神の

   
 カランカランカラン……木製のドアに取り付けられた、厚めのベルが低く鳴る。店主の席で読書に耽っていた男は真紅の瞳を上げ、入ってきた青年の姿を確かめた。

「珍しい客だな。いらっしゃい」

「……客ではない」

 驚いたことに、ふたりの声と姿はほとんど同じだった。多少の年齢差、高低差こそ見られはするが、親子や兄弟という言葉すら不自然なほどに。

 ただ、入ってきた青年の声は、誰が聞いてもわかるくらい憔悴している。

「ふふ。『喋らせるな。そのくらいのこと、言わなくてもわかるだろう』と?」

 その様子すら面白い、というように、店主の男は首をもたげて微笑った。伸びっ放しと称されても致し方のない、長い金髪が頬にかかるのを払って。

「まあ座れ。よくそんな状態でここまで来たものだ」 店主はホールの片隅にある接客用のテーブルセットを促した。

「……」

 溜息とは程遠い、腹の底に澱んだ何かを吐き切れぬ深い吐息とともに、緩慢な動作で腰を下ろした青年は、すぐに外套を解いて襟を緩めた。

 その息遣い、顔色、目つき──熟練の医師でもある店主の男は、相手を品定めでもするように注視しながら歩み寄り、対面に落ち着く。

「……相変わらず」 と、青年は店の中を目だけで見まわしながら言った。「何をされているのか、よくわからない店構えだな」

「魔導技術に 関わることなら何でもしているさ」 何のことは無い、と、男は肩を竦めながら答える。「だが、基本的には薬学に携わることが多いな。この世界のそれは、まだ極めて原始的だ。止血・消毒効果のある薬草など街道にいくらでも自生しているというのに、ここの者たちは精製された薬品を使いたがる」

 ぬぺっ、と濡れた音がして店の奥からスライムのようなナニカがやってきた。

 大人の頭ほどの大きさで、分泌する粘液で床を濡らしながら、数本の触手で器用にトレイに乗せたティーセットを運んでくる。感覚器らしきものはどこにも見当たらないが、テーブルの上にそれらを置き、カップにしっかり適量を注ぐところを見るに、相当発達した器官を備えているようだった。

「……前には居なかったな」 青年は言った。「新しく作られたのか?」

「ああ。『家事を手伝ってくれる魔法生物』というリクエストがあったのでな」

 店主が手振りで合図すると、スライムは彼の膝の上へ飛び乗っていった。どうやら感情があるらしく、さっきまでは無色透明だったのに、ほんのり緑をはらんだ色合いに変わっている。

「家事は教えてやる必要があるが、言葉は不要だ。主人の魔力波長を読むので一度実演してやるだけでいい。速乾性の粘液には浄化作用があり、這わせておくだけで掃除になる。日光を生命力に変換するから食事も不要だが、菓子を好物にしておいた」

「何故?」

「ペット感覚のほうが愛着もわくだろう? 無論そういうものを撤廃した、純粋に『使役』するためだけの個体も在るがな。…一匹どうだ?」

「……アルスターの娘に勧めておく」

 ジゼルの趣味はわからないし、これを『カワイイ』と感じるかどうかもわからない。そもそも彼女は、父親からの贈り物であるドクロウくんを使役している。この生物を手伝いにつけるのは今更のような気もする。

 ──と、あれこれ考えているところで、目の前の男がふっと小さく笑った。

「アルスターの娘、か」

「なんだ」

「いや。私はおまえ自身に勧めたつもりでいたのだが、もうすっかりあの家の一員だな」

「私には『手伝い』など間に合っている。お気遣いはありがたいが不要だ」

 突っぱねるようにそう言って、青年は自分のカップを持ち上げた。すぐに口をつけるのでなく匂いを確かめる間を置き、慎重に少しだけ口に含む。

 そんな、会話の途切れる間を機としたように、店主の男はスライムを床に戻すと、姿勢を改めて言った。

「かなり長い期間、まともなものを食っていないな」

「……」 口がカップについているからか、青年は何も言わなかった。

「細部への魔力循環が著しく鈍っている。死にはしないだろうが、そんなザマでは家の者にさぞかし心配されているだろう」

「体調が悪いとは伝えている。まだ勘付かれるほどでは……」

「ほう」 その返答に引っかかるところを見つけた男は、興味深そうに言った。「旦那はどうした?」

「鬼龍北部で新たに見つかった遺跡の調査へ駆り出されたきりだ。ここ二ヶ月は戻っていないし、まだ…しばらく……」

 と、青年の呼吸が重く乱れた。深く吸おうとして、失敗したように口元を押さえると、背筋を伸ばしてもいられないらしく、ぐらりと身体を傾ける。

「つらそうだな」 店主の男はその肩口を支えてやる。

「いい、触るな。しばらくすれば…」

「治まるのを待つだけならば、ここに来た意味もあるまいよ。それに、もうじき薬が効く。無理をしてせっかく来たのだから診療はされて行け」

 その言葉を聞き終えないうちに、意識がぼんやりと溶けるように崩れるのを感じた。疲れ切っているところをようやく眠れる──そんな心地好さすら含んだ強い睡魔に、弱った身体で抗えるはずもなく、青年は言葉もないまま相手の腕の身を委ねた。



 花の成分を含んだ石鹸の香りに、湯の匂いが入り交じる。

 身体を包んだ濃密な泡が、湯を含ませた温かい布に撫でられ溶けていく、その感触がどうしようもなく心地好くて、メビウスは、ここがどこなのか、自分が何をされているのかも考えることをすべて放棄して目を閉じていた。

 人の気配はない。

 水や、湯や、用具のいちいちが命や意志を持つように動き回って、対象の身体を温め、清めていく。

 気を失う直前の、途方もない気持ち悪さと澱みにも似た感覚はかなり薄れている。石鹸や湯に混ぜられた薬草の成分が浄化の効果を持っているのだろう。内臓を圧迫されるようで、あれほど苦痛だった、深く呼吸をする行為がまったく苦にならない。

 いつまでもこの湯に浸かっていたい気分だが、そうもしてはいられまい。『作業』を終えたものたちが所定の場所へ戻っていき、湯ですら勝手に排水溝へ消えていくのを見届けて、メビウスはようやく緩慢に身を起こすと、まるで楽園のようだった浴室を出た。

 清潔な布が彼の濡れた髪を軽くまとめ、バスローブまでが本来の定位置のように身体にまとわれるのを当然のように受け入れると、彼はやっと自力で扉を開いて廊下へ出ていく。

「やあ、終わったか。──どうだった」

 診療所の一室に似た清潔な部屋で、また別の本を読んでいた旧き者が振り向き、面白そうに訊ねてくる。

「……魔導関連の生物や薬物の作成より、『こうしたこと』を生業にしたほうがよかろうにと思った」

 極めて率直な感想だ。気の利いた言葉も、皮肉めいた言葉も何も浮かんでこないのは『薬』とやらのせいなのか、それともまだ心地好さで頭が蕩けているせいなのかすら、彼は自分で判断できなかった。

「ふふ。素直な褒め言葉として受け取っておこう。飲み物を用意してある、飲んでおくといい」

 診療台とも言うべき大きなベッドの傍に置かれた小さなテーブルで、植物の匂いを立てる湯の入ったカップがある。ソーサーに添えられているものは平たいクッキー菓子に似ているが、甘い匂いはしなかった。栄養食に近いものかもしれない。

「……さて、まずは率直に言おうか。おまえ妊娠しているな」

「…………」

 男に対する言葉では絶対にないそれを聞いても、メビウスは驚きも否定も拒絶もせず、黙ってカップの中身をすすっていた。近ごろ味覚が著しく変化していて、普段普通に口にできたもののほとんどを食えなくなって久しいというのに、これは何の抵抗もなく飲むことができ、また食べることができる。苦痛なく『食事』ができるのは、ありがたいことはこの上ない。

「完全に栄養失調だ。全身の魔力が弱っていたのは、肉体の生命活動を最優先に回したからだ。ただでさえ胎児の生育に魔力を取られているというのに……おまえだから保ったようなものを、通常の人間……魔人では、数週間と保たなかっただろう」

「……『入院』は必要か?」

「おまえが望むならな。そのタチの悪い悪阻が治まるまでの面倒は見てやろう」

「標準的な期間で見て、あと三ヶ月といったところか……」

「『家族』には知られたくないか? おまえに限って流産や死産は絶対にない、黙っていてもそのうちバレるぞ」

「……ヴァンが戻って来たら、話すつもりではいた。家の者には、余計な心配も手間も、かけさせたくはなかったんだが……」

「ここに来た時のあのザマで、よくそんなことが言えたものだな?」

 あまりにも真顔でずばりと言われたものだから、メビウスはつい目を逸らしながら、げっ歯類のように栄養食を咀嚼する間で返答をはぐらかした。

 気まずい時には無言になってしまうメビウスの癖を知っている旧き者は、やれやれと諦めの混じった吐息で話題を切り替えた。

「おまえの『洗浄』中に、アルスターの娘から連絡があったぞ」

「え」

「おまえのことを頼むと念を押された。幼くとも、女のカンとやらはもう立派な大人だな。あの養父にしてあの娘アリだ。それに、おまえがいざとなれば『私』くらいしか頼る者がないこともよく知っている」

 ──それは、何もメビウスが無頼の精神や存在であるという意味ではなく、いざ彼の肉体に異変があらわれた時、この世界の人間では、治療はおろか診療すらできない領域の存在であるからに他ならない。

 自己判断もできないほどになったメビウスを正しく診ることができるとすれば、理念や精神構造こそ違えど根本を同一とする、この旧き者くらいしかいない。だからだ。

「入院せざるを得ないようだな…」

 ふ、と溜息を吐いて、メビウスは覚悟を決めたように言った。このままちょっとした栄養食を食べただけで帰っては、さっさと入院して来いと追い出されそうだ。

「ところで、おまえ」 旧き者は、心底不思議そうに言った。「自分が妊娠していることに、何の疑問もないのか?」

「……それを当人に訊くか……」

「そもそも、ある程度は自己判断できていたのだろう。だが、あまりに悪阻がひどくて自力でどうしようもなくなったからここへ来た……だろう?」

「わかっているのなら、それ以上は問わないで頂きたいのだが……」 疲れた表情で、淡々と続ける相手を制しながらメビウスは言った。

「しかしおまえ、その様子では、自分が何故そうなっているのかまでは解っていないな?」

「ヴァンの精力と生命力が強すぎただけじゃないのか」

「投げやりと無責任にも程があるぞ。少なくとも新たな命をその身に宿しているくせに、その他人事な言い草は何とかしろ」

「……別に、私に『責任』がないとまでは言っていないさ」

「ほう?」

「ただ、な。……ただ、突然すぎて、頭がついてこないのだ」 メビウスは、新しい命が眠っている腹をそっと抱いた。「ヴァンは長らく子供がほしいと言ってはいたが、私では……」

「まあ、性別的に『できるわけがない』と思うのが普通だな。しかし現にこうしておまえは妊娠している。人間の願いが神に届いた、典型的な例とは考えられないか?」

「は?」

「人間の生活で、自分が神である自覚まで忘れていたか? 人間が、強く捧げた祈りや願いに、おまえが応えた──それだけの話ではないか」

「私が……応えた?」 メビウスは唖然と言った。「ヴァンの望みに?」

 どれほどの想いを心に秘めれば、あれほどの頻度と激しさで人を愛せるのか──思い返すだけでも身体の芯が熱くなる行為のたび、ヴァンはメビウスに「自分の子供を産んでほしい」と言っていた。熱に浮かされたような快楽の余韻がいつも邪魔をして、はっきり覚えていたことなど数えるほどしかないが、答えは決まって「できるわけがない」だった。

 だって自分は男なのだ。ヒカリという娘がいるにしても、神同士の特殊な交わりを経た結果であって、実際に『産み落とした』わけではない。

 できるわけがない。

 ……でも、それがおまえの切なる望みだというなら、私は──。

「まあ」 と、旧き者は言った。「もっと正確に言っていいのなら、ヴァンの望みに対し、おまえが『応えたくなった』というのがもっとも──」

「やめてくれ顔から火が出る」

 言葉の通り相手の顔を見ることもままならないのか、メビウスは両手で顔を覆って言った。それはつまりこういうことか? 私が、ヴァンの望みに……想いに、『愛』に、応えたいと望んだから──。

「……っ」

 どうしよう──。まるで子供のように、何度もその言葉が彼の頭で渦を巻いた。どうしよう、どうしよう、どうしよう──。

(嬉しい……っ)

 自分の腹を抱き、事切れたように沈黙しているメビウスを見て、旧き者はさらさらとカルテのようなものを書き込みながら言った。

「まったく。『私』も将来そうなるのかと思えば複雑な心境だが、……今のおまえの顔を見ていると、それも悪くないと思えるのは不思議なものだな」

「んなっ…!」 メビウスは慌てて顔を上げた。真っ赤になっているのは、今だからか、それとも元からだったのかわからない。「わ、忘れろとは言わないが、こ、このことは他言無用に願いたいっ」

「その想いや感情の集大成を『幸福』というのだ。……だからと言って、プライバシーも考えず誰彼構わず患者のあれもこれもを口外していては信用を失う。私とて医師のはしくれだ、そのあたりの信用はしてくれて構わないぞ」

「……」

「なんだ」

「変わられたな、あなたは」

「ああ。おまえと違って、そのへんの自覚はしているよ」

 患者の情報をすべて記し終えたカルテをパタンと閉じると、旧き者は何かしら念波を放ったらしく、さっきのスライム生物がぬめぬめとやってきた。

「そろそろさっきの栄養食も吸収が始まっているだろう。悪阻まではどうしようもないが、魔力の回復具合から見ても、あと数日はロクに食えなくても活動が可能だ。その間に、家の者と話を付けてこい」

 スライム生物が伸ばした触手で差し出して来たのは、メビウスの法衣だった。あまりに居心地がいいのですっかり意識外になっていたが、自分は浴室から出てそのままの姿だったことを思い出す。

「なんならそいつは連れて帰ってもいいぞ」

「……いや」 バサリとまとった法衣をひるがえし、メビウスは言った。「入院中の私の面倒を見てもらうのだから、ここにいてもらう」

「気に入ったのなら、素直にそう言ってくれれば、製作者冥利にも尽きるのだがな」

 やれやれと肩を竦める旧き者の足下で、スライム生物はほんのりと緑色を帯びて、ユラユラとゼリー状の身体を揺すっていた。どうやら『緑』は、喜びの感情を示すらしい。

「話がまとまったら、また連絡させていただく」 メビウスは診察室をあとにする手前、肩越しに言った。「それと……手間をかけたな、ありがとう」

 そんな相手にヒラリと手を振って応えた旧き者は、まだ嬉しそうに触手までウヨウヨさせているスライム生物を見下ろしながら、ふうっ、と一つ溜息を吐いた。

「まるで弟だ。……まったく、あれが『未来の自分』とは思えんなあ」



「ただいま」

 こんな挨拶をすることにも多少は慣れたなと思いながら玄関を開くと、

「あっ、帰ってきた!」とジゼルが驚いて言って。

「おかえり、出ていく前よりは顔色いいじゃない?」とゼルが面白そうに言って、

 そして。

「メビウス!」

 不安げな響きの声で呼んで駆け寄ってきたのは、今はここにいないはずのヴァンだった。

「大丈夫なのか? 『兄さん』とこに駆け込んだって聞いたから驚いたんだぞ」

「なんでおまえ…」 メビウスは片言のように言った。「まだしばらく発掘調査があるんじゃないのか」

「あんたが具合悪い時に、仕事なんか集中できるわけないだろ!」 何言ってんだ、と、少し怒ったようにヴァンは言った。「古墳は速攻で玄室までブチ抜いて、あとは調査隊に任せてきたよ」

 それでも踏破はしてきたのか──。こいつらしいな、と思わず苦笑いが出そうになるが、旧き者の『店』からここまで歩いて戻ってきたせいもあり、体力が尽きそうで気分が悪くなってくる。

 そろそろ横になりたい──そんな欲求が呼吸を深くする。

「気分悪いか?」 ヴァンは言った。「悪いジゼル、アデルの部屋のベッド頼めるか?」

「大丈夫」 ジゼルは心配そうにしながら言った。「メビウスさんが出掛けてる間に整えておいたから、すぐ横になれるよ」

 ヴァンの体格ではメビウスを抱きあげるようなことはできないし、ゼルは物珍しそうに見ているだけで手伝いを期待できなかったから、メビウスはヴァンに身体を支えられる形でアデルの部屋へ入り、大きなベッドへと慎重に横たわる。

 正直に言えばぶっ倒れたい衝動が強かったのだが、そんなことをしたら一発で吐きそうだった。

「…ヴァン」

「うん? 何か食べたいものとか、ほしいものがあったら言えよ?」

「いや、今はいい……それより、『あのひと』のところでしばらく世話になることにした」

「ああ。あんたがそうしたほうがいいと思うなら、それでいいよ。……っていうか、メビウス?」

「ん」

「あんた、『なんか』連れて帰って来たのか?」

「………いや?」

「…おっかしいな、確かに気配がしたんだけど」

 さすがにあのスライム生物が背中にくっついているというわけではなさそうだし、服の中に入り込まれればさすがにわかる。『入院』が決まった手前、あの旧き者が偵察や観察用のナニカを同伴させることも考えにくい。

 では、こいつは何のことを──。

「……そうか」

「え?」

 メビウスの呟きを聞き付けて、ヴァンが首を傾げる。

「わかるんだな。おまえは」

「え、なにがだよ?」

 さすがだなあ──恐ろしく素直に感心すると同時に、どういうわけだか嬉しくて泣けてくる。今ここに『在るもの』を感じているのは自分だけではないのだ。ヴァンだって、正体こそ掴めずにいるけれど、はっきりと意識している。

 これが素質で。

 これが想いで。

 そしてこれが、『愛』だなんて胡散臭い言葉では到底あらわしきれない、私たちの関係なのだ──。

「ヴァン、実は……」




                               END(2020/07/12)