雷獣の花嫁


    6


「……」

 彼らを見送って程なく。

「……気に入らねェな」ぽつりとエドガーが言った。

「ええ、気に入りません」アレックスが同意で応える。

 あの、龍姫院という男──。彼らの目を据わらせる原因は、言うまでもない。

 庭で会った時の、彼の言動。そして今しがた聞いた、これまでの挙動。

 それはライセンが言うような『不敬』に留まるものではない。

 下手をすれば本当にサイガが殺されるかもしれぬこの事態において、ライセンを支援するでなく元老には静観を促して、サイガの命運よりも先にその後の責任に言及したあの男の言葉が、ふたりの王の胸中をくすぶらせる。

 そこには、彼がサイガの生死など微塵も気にしておらず、むしろここで死んでくれるならば有難いとさえ考える胸の内が透けていた。雷獣がサイガを殺せば仇討の名目で現存するすべての雷獣を一網打尽にでき、更なる収益が見込めるからだ。おまけに現王家断絶となれば旧時代より王族の血を濃く継ぐ自分の一門が復権するのは目に見えたこと。あの男はその機を狙っている……否、待ち焦がれているのだ。

 そんな醜い野心を、彼は将軍らの質疑に答えたように聞こえのいい言葉で飾り、包み隠している。ものは言いよう──というやつだが、これほど気分が悪いそれも珍しい。

「言っておきますけど、ああいう輩に『手』を出したらこちらの負けですよ」アレックスは言った。「勝つためには証拠を突き付けて、論破するよりないんです」

「一番苦手なタイプだぜ」チッと舌打ちしてエドガーは言う。

「サイガのことは心配ですが、今はライセン殿が戻られるのを待ちましょう──」

『おい、エドガーッ』

 と、アレックスの言葉が終わるのを待たず、上空から白い獣が駆け下りてきた。聖龍木に待機させていたゼクシードだ。

『こんなトコでノンキに話し込んでる場合じゃねェぞっ』守護獣は鼻息荒く言った。『元老のジジィどもが、西の森に雷獣討伐隊の派遣を決定しやがった!』

「ばっ……!?」

 バカじゃねェのか、という叫びと驚愕が同時にきて、エドガーはたまらずは絶句したようになった。

 龍姫院は庭で元老らに言っていた。ライセンが雷獣の調査に出るなら、自分たちは自分たちにできることをしよう──と。

 一見、理にかなった行動のように見えるが、アレックスすら疲弊させるほどの攻撃が可能な彼の獣に、ライセンとシオンを欠いた聖龍王廷が出せる一般兵など何の役に立とう。それにそんなことをすれば余計に雷獣を刺激することになる。逆上した獣がサイガを殺す危険性を上昇させるだけだというのが解らないのか──。

「アレックス! オレらも行くぞっ」

「はいっ」

 危機感に任せ守護獣に飛び乗るエドガーに続いて、アレックスもヴァンファレスのもとへ急ぐ。

 緊張を要する場面においては、事態は常に最悪を考えて動く──それが彼の持論だ。

 サイガが行なった軍事改革によって、国家所有の兵団らを元老が動かすことはもうできない。そうなれば、このたび派兵されるのは間違いなく龍姫院が構える私兵部隊だ。派遣の名目は雷獣討伐……すなわちサイガの救出と思われるが、おそらく実態はそうではない。

 アレックスが危惧する『最悪』の事態──。

 それは、人知れぬ土地でのサイガの謀殺に他ならなかった。



 転移に等しい瞬間移動で聖龍殿より攫われたサイガは、視力もろくに回復せぬうちに洞穴の暗闇に放り込まれた。

 彼の目は明暗だけを辛うじて感知できる状態で、岩壁も地の形状もわからない。それゆえに足元の凹凸に足を取られて転倒するも、柔らかな何かに受け止められて地に打ち付けられる難を逃れた。

 ……いや、それこそが難であったのかもしれない。

 何の感触かと思いおずおずと手で探ってみれば、鼻をつくのは嫌な腐臭。耳に届くのは虫の羽音。数秒遅れてそれが獣の死体であることに気付いたサイガは慌てて身を離そうとしたが、背後から獣の脚に肩をガッと強く押さえ付けられていた。

「ぐあぁっ!?」

 そこが未だ癒え切らぬ傷を抱えた側であったせいで、苦痛の悲鳴が口をつく。今日明日にもという予定の抜糸が実施されていなかったおかげで傷がばっくり開く事態には至らなかったが、布越しに鋭い爪を打ち込まれ、衣がじわりと熱く濡れる感触がある。

『我ガ・母上ダ』獣は言った。『貴様ラニ・傷ヲ負ワサレ、苦悶ノ中、逝ッテシマワレタ』

 同じ痛みを味わえとばかりに傷を踏みにじられ、痛みのあまり嫌な汗が頬を伝う。視界が利かず相手の挙動が見えないことも相俟って緊張ばかりが強まり、知らずと身構えるせいで苦痛が無駄に増大されてやまない。

『フガクノ・目ノ前デ・貴様ヲ・引キ裂キ……』獣は敵意をむき出しに唸った。『奴ニモ、同ジ地獄ヲ・見セテ、ヤル』

「……ふ、フガクは…っ」サイガはやっとのことで言った。「俺の祖父は、もう……居らぬ」

『ナニ?』

「三月ほども前に……っ身罷られた…のだ……」

『オノレ、嘘ヲ・言ウナッ!』

「嘘ではないっ」今ひとたび傷口を抉られるかもしれぬ危機感に駆られるまま、サイガは強く言葉を返した。「それでなくとも、すでに祖父は聖龍王を退かれておる。今の聖龍王はこの俺だっ」

 ──獣は沈黙した。サイガの言葉の真偽をはかるように。

 だがその喉元は未だ低い唸りを発しており、フガクがすてにこの世を去っていたところで、彼の怒りも憎悪も消えはしないことを如実に物語っている。

 いや、むしろ。

『貴様ノ・ヨウナ・ガキガ、王ダト?』獣は不審をあらわに言った。『ナラバ、我ガ一族ノ・虐殺ニ・ノミナラズ、先ノ・赤竜ノ大移動モ・貴様ノ不手際カ』

「……っ、そうだ…すべては俺の力が及ばぬがため」サイガは感情を抑え、声を震わせた。

 否定する要素は何もない、そのとおりだ。家臣が信用に足るかどうかを見極めることもできず、挙句うわべの口車に情を揺らされて決断を迷ってしまった。すべて俺が至らぬがためなのだ──。

『ホンノ・数日前』雷獣は言った。『我ラ母子ハ・追ワレタ』

 数匹の仲間の行方が知れなくなっていたこの半月、雷獣たちも森への侵入者には警戒していた。だがどれほど身を隠そうと、過去の駆逐活動で『波長』を掴まれていた彼らはいとも簡単に見つけ出され、武具を手にした密猟者たちに追われることとなったのだ。

 行く先々で回り込みがされ、ついに母の脚は罠にかかってしまった。

 迫る密猟者から逃れるために、母は自らの脚を喰いちぎる。しかし時既に遅く、そこまで来ていた連中の持つ小太刀が、逃亡しようとした母の脇腹を深く斬り裂いていた。

『奴ラハ皆、笑ッテイタ!』獣は激昂した。『アレハ・ヒトノ目デハ・ナイ! 我ラヲ・物トモ思ワヌ・羅刹ドモ・ダ!』

 母は罠から自力で逃れられねば、生きたまま皮を剥がれ肉を削がれるところであった。

 仲間がそうなるところを目撃したのではない。雷獣は、自分たちを追う密猟者たちがそうしようと交わしている言葉を聞いたのだ。

 彼らはただの獣ではない。魔人たちの言葉を理解し、また魔人らに言葉を伝える力を持つ、意思の疎通が可能な高度生物だ。もっと言えば、魔人たちとは姿形が違うだけの近しい存在と称してもいいだろう。

 密猟者はそんな彼らを追い回して罠にかけたばかりか、その知性と理性に見合う尊厳もない惨たらしい死を強いたのた。欲望に目が眩んだヒトが発揮する残虐性は、時に魔物のそれをも容易く凌駕する。先の報酬に魅せられ目をぎらつかせた密猟者たちに追われるなど、それはどれほどの恐怖であり、また屈辱であったことか。

 そして今、サイガがその身を押し付けられたこの獣の死体こそ、かくして負わされた致命傷によって命を落とした彼の母なのだ。

 事態に気付くこともできず、どうしてやることもできない我が身の歯痒さで泣けてくる。だがどんなに同情したところで獣の母は戻らない。

 フガク亡き今、事態への責任はサイガの身にのしかかっている。もし獣の気が済むならいっそ自分が殺されても構わないとサイガは心から考えていたが、ここでもし自分が獣の牙にかかって死んだとして、その後どうなるかを思うと安易にその道は選べなかった。

 理性的に考え得る得策はサイガが聖龍殿に戻り、首謀者を摘発してこの雷獣の前に突き出すことだろう。しかし怒りと憎しみに駆られるまま白昼堂々聖龍殿に乗り込み、未遂に終わったとはいえフガク抹殺を実行しようとしたこの獣に、今更謝罪など効果があるのか甚だ疑問だ。

 サイガを殺すか、首謀者を殺すか。あるいは感情を発散しきるまで破壊し尽くすか……何にせよ事態はすでに、誰も傷付かずに終われる選択肢などもやは無いところにまで来ていた。

『愛シキ・家族ヲ・傷ツケラレ……』獣は言った。『苦シミ・ナガラ・弱リ・ユク・様ヲ、貴様ハ・見タコトガ、アルカ!』

「……」

『答エヨ!』

「──無い…っ」

『必死ノ・介抱モ・空シク、セメテ・最期ヲ・看取ル・コトモ・叶ワナカッタ・我ガ無念ガ、貴様ニ・ワカルカ!?』

「……解らぬ、解ることなど……っ」

 自分と同じだ──サイガは亡き祖父フガクを思い、獣の心中を痛いほど察していた。

 フガクは死んだ。病や老衰などという要因ではなく、何者かに殺されるという最悪の結末を迎えて。

 祖父に討たれる謂われはどこにもなかった。サイガにとって──否、世界人類にとって彼は誉れ高く誇り高い皇帝であった。なのに、そんな彼を殺した者がいる。そして中央を閉じ、先王をも奪って世界を混乱させようと目論む者がいる。未だそれが何者であるか知れず、目的も理由もわからないが、ロクな理由でないことだけは確かだ。

 サイガは王となった日、誰にも告げることなく胸に誓いを秘めた。祖父を殺した犯人を必ず突き止め、この手で仇を取ってやると。だからこの獣は自分と同じだ。大切な家族を理不尽に奪われて、失った苦痛や悲哀や虚無を仇討ちという行為にぶつけている。その無念がどれほどの激情であるか。察することこそできても、理解などできようはずもない。

 感情には、やり場がないよりはあったほうが絶対にいい。どんな負の感情であっても、何もかも諦めて心身を喪失するより行動を起こすほうがずっといい。

 どんな形であれ、世界は必ずその者を受け止めてくれる。存在を認めてくれる。どのような結果であれ、答えをくれる。

 そして、それは間もなくやってくる──。

『王デアル・貴様ニハ、責任ト・役目ガ・アル』獣は言った。『不出来ナ・家臣ドモヲ・ソノ手デ・皆殺シニスル・役目ト、自ラモ・命ヲ・絶ツ・責任ガ』

「……」

 否定も拒否もできるはずがない。バカなことを、と驚きもせず、サイガは黙って獣の言葉を聞いている。

 バヂッ。獣の白銀の体躯が鋭い電撃を帯びる。──否、獣の肉体は見る間に白い霞となり、瞬きを帯びた雷雲へと変わりつつあった。獣の体温を帯びた霞がサイガを取り巻き、呼吸をするように速やかに身体の中へ入り込んでいく。

『聖龍ノ・愚カ者ドモガ、近付イテ・イル…』獣の声は言った。『貴様ハ・意識ノ・底デ、己ガ・ソノ責務ヲ・果タス・ノヲ、見届ケル・ガ・イイ』

 手足の感覚が遠のき、近く漂っていた腐臭が消え、肩口の痛みですら感じなくなっていく。

 獣の意思を宿した霞に憑依され、身体が自分のものではなくなっていく。

(俺にはもう、どうすることもできぬ……)

 もとより見えなかった目を閉じ、唯一残された思考をサイガは紡ぐ。

(エドガー、アレク。すまぬ)

 感覚を確かめるように、彼はゆっくりと身を起こす。彼自身の意思とは関係なく両手を伸ばし、横たわる死体に──否、母の遺体へ祈るようにすがった。

(あとは……頼む……)

 滑り落ちる意識とは裏腹に、『彼』は母の咢を両手に抱いて静かに口付けをした。


    7


 獣の記憶は、ごく最近のものであるにも関わらず、古びた記録のようにかすれ、しかしきつく、焼き付いている。

 暑い。

 照りつける日射しは、獣から容赦なく体力を奪って疲弊させていく。

 彼は夢中で疾っていた。幾度となく背後に迫る追っ手を振り切り、あるいは電撃を撃ち込んで焼き殺して、ひたすらに野山を駆けた。

 そのうち獣牙大陸の荒廃した山岳を抜け、海に点在する幾多の島を渡り、緑豊かな聖龍大陸へと到達する。

 もうすぐだ。もうすぐ、助けてやれる──。獣は逸る気持ちを傷だらけの脚にかけ、最後の森を飛び越える。彼が渾身の力で天空を横切るとき、澄み渡る青天にすさまじい電光と破裂音が響き渡った。

 かくして山奥の巣穴に、彼は帰還する。

『母上!』獣は呼んだ。

 けれど。

 応える声はない。

『母上、ドウサレタ、ゴ無事カ!?』

 彼は呼びかけながら洞穴の奥へと進もうとして、異変に気付いた。

 脚が竦んで、動けなくなった。

 薄暗い闇に包まれたそこから漂うのは、蒸した熱気と、かすかな腐臭。すでに数匹の虫が入り込んで飛び交い、奥に横たわる獣の身体に集っている。

 彼がくわえたままだった薬草の束が、はらはらと岩の上に散り落ちた。

 遅かったのだ。

『母上……母上』

 いくら呼びかけようと、相手が身を起こすことはない。

 今からほんの数日前、この獣の母が脇腹に受けた刀傷は、その時点で内臓に到達する致命傷であった。まだ若い子の獣はそれを知る由もなく、治療のために各地を奔走し、ようやく手に入れた一束の薬草を持ち帰ったところだった。

 ──遅かったのではない。

 もはや、手の施しようがなかったのだ。

『オノレ……』

 咽び泣く獣の心に、憎しみの火が灯る。おのれ獣牙の民ども、憎らしや聖龍王。我らをこの地へ封じ込め、根絶やしを謀ったな──。

「……母の仇を討ちたいか」

 と、獣の背後で男の声がした。

『ナニモノダ!』

 カッと目を剥いた獣が帯電し、振り向きざまに額から青白い電撃を撃ち出す。

 だがそれは、彼が手にした金色の錫杖にあっけなく打ち払われていた。すっぽりと目深にかぶった漆黒のマントが大きくひるがえり、杖と同じ色をした長い髪がざわりとなびく。

「おまえたちから棲む地を奪った獣牙族と、おまえから母を奪った聖龍族……」男は淡々と言った。「奴らに目にもの見せてやろうというのなら、私が手を貸そう」

『ナンダト……?』グルル、と唸りながら獣は問う。『ニンゲンゴトキガ・魔人ドモニ・敵ウト・思ッテ・イルノカ』

「私の力量を侮るならばそれで結構。この話は無かったことになるだけだ。私とて奴らには恨みがある、おまえとなら良いパートナーになれると思ったのだがな」

『……ナニ?』

 立ち去りかけたその足が、獣の呟きを聞きつけて停まる。

『イイ・ダロウ……ソノ話・乗ッテヤル』

 低く、未だどこか探るようではあったが獣は決断した。

 この獣は、一時期は魔人たちからも『神』あるいは『御使い』と称されたことのある存在。そんな自分が放つ電撃を一撃のもとに払ったのだから、相応の力はあるだろうと認めてのことだ。まだ若いとはいえ、そのくらいの判断はできるつもりでいた。

 だがもし、彼の母が健在であったなら、男はすぐさま追い払われていたであろう。

 獣は、相手の力こそ計れても、相手の言葉の真偽までを見抜くことはできなかった。

 聖龍や獣牙に恨みがあるなどと、そんなものは完全なでまかせであったのだ。



 討伐隊と称された私設軍隊が里を経って程なく、平地に凄まじい落雷があった。

 地上を行進していたつわものであったはずの者らが、まるで蟻の子のようにあっけなく吹き散らされていくのを、アレックスとエドガーは上空から見た。

 街道に植わる木々が衝撃波でへし折られ、高温のあまり発火しくすぶる土煙の向こうで、白銀の電光をまとった人影が揺らめく。

「まさか──」

 たまらずアレックスは絶句した。

 緩慢な歩調で現れたのは、紛うことなくサイガであった。どこを見ているとも知れぬ赤の瞳は虚ろであり、一目で何かしらの操作を受けているらしいことが察せられる。

 ところが人形のように表情を失っていたその顔が、間近く広がる聖龍の里を、そしてその奥に鎮座する聖龍殿を見据えて牙を剥き、激しい怒りあらわにした。

 いけない──! 何を考えるまでもなく、ふたりの王は守護獣から飛び降りていた。中空で羽ばたくことで落下速度に拍車をかけたアレックスが、エドガーより先に地へ到達する。

「七天、伐刀!!」振りかざした七支刀に、サイガの解放の言葉が乗る。

                       
-フレイム・ストーム-
「唸れ、神炎!」アレックスは叫んだ。「火 炎 旋 風!!」

 手に召喚した炎帝の剣は、すでに彼の身体の一部がごとく魔力充填を完了している。解き放たれた力は、迫り来る電光に劣らぬ炎をまとった衝撃波を撃ち出し、真っ向から激突した。

 と、そんな魔力の奔流の向こうから、本人が滑空するように突っ込んできた。振り下ろされる大ぶりの刃を、細く流麗な刃が受け止めた刹那、辺りのくすぶりを吹き散らす衝撃波が駆け抜けていく。

「貴様に恨みはないが、邪魔をするならば皆殺すまで!」到底サイガの思考ではあるまい言葉が彼から発せられた。「命惜しくば退くがいい、飛天の王よ!」

「そう言われて大人しく退く程度の覚悟なら、元よりここに飛び込みはしないさ!」アレックスは負けじと言った。「おまえは雷獣だな!? サイガに何をさせるつもりだ!!」

「知れたこと! 家臣の罪は王の罪、このガキに、己が力不足をその手で償わせる!!」

「──ふざけンじゃねェぞ、ケモノ風情がッ!!」

 怒声とともに割り込んだエドガーの蹴り落としがサイガの七支刀を捉え、競り合いが外れる。しかし原生モンスターや魔物を相手にするのとは違い、これを機として一気に大技を撃ち出すことはできない。

 あわや無残な皆殺しを強いられるところであった『討伐隊』の面々が慌てふためきながらも里のほうへ引き返していったのを確かめて、アレックスとエドガーはその場を飛び退き距離を置いた。

「サイガを元に戻す方法はあるか」エドガーがぽつりと訊ねた。

「類稀に強い彼の意志を、雷獣程度の精神力が乗っ取れるはずがありません」アレックスは答えた。「サイガはおそらく、自分の意志で雷獣の支配を受け入れているんです」

「なんだと?」

「何か理由があるんですよ。そうしなければならなかった理由が」

 考えろ、彼の行動の真意を──。未だ答えに至れぬ自分を奮わせ、アレックスは構えを新たにする。

 だが、ただ考えているだけではいけない。刃を交わし、言葉を重ね、そこからヒントを見つけて事態を打開せねばならない。

 彼らにそれができなかったとき、聖龍の里は滅ぶのだ。

「邪魔者どもめ、失せろ!!」

 叫んだサイガが再び地を蹴った。咄嗟に左右へ散ったふたりをまとめて捕えんと、白銀の電光が網のように周囲へ広がり伸びてくる。アレックスはそれを魔力を帯びた剣で断ち切り、エドガーは持ち前の俊敏さで隙間を掻い潜る。

「ひとつだけ言えることがありますよ!」アレックスは言った。高く羽ばたき、サイガの真上からの急降下を仕掛ける。「サイガは、多少の負傷は覚悟の上だってことです!!」

「だろォな!!」

  上から繰り出されるアレックスの剣をサイガが七支刀で受けた瞬間、ガラ空きになるその胴へとエドガーが拳を打ち込んだ。魔力によって意識外で発動する障壁の防御こそあれ、岩をも砕く力に隙をつかれてサイガの息が詰まる。次の瞬間には吹き飛ぶものの、彼は中空で大きく脚を振り上げて鮮やかな宙返りで体勢を立て直していた。

 ほんの数か月前にはあれほどこうして戦うことを夢見ていたはずなのに、エドガーの手に伝わる衝撃は嫌な感触を伴った。サイガの身が負ったであろう苦痛が手に取るように伝わる。できるならばこんなことはしたくないのに──エドガーはその思いを振り切るように、着地したばかりの相手を追撃しようとした。

 バチィッ。身体能力では彼に劣ることを今の攻防で理解したのだろう、サイガの全身が電撃をまとい相手の接近を拒む。そればかりか一気に大放電を起こして二人を薙ぎ払おうとまでした。

「そうはさせないっ!!」

 叫んだアレックスがサイガの上空で、彼に向かって両手をかざし魔力を解放した。

 それは攻撃ではなく、サイガを中心にアレックスを外周とした、半円状の薄赤いドームバリアを形成する。防護結界とは本来、内側を護るように形成されるものだが、今のサイガのように広範囲に及ぶ攻撃を繰り出せる相手の場合は、本人を閉じ込めるほうが余程手っ取り早く防衛できるのだ。

 ……しかし。

 サイガが雷獣の力をもまとって撃ち出した渾身の雷は、自然界の落雷など足元にも及ばぬ威力をもって、アレックスの移し身に等しい結界の中を暴れ狂う。

「く……っ!」

 何という凄まじい力。サイガに憑依した獣は、その激情に任せて疲弊も考えず彼の魔力を使い尽さんとしている。魔力という『火薬』を使い切ってしまえば、次に消費されるのは本人の生命力そのものだ。この状態が長く続けば、サイガの命が──。

(……え?)ふと、アレックスは気付いた。(待てよ、そうじゃない──)

 解った。

 サイガがすすんで雷獣の憑依を受け入れた理由が。

 だがそれは、あまりにも悲しい決断だ。この道を選ばなければならなかった彼の苦悩が、脳裏をよぎるほどの。

「おおおぉぉぉぉぉっ!!」

「うわっ!?」

 サイガが吼えると同時に結界の内側が眩く発光し、結界が弾け散った。跳ね返ってきた自分の魔力をもろに受けて吹き飛ぶアレックスを、駆けつけたエドガーが抱き留めて着地する。

「うるざいガキどもめ、手始めに貴様らを血祭りにあげてくれる!!」

 どうすればこれほどすべてを憎めるのかというほど憎悪を込めた怒声が飛び、跳躍したサイガが七支刀を振りかぶる。放たれる電撃に逃げ場を断たれ、アレックスを投げ出せば防御だけは可能だがそんなことができるはずもなく、エドガーが息をのんだそのとき。

 あらぬ方向から飛来した風の衝撃波が、サイガを横から弾き飛ばした。まさに獣の如く四肢で着地した彼とエドガーが何事かと目をやってみると、

「おふたりとも、御無事で!?」そこに居たのはシオンであった。

「あんた、何でっ?」驚いたエドガーが言った。

「ライセン様の命により、私だけ先に戻りました。里の者より話は聞いております、お早く撤退を──」

「おのれ、どこまでも諦めの悪い奴らだ!!」

 ひとのことを言えた立場ではない雷獣を包するサイガが、立ち塞がるシオンに斬りかかる。

 相手が本当にただの獣であったならシオンは一瞬のうちに斬り捨てていたであろうが、それがサイガの肉体を駆っている以上、うかつな反撃はできない。ひとまず防戦しライセンが戻るまで持ち堪えるつもりでいたけれど、現状、それほどの猶予はなさそうだった。

「クソがっ」エドガーがもどかしそうに吐き捨てた。「どうすりゃいいんだ、コイツはよっ」

「決着は、間近ですよ……」と、アレックスが潜めて言った。「あの雷獣は……もう、間もなく死にます」

「は?」エドガーが耳を疑う。

 耳元の聖龍石に手をかざし、魔力の充填を得てアレックスは立ち上がった。肉体疲労を少しばかりの回復魔法で癒し、やっと息を整える。

「もともとおかしいとは思っていたんです。伝承とも、実際に出回っている彼らの毛皮とも違ったあの外見……そして、単体でボクらを圧倒したあの力」

 彼の獣が何らかの強化を受けているのは明白であった。それが彼らの秘伝術なのか、あるいは外部の力なのかは定かではないが、それ自体がそもそも雷獣という獣のキャパシティを大きく凌駕しているのだ。

 そんな状態で、雷獣は更にサイガという魔力のかたまりをも制御している。ただでさえ容量を超過しているのに、こんな状態が長く維持できるわけがない。

「サイガの狙いは……、いえ」アレックスは神妙に目を伏せ、言葉を改める。「彼の決断は、自分を駆る雷獣をボクらと戦わせ、このキャパオーバーで自滅させることなんです」

「つまり、……オレらに全力でぶつかってこいってワケか」

「ええ。腕が鳴るじゃありませんか?」

「ケッ、イキがるじゃねェか。聖龍石をふたつとも使い切って、次はねぇって時によ?」

 挑発するようなエドガーの言葉に、アレックスは答えなかった。ただちらりと彼に目をやり、どこか余裕のある笑みを見せただけだ。

「征きましょう。──特大のをぶちかましますよ」

「おぉ、派手に頼むぜ!」

 アレックスは中空へ、エドガーは正面へ。ふたりの王はともに地を蹴った。



 サイガは──否、雷獣は疲弊していた。

 身体が重い。息が苦しい。

 あれだけ紙屑のごとく平然と振り回させた七支刀が鉄骨のようではないか。

 こいつらさえ邪魔をしなければ──その憎しみが魔力を振り絞らせるが、初めの頃のような大放電が行なえない。

 ここまでの攻防でサイガの魔力が尽きているのかと思ったが、違う。

 自分が、サイガの膨大な魔力を制御できなくなりつつあるのだ。

(何故だ)

 雷獣は怒りに震えた。

 愛しい家族の仇討ちですら、自分には許されないというのか。仇である者たちを討つことですら罪であり、それを背負って消えろというのか。

 いや、そんなことは許されない。仲間や母の無念を晴らすまで、自分が止まることは有り得ないのだ。

 そうだ、あの男なら──。獣は祈るような思いで攻防の隙間、目を走らせる。

 自分をこの領域にまで引き上げてくれたあの男ならば、今一度、状況を打開できる力を授けてくれる……彼はそう思った。

 街道の脇に広がる雑木林の中に、見覚えのある黒いローブがちらつく。

 あと一歩、あと一歩踏み出すだけの力を──。その望みを胸に視線を合わせる。

 だが男は応えなかった。細められた真紅の瞳は冷めきって、完全に失望しているのが見て取れる。理由が語られるはずもないが、彼が獣に興味を失っているのは誰の目にも明らかであった。

 何故、何故だ──。男にテレパシーを送ろうとして、獣は自分の意思がまったく飛んでいないことに気付く。魔力を消費しすぎたのか、あるいは細工でもされてしまったのか。獣のテレパシー能力は、何の前触れもなくぱったりと消えてしまっていた。

「おのれ…っ」それまでの激情を焦燥が加速させ、唯一の発信源となったサイガの声を震わせる。「おのれメビウス、我をたばかったな!!」

 残された力の標的が変わったその一瞬で、木々の隙間からすでに男の姿は消えていた。

 そしてサイガがあらぬ方向へ電撃を『誤射』したこのタイミングを、相手が見逃してくれるはずもない。

「おふたりとも! 下がってください!!」

 上空の太陽がチカリと一瞬またたく。

 つられるように獣が目を上げると、そこにはまっすぐ突っ込んでくる飛天王の姿があった。



 今度こそ退避も反撃も許しはしない。アレックスが渾身の力で振り下ろした炎帝の剣は、防衛に構えられたサイガの七支刀とがっきり噛み合った。

「おのれ……おのれ、口惜しい……」怨念のこもった苦しげな声が耳にまとわりつく。「貴様らさえ、邪魔をしなければ……っ!」

 アレックスはもう何も言わなかった。

 何を言ったところで無駄なのだ。

 思いは交わらない。

 伝わらない。

 どんな相手とでも話せば通じるなんて幻想だ。この世界には、どうしたって、どうやったって絶対に交わることのない相性というものがある。

 そして、そんな相手に対峙したとき、掲げられる思想や理想に納得がいかないなら、それを打ち倒すことでしか自分らが生き残る道はない。

 この獣が仇討ちを生きる目的としたように、自分にもサイガにも、まだ成さねばならぬ役目があるのだから──。

「我が身に宿る汝、主より遣わされし白き火よ」アレックスは競り合いの中で魔力の集中を高め、まじないの言葉を謳った。「此処に出でて闇を払い、迷いに灯りて標となりて、我が征く手に祝福を与え賜え!!」

 言霊の完成と同時に、炎帝の剣が白炎をまとう。

 決着の瞬間が程なく来たることを察した獣が、七支刀にかつてない魔力を集めて眩く発光させる。解放の瞬間を待ち侘びる互いの魔力がそれぞれの剣より溢れ、炎と雷光が火花を散らし他者の介入を許さぬ結界を生成していった。

 次の瞬間。

 ガァン! 緊張を断ち切るように、七支刀が炎帝の剣を上に弾いた。

「七天伐刀!!」咆哮と同時に、サイガがアレックスの胴を掻き斬らんと刃を振るい、

-バーニングブレード-
「白 炎 神 斬!!」アレックスが応える形で、弾き上げられた剣を頭上から振り下ろす。

 閃光をもってふたりが激突した。エドガーはシオンとともに、彼女が展開した結界の中で事無きを得て、ふたりの様子を凝視した。

 力はまったくの互角。アレックスは策があるような素振りだったものの、言っては悪いがこれでは同じことの繰り返しだ。結局は、雷獣がその命の火を使い切るまで持久戦を行なうより他にない──二人はアレックスが力尽きたその瞬間、同時に地を蹴るつもりで身構えた。

 だがこのとき、獣は見ていた。

 全力の攻撃に絶えず魔力を注ぐ飛天王が小さく笑うのを。

「貴様、何を──」

 企んでいる、と問おうとして、獣はふと自分の……サイガの耳飾りが淡い光を放っているのに気付いた。それに合わせて、アレックスの魔力が疲弊どころか全快に近く充填されていくのが判る。

 まさかこれは、魔力の増幅器か──。獣はハッとその正体を察したが、どうすればこいつが放つ力を取り込めるのかわからない。いっそ電撃を撃ち込んで壊してしまえば相手の補給を断てたであろうに、自分を回復できるかもしれないという期待で躊躇する間に、アレックスの充填は完了している。

「はあぁぁ──ッ!!」

 気合いを吐いた彼の一閃は七支刀を地に叩き落とし、続けざまに撃ち出された炎の衝撃波が、武器を失ったサイガの全身に突き抜けた。

 ギャアアアアァァァ──。浄化の炎に曝されたサイガの身体から、白い霞が吹き散らされるように飛び出し、絶叫とともに拡散した。


    8


 王同士の激しい戦いが展開された里の外れを、里中から集まった民らが遠巻きに様子を見ている。

 決着を経て肩で大きく息を吐くアレックスに、後ろからエドガーがどーんとぶつかってきた。

「テメェやるじゃねえか! 見直したぜアレク!!」

「ま、戦略勝ちってところですか、ね──」と、満更でもなくヒーローインタビューに答えかけたアレックスの表情がカチンと固まる。「…は? 今、何て呼びました?」

「え、アレクって」

「やめてくれません!? そういう馴れ馴れしいの!」アレックスは火がついたように言った。「あなたにそんなふうに呼ばれる謂われはありませんから!」

「何だよツンケンしやがって」エドガーはケロリとして言った。「別にいいだろ、サイガだってそう呼んでたじゃねェか」

「サイガはいいんです! っていうかサイガにしか許してない──」

 バチ…ッ。電気の弾ける音がしてふたりがハッと振り向くと、アレックスの放った炎で焼け焦げた地に白い靄が集束し、白銀の獣の姿になりかけているところだった。

「テメェ、まだやる気か!?」

 驚いたエドガーに続いてアレックスも再び身構えようとしたところで、

「待て……、ふたりとも」

 サイガの声がした。

 雷獣の支配から解き放たれて間もないというのに、シオンの軽い回復魔法だけで意識を取り戻すのだから、コイツの精神力は計り知れない。

 彼はよろめき歩き出すと、ふたりの王の間を通り、その先で低く唸っている獣へと近付いていった。

「……苦しませて、すまぬ」

『……』

 獣は何も言わない。先の戦いでの様子を見るに、もう戦うことはできなくても、恨み言なら腐るほど抱えていそうなものなのに。

「気は晴れぬであろう。悔しかろう。志半ばで倒れるおまえの苦しみなど、俺には推し測ってやることもできぬ」

 目の前ですっと膝を折るサイガに、ろくに立ち上がることもできない獣がじりじりと後退しようとする。彼はそれに両手を伸ばし、白銀の体躯を抱いた。

「こうすることしか……この道しか選べなんだ俺を、許してくれ」

 その瞬間は、何も起こることなく無音で流れた。

 ……それが『答え』であった。

 白い獣は形を失い、風に吹かれるまま砂のように消えていく。

 すべてが消えてサイガの腕の中に残ったのは、柔らかな茶色い体毛に覆われた、大柄なイタチのような獣の亡骸だった。

「優しい子であったよ」サイガは誰にとなく言った。「それゆえに心の行き場を失うた、憐れな子でもあった……」

 シオンが潤ませた目を伏せ、アレックスとエドガーが黙祷のように沈痛に目を閉じる。

「サイガ様! そのようなケダモノに心を許されてはなりませぬ!」

 と、轟いた声とともに里の民らが不意にざわめいた。顔を上げ、振り向いた一同の目に、聖龍殿の衛兵らを引き連れた龍姫院の姿が映る。

「これでお解りになりましたでしょう」男は言った。「雷獣は危険極まりない生き物。いつまたこの度のように、あなたの御命を狙って現れるともしれませぬ。即刻殲滅せねば、国内の平定は有り得ませんぞ」

「貴様、この期に及んでよくもぬけぬけと!」剣の柄に手をかけたシオンが、怒りをあらわにして言った。「雷獣密猟の首謀者である貴様こそがそもそもの発端であることなど、我らはとうに承知しているのだぞ!」

「密猟? この私が?」男はさらりと肩を竦めて言った。「まだそんなことを申されておいででしたか。そのようなこと、事実無根にありましょうに」

「なんだと?」

「だいたい、私が関与している証拠がどこに在ると仰せなのです? 雷獣の武具を製作した職人が私の名を口にしましたか? それとも獣牙の商人が? 彼らのでまかせを真に受けている暇がお有りなら、真犯人を捜してみてはいかがです」

 この男──。アレックスはすぐにピンと来た。

 こいつは、他の者が里の外で命を張って戦っている間に、おそらく聖龍殿の中で『真犯人』と話をつけてきている。

 多額の金品を押し付けたか、あるいは遠い土地での生活でも保証してやったか。どちらにしろ龍姫院がその場での告発から逃げ切り、皆が再調査のためと一旦戻ってきたとき、『これ以上は逃げられないと思った』などと言って、いのいちに名乗り出るよう申し付けてあるのだ。

 言うまでもないことだが、そんな者は『真犯人』ではない。『身代わり』だ。

「ライセン殿が戻られたところで、確たる物などお持ちではありますまい」は、と男は鼻で笑った。「さあ、サイガ様もお戻りください。やはりあなたが王になるなど早過ぎたのです」

 叱咤の言葉を交えながらズカズカと歩を進めてくる相手を、獣の亡骸を抱いたまま、サイガは厳しい顔でじっと見つめている。

「これからは我ら元老が、あなたの摂政として国を支えてまいります──」

 程なく龍姫院が近付き、その腕を掴み取ろうと逸る手を伸ばしたそこへ、バッと強い羽ばたきの音で牽制し、剣を携えたアレックスが割って入った。

「サイガはもうあなたと話したくないようですから、ボクが代わりに申し上げましょう」

「な──」

 シオンもエドガーも、龍姫院本人も驚いてたじろくが、サイガの表情は変わらない。

「まったく冴えない人ですね、あなたも。こっちは全部知ってるんだって、あと何回言ったら解ります?」身構えた飛天王は言う。「証拠がないなんて、それこそ何を根拠に? ヒトの声や顔が千差万別であるように、魔力にも当人しか持ち得ぬ『波長』というものがあるのを、あなたの古臭い頭はご存知ありませんでしたか?」

「う……」

 言葉に詰まったように、龍姫院は答えられない。が、それは波長検査という最新技術を知らなかっただけではなく、持ち主がわずかでもその気になれば、瞬く間にヒトひとり焼き殺すくらい造作もない炎帝の剣の切っ先が目と鼻の先にあるのだから、無理もないが。

「残っちゃうんですよねえ、…痕跡が」アレックスは畳みかける。「どんな短時間の来訪でも、どんな小さな書簡でも、それこそ宝珠で伝言なんかしようものなら、もう勝ち目はありません。──さあぁ、ライセン殿が持ち帰るのは果たしてどれでしょうね? 我らが誇る追跡技術を前に、『証拠がない』『でまかせ』『推測』だけで──ああ、我々の技術にもケチをつけるおつもりなら『カラクリ』も追加でしょうが──そんなサルでも言える単語ばかりで、どこまで逃げ果せられるつもりなのか、とくと拝見させて頂きましょうか」

 誰もが言葉を忘れて沈黙した。はじめは龍姫院とシオンたちのどちらを信じるべきか戸惑っていた衛兵らでさえ、シーンと静まり返ってしまっている。

 風の音だけが吹き抜ける数秒の間を経て、龍姫院がどさりと膝をついた。顔色は青ざめ、冷や汗を流す彼は、しばらく自力では立ち上がれそうにない。

 ふ、と息を吐き、アレックスは構えを解いて身をもたげた。

「シオン」サイガが言った。「あとは任せるぞ」

「──はっ、はい!」

 我にかえったシオンが衛兵らを指揮し、龍姫院を聖龍殿へ引きずっていく。

 遠巻きに見ていた民たちもまた衛兵の誘導で里の中へと引き返していき、場は取り残されたように三人だけになった。

「すまぬな、アレク」サイガが言った。「おまえに嫌な役をさせて」

「あの男、完全にあなたのことをナメきってましたからね」炎帝の剣を還し、アレックスはやれやれと肩を竦めながら言った。「『親』がいくら言っても効かないなら、『他人』が叱るより他ないでしょう」

「証拠つきつけて論破……、か」エドガーは、龍姫院が連行された里の方をチラチラと振り向きながら言った。「状況証拠しかねェ状態で、なかなかやるじゃねェか。オレぁ、いつアイツがブチギレっか心配で仕方なかったぜ」

「なに言ってるんですか」アレックスは得意げに肩を竦めてみせる。「ああいう場面で本気で怒ることができるのは、本当に潔白の者だけですよ。ボクが間に入ったとき、それ以外の反応を見せた時点で、あの男の負けは確定してたんです」

「…………」

「……ふっ」

 返す言葉もなく唖然としてしまったエドガーを見て、サイガが小さく笑う。

「いやはや、恐れ入ったよアレク」

「その御言葉こそ、恐れ入りますよ」すこしばかり仰々しくはあったものの、作法に則った会釈でアレックスは返す。

 龍姫院のそもそもの敗因は、他所の国の技術を侮ったことではない。

 この戦乱の時勢にあってもなお互いを信じ合うことができる、王同士の、この個人的な横繋がりを知らなかったことだ。

「面倒ついでに、ひとつ俺を西の森へ連れて行ってくれんか」と、彼は腕に抱いた雷獣の子を示した。「この子と、この子の母を弔ってやりたいのだ」

「ええ、お安い御用です」

『ケケ。イイトコなしじゃねぇか、エドガー?』

 ふわりと上空から舞い降りてきたゼクシードが、からかうように言った。

 うるせ、と舌打ち交じりに彼はそっぽを向く。

 そもそもこういう、無駄に頭を使う人間関係だの何だのというのがエドガーは大の苦手なのだ。これだから他国の……特に聖龍の文化形式には、あまり立ち入りたくないと常々思っていたのに。

「何やってるんですかエドガー。行きますよ」

 アレックスの声がかかる。とっくにいつでも飛び立てるヴァンファレスの背で、彼はサイガとともにこちらを見ていた。

(……ま、いいか)

 功労者はアレックスだったのだし、少しは花を持たせてやっても──というくらいの気持ちで、エドガーはゼクシードへ飛び乗る。

「またおまえには世話になってしまったな、エドガー」と、傍に並んだところでサイガが言った。「最後まで付き合うてくれて、礼を言う」

 しばらくは、来るのを控えるか──などと考えていたはずが、こいつの笑う顔を見ると、今度はいつ会えるだろう……なんて思ってしまうのはどうしたことか。まったく不思議なものだ。

「どうってことじゃねェよ、気にすんな」

 とても、命と国家の危機を救い救われた者らとは思えぬ短いやり取りをして、彼らは西の空へと飛び立っていった。


    残滓


 雷獣密猟事変の後処理は、聖龍の将軍らおよび朧の暗躍と、秘密裏な各国の協力で速やかに成された。

 のちに主犯であることを認めた龍姫院は流刑となり、聖龍領土の遠い地へと追放された。獣牙の商人もまた、武具精製に関与した者らの供述から、家畜の食肉解体技術をウリに雷獣処理を買って出ていたことが明らかになり、農場の没収と商権の剥奪を受けてトボトボと山へ去っていった。

 すでに出回ってしまった武具に関しては、各政府が闇市の動向に注視し、発見次第回収するという流れでひとまずの落着を見せる。

 雷獣密猟に端を発したこのたびの事変において、聖龍政府……しかも元老内から首謀者を出したことが相当堪えたらしく、それ以降、老人らはトサカが取れた雄鶏のように静かになってしまった。ライセンとシオンを新たな王佐とし、サイガが政権に復帰する流れを受けても、誰も反対しなかったという。

 罪人が失せ、王が戻り、国内は再び一時期の平穏を取り戻した──かに、見えた。



「雷獣が突然あのように変異した理由については、未だ不明のままであります」

 と、ライセンに向かい合って座したシオンが言った。

「朧も西の森を調査しておりましたが、原因として有力な手掛かりは見つからず終い。件の雷獣の埋葬に立ち会った飛天王殿も、獣の身には何ら不審な点は見当たらなかったと申されております」

「……そうか」

 ライセンは静かに答えるのみだった。

 その態度は、何も見つからなかったことを残念がるふうではなく、むしろ初めからある程度の諦めがついていたと言わんばかりだ。

「ありがとう、シオン。手間をかけた」

「いえ、そのような御言葉には及びません」

「調査はこれにて打ち切りとしよう。我々王佐がいつまでも調査にかまけていては、面目が立たないからね」

「は。ライセン様がそうおっしゃるのであれば」

「先に戻っていてくれ。私も情報を整理したら戻ろう」

「かしこまりました。それでは、お先に」

 すっと音もなく立ち上がったシオンが踵を返し、薄暗い堂を去っていく。

 木戸がタンと閉められる微かな風圧を受け、ろうそくの火が静かに揺れる。

「……」

 やはり、痕跡など見つかるはずもない──。人知れずライセンは溜息を吐く。

 そう、簡単に見つかるようなら苦労はしていない。神話時代と呼ばれた遥かな過去より命を繋ぎ、様々な土地で、様々な地位や立場を経る必要もなかったであろう。

 そう。今は一国の王佐として在るが、それが彼のすべてではない。

 沈痛に閉じた目を開き、彼は弟子に続いて立ち上がる。

 何も得られなかった事件にいつまでも固執しても仕方がない。私は私の今を生き、来るべき時に備えよう。

 互いに生きていることは判っている。

 ならばどれほどの時を経ても、必ず会える日が来るだろう。

 いつか、必ず。

(──師匠)

 彼の心の揺らぎを示すかのように、通り過ぎた明かり取りの灯火が音もなくかき消えた。




                               終幕(2016/08/08)