EXシナリオ3.め事



 午前の診療をすべて終え、さて、と室内を振り向いたオニキスの前に、金髪の男が立っていた。

「誰だね、君は──」

 と、言葉を口にしかけたところで、彼は不意に軽い眩暈を覚える。

「おっと、失礼したなメビウス殿」目元を覆いかけた手を下げ、オニキスは改まって言った。「危うくあなたに無礼な口を叩くところだった」

「気にするな」記憶復活・構成の術を施したことなどおくびにも出さず、しれっと言い捨てたメビウスは、手近な診療用の清潔な白いベッドに腰を下ろす。「いくらか話したいことがある。ヴァン・クロウの現状についてだ」

「……うむ。伺おうか」

 昼食でも、と思っていたことなどすっかり忘れて、鋼人の医師は自身のデスクへ再び着いた。革張りの立派なチェアを軋ませて手を伸ばすと、傍のラックからひとつのカルテを取り出して開く。

 それは四年間にも及ぶ、ヴァンの治療歴を記したものだった。

「では、ひとまずこちらを」

 何の躊躇も余韻もなく差し出されたそれを受け取ったメビウスが一通り目を通し終わるまでに、軽く一刻はかかる。

 およそ状況と状態を把握したメビウスは、顔を上げて言った。

「天魔では、薬物に関連した技術はこれが限界なのか?」

「この国は世界随一の先進国だが、残念ながら現状は」オニキスは頷きながら沈痛に言った。「魔法が発展した国である故、怪我や病に対処するにも魔法が多用されてきた。精神の病に対してもな」

「患者の『状態』によっては、そういった治療を施す医師のほうに命の危険があるにもかかわらず、か」

「おっしゃる通り」

 今でこそ世界統一が成されて平和な時代が到来しているが、かつての戦時には極限状態からの帰還によって発狂した者、その寸前に追い込まれた者がそこら中に居り、その対処には正教も相当に手を焼いた。

 身体的外傷に対しては、自己治癒に働く患者の魔力を利用できるため治療師の負担は実質半分で済むが、精神のほうではそうもいかない。治癒魔法の基礎である『相手に同調する』ことが災いし、患者の恐怖・強迫観念に引き込まれて『戻れなく』なった治療師が多かったのだ。

「そのため向精神薬の開発が必要とされ、その概念が生まれるまでにもしばらくかかった。ついでに、その効能ゆえの乱用に対する規制が布かれるまでにも」

 鬼龍や獅童の一部、閉鎖的な地方においては、天魔ではとっくに流通を禁止された薬物の原料植物が未だに治療のためとして利用されている。これが世界の実情なのだ。

「ヴァンには現在、第U種向精神薬──安定剤を処方しているな」メビウスは言った。「今日までの継続的な用量の増加と、抗体の発生・依存の関連性は認識しているのだろうな?」

「も ちろんだ」当然、とばかりにオニキスは頷く。「しかし先ほども申し上げたが、天魔ではこの薬を処方するのが精一杯なのだ。これ以上に『良い』効能を持ち、『危険』のない新薬は、開発の必要性こそ叫ばれているが難航している。新大陸で発見されている新種植物の薬効と合わせて──となれば、試薬の完成すらまだ遠いだろう」

「……」

「そう険しい顔をなさるな。新大陸の薬草と、私の処方した薬物とを組み合わせてあなたがヴァンに与えたような薬は、それこそ我々の生きているこの時代が伝説になるような遥かな未来に生まれる代物だ。おいそれと開発できるものではないのだよ」

「──わかっている」

 メビウスは、何も世界に自分と同じレベルなど求めてはいない。そもそもが到達できるはずもないのだから。

 ただ、ただ今のヴァンに、もっと相応しい『治療法』が他にあるのではないか──。あえて『先見』をすることなく、しかしその明晰すぎる思考回路のせいで、先見をするまでもなくあるわけがないとすでに答えの出ている問いを投げかけるべく、彼はここへやってきたのだ。

「では話を変えよう」メビウスは言った。「あいつに『治る』見込みはあると思うか?」

「現状、その可能性は極めて低い」オニキスはほとんど即答で答えた。

「何故そう思う」

「ヴァン自身に、『先』を目指す意志がまだないからだ」

「……いいだろう」ふっとひとつ息を吐く間を置いて、メビウスは言った。「話は終わりだ。手間を取らせたな」

「あなたの口からそんな言葉が出るとは、殊勝なことだ」

「つまらんことを聞きに来たことも含めて、応じてくれたことをこの私が労っているんだぞ。素直に受け取っておけ」呆れたような顔をして、メビウスはカルテを返しながら言った。前にもどこかでこんな会話をした覚えがある。

「しかし、だ」カルテを受け取りながら、オニキスはふと思い出したように言った。「あなたが戻られてからのこの一週間弱、ヴァンの『調子』が随分と好いようだ。本人も絶好調だと言っていた」

「そうだろうな……」

 ここしばらくのアレコレに関する自分の姿は、ふと頭を掠めるだけでも顔を覆いたくなるザマばかりだ。嬉しくもなんともない。疲れた顔で溜息まじりに答えていると、相手が思いがけないことを口にした。

「これならば、来週をかけて少しばかり薬抜きが実施できるかもしれん」

「薬を弱めるのか?」

 メビウスは少し驚いて言った。

 四年近くかけて作られてきた抗体と依存に一週間程度の薬抜きなど付け焼刃かもしれない。だが定期的にそうしなければ、今の薬物はいづれヴァンに効かなくなる。

 不安定な時期に血中濃度を下げるのは命取りだが、本人も認めるほど調子がいいなら話は別。これまで半年に一度ほどの頻度でそれが行なわれていたことはカルテで確認していたが、前回の実施は三ヶ月前。スパンは短いけれど平均値を下げられるに越したことはない、という意図なのはわかる。

 少なくとも自分がいる間なら、ヴァンは薬を飲まない日があっても乗り切るだろう。

 だが、それなら──。メビウスの脳裏に、諦めかけていた思考がよみがえる。

「……オニキス」

「何だね」

「いっそ断薬に踏み切ってみないか」

「どのような目的で、だ?」探るように医師は言った。

「あいつは薬学にも精通している。自身に発生している薬物依存を、認識できていないわけがない」メビウスは言った。「だが自ら減薬でコントロールするでもなく、おまえに管理を任せきりだ」

「……確かに」

「おまえは言ったな。あいつには『先へ進む意志がない』と」

「『まだ』、な」

「あいつの精神的な傾向は『没頭』──悪く言えば『依存』だ。何か決定的なきっかけが無い限り、あいつにそんな意志など芽生えはしない」

「相も変わらず、あなたはヴァンにはお厳しいな」

「甘やかすのは身体だけで充分だ」

「お察しする」

「だから、そのきっかけを私たちで作ればいい」

「ひとつ申し上げておくが、ヴァンの症状は精神疾患には相当しない。様々な要素が複雑に絡み合って未だ化膿したままの『傷』であり、その『痛み』をずっと麻酔で麻痺させているような状態だ」

「……」

「断薬の離脱症状で発現する苦痛は、通常の精神疾患者に見られるようなレベルのものではない危険性があるぞ」

「『傷』ならば、適切な治療をすれば塞がるのだ」メビウスはきっぱりと言った。「膿んだ傷は、放置すればそのうち腐り落ちる。一時的な苦痛が想像を絶するものであったとしても、裂いて膿を絞り、消毒液をぶっかけて焼いてやるのも必要なことではないのか」

「……」

 今度はオニキスのほうが目を閉じて黙り込んだ。頭部がマスク型の鋼人である彼には表情が無いから、何を考えているともしれない間が空く。

「離脱症状時、もしあいつが暴れそうなら私が抑える」メビウスは尚も言った。「おまえやこの街の人間に手を借りようとは思わん」

「しかし、あなたがこのようなことを企図したなどと知れば、ヴァンはあなたを信用しなくなるやも──」

「余計な心配は無用だ。この程度で崩れるものなら信用には程遠い。失うと表現するにも、私が懸念するにも値しない」

 オニキスの『知る』限り、この眼前にいるキツい目をした者は、やると決めたら天地創造すらやってしまう男だ。止める手段などあるべくもあらじ、せめて自分に了解を取りに来てくれただけでもありがたいと思うべきだろう。

「そこまで言われるのなら否も応もない話」オニキスは観念して言った。「しかし、ヴァンにはどのように伝えれば?」

「あの甘ったれには予告なくぶった切ってやるのがベストだろうが、そのあたりはおまえの気が済むようにしろ。私が指図することではない」

 そこまで言って気が済んだのか、彼はすっくと立ち上がり、襟巻も兼ねた外套を翻してオニキスに背を向ける。

 そして。

「『私の仕業』にしてでも実施する必要性を意識していてくれたこと、感謝はしておくぞ」

 ぽつりと言い残して、診療所をあとにして行った。

 感謝、か──。オニキスは息を吐くような間を置いて、自分がまだヴァンのカルテを持ったままだったことを思い出した。

 自分が彼を『甘やかし』続けてきた四年間の記録。メビウスはそれを咎めはしなかった。友人としてヴァンを想ってやってきたことを、ありのまま認めてくれた。その上で、今まで決してこの世界の人間に関与しなかった態度を撤回し、断薬強行の『実行犯』へ名乗りをあげてくれたのだ。

 近ごろは書き連ねていくだけで読み返すこともなくなっていたそれに目を落とし、オニキスのほうこそ、思うのだ。

 私こそ感謝するよ。あなたのような者の強行でなければ、彼が前を向く機会はきっと生涯、無かったであろうから──。



 思ったより早く目が覚めたせいで、思った以上に早く身支度が済んでしまった。

 カーテンの向こう側はすでに薄明の刻を越え、この天魔国首都の街並みも、程無く朝市が賑わい始めることだろう。でも、その時間にはまだ少しだけ早い。

 そんな、未だ目覚めぬ都市の一角にある宿がここだ。鉄機との協力によって建造され、各個室のオートロックや生体認証といった画期的な技術を数多く採用した、近代的宿泊施設の一室には、──今。

「…ん、っふ……んんっ」

 メビウスがもらす、甘い声が響いていた。──潤滑油に濡れた俺の指で、中のイイところを探られて。

 彼はまだ眠っている……はずだ。少なくとも俺が身体に触れるまで、息遣いは完全に寝息のそれだったから。

 今だって目は閉じている。というか、普段の彼なら覚醒していれば俺は速攻蹴り飛ばされていることだろうから、たぶん、意識はゆめうつつといったところだろう。

 俺がどうしてこんな行動に出ているかなんて、野暮な質問はよしてほしい。いつもより早く目が覚めて、身支度も済んでしまって手持無沙汰になった俺の目の前で、ガウン一枚で無防備に眠っているコイツが悪いのである。

 せっかくふたりでの外出だ、こういう事態にはかなり期待していた。俺は獲物に近付くハンターのように気配を消し、起こさないよう、驚かせないように細心の注意を払って、ゆっくりと脚を探り上げていったのだ。

 反応はすぐにあったけれど、それは抵抗でも拒絶でもなかった。

「うぅ、ん…」

 もぞりとくすぐったそうに脚を動かした彼がもらしたのは、抗議を含まない、すこしだけ色を帯びた吐息まじりの声。俺の手だと認識しているかどうかはわからなかったが、俺がメビウスのしどけない寝姿に情欲を掻き立てられるのと同じように、彼も、触れられれば自然と感じるようになってきているのかもしれない。

 俺がしたいと思った時に、伝えれば応じてくれる──そんなデリヘル程度の関係に過ぎないまま終わるのかなと、多少の虚しさすら感じつつもカラダの欲求に逆らえなかった昨今、こうした明らかな相手側の『変化』が嬉しくないはずはない。

 ただ、今回の外出は俺の仕事の関係であり、故にこのあと控えているのは仕事だ。起こしてしまうと時間についてうるさそうだし、何より勿体ない。いつものように強い刺激で思いきり喘がせたい衝動を懸命に堪えて、俺はそろりと身を乗り出して舌を伸ばすと、彼の温かいそれを口の中へと押し込んだ。

「んあっ…あ、ふ…ッ」

 びくりと反応を起こす大腿を押さえ、緩慢さを意識して、なるべく強い刺激を避けるために舌の腹を使って包むように先端をまさぐる。

「ん、んんッ……う、ふっぅ…」

 上ずる声を聞きながら、目を覚ましていないことを確かめつつ上目に様子を見ていると、やはり手応えはすぐにあった。幹をさする手に伝わる充血の感触、鼻の奥に抜ける匂い、口内で蕩ける蜜の味……例えは悪くなるが、まるで食事のタイミングを条件付けられた動物のように、彼は、愛撫を受ければそれを受け入れる態勢になっていく。

 その素直さがどうしようもなくかわいくて、気分が好い。彼のもっと深いところにもっと触りたくて、俺は自分の荷物に忍ばせていたオイルに手を伸ばし、指を挿入するに至った──という経緯なのだ。

 眠りが浅くなった頃合いの、肉体への刺激で性的なものへ切り替わる夢は、本能的な理由から覚めにくい傾向にある。いつもなら数回イかせるか散々焦らすかで理性を飛ばしてやらないと素直にならないこのメビウスが、こうして大人しく俺に委ねているということは、今の外的刺激をそのまま夢に反映している可能性が高い。

「ふ…っ、う、んうぅっ」

 柔らかい肉の奥に潜らせた指先で、少し強めに、ぷっくりと弾力のある壁を抉るように掻いてやると、上気しかけた顔を逸らした彼の息が乱れる。そうかと思えば手首のスナップで指をピストンさせ、そこを突くと同時に入口周りの硬い肉を扱いてやると、身を強張らせて、長くだらしのない嬌声を上げてくれた。

「あ、ふ…ぅっ…」息を震わせ、メビウスは顔を隠すように腕を持ち上げる。「は、あッ…そこ、きもちい……もっと突いて…っ」

 ……俺はつい、ごくりと喉が鳴るのを意識していた。

 こんな甘えた声でねだってくるこいつは見たことがない。もっとしたい、もっと見たい──そういう欲求がまるごと熱になって、腰と背筋にゾクゾクと先駆の快感が疾る。

「…気持ちいい?」指の動作はそのままに、できるだけそっと、声を抑えて訊いてみる。俺に脚を開かれて、肉の奥に指を押し込まれて感じているのか──。

「んあッ、あ、いぃ…っ」突き上げるタイミングに合わせて指先でコリコリと奥を掻いてやれば、彼は腹の底から身を震わせて甘ったるい声と深い息をもらし、うっすらと目を開いた。

 夢の快感に蕩けて潤んだ赤い瞳が、感覚の元を探して彷徨い、自分に乗りかかっている俺という対象に焦点を合わせる。

「ヴァン…? ──んッ!?」

 びくっ、とメビウスが身体を強く反応させたのは、俺が、ナカに入ったままの指をイイところにぐりぐりと押し付けたからだ。

「おはよ、メビウス。いい眺めだったぜ」俺は言った。ここに至るまでの五感からの刺激の数々で、ちょっとばかり息が上がりかけてるのは大目に見てほしい。

 ……こいつのナカの好いポイントには、だいたい俺の指先がおさまるちょうどいい窪みがある。無論俺がいじり倒した結果なのだが、おかげさまで感じさせるにはまったく苦労しない。

「お、おまえまさか、さっきから…っあぅ…っ」

「イイ夢見られたか?」息を乱す彼に、俺は愛撫を強くして言った。「さっきみたいに、もっと悦んでくれよ」

「ばっ…! ん、ぐうっ」

 バカ、と口走りそうになったのだろうか。真っ赤になったメビウスの罵声はのむ息に途切れた。声を上げそうになった口元に手を当て、堪えようとする。

「そんな隠さないでほしいな。素直なあんたは、スゴクかわいいと思うよ」

「…う…っ」

 バツが悪いみたいに目を逸らした彼が、俺の指にきゅうっと縋り付いてくる。ナカの感触は熱くて柔らかくて、オイルによく濡れていて、掻き回せばぐちゅぐちゅと淫猥な音を立てている。ずっとゆるゆる慣らし続けてきたそこが今、どれくらい気持ちいいか、想像もつかないわけがない。

 ああ、挿れたい──。堰を切りそうな欲求をぎりぎりのところで抑えている、あと一歩のもどかしさがたまらなく気持ち好い。解消する手段はひとつと解ってはいるが、俺はあえて自分の情欲を煽るように身を沈めて、彼の下腹で震えている熱を舐る。

「ひあっ!」身体をびくんと跳ねさせて、メビウスがひときわ高く啼いた。「あっ待っ、待てっ、そんなの、すぐ…っ!」

 待てと言う割に、俺がナカを抉る動作に合わせて腰が揺れているのは無意識なのか? 口が塞がっているので、そう訊ねて羞恥を煽ってやることができない代わり、彼のカラダが求めるまま、指先と舌とで追い立てていく。

 ヒクつく入口を掻き回して熱い肉を突き、先端を嬲って。

「あ、あっイくっ、イくっううぅぅぅっ」

 強い快感を伴う反応に見舞われた彼が、喉を反らせて嬌声を震わせた。

 俺は、自分がイッたのとそう変わりないくらい快感にざわつく延髄が、腰が、背筋が赴くまま、口内に吐き出された熱を残さず啜り出し、飲み下してやっと起き上がった。唇と彼との間に、つーっと白っぽい糸が残る。

「ここ、まだ気持ちいいよな?」訊ねながら、つい今しがたピクンと収縮した肉壁をつついてやる。

「ん、うぅ…っ」

 ぐったりと脱力したメビウスがもらす、吐息とも嬌声の余韻ともつかぬ声は甘く蕩けている。指先に伝わる感触も相俟って、絶頂を過ぎ、激しかった熱が落ち着いていく、緩やかな快感が持続しているのは見てとれた。

 イッたばかりで、まだその反応がおさまらないソコを、今度は身体ごと揺さぶってイかせて、とびっきりの絶頂に啼き喚く声を聞きたい、ずっと続く反応を感じたい──そんな快感を想像するだけで、つい口元が緩んでしまう。

「続き、したい?」

「…したいのはおまえのほうじゃないのか」

 意地でも自分からは言わないぞとばかりに、メビウスはふいと目を逸らしながら言った。

 それは、少なくとも拒絶ではなく、赦す態度に近い。それだけで充分すぎる……はずだった。少なくとも昨日までは。

(ほしいって、言って)

 俺は、喉元まで出かかった言葉を刹那、呑み込んだ。

 ──おっしゃる通り、続きに持ち込みたいのはこっちのほうだ。メビウスがまだ甘い夢を見ていた時からずっとこっち、焦らし続けてきた俺の熱は限界が近い。

 だけど、彼が自ら求める言葉を聞きたかった。そう、俺との繋がりを。──何度目からだろう、こんなふうに考えるようになったのは。

「ヴァン?」

 一瞬沈黙した俺に、メビウスがどうした、と呼びかけてくる。

 それもそうだろう。いつもの俺なら何よりまずセックス、言葉より真っ先にカラダを交わしたがるのに、この状況で黙り込むなんてどうかしている。

「メビウス」俺は言った。「俺──」

 コン、コン。

 かなり……、いや、とても慎重かつ控えめなノックの音がした。俺とメビウスが、まさに夢から覚めたように、その音のした方向──ドアを見やる。

『あ、あの……クロウ博士、おはよう、ございます』ドアは開くことなく、向こう側からオドついたボーイの若い声がした。『お目覚めはいかがでございましょうか』

「…………」

 起床時間だ。予約はしていなかったが、どうやらホテル側が気を利かせたらしい。こう言っては可哀相だがいらない気遣いだし、声の調子からして、そうしてサービスで気を利かせるに相当する上客である俺たちがどういう状況なのかを完全に察しているボーイも気の毒だ。

 いつから居たのかは知れないが、おそらく中が静かになったから『終わった』ものと思って勇気を出したのだろう。

「どうも、わざわざありがとうございます」

 と、脱力してベッドに突っ伏してしまった俺に代わって出たのはメビウスだった。ガウン一枚きりだったはずの彼の装いは、するりとベッドを降りた時にはいつもの黒い法衣に転換されており、彼に限って言えば、身支度にバタつくなんてザマとは無縁である。

 朝食は持って出られるサンドイッチ程度のものを、クロークの荷物はあれとこれを──声を聞かれていたかもしれないのに、てきぱきとボーイへの挨拶と指示を終え、加えてちょっとした『口封じ』に金貨を持たせてやったメビウスは、ぺこぺこと頭を下げて申し訳なさそうに去っていく彼を見送ってドアを閉めると、俺を振り向いて言った。

「私はシャワーに行く。おまえはとっとと下に降りて、荷物を受け取って待機していろ」

「…ふぇい」

 やっぱりお預けらしい。普段ならやたらと心地がいいはずの、涼やかで、少し冷ややかな彼の声色は、今はとても冷厳なものとして俺の耳に響いた。



「ヴァン、最近おめえんちに居る男っておまえのナニか?」

 出立の前夜、いつもの店へ顔を出していた俺の肩口に、寄って来た客のひとりが、どんとでかい腕を乗っけてきた。

「男にしとくのは勿体ねえ、いいカオしてたなあ」

「残念ながらあいつは貸し出し禁止だぜ」少し軽めの甘い酒を一口頂いて、俺は言った。「男にも興味がわいたって言うんなら、まずは俺を抱いてくれよな?」

「へっ、俺ァ女しか抱かねえよ!」

 酒が入っていることもあってか、彼はアルコールに焼けた喉を鳴らして豪快に笑った。

「しっかし、おめえがご執心とは珍しいじゃねえか。再来週の明けにはゼルが戻ってくるってのに、浮気がバレて入院沙汰なんて勘弁してくれよ。オニキス先生んとこにゃ、ウチのおふくろが通ってんだからな」

「先生の手を煩わせるようなコトはしないよ」さすがに苦笑いになってしまったが、俺はそう返した。

 でも──。ふっと一瞬、頭にゼルの姿がよぎる。

 ゼルとジゼルが帰ってくるとなったら、やっぱり。

(あいつは、帰ってしまうんだろうか)

 俺以外の人間の記憶から消えて、俺だけが覚えている、ほんの刹那の夢になって──。

「…ヴァン?」

 ちょっと考え込むようになってしまった俺を、訝しそうに男が覗き込んできた。

「どうしたよ。まさか本当に『血迷った』んじゃねえだろうな」

「…あー、ないない」グラスの中身をぐいっと飲み干して、俺はヒラヒラ手を振り男の懸念を否定する。

 手酷い『前例』があるだけに、この街の住人は俺とゼルの関係について相当敏感だ。こう言うのも何だし俺が自分で思っているのもどうなのかという感はあるが、もし俺たちの関係が破綻するならば、それは世界屈指のシリアルキラーが野放しになることと同義だからだ。

 俺とゼルとの情交一回で、果たして何人の命が救われていることか……これは誇張でなく、歴然とした事実であった。

(だからって、『血迷う』なんて言い方はどうなんだよ。ヒトを生贄みたいに)

 ゼルのことはそりゃかわいい。

 あいつは刃物そのものだ。断じて優しく愛撫するためには作られていない、あの冷たい指先や鋭い歯に肌をなぞられる時のぞっとする快感は、他ではそうあるものじゃない。

 でも。

(本当に?)

 それだけなのか。

 気持ちいいから好き。心地好いから好き。そんな確固たる観念が、近頃、揺らぐ。

(…メビウスが居るからだな)

 ただそれは、都合よく、近いところにあるものに焦点が合っているに過ぎない。その心地好さで、一時的に俺の中でメビウスの占める割合が大きくなっているだけ。……だから、あいつが帰ってゼルが戻って来れば、また元の生活に戻っていけるはずだ。

(そうかな?)

 ……なんでそこを疑問に思うんだ俺は。

 メビウスが居なくなったあとを『元の生活』と呼ぶことに、若干の抵抗があるのは──。

(ハマッてるのは、俺のほうだって?)

 自問自答が延々と繰り返されるが、答えなんか出るはずもない。

 これは迷いから芽生える現状への疑念だ。揺らいだ観念を『再構築』しようと『試みる』自分と、完全に突き崩してしまおうとする自分との押し問答。

 ──迷い? 何への?

 わかってる。──のか?

(もう考えるのは嫌だ)

 思考を止めたい時に求めることは。

 メビウスを抱きたい?

 ゼルに抱かれたい?

(うるさい、もう嫌だって言ってるだろ)

 今の俺が求めているのは、どっちだ?


(ああ、……不安定だな)


 本日は休館である天魔中央博物館。裏門にある従業員通用口にある受付で記帳を済ませた俺は、奥の守衛で、このたび俺に歴史博覧会の共同開催を提案してきた、ここに常駐している古生物学者の教授へ連絡を取ってもらっていた。

 少々お待ちください、と言って奥へ引っ込んでいった警備員の声で、昨晩の記憶から現実へ浮上した俺は、やや遅れて返事をすることになった。

 ──ここしばらくは全然調子がいいように思っていたが、やはりというべきか、ゼルの問題が絡むと一気に落ちる。メビウスが戻って来てから、あいつを抱いている間は、いつだって驚くほど気分がよかったのに。

 そんなメビウスは、表のものより一回り小さな噴水の施設を眺めたり、あるいは整備された花壇を覗いたりしている。この世界のものは何でも興味があるらしいが、神という存在観念を差し引いてなお、大体のモノは一目で仕組みもサイクルも見抜いてしまうあいつのこと、建築仕様も品種もおよそ把握してしまったかもしれない。

(……だったら、俺のことも、もう全部わかってそうなもんだ)

 魔術を使って見せたことは一回もないのに、俺に魔術の素養がゼロだとはっきり言い切ったあいつのこと、生体としてなら完全に理解していそうな気もする。

(風魔法ならけっこう自信あるんだけどなあ)

 そんなものは魔人の基礎だろうが、魔術の内にも入らん──ああ言えばこう言われる、そんな返答が容易に想定できる。

「クロウ博士」

 と、守衛の中で通話を終えた警備員が窓口へ戻って来た。

「教授はただいま別件の来客対応中でして、間もなく終わるとのことですので、よろしければ応接室をご案内しますので、中でお待ちください」

「ええ。ではお言葉に甘えて」

 俺は答えついで、連れに声をかけてくると断ってメビウスへ駆け寄っていった。

「教授が中で待っててくれって言ってるけど、あんたはどうする?」

「中に図書館があるな? 入っても構わないのなら、私はそこで時間を潰させてもらう」

「休館日だし、俺の連れなら待機って言えばいけるだろ。──あ、知ってるかもしれないけど、この博物館の中は魔力中和エリアだから、魔術が使えなくなるぞ」

 この博物館ができて間もなくの頃の話、世界の『歴史』を紐解かれると都合が悪い連中──ぶっちゃけ大手の宗教家なんだが──が、手下の魔道士を放って大火災を起こさせる事件が発生した。そのせいで鬼龍から寄贈された古書、獅童のパピルスやレリーフ等といった重要な文化財が一通り焼失してしまい、それ以降、この敷地内は一切の者が魔法を使えない……魔力に依存する術式が、中和されて消失してしまう結界で保護されることになったのだ。当然ながら、この中では魔人が翔ぶことすら認められていない。

 余談だがその結界はアーサー王の側近、大魔導マーリン製。それゆえ数ヶ月に一回ほどの頻度で、結界維持のため彼女がここを訪問するのが名物行事になっている。

「知っている」メビウスは当然のことのように言った。「まったく人間は、いつの時代もどこの者も、くだらんことをする」

「まあそう言うなって。そういう人間がそういうことを繰り返して出来上がるのが、俺たち考古学者が紐解く『歴史』になるんだからな」

「相違ない。……で」

 と、メビウスは半分呆れた顔で俺を見た。

 腰のパックから取り出した飴玉の包みをゴソゴソと破って、中身を口に放り込んでモゴモゴし始める俺を。

「ん、けっこう甘いな」

「これから目上の者に会うんだろう」メビウスは更に言った。「そんなものを食っている時間があるのか」

「無いよ。無いから──」俺はメビウスの首に両腕を回すと、抱き付くようにして顔を寄せる。

「あんたにあげる」

「血迷ったかこのバカ」飴玉を口移ししようとした俺を押し退けながら、彼は抗議した。「何だってこんなところでそんな渡し方なんだ、包みのまま渡せばいいだろうが」

「いいだろ、予約だよ予約。これが終わったら、朝の続きしよ。な?」

「…………」

 文句こそ途切れたが、メビウスはどこかバツが悪そうな、もどかしそうな表情だ。何か言いたそうな顔だなと思いはしたが、こっちもそれを訊ねている時間がもうない。俺が急かすように引き寄せると、彼は仕方なくといった様子で応じてくれた。

 触れ合わせた唇を開いて、俺のほうから舌で押し出された甘い菓子を、落とさないように受け取る。

「…甘すぎる」もご、と口の中でそれを転がしてからメビウスは言った。「砂糖だけではないな、合成物の味だ」

「そんなことわかるのかよ」

「天然由来と人工物は明らかに味が違う。おまえも学者ならそのくらい把握しておけ」

「俺は栄養士じゃないんでね、食える物なら、多少の毒があったって食うさ」

 そのせいで、ジゼルには時々『悪食』などと言われてしまうわけなのだが。

「口に合わないからって捨てないでくれよ?」

「……わかったわかった」

 覗き込む俺から逃れるように彼は長身の身を翻し、口の中のものをガキッと噛み砕く。

「図書館だよな。打ち合わせが終わったら迎えに行くよ。なるべく早く戻るからさ」

「は、あとのコトを楽しみにしすぎて上の空にならんようにな」

「そりゃこっちの台詞」

 軽い悪態もそこそこに、見送ってくれるメビウスにひらりと手を振った俺は、待たせてしまった守衛の男に案内されて通用口へと入っていった。

 ほのかな期待に緩む口元を隠しながら──。



 打ち合わせそのものは驚くほどあっけなく終わった。それというのも、会を主宰する教授が、俺に権利のある新大陸関連の知識を展示物に使いたい、あるいはパンフレットに記載したいとする要望に俺がOKすればいいだけのハナシだったからだ。

 郵便や通信でどうとでもなるだろうと言うなかれ。相手を頭から信じないわけではないが、実物を見ずして下手に頷いてしまったが最後、権利をまるっと横取りされてしまった学者や発掘者を何人も知っている。

 育ち盛りのジゼルに加え、近ごろ食い扶持としては特大級のアジーンやトナティアの面倒まで見ている現状、資金源が減るのは致命的。せめて自活してくれればと思う処は無くもないが、あいつらが人間の社会を知らなすぎるのも事実。追い出すなんて行為は非道の極み、今はしっかりした生活資金が必要なのだ。

「うむ。相変わらず非の打ちどころがないな、キミは」

 テーブルセットの向かいに座っているのは、初老というにはまだ少し早い男。俺よりひと回りほど上、といったところだろう。展示物の解説文を一通り読ませてもらい、添削して返した資料に目を通した彼は我が事のように嬉しそうだった。

「恐縮です」

 ふるまわれたコーヒーを一口頂戴して、俺は言った。ちっとも恐縮などしていないが、まあここは社交辞令だ。

「クロウ君にはもとより鋭い視点の論文を読ませてもらってきたが、新大陸より戻ってからは磨きがかかったな。こう言っては何だが、その『若さ』が羨ましいよ。私もあと十年若ければと考えてやまない」

「お言葉ですが教授、恐ろしい話はよしてください。『アレ』は呪いの一種でしたからね、これからどんなツケが回ってくるやら判ったものじゃありませんよ」

 ──『凄絶』を極めた不老不死研究が行き過ぎて滅びた国。若い日の俺が挑んだのはその王家の遺跡だった。

 この教授に言ったように、あれは断じて羨むようなものではない。『成長停止』のことを、言い換えれば『不老』──それに付随する半永久的な『不死』と考えるバカが後を絶たないが、『本当』に『それ』が『成功』したものであったなら、あの国は滅びてなどいないのだ。きっと今でもなお、強大な科学力をもって新世界に君臨する列国のひとつ……そう、下手をすれば鉄機に代わってそこに在ったことだろう。

 呪いを受けた時、『仕掛け』は俺に言った。

 『我々と同じ道を歩め』と。

 ……規格外の力で解除されてしまい、解明が不可能となった今ではあくまで憶測の域を出ないが、あの『術』は、ある程度の時間が経てば勝手に解け、その分のツケを一気に払わせる凶悪にして重大な『欠陥』があったのではないだろうか? 少なくとも俺は二十年弱ほども肉体の時が停まったままだったが、過去に『肉体の若さ』にモノを言わせた──つまり多少の無理を通して来た場面がいくらかあった分、期間中のダメージを一括で受けていたら死んでいた可能性も否めない。正直、ぞっとする。

「それもそうだな、いやすまない」教授はすぐに苦笑いで首を振り、自分の言葉を否定した。「軽はずみだったよ、実質的に『被害者』であるキミの前で──」

 どくんっ。身体の内側で、ぎくりとするほど大きな鼓動がひとつ響いた。

 咄嗟に胸元を押さえた俺の手に、心臓の強い動悸が伝わってくる。目の前がぐるんと回った気がして、上体がバランスを失う。

(やばい──)

「クロウ君っ」

 身体がぶつかってガンと音を立てるのも構わず、テーブルを乗り越える勢いで教授が伸ばした腕が、倒れ込みそうになった俺を受け止めた。

「ど、どうしたのかねっ」

 彼の声を皮切りに、耳の奥でたくさんの声が反響する。

『アンクオールの内部は今後立ち入り禁止になったって』
『ゼルのやつはどこへ行ったんだ』
『発見があと一歩遅かったら死んでたぞ』
『救助に入った待機のガイドは、ヴァンを一目見て腰を抜かしたってよ』

(やめろ、やめろ、うるさい)

『ゼルを捜す? 冗談じゃねえ、そんなもん国に任せろ』
『あんたわかってるの? アデルをあんなことにしたのはゼルなのよ』
『そうよヴァン。あなたはやっと助かった被害者なのに!』

「やめろっ! 俺をそんなふうに言うなっ!」

 ガリッ、と口の中に熱い衝撃が疾る。きつい痛みを伴う現実の感覚が、目の前に広がる別の世界を遮断し、視覚と聴覚を覚醒させ、自律呼吸が戻ってくる。長いこと呼吸を止めていたように息が苦しい。舌に広がる、鉄っぽい嫌な味。

「クロウ君…?」

 俺が自力で深呼吸していることを感じ取り、半ば俺を取り押さえるようなかっこうになっていた教授が力を緩め、身体を離す。

(待って。いやだ、離れないで──)

 反射的に男を引き留めようとした手をぐっと握り込み、抑え付ける。

「す、すまない」何かを察してしまったらしく、彼は本当に申し訳なさそうに言った。「本当に軽率な言葉をかけてしまったようだ」

「いえ……こちらこそ失礼なことを言いました、できるなら忘れてください」

 やっとのことで俺も答えるが、口内の出血が漏れないようにするため、少し舌っ足らずになってしまった。──手で手を抑え込む感触に集中する。双方が肌と体温を持っていることを確かめながら、深く息を吐いた。

 クソッ、タイミング最悪だ。ゼルのことで不安定になってるって判った時に、追加で薬を飲んでおけばよかった──。

「博覧会における、キミの要望はよくわかった」教授は少し早口に言った。「悪いようにはしないよ。原稿の最終案は後日、映像で確認のために送らせてもらうから、もう帰りたまえ」

「…ありがとうございます」

「ホテルはもう引き払ったかね? 何なら送迎を…」

「いえ、どうぞお気遣いなく。連れが居ますので合流します」

 この男にホテルへ付き添われた日にはあやまちが起こってしまう。俺がなるだけ目を合わせないようにしているのをどう受け取るのか、彼は、脚の感覚を確かめながら立ち上がる俺を心配そうに見ていた。

 余計なことを考え込んで、人前でパニックを起こしかけたなんてメビウスが知ったら怒るだろうか。でも黙っていようにも、口の中の怪我はどうやってもバレるだろうしなあ──。

(ああ、クソ。めんどくさいな…)

「クロウ君」と、部屋を出ようとした俺に教授が声をかけた。「キミとはこれからも良い友人でありたいと思っている。これに懲りずに、どうかよろしくお願いしたい」

「やめたほうがいいですよ、俺なんて──」

「え?」

「……あ、…いえ。今後も機会がありましたら、ぜひ」

 半ば反射で口をついてしまった言葉を噛み潰すと、当たり障りのない返礼で答えて、俺はそそくさと部屋をあとにした。

 ──何やってんだ、俺。



 図書館、といっても、博物館の中にある書籍閲覧室的な役割が強い場所であるため、そこはワンフロア程度の広さしかない。どこにでも売っていそうな本棚に収まった蔵書も、決して専門的ではなく入門者が取っつきやすいもの、あるいは子供向けに簡略化されたものが多い印象だ。

(あいつ、退屈してるんじゃないのか? こんなところで)

 入る前に手洗いへ寄り口の中をすすいでみたが、冷たい水が舌に沁みて俺のダメージが加算されただけだった。ありがたいことに出血は止まってくれたけれど、歯に擦れるとなかなかに痛い。自然治癒となれば、しばらく食事やら会話やらに苦労するハメになりそうだ。

 とっとと事情をメビウスに話して、外へ出て治療してもらったほうが手っ取り早い気もする。

 ……する、けれど。

「メビウス?」

 俺はつい、かるく声を上げていた。

 あいつの姿が見えない。

 座席スペースはフロア前面に寄っているが、そこには誰もいない。それほど多くない本棚の間を、彼を探しながら進む。

 ──と、目的の背はすぐに見つかった。

 この図書フロアの一番奥はキッズスペースだ。小さな子供が寝転がってもいいように、また親子でゆっくり本を読むためにカーペット敷きになっており、モデルフィギュアや絵本の類が収められた膝丈程度の本棚が設置されている。

 彼はそこで、壁際に座り込んでいた。傍に外套が脱ぎ捨てられていて、身体を少し傾けて、壁に頭を預けるようなかっこうになっている。

(…あれ?)

 様子がおかしい。

「メビウス──」

 声をかけながら、その肩口に手を置こうとした瞬間。

 がっ、と、手首を引っ掴まれた。熱いと感じるくらいの手で。

「おい、貴様……私に何を仕込んだ…?」

 振り向いたメビウスは、ドスの利いた低い声で俺を睨んでくる……のだが、その声がわずかに震え、呼吸に乱れを含んでいた。紅潮した頬を隠そうとしながら、それでも目だけは逸らすまいとして、懸命にこちらを見上げてくる潤みかけた赤い瞳にはいまいち迫力が無い。 

「どうした、熱でもあるのか?」

「とぼけるのも大概にしろ!」すっとぼけた俺に、やはり彼は怒って言った。「さっきの菓子に何か仕込んであったんだろう!」

「──ご明察。そこまで解ってるなら、タネ明かしは要らないだろ?」

 それは先日の夜、酒場で絡んできた男が俺に寄越したもの。近ごろ歓楽街で流行っている媚薬の一種らしい。

 知識が無い若い連中の間で流行るモノなんて大概がやばいものだが、一回くらいなら別にどうってことはない、ゼルとの時にでも使え──などとあの男は言っていた。詰まるところ『そういう薬を使ってでもゼルと繋がっておけ』と暗に示していたのだろう。

(誰が。そんな強要まがいな指図、聞いてやるもんかよ)

「魔力が活発な奴ほどよく効くらしいぜ。あんたには覿面だろうな」

「最低だぞ貴様、こんなところでっ」

「なら、ホテルに戻ってからがよかったか? 俺がちゃんと説明して渡したら、あんたは黙って食ってくれた?」

「……」

 一瞬、メビウスが押し黙った。──それは言葉に詰まったとか返答に困ったという仕草ではなく、息を潜め、自分の『行動』を絶ってこちらを窺う沈黙だ。

(早くヤりたくて頭がボーッとしてるくせに、俺に『なんて答える』のが『正解』か、考えてるのか?)

「俺さ」メビウスの答えを待たず、俺は続けた。「あんたが欲しいんだ」

「だから、今…っ」呟くように言葉を発する彼が、まるで心臓でも守るように胸元で手を握る。「こうして共に居るだろう」

「そんなこと話してるんじゃない。そんなの、ただの表面上の話だ」

 いくら抱いても足りない。

 もっと声を聞きたいのは。

 もっと触れていたいのは。

 『根本』が満たされてないから──。

「……あぁもう…っ」ふーっと長い息を吐いて、メビウスが声を震わせる。「クソ、まるで頭が回らん……とにかくこの薬を抜かせてくれ、外へ──」

 頭痛を堪えるように首を振り、頭に手を当てながら、彼はふらりと立ち上がろうとする。

(だめだ、逃がさない)

 ひとりでは心もとないその腕を支えるように掴んだ俺は、ぐいっと自分のほうへ引き寄せた反動と体重移動を利用してメビウスを壁へ押しやっていた。

「ぅわっ」

 衝撃が少ないように力加減はしたけれど、倒れ込んだも同然だった背が壁にぶつかった時には、どんと重い音がした。脚から力が抜け、そのままずるずるとへたり込む彼へと俺は間合いを詰め、キスをする。

「んむ…っ!」

 粘膜同士が触れ合って、唇を甘噛みして、ゆるく舌でなぞっていく……それだけなのに、ひとつ感触が増えるたび、メビウスの身体は弾かれたようにびくんと跳ねた。相当理性がぐらついているのだろう、硬く強張っていた隙間が堪え切れず開いたところを逃さず、舌を滑り込ませて接触を深くする。

 どのくらいの間ひとりで悶々としていたのか知らないが、中はもう熱く蕩けている。擦れ合うと舌の傷がピリリと痛むが、それすら甘い痺れにとって代わるほど心地よくて、腹の奥深いところで熱が疼いた。

 朝には予期せぬ邪魔で満たされなかった欲求が、──繋がりたい渇望がよみがえる。

(なあ、あんたもそうだろ?)

 舌裏に潜り込み、表面には無いヒダや筋をなぞっていくうちに、もともと薄かった抵抗は無くなった。諦めたか、委ねたか、それとももはや何も考えられないのか。俺の肩を押し退けようとしていた手は今やぎゅっと握り込まれていて、それは彼が、感触に──心地好さに集中している時に見られる仕草だった。

「ん、ふっ……ぅんん…っ」

 触れ合う角度を自分から変えてきたメビウスが、もどかしそうに身を捩らせる。服の上から探った腹や脚は緊張しきっていて、このまま達せる瞬間を待ち侘びているように見えた。

 イきたいと望む声を、言葉を聞きたい衝動が込み上げるけれど、これ以上焦れるのはこっちが保たない。俺はメビウスの脇腹を探っていた手をするりと下ろすと、下腹の熱に指先を強く押し付けた。

「ん、んぅ、──んぐうっ!」ぐりぐりと幾度か力を入れてやるだけで、あっけないほど、でもとても強く反応を帯びて彼は達する。

「…なんだ」移った熱と、心なしか甘ったるさの混じる息をついて、少し震えている彼の大腿をさすってやりながら俺は笑った。「あんたも割と我慢してたんじゃないか」

「……う、ぁ…」

 全身に行き渡った快感に浸ってしまったが最後、冷静さを取り戻すなんてのはそう簡単にできることじゃない。長らく耐えてようやくイけたとばかりに、熱に浮かされた目はぼんやりしている。こうなっては一回やそこらではおさまらないだろう。

 ひとりで一度くらい抜いておけばよかったものを……と思わなくもないが、俺を待っていてくれたのだと思えば気分も好い。

「メビウス…」

 甘い蜜の匂いがする耳元にキスをして、柔らかい肉を甘噛みしながら彼の腰を緩め、中をそっと探った。未だ敏感な熱源が俺に触れられてぴくりと嬉しそうな反応を示し、さっきの射精で散ったものが指に絡んで、手にまとわりつく。

「や…っ」びくりと肩口を震わせたメビウスが、俺をそれを以上進ませまいとして腕を掴んでくる。「ま、待てっ、ここで、これ以上は…っ」

「…は、無理」喉を鳴らした俺は、彼の脚を押し開いて言った。「俺も、もう我慢できない」

 中でたっぷり濡らされた指先が秘所に行き着き、難なく潜り込む。指の腹で浅い壁を擦れば自然と抜き差しの動作になって、『入口』まわりを余さず刺激できた。

「ん、うあっ」押し上げられるように漏れる声は高く、甘く、言われなくても気持ちいいんだとはっきりわかる色を含む。「あ、あ…っやめ、…ぇ…」

 中の具合を確かめるため指を根元まで押し込むと、肉壁がひくついて、もう離すまいとしゃぶりついてくる。ああ早く、この柔らかさを、圧力を、何もかも溶かし尽くしてしまいそうな熱を、早く自分自身で感じたい。

 こいつのナカを突いて、扱いて、イくときも、イッてる間も、ずっと──。

「ヴァン、もう…頼むから……戻ってから…っ」

 興奮しきった息遣いのくせ、メビウスはまだそんなこと言っている。しかし俺を押し留めようとする手には力を入れることができず、下肢の着衣も促されるまま片足を抜いてしまう。

 こんな人目につくかもしれない場所でコトに及ぶのはどうしても抵抗がある、しかし身体の感覚にどうしても抗えない──行為に慣れて、その快楽がどれほどのものかを知ってしまった者が必ず通る葛藤の道。

 こいつが俺を相手にその『道』へ踏み込んでいるであろうことに、何より熱が高まる。

(でもそんな態度じゃまだ足りない。メビウス、もっと、もっと俺のこと──)

 己が蜜の滴る彼のそこに先走りに濡れた先端を押し付け、俺はゆっくり身を進めた。

「あ…!」びくんと跳ねたメビウスが切なく高い声で啼く。「ああ、あぅ、あ…ッ」

 ろくに慣らしてもいないのにここで一息に突っ込めば苦痛だけに終わる。ゆるゆると小刻みに身体を揺すって、双方の肉に蜜を馴染ませながら繋がっていくのが、お互いに一番気持ちいい方法だ。

 そう。セックスはお互いに気持ちよくなれるのがベスト。片方だけが一方的によくなるだけなら自慰と変わらない。

「ほら、メビウス…もう入るぞ」

「う……っく、──んあっ」

 もっとも抵抗の強い山を越えた瞬間、吸い付かれるように奥へ引き込まれる。これは単純に言えば筋肉の収縮作用によるものなんだが、この瞬間はいつだって、迎え入れてもらえた気がして嬉しいものである。

 そのまま奥まで挿入すれば、肉壁の奥に隠れた硬い組織に行き当たる。──そのちょうど下が、こいつのピンポイントだ。先端を押し付けたまま身体を揺さぶれば、いいところをくすぐられたメビウスのナカが快感を深めようと緊張を帯び、圧力が上がる。

「あぁ……気持ちいぃっ」

 熱く絡みつく媚肉に吸い付かれて、腰からゾクゾク這い上がってくる強い快感に、俺は思わず口走っていた。

「朝からずっと欲しかったんだ、あんたがっ」心地好さを求めるまま、それこそソコをせめ立てれば気持ちよくしてもらえることを覚えた動物のように、俺はメビウスを突き上げる。「やっと『俺』を覚え始めてくれたんだって、解らせてやりたくて、ずっとっ」

「なに、をっ……ん、んぅ…っうあっ待っ、待てっまた…っ!」

「いいぜイッて、ほら、こうしたら…ッ」

 律動で追い立てながら、俺はメビウスの掴み上げた大腿にぐりっと爪を立てる。痕が残る強さで、普通なら痛みが先立つはずなのに、その刺激が決め手になった。

「やっあ…っあ、あぁあ来るぅ…っ」場所を気にしてか、メビウスは自分の口元を抑え、嬌声を堪えながら達する。「んん…ッ、ふ、んうぅぅっ」

 身を縮め、幾度となく繰り返される腹の底の収縮反応に見舞われながらも、メビウスの表情は完全に快楽を享受しきってはおらず、どこかしら腑に落ちないという顔だ。

「これ、気持ちいいだろ?」

 彼の反応がおさまっていないことは百も承知、緩やかに律動を再開しながら、大腿に残った爪の痕をなぞり刺激を呼び起こす。

「ん、うぅっ」びくびくっと腹の奥が反応を示し、ナカで繋がる俺にもその圧力の変化が伝わる。「待て、止めろっなんでぇ…っ」

「あんたなら、ちょっと考えればすぐわかるだろ」

 答えは簡単なこと。こいつがイく時に、いつもその刺激を与え続けていたからだ。

 およそ普通の場合、男でも女でも『身体の内側』はいかに性器であっても性感帯ではない。別の手段を用いて絶頂を迎える際、そこに刺激を受けていることによって『ここが好い』と脳を錯覚させる……いわゆる『開発』を随時行なうことで性感帯へと変わっていくのだ。

 この手法を丁寧に繰り返すことで、神経の通っている部位ならどこでも開発が可能である。ちなみに余談になるが、女絡みでたまに聞く『変な癖をつける』というのは、大抵こういう事態を指している。

 薬物で神経そのものの感度が上がっている今、メビウスはよりはっきりと感じていることだろう。

 痛いはずなのに気持ちいい──、と。

「なあ、メビウス」彼の腕をぐいっと引き上げると、正面から抱き合う姿勢にする。

「ぐ、う…ッ」脚に力が入らないせいで自分の体重を支えられず、肌が触れ合う深い繋がりに、メビウスのきつく噛みしめた奥歯がギリッと音を立てる。

「俺のこと、もっと覚えて」

 法衣の襟を開いて喉や首に転々とキスをしながら彼の腰を抱き寄せ、メビウスが気持ちいいように、奥深くで触れ合ったところが擦れ合うように揺さぶる。

「ん、ふ……っ、うぅん…っ」

 自然と俺に抱き付いてくるかっこうになる彼の、耳元で響く吐息と嬌声がたまらなく心地好い。こいつが背筋や延髄をどのくらいゾクゾクさせているかはわからないけれど、呼吸に小さく混じる、今までに聞いたこともなかった喘ぎが淫靡な想像を掻き立てる。

「あ…ッ、ヴァンっ、……ヴァンんんんっ」

「ん、イきそう?」

「いっ、イきそぉっ」子供が言葉を反芻するように、彼は形振り構わなくなっていた。俺の動作に合わせて腰を揺らし、めいっぱい張り詰めた脚で最大限の快楽を得ようとする。「ヴァン、もっとっ、もっとソコ、ぐりぐりってぇ…」

「わお、嬉しいこと言ってくれるじゃないのっ」

 俺は言葉の通りめちゃくちゃに嬉しくなって、両腕で彼の背を捕まえると、ぐっと深く押し込んだ。ひゅっと息をのむ喘ぎが聞こえ、メビウスが俺にしがみついてがくがく震えるのに合わせて、ナカも引きつるように締まって俺に射精を求めてくる。

 理性が飛びそうなほど気持ちいいし、一緒にイきたいって気持ちは、もちろんある。でも、……お預けされた分、もう少し楽しみたい。繋がっていたい。

(それに、あんたは多分、まだ)

「ヴァンん…っ」イッて間もないのに、収縮が続く奥を自分から俺に押し付けながら、未だ絶頂の最中にあるメビウスの声がぐずぐずにとけていく。

「メビウス……気持ちいい?」

「気持ちいいぃ……」はっきり口に出すことでより感じるのだろう、身震いまじりに彼は喉を反らせて言った。「あつくてっ…硬いのぉ……ずっと欲しくて、待ってたんだ…っ」

(え?)

 一瞬、幻聴かと疑う。

「俺とシたいって、思っててくれてたんだ…?」

「朝からずっとっ、挿れて、欲しくてっ」律動に揺さぶられ、時折声を跳ねさせがら、メビウスは何とか俺に答えるべくやっとのことで言葉を絞り出している様子だ。「だから早く、戻りたいってぇ……、あ、あぁあソコおっ」

 奥のポイントが収縮するタイミングに合わせて、硬い先端でそこを扱いてやる。身を震わせ、捩らせて快楽に流される相手を抱きしめ、俺の律動はいよいよ強く、速くなっていった。

「メビウス…っ、メビウス、もっと言って、俺のこと気持ちいいって」

「あうっ、あっは、あぁあきもちいいっ……もっと突いてぇっ、私のナカ、もっと掻き回してぇぇ…っ」

「──メビウスっ」

 延髄を這い回り翼の先までざわつく快感に堪え切れず、俺は口を開くと、メビウスの襟の内側に噛み付いていた。

 ……否、それはもう獣のように喰らい付いたというのが正しかったかもしれない。抱きしめる力に合わせ、いっそ傷になれと、背にもきつく爪を立てる。

「やっ…あっ、それだめっ、あ、あ、来るっ来るううぅっ」

(ああ、いっしょにイこうぜ)

「うあ、あッ、ああぁあああぁぁ──……ッ」

 ……長い絶頂だった。

 俺が先に熱を放って程なく達した彼は、反らした喉から漏れるせつない声を掠れさせ、幾度とない収縮に全身を震わせる。最初の大きな波を越えて俺にしがみつき、繋がった奥に体重がかかるだけで始まる次の反応に崩れていく。

「メビウス…」

「ヴァンっ…ヴァン、まだっ…このまま……っ」

 気持ち好さに勝てなくて、俺にすがり甘えてくる仕草があまりにかわいくて、またぞわぞわと熱を帯びた快感がわきあがるのを否めない。

(警備員の見回り、来るかもしれないな…)

 いくら教授が俺の体調を考慮して、多少の時間は中で休んでもいいと思ってくれていても、さすがにまだ退館してないとなれば心配されるだろう。

 こんなことなら本当に、ホテルへ戻ってからのほうがよかったな──。

 でもその選択をしていたら、こいつはさっきのように『本当のこと』を口走ってくれていただろうか? 俺とシたかったと、欲しくて仕方が無かったのだと、『素直』に言ってくれただろうか。

 ……わからない。

 だから。

 ここで交われたことは、悪くなかったと思う。

(外へ出たら、一発ブン殴られるくらいのことは覚悟しておこう)

 ただ今は。

「メビウス。まだ気持ちいい?」

「ん…っう……あ…」

 応える声はうつつに近い。呼吸はかなり落ち着いてきたが、このまま放っておけば意識が落ちるかも……と懸念していたところで、彼はのそりと身を起こした。

 体力気力精力ともに消耗が激しかったのか、長い息を吐いて頭を押さえている様子は病人のそれに近い。

「あ、えっと…」

「………」

「…大丈夫か?」

「言いたいことはそれだけか……?」

「ぅわお」

 まだ薬の効果が抜けきっていないのは、ほんのりと色付いたままの肌を見れはわかる。だが数回の絶頂を経て神経が疲弊してきたことで、コントロールを取り戻した彼の目付きは大蛇の眼光、可憐な小鳥にすぎない俺では竦み上がるより他にない。

「ともかく、先に抜いてくれ…っ」

「あ、ああ、ごめん」

 ぶるっと身震いする彼が自力では動けないことを察し、俺は身体を離した。もちろん、まだ相当に敏感なナカをできるだけ刺激しないように、ゆっくりと。

 普段、俺の部屋でコトが終わったあとはいつも眠りたがるこいつだが、今日はさすがにそうもいかない。さっきまでの殺気溢れる態度はどこへやら、彼はどこかボーッとした感の抜けない目で傍の外套をたぐり寄せると、俺が着衣を整えているうちにさっさと下肢を隠してしまった。

「よくも好き放題してくれたものだ……」

「あー……、うん、反省してる」

「……まあ、おまえも初めは、あの菓子を口に入れていたしな」は、と深めの息を吐き、前髪を掻き上げながらメビウスは言った。「先に出ていろ。私もすぐに出る」

「え、お咎めなしか?」俺は驚いて言った。

「…反省しているのだろう?」すこしばかり不審そうではあるが、彼は俺の言葉を信じることにしたらしい。「それともここの大病院にでも入院したいのか?」

「いえ、五体満足で帰りたいです」

「余計な単語を付けるな、おまえが言うと洒落にならん」

「呆れるなよ、笑うとこだぞ」

「笑えるか、さっさと行け!」

「はいはいっ」

 書籍をブン投げる勢いで怒ったメビウスから逃げるように、俺は図書館を飛び出した。

 キッズスペースをぴょんと出た時には脚がぐらつきそうになったけれど、それもすぐに治まった。

 ──俺の舌の怪我、バレずに済んだかな。

 それとも、黙っていてくれてるのだろうか。

 わからない。

 さっきやっと聞けた『本音』のように、聞かなきゃ……言われなきゃ、何もわからない。

(メビウスは、どう思ってるんだろう)

 俺のこと。

 『恋』だなんて言ってた。──『愛』にする気はない、とも。

 あらゆるものに興味があるというあいつは、『知りたい』と思ってくれるだろうか。

 俺の『本音』を。

(メビウス。もっと覚えて、俺のこと)

 他の男じゃ物足りないって思うくらい。

 いつか俺の知らない誰かが触れた時、俺のことを思い出すくらい──。

「……好きだよ」

 俺の声は、蚊の鳴くような、いっそ吐息と変わらない程度の音で言葉になった。




                               END(2019/04/30)