり前のように口付けを求める相手を慣れた動作で押し退けて、リュウガもまた呆れて言った。「第一、結婚前夜の男をつかまえて、その態度は何なんだ」

 文句を言ってはいるが、リュウガの声色は怒ってもいなければ不愉快そうですらない。友人の悪い癖、その程度の認識であるように見える。

「なら何故、今宵ここへ私を呼んだ?」 心底わからない、といった様子でメビウスは訊ねた。「別れ前に感懐を残しておきたいのかと思ったじゃないか。期待させるな」

「なんで俺がそこまで言われるんだ……?」

 そんなことしようものならむしろ傷になるじゃないか……、と呟いたリュウガの声はほとんど声になっていなかった。

 下手に反論すればどんな揚げ足取りが来るかわからないから、リュウガはもうそれ以上を咎めも追及もせず立ち上がって、メビウスと入れ替わるようにバルコニーへ出た。

「リュウガ?」

 離れていく相手の背を追うことはせず、その体温が残る布地に寝そべったメビウスが呼ぶ。まるっきり事後のようだが、そんな妄想に耽るほど、この蛇は短絡でも妄執家でもない。その目はすでに甘い誘惑の色を捨てている。

 ドン、と遠い島から上がる美しい細工火をいくつか眺める間を置いて、彼は肩越しに振り向いて言った。

「おまえに、頼みたいことがあるんだ」



 天界に数ある浮島の中には、かつての神羅世界を模して創造された地がいくつもある。

 古い神たちは、自分たちを守りその未来を切り拓いてくれた神羅神にこれ以上ない敬意と称賛を称して、『時間』だけが覚えているその生家や土地を天界に再現して聖地としたのだ。

 そんな中に、聖龍殿があった。

 清水を湛えた中庭の池は大きく、小さな舟くらいなら浮かべて楽しむことができた。今のそこには、三日月のように美しく輝く小舟がひとつ、人影を乗せて揺れている。

 ──空に映る数多の銀河から流星が降る静寂を、時折、遠い島からの祝い火の音が破っていく。その余韻をひとつ聞き届けて、神羅聖龍神サイガは、閉じていた赤の双眸を再び開いた。

 かつての聖龍殿からでも、これほどの星々は見られなかった。それでも知的探求心から天体観測を好んだポラリスやアレックスに付き合って、この屋敷の屋根の上で暑い夜や寒い夜を寄り集まって過ごしたことが昨日のようによみがえり、笑みがもれる。

 北の地はオーロラが邪魔になるとか、南の地では書籍と春夏秋冬が逆になるから──などなど、とってつけたような言い訳で、彼らは何かとこの地へ集まりたがった。自分が慕われているからだなどと考えもせず、北のほうが空気は澄んでいるし、南のほうが珍しい星も多かろうにと思いながら、眠気と戦いあくびを噛み殺して、ようやくひとつの流星を見つけた時には感動したものだ。

『おいエドガー、見たか今の──』

 揃って振り向いてみれば。

 彼はいつも真っ先に寝落ちしていて、他の二人からヒンシュクを買っていたっけ。

 無理やり起こされて、眠たそうに怒っていた顔。

 初めて会った日の、自信に満ちた挑発的な表情。

 自分が倒れた時に見せた、心配そうな、しかし張り詰めた緊張を帯びた顔。

 背を預け、共に戦い、悲しみを分け合い苦痛を溶かされた。

 何もかもが懐かしく、そして。

 愛おしい──。

 リュウガとの婚姻を明けに控えながら、サイガがこうしてひとりの夜を過ごしているのには理由がある。

 かつての日々を共に過ごした愛しい者、エドガーへの想いを、断ち切れずにいたからだ。

 まだ魔人であった頃のサイガが、その生涯をかけて愛した相手だ。そんな簡単に忘れることができるなら誰も苦労はしまい──リュウガだってそのくらいのことは解ってくれているし、むしろ忘れる必要はないとまで言ってくれてもいる。

 だが婚姻の日が近付くにつれ、エドガーへの想いばかりが強くなるのは何故なのか。リュウガに抱かれることを後ろめたくさえ感じてしまうのはどうしてか。

 せめてあと一目。刹那でさえ構わない。おまえに逢うことができたなら──。

 と、そのとき、銀河を眺めていた彼の目に、白い星が流れるのが見えた。

「よォ。相変わらず、ひとりの時は物憂げにしてやがんなァ?」

「え──」

 伸びてきた逞しい腕が星空を遮り、がっしと頭を掴んでくる。視界いっぱいに覗き込んできた白い髪の男は、今まさにサイガが脳裏に思い描いていた姿そのものだった。

「エ、エド、ガー…?」

「ったく。テメーはいつになってもほっとけねえなあ」

 長い時の風化で忘れかけていた、しかし聞き慣れすぎた声色で、現れたばかりの男はサイガの身を両腕で包み、しかと抱きしめる。

「皇帝になったと思ったら、今度は神サマか。そんなシケたツラしてて、これからやっていけンのか?」

 その感触。

 その匂い。

 その強さ。

 言葉と共に身体に響く低さまでもを覚えている。

「夢では……」

「あん?」

「夢では、ないのだな…」

「──ああ。夢じゃねえよ」

 いつの間にか寝こけていた自分の見る、都合のいい幻ではないのだ──と、この、ほんの短い言葉はそれを伝えるには充分過ぎていた。



 いつかの日も、こうして過ごしたことがあったかな──。エドガーの胸にもたれ、その体温や心音に身を任せながら、サイガは久しく安堵する自分を認めている。

 つよく、つよく胸に残った彼のにおいに包まれたあの日、外は霧深く雨音に満たされ、それこそがまるで夢であったかのように幻想的に焼き付いている。

「迷ってンのか、サイガ?」

「……ああ。恥ずかしながら、な」

「べつに」 は、と小さく笑って、エドガーは言った。「こんなイイオトコつかまえりゃ、他が霞むのはしょーがねェだろうぜ」

「なーにが『いい男』か。番いとなる女にまで、己と同格の武芸を求める阿呆がどこにおる。セツナが嘆いておったと聞き及んでおるぞ」

「だ、誰から聞いたんだよそんなことっ」

「クオンだ。あやつらも神羅連和国の仙人として、長らく国を裏から支え続けてくれた者たちだからな。昔話に愚痴のひとつも雑じろうよ」

「ちッ……テメー絡みの愚痴はなかったのかよ…!」

「本人を相手に愚痴を言う強者もそうおらんであろうよ。……そうだな、ライセンくらいならば、何かしら思う処は多かったやも知れぬが……」

「あいつァ真性の親バカだ。殊にテメーに関しちゃ、口を開きゃあ『不出来な子で…』やら『小さい子で…』やら、元老のクソジジィ共が言うような『子供扱い』じゃねェんだよ」

「厳しい男ではあったが、あやつの懐の広さには何度も救われたよ。感謝しておる」

「あークソ。てめェ絡みで愚痴のひとつも言いたかったのは俺くらいかよ」

「どれ。言うてみよ?」 と、ちょっと視線をあげてサイガは言った。「おまえとは長い付き合いだ、これからの俺の在り様に役立つやもしれん」

「まず第一に、自分を大事にしねェ」

「………ぉぅ…」

「お、さっそく聞こえなかったフリかコラ? 他人に任せりゃいいような状況でも、指示より先にテメー自身がカッ飛んでいきやがる。何回ヒヤヒヤさせられたか、わかったモンじゃねェぞ」

「な、よ、よいではないか。俺が出ることで、他の者が傷付かずに済むのだから──」

「ケガの痛みも、喪う悼みも、テメーはよぉーく知ってるからな」

 溜息まじりに答えながら、エドガーは、まるでいじけた子供のように口を尖らせているサイガの身体を改めて包んだ。

「だがな。おまえに何かあったとき、おまえの代わりを務められるようなヤツぁいねェ」

 ──わかっている。

 神羅連和国ですら、サイガの次の皇帝が現れて各王が代替わりを行なうまで、『聖龍王』の座には代行としてライセンが在ったと聞いている。

 ただ、誰もがサイガを讃えたあの時代、それでも彼は自分にそこまでの価値があったかと問われれば返答に困るだろう。連和国の設立も、マステリオンの討伐も、自分が守りたいと思ったものをがむしゃらに守り抜いた結果に過ぎない。当時を知る古き神々はもういないが、天界の記録でもサイガを『賢帝』や『武帝』と讃える文言は多い。彼はそうしたものを見聞きするたび、どうにも苦笑いくらいしかやることがなくなってしまうのだ。

「おまえは、よ」 エドガーは、澄んだ清水の匂いがするサイガの衣に顔を埋め、ぽつりと続けた。「テメーひとりがどうにかなれば、だいたいのことは解決できるって思ってるフシがあるんだよな」

「……そう、かもしれんな」

「実際そうだったこともあるが、そうじゃなかったことだってある」

「…ああ」

「頼れよ。もっと、てめェの傍にいてくれる奴らをよ」

「………」

「誰もそれを迷惑だなんて思やしねェ。──ましてや、これからおまえの『ツレ』になるヤツならなおさらだ」

「──エドガー…?」

 肩越しに相手を振り向こうとしたサイガを、エドガーの腕はぐっと抱きしめて留めた。

「オレはおまえと連れ合いにゃなれなかった。時代もあったかもしれねェが、それ以上に、オレ自身がおまえを選ばなかったからだ」

「……」

 締めるほどに力のこもる腕を心地好くすら感じながら、サイガはそっとそれに手を置く。

「オレがおまえに何を遺してやれたかなんてわからねェ。それでも、オレがしなかったことをやってくれる男が現れたってンなら、オレがとやかく言うことは何もねェ」

 その低い声を震わせて、エドガーは顔を上げないまま言った。

 サイガを愛した男として、悔しくないわけがない。後悔がないはずもない。

「そのときに何をすべきであったか、とは………あとになってからでなければ、わからぬものなのだな」

「ああ……そういうこった」

 残ってやまぬ未練。そこには、当時もっと最善の選択があったはずだとする……あるいは、自身が知りながら選ばなかった道の見えざる先を思うがゆえのもの。

 だが、それが『歴史』なのだ。

「俺は最後まで、おまえに要らぬ心配をかけてばかりであった。詫びる言葉もないよ」

「今更ナニ言ってやがる。それに、惚れたヤツの身の上を心配しねェヤツもいねェ。想ってもらえることまで、迷惑だなんて考えるんじゃねえぞ」

「……ありがとう、エドガー。こんな俺を愛してくれて」

「謙遜もイイトコだ。オレん中じゃ、てめェ以上のヤツなんざどこにもいやしねぇ」

「ああ。…ああ。『聖龍王』として、『光龍帝』として、俺が愛した男は後にも先にもおまえひとりよ」

「だったら」

 と、エドガーの腕に支えられてふたりは向かい合った。その腕が、身体が、ぼんやりと光りながら輪郭を失いつつある。

「前を向きな。オレの一等一番の野郎を、不甲斐ねェバカにするんじゃねえぞ」

「肝に銘じておくよ」

「ま、そーんなこと言ったところで、何百年、何千年かあとには似たようなことで悩んでるのが目に浮かぶぜ」

「…っこら! ヒトがせっかく、心持ちを新たにしようとしておる時に…!」

「はッ、そンときゃあ──」

 サイガが焦って振り上げた拳を避けて身を翻した時、エドガーの姿は、まるで蛍火のように薄らいで消えていってしまった。中途になった言葉が虚空から聞こえるようなこともなく、ただそこには、数時前までの静寂が戻る。

 ひとときの夢。それ以外に表す言葉もない。

「……わかっておるよ、エドガー」

 温かい鼓動の残る胸に手を置き、サイガは呟く。

 そのときには、同じ時を生きる者と共に歩めばよい。それは、もうおまえの役目ではないのだから──。



 メビウスが虚空に上げた手の中に、一枚のカードがきらきらと舞い戻ってくる。

 アルカナ・タロット。時空を越えた召喚術を可能とする呪具だった。

「……月、か」

 その絵柄を確かめたメビウスがぽつりと呟く。

「よかったのか、リュウガ」 彼は、隣に立っている男に言った。「想いを強くさせるようなことをして」

「いいんだよ」 あっさりとリュウガは答えた。「あのひとは迷ってた。断ち切らなくていいものを、断ち切らなきゃいけないって固定観念に囚われていた。それを正すのは、俺じゃできないことだったろうから」

「わからんな」 カードを口元でひらひらと遊ばせながら、メビウスはやはりどこか呆れた表情を隠そうともしない。「私たちはこれからも莫大な時間を生きていく。越えねばならん壁など、それこそひとつやふたつどころではないだろう。自力で乗り越える手段を持たずして、神としてやっていけるのか?」

「だから俺がいるのさ」

 あまりにも事も無げに、きっぱりと言われたものだから、メビウスはうっかり次の言葉を失ってしまった。

「それに、あのひとにとって神羅世界を生きた記憶はこれ以上ないほど大切なものだ。俺にも繋がっている以上、俺はそれを拒絶しないし、そうやって生き抜いてくれたサイガに感謝もしてる。その間のあのひとを、愛してくれた人にも」

「……おまえはたまに、修羅なのか菩薩なのかわからなくなるな」

「一応、闘神なんだけどな……?」

「ま、天界の未来を背負って立つ主神の片割れが、婚姻式の真っ最中に浮かぬ顔をしていても示しがつかん。この程度で晴れる迷いなら易いものだな」

「易かったか? 礼はどうしたものかと考えてたんだけど」

「なんなら今からカラダで払ってくれてもまったく構わないぞ」

「そういうとこだぞおまえ」

「だいたい、サイガといいおまえといい、ただひとりの相手に一生を尽くすという考え方が私には理解できんのだ。『ヒトゆえの迷い』を自分たちにも容認するというなら、それこそ心揺らぐ機会は幾度となく回ってくるぞ」

「そのときは、また解らせるよ」 ふふ、と、まるでその時が来るのを楽しみにしているかのように、リュウガは小さく笑った。「『あなた』を『永遠』に愛せるのは、俺ただひとりだってな」

「そういうところだぞ、おまえも……」

 ……サイガのやつ、とんでもない男に捕まったな──。そう思わずにはいられない。

 だがメビウス自身もまた、そんな彼を見て考えるのだ。

 これほどの熱を秘めた者に、一度は愛されてみたいものだ、と──。

「さて。明日は早い、私はそろそろ寝させてもらうぞ」

「ここで寝るなよ」

「そこまで見境を失ってはいない。ねぐらへ戻るに決まっている」

「本当に、明日の朝には発つのか?」

「さあな?」 くあ、と、あくびまじりにメビウスは言った。「朝に発つなど私は一言も言っていない。時間をいつにするかは私の勝手だ」

「……そうか」

 こいつの気まぐれな言葉遊びに付き合っていたら、自分の方こそ眠る時間を失いそうだ。夜も随分と更けたが、もう眠るに遅い時間ではまだない。それにサイガは、おそらく今夜はここに来るまい。すべての楽しみを明日に預けて、今は静かに時の経過を受け入れよう──。

「おやすみ」

 誰にとなく囁いたリュウガの声と共に、主神の神殿から静かに灯りが落ちた。




                               END(2020/06/14)