依怙贔屓



「腕の立つ冒険家を探しているのだが」

 メビウスが放ったその一言で、ホールに居た男も女も、みんながまさかとばかりに彼を振り向いてきた。

「え、おまえさん」実際に声をかけられた本人である酒場のマスターが、信じられないものでも見るように目を丸くして言った。「腕の立つ冒険家を『探してる』って?」

「……そうだが?」相手の反応の意味がわからなくて、メビウスは半ば訝しげに答える。まるで自分が、何か悪いことを……あるいは常識外れな質問をしているかのようではないか──そんな彼の推測は、程なく的を射ることになる。

「まさかとは思うが、知らないのかい? ヴァン・クロウのことをさ」

「ヴァン・クロウ? ……知らんな、有名な者か?」

 そんな彼の、何の悪気もない返答が皮切りとなった。酒場に居た者たちがワッとカウンターの周辺へ押し寄せてきて、口々に言った。

「ヴァンを知らないって嘘だろ!? あんた魔人だよな、どこから来たんだよ!?」

「このあたりじゃ、あいつがついこないだ成し遂げた聖杯探索のウワサで持ち切りだぞ!」

「『ウデの立つ冒険家』といやあ、誰でも最初にあいつの名前を出すだろうさ! 天魔どころか世界中のどこを探してもあいつほどの冒険家はいねえよ!」

 ──現地調査も『楽しみ』のうちと思い、世界史や人物に関連した知識はほとんど仕入れずにやってきてしまったが、こうして男も女も問わない者たちの、かなり熱の入った語りっぷりを半ば引きつつ聞きながら、メビウスはせめて下調べくらいはしてくればよかったと思った。

 誰の言葉に集中すればいいのかわからないくらい、誰も、自分のことのように自慢げに、誇らしげに話す様子を見る限り、断じて愚者でだけはなさそうだが。

 しかし『聖杯探索』とは……? まさか、リュウガが創った『あれ』のことか? ならば、エルディカインに認められたということに──。

 そんな中、ふいに誰かが続けた言葉が彼の注意を惹きつけた。

「歴史や考古学ばかりか、生物・植物学を通じて薬学やらの博士号だって持ってるんだ。この世界で、あいつに踏破できない秘境はないだろうさ。解き明かせない謎もな」

「──ほう?」

 冒険家としての活動のみならず……否、活動のためには必要不可欠な知識が在ることを認識し、その鍛練をも行なっている。なるほど、この高名ぶりはその者が己が力で築いたものか──。

 メビウスが過去、決して自身を公にしなかった点では正反対ではあるけれど、自分にも通じるその在り様を聞き、ヴァン・クロウという者に少し興味がわく。

「どうすれば会える?」メビウスは言った。「連絡役を引き受けてくれる者が居るなら、礼はしよう」

「急ぎの用かい?」男は言った。「残念だけど、そいつはちょっと厳しいかもしれんなぁ」

「何故だ?」頭の悪い子供のようにメビウスは訊ねた。これほど高名な者ならば、自分に本当に必要な『仕事』の選別くらいはできるだろう。バカみたいに安い仕事を請けまくって予定が詰まっているということはないはず──。

「こないだ鬼龍政府からの正式な依頼があって、新大陸の神殿調査へ出ることが決まったそうだよ。出立は明日の朝だったかな」

「新大陸──」

「ああ。すぐそこの第二波止場から船に乗るのさ。運が良けりゃあ、あんたも会うくらいはできるかもな」

「……わかった、ありがとう。待ってみることにしよう」

「おいおい。会えたところで、あいつがあんたの『仕事』を引き受けるとは限らんぞ。急いでるんじゃないのかい? 天魔首都の冒険家協会本部でなら、ヴァンほどじゃないだろうが、誰かいい代わりが見つかるかも──」

「いいんだ」用のなくなった酒場から踵を返し、メビウスは出口へ向かいながら言った。「もう決めたことだ」

  引き受けるかわからない、などと、そんなものは引き受けさせればいいだけだ。政府勅令の依頼だというなら恐らくヴァンはパーティで来るだろうし、本人が無理そうなら周囲に当たればいい。どうせ本人は雇われた側の身、クライアントに同行をOKさせてしまえば拒否権もないだろう。

 いよいよこれから賑わうであろう酒場の灯りを背に、真紅の目を上げた彼は海の向こうから昇ってきたばかりの大きな月を見つけた。どこか勝利を確信した、彼が持つ生来の気の強さを感じさせる笑みが口元にちらつく。

 決めたぞ、ヴァン・クロウ。この世界の命運、おまえに賭けさせてもらおう──。



 次の落雷をかわすには脚の反射が間に合わない。それを直感したヴァンは手元からマチルダを飛ばして石柱に巻き付け、腕の力をも使ってそちらへ跳躍しようとした。

「その程度で逃げ果せると思うな!」

 トラロックの声と共に、暗雲の敷き詰められた天が瞬き、ヴァン目掛けて雷が襲い来る。それは中途でふたつに分離し、本体ともいうべき巨大な部分は彼へ、小さな光の筋はいち早くマチルダへ接触して縄にすぎないそれを焼き切っている。

「くそォッ!」

 あわや直撃かというところでヴァンは両手を前に突き出し、そこへ精神波を集中させて防御壁を作り出して雷撃を防いでいた。だが彼が上げた声に含まれる焦りが示す通り、雷の威力に対して防御の効果はあまりに弱い。電撃が防げたかに見えたのは瞬間的なもので、一瞬後にはガラス同然に砕け散る脆いものだった。

 ほんのわずかでも耐久してくれたおかげで、ヴァンは石畳の上を転がりながら致死の一撃を免れてこそいたが。

 と、顔を上げたヴァンの視界に、中空に滞空するトラロックの背後へ回ったアジーンの黒い影が見えた。大きな口をいっぱいに膨らませ、灼熱のファイヤーブレスを思いきり見舞う。

 だが、あっけないほど簡単にそれは防御された。──否、むしろトラロックは何もしていない。彼の帯電した身体が、進行するものを歪めて余りある強力な磁界を生み出し、それを防御フィールドと化している。

 ブレスの奔流は当然のごとく、トラロックに当たることを避けるようにねじ曲がり、あろうことかその向こうにいるヴァンへの攻撃となって襲い掛かった。

「うわあああっ!?」

「──バカ、見てらんないわねっ!」

 間に割って入ったアルセーヌが、手元に浮いたルナティック・キューブの配列を瞬間的に入れ替え、風の結界を起動させてブレスの誤爆を防いでくれていた。しかしアジーンとて、仔に過ぎずともやはりドラゴン、敵を討つために吐き出した全力のブレスは、結界で多少の弱化はできても肌を焼く熱までを殺ぎ切れない。

「あ、相棒っ! すまねえ、大丈夫か!?」

「気にすんなよ。…けっこうキくじゃないか、おまえのブレス。さすがだな」

 何とか黒焦げを免れた二人のもとへ申し訳なさそうに戻ってくるアジーンを責めるような真似はせず、ヴァンは咄嗟に息を止めたとはいえ熱風を吸い込みダメージを受けた喉の痛みを堪えて言った。

 ケホ、と小さく咳き込めば、わずかに血の味と匂いがする。

「ヴァン」アルセーヌが言った。トラロックの次の攻撃に警戒し、風の結界を保持しながら。「勝算はあるの? あんたでもヤバイと思うなら、勝つことよりもあいつの注意を逸らして逃げることを考えるべきよ」

「正論過ぎて、言葉も無いね…」ヴァンはたまらず苦笑いする。

 彼女の言う通りだ。本来ならばヴァンはすでに、逃げることを前提にした心算を始めていてもおかしくない。彼はあくまで冒険家であって、戦闘民族でもなければ用心棒ですらない。ここへ来た目的にしたって、ラピスの遺跡踏破という目標に対して雇われた『専門家』という立場に過ぎないのだ。もともとラピスの護衛であるラズワルドならばともかく、こんなふうに命をかけた戦いを強いられる道理などない。

 でも──。

 ヴァンを注視していたアルセーヌは不意に見た。悔しげに奥歯を噛む彼が、後方の中空を──そこに浮かぶ、メルクリウスを捕らえた水球を気にするのを。

「…気に入らないな、魔神よ!」

 彼らの横から地を蹴って跳躍したのは、カスケードとラズワルドだ。ラズワルドが機銃で張った弾幕の間をすり抜け、カスケードが、刀身の輝く剣を帯電させて斬りかかる。

「人質を取って相手が逃げられぬ状況を作り、それを嬲り殺すのがそんなに楽しいか!」

 落雷そのものの閃光が炸裂する。大気を突き抜ける雷の爆音が響き渡る中、カスケードの振り下ろした刃は、トラロックに届くことなく止められていた。

 結界でもなければ見えぬ抵抗力でもなく、純粋にそれ以上進まないのだ。まるで弾き合うかのように、カスケードの剣はトラロックから離れようとする。どれほどの力を込めようとも。

「…人質、か」トラロックがぽつりと言った。感情を含まない、抑揚をおさえた声で。「心外なことだ。自らの弱さを棚に上げ、我々とあのかたのせいにして感情のやり場を探そうとは、無粋にも程があるぞ」

「なにを…っ!」

「貴様らがこの試練を越えられぬのは、貴様ら自身その領域に達していないからだ。そこを弁えてもらおうか!」

 ドォン、と遠雷に似た音が低く響いて、目を灼く閃光と共にカスケードの身体が大きく弾き飛ばされた。その向こうから、ラズワルドがこれでもかとエネルギー体の剣で突きを繰り出す。

「無駄だ」トロラックは言った。

 魔神の言葉の通り、今しがたのカスケードと同じように、彼の刃もまた敵に届くことなく持ち主の意思に反して進行をやめ、凄まじい反発力で弾き返されてしまう。前に張った弾幕にしたって、ひとつとして届いてはいないのだ。

「ラズちゃんっ!」

 石畳をブチ抜く勢いで地に叩きつけられたラズワルドにラピスが駆け寄って抱き起こすけれど、鋼人である彼に電撃を操るトラロックは相性が悪いことこの上ない。技師でもあるラピスの目には、弟の身体の各部で回路が電圧超過によるショートを起こしているのが見て取れた。

「……この神殿の罠と守護魔獣たちを突破し、ここまで辿り着いたおまえたちならばと期待していたが、思い過ごしであったようだ」

 アルセーヌに護られたヴァンの前へ、すぅっと音もなく降りてきたトラロックが、すこし残念そうに言った。何のことを言っているのか今ひとつはっきりしないが、どうやらこの『試練』を突破できる人間を求めていることだけが伝わってくる。

「この『試練』の存在を他の者へ口伝されるわけにはいかぬ。敗者にはこの世から消えてもらうぞ」

 魔神が手にした神器が眩い光を蓄え、何の躊躇も余韻もなく眼前のふたりへ向かって大放電を行なった。咄嗟に大気の振動を感じ取ったアルセーヌが結界を強めて防御を試み、風と雷は猛烈な勢いで激突する。

「ぐう…っ」アルセーヌが呻いた。

 手元のキューブは次々に形を変え、結界の各所、脆くなった部分の修繕を繰り返しながら維持されているけれど、その原動力はキューブの持ち主である彼女の魔力だ。見る見るうちに自分が死に向かって消耗していることを感じて、それでもこの結界を解くことが何を意味するかを知りすぎていて、一歩も退くことができない。

「アルセーヌ、もういい!」ヴァンが叫んだ。「おまえが死んじまうぞ!」

「怪我人は引っ込んでな!」アルセーヌが声を張り上げた。そしてトラロックを睨めつけて、尚も口を開く。「あんたらの事情なんか知らないよ。知らないからこそ、それを教えもしないで、『試練』だとかそれらしい言葉を取って付けてテメエ勝手な判断で人間をはかろうとするあんたらが気に入らないのさ! ニンゲン様をナメるんじゃないよ、死ぬとしても、タダで死んでやるもんかい!!」

 ──女、よくぞ言った。

 自分の頭の中に、フラッシュのようによぎった声に彼女はハッとする。

 ──結界にマイナスの電荷を付与しろ! 

 自分自身の『発想』が如く閃いたその意志に従い、彼女は自らの意思でキューブを組み替えて、浮かぶイメージの通りに結界を作り変える。風の流れを変え、大気中の塵や砂埃を衝突させて電荷を発生させるけれど、思うようにいかない。

「手伝うわよ、アルちゃんっ!」遥か後方からラピスの声がした。

ラピスラズリ・ブルーウェイブ
「瑠璃色の氷結波!!」

 彼女が振り下ろした大振りな機械斧が冷気を帯び、アルセーヌが渦を巻かせた風の結界に勢いを与えた。もともと豪雨があったあとだったから、大気中に過剰に含まれていた水蒸気が見る間に凝固して大きくなり、上昇気流の中で衝突し合って電荷を高めていく。

 熱帯気候であるこの地において、冷気という助力を得て急速に発達するその風の結界は、今や簡易的な積乱雲となりつつあった。

 そしてアルセーヌの意思によって、正面にマイナスの電荷がかき集められた直後、異変は起こった。トラロックの雷が、行き場を失ったように結界から逸れ、石畳や石柱といった的外れな場所への暴発を始めたのだ。

 そうか──。傍で見ていたヴァンは、その原理に気付いていた。

 自然界での放電現象──『落雷』は、空のマイナスと地のプラスが引き合うから起こる。放電する側であるトラロックは常にマイナスの磁気を帯びており、それに引きずられて自分たちは強制的にプラスにされる。だから雷に狙われるのだ。カスケードとラズワルドの剣が通じなかったのも、『放電する側が常にマイナスである』ことを踏まえれば、同極同士の反発作用ということが解る。

 だからアルセーヌの結界が帯びたマイナスイオンを表面にかき集めれば、同じくマイナスの放電である雷はプラスのほうへ逸れていく。至極簡単な原理……否、摂理なのだ。

 だが、アルセーヌはもともと魔力に飛び抜けて秀でているわけではない。そんな彼女が、これほどの自然現象を制御できる時間には限界がある。雷を防ぎ切り、マイナス同士の反発によってトラロックが弾き飛ばされたことを確かめた彼女の脚はふっと力が抜け、その場に崩れ落ちていた。

「アルセーヌ!」

 咄嗟に伸ばしたヴァンの腕が、彼女が石畳に打ち付けられる前に抱き留める。ほとんどの力を使い切って、ほんの数分で死人のような顔色になってしまった彼女はそれでも目を開き、気の強そうな笑みを浮かべて見せた。

「どんなもんよ……私だって、少しは役に、立つ…でしょ……」

「バカ! こんな時に、そんなふうに命張られたって嬉しいわけないだろ!!」

「命張った女に何よ…その言い草。あんた…ほんと最低よねえ……」

 呆れ果てた言葉を最後に、アルセーヌが気を失う。一瞬こそ死んだのかと思ってしまうのは、彼の心に突き刺さった抜けぬ棘の傷が痛むせいだろうか。

 ああ、嫌だ──。棘の痛みが、じわりと毒になって心に広がる。

 これ以上戦えば、本当に死人が出る。

 自分のために、また誰かが死んでいくのを見るのは嫌だ。そんな姿も、そんな顔も見たくなんかない。俺にそんな価値なんか、あるわけがないのに──。

「素晴らしい知略だったぞ」上空からトラロックの声がした。「しかしその行使も一度きりが限界のようだな。──このまま消すには惜しいところだ」

「……惜しい……?」ヴァンはその言葉を聞き留めて、顔を上げた。「こいつらを殺すのが惜しいって言うなら、……それなら、消すのは俺だけにしてくれないか」

 えっ、と仲間たちが耳を疑い、戸惑いの気配が伝わる。

「この『雷の試練』を受けたのは俺だろ」ヴァンは言った。「他の奴らは勝手に加勢してきただけだ。あんたたちなら、こいつらの記憶を消すくらいのことはできるよな。『試練』の存在への口封じはそれだけで充分じゃないか」

「な、何言ってるのよヴァンちゃんっ!」ラピスが叫んだ。「あなたは世界一の冒険家なのよ、私たちも頑張るから、だから──」

「いいんだ。もう決めたことだ」

 彼女らがこのまま殺されるのを見ることになるよりは、ずっと、……ずっとマシだ──。

「……いいだろう」トラロックが言った。「仲間を想うおまえの心向き、解らぬことはない。せめてもの慈悲だ、その命と引き換えに、仲間の安全は保障しよう」

「助かるよ、ありがとう。──カスケード、ティアティア。アルセーヌを頼むな」

 傷を負った男と、泣き出しそうな幼い少女に女を預けると、ヴァンは立ち上がった。ここに至るまでをめちゃくちゃに跳び回った脚は震えが来ていて、腕で支えてからでなければ体重を支えることも難しかったけれど。それでも。

 バシャッ、と水を打つ音が聞こえた。何事かと思えばトナトナが、メビウスを包む水泡へ向かって跳躍し、槍で叩き割ろうとしているところだった。

「あきらめるなヴァン! 仲間はまだいる! メルクをとりかえせば、まだ戦える!」

 だが水泡を一撃で粉砕できるほどの魔力も精神力も持たないトナトナの攻撃など、まったく何にもなっていない。刃先は確かに水を打つけれど、それだけだ。河を叩いているようなものに過ぎなかった。

 誰もトナトナの努力に期待してなどいなかった。彼があの水泡を打ち破れるとは、露ほども考えていなかった。


 ──けれど、『自分』が力を貸したなら…?


 そんな意思が、立ち上がる。



 静かに降りてきたトラロックと向き合った一瞬後、神器が鋭く帯電する光の中で、ヴァンは聖女のように目を閉じて、そして言った。

「ごめんな、メビウス。──力になれなくて」



 あいつは何を言っているんだ──。ヴァンの『提案』を聞き付けたとき、メビウスの心に湧き上がったのは得体の知れない感情だった。

 唖然とした。呆然とした。彼の言っていることの意味が解らない。自分の命と引き換えに、仲間の全てをここから見逃してもらって、それで何になる? おまえはそこで終わりだ、残った者たちもここでの出来事を忘れる。そしてこの空中楼閣は、新たな挑戦者を待ってまた永い眠りにつく──。

 ……否。

 ヴァンの死によって仮にそうなったとしても、その静寂はきっと長くは続くまい。何故ならこの地に眠る蛇竜神どもの復活を、この世の破滅を求める者の足音は、もうすぐそこまで迫っているのだから。

 ここに来ておまえは諦めるのか?

 …いや、違う。

 諦めているのではない。

 あいつはただ、『見たくない』だけなのだ。

 自分のために死ぬ者の姿を。その様を。

 大きなダメージを受け、アルセーヌが倒れたことも相俟って、ヴァンの心向きが弱くなりつつある。記憶の痛みと恐怖に染まって、現実を見ることができないでいる。

 『怖い』だと?

 だからさっさと自分の『目』を潰して、この先にある仲間の死という最悪の恐怖から逃げようというのか。

 この期に及んで、おまえは『逃げる』のか──。

「……おやめください」

 水泡の壁にガリッと爪を立てたメビウスの様子を見て、チェルチーが静かに制止をかけた。

「先ほどは一度きりのことと思い見逃しましたが、これ以上あの者たちに助力しようとされるのならば、私はあなたを傷付けなければならなくなる。どうかそれだけは──」

 バシャッ。言葉の途中で、水泡に軽い振動が伝わった。見やってみれば、石柱をよじ登ったトナトナが大きく跳躍し、この無敵の水泡を槍で懸命に叩いているではないか。

「あきらめるなヴァン! 仲間はまだいる! メルクをとりかえせば、まだ戦える!」

「やめなさい、かわいい子よ」チェルチーはあくまで優しく、母親のように言った。「このかたは、この試練の対象外。ここから出したところで、あなたたちに加勢されることはないのよ」

「トナトナ、ヴァンみたいに頭よくない。だから女神様の言ってること、よくわからない」水泡を叩くことをやめようとはせず、トナトナは言った。「でも、メルクは仲間だ! ここまでずっと一緒にやってきた! きっとヴァンをたすけてくれる!」

「そうよっ!」

 吹き上げてきた強烈な冷気で、水泡の下部がビシリと凍り付く。冷気と同時に跳躍していたラピスが、その大斧で凝固した一部を叩き割っていた。

「メルクちゃんがヴァンちゃんを助けないなんて、何を根拠に言ってるのよ!」続けざまに冷気を帯びた刃で水泡を斬り崩しながら、ラピスは言った。「この試練はみんなで受けたの、だからみんなで突破するのっ!!」

 トドメとばかりに水泡全体へ吹き付けた猛吹雪が、その表面を凍結させる。それを、下から撃ち上げられた衝撃波を伴うビーム砲が貫いていった。機銃をライフル砲へ変換したラズワルドの一撃だ。

 凍り付いた表面が砕け散り、水泡がほんの一瞬、形を失う。

「メルク!」トナトナが叫び、手にしていた槍を彼に向かってぶん投げた。「ヴァンをたのむ!!」

 恐ろしく正確な投擲だった。

 メビウスに当たらぬように投げたのでは彼に届かない可能性があったから、彼がそれを避けるか掴むかしてくれることを信頼しきった、頭を狙った攻撃にも等しいものであった。

 そして勢いづいたその刃は脆くなった水の膜をいともあっさり突き抜け、トナトナの狙い通りほんの少し首を横にずらした彼の髪を結う組紐の一部分を斬り落としてすぐ、彼の手に掴み取られていた。

 ほんのわずかながら封印を断ち切られたことで、その分だけ力を解放されたメビウスの身体が赤く帯電する。形状がよく似ているトナトナの槍を構えると、それは金色の柄と装飾を持ち、蒼き刃を戴く、使い慣れた錫杖に変わった。

「なりません!」メビウスの前に回り込んだチェルチーが、その眼前を遮って叫んだ。「あなたがあの者たちに手を貸されるのは、あってはならぬこと! 資格無き者に鍵を委ねる結果にもなりかねませぬ!!」

 バシャン! メビウスが全身から放った衝撃波が、再び形を成そうとした水泡を跡形もなく吹き散らす。

「ならば私を止めてみせるがいい!」槍を構えるように錫杖の刃先を向け、彼は声の限りに怒鳴った。「おまえにその『自由』を与えてやる。おまえたちが望まぬ結果になることを拒否するのなら、故に私をも押し留めんとするならば、それを成すことを認めてやろうではないか!!」

「キャアッ!!」

 業火を纏った刃先で鋭い突きを撃ち出されたチェルチーが慌てて身をかわした隙をつき、メビウスは漆黒の翼をはためかせ空を駆け下った。トラロックがヴァンの前に舞い降り、帯電した神器より裁きの雷で彼を焼き尽くさんとする、その場所が急速に迫る。

「ごめんな、メビウス」

 ヴァンの声がした。

「──力になれなくて」

「だまれええええぇぇぇぇぇ!!」

 絶叫にも等しい声を上げて、あと一瞬の速度を求めて羽ばたいたメビウスが繰り出した刃先が、トラロックの神器のひとつを貫いていた。

 落雷の閃光と轟音、力と力がぶつかり合った爆発音と火の眩さ、どちらが凄まじかったのかなんてわからない。媒体の片割れを破壊されて威力の弱まった雷が落ちてくるのを、着地したメビウスが掲げた錫杖を中心としたドーム状のバリアが防御する。

 目も眩む光の中でその背を見上げたとき、ヴァンはほとんど直感で、彼がひどく激昂していることに気付いた。

 猛烈なマイナスの磁気をまとわせた錫杖が、トラロックのそれを上回る強力な磁界を形成し、トラロック自身の電荷をもプラスに塗り替えようとする。そうなれば上空の雷雲の標的に、自身までもが含まれることになる。危険を察知した魔神は咄嗟に距離を取り、上空へ逃れた。

「メ、メビウ…ス…?」

 なんで、と疑問を口に出す暇もない。『敵』を追い払うことに成功したメビウスは素早く身を翻すと、有無を言わさずヴァンの襟をとっ掴んで引き上げていた。

「バカが!! 仲間の死に様を見たくないから誰より先に死のうとは、いい度胸だな!?」

「な──」

「誰も死なさずに済んだとつまらん自己満足に浸っても、誰もおまえを聖者などとは呼ばんぞ!! 死ねば総てが無だ、それで終わりだ!! 残される側の苦痛を誰より深く身に刻まれたおまえが、今度は手前勝手な理由で仲間を置き去りにしようというのか!!」

「……」

 ヴァンはぽかんと口を開いたまま、咄嗟に返す言葉が何も出て来なかった。

 図星なんて単純なものではなく、完全に見抜かれている上に、完全に的を射られている。何もかもこいつの言う通りだ。

「挙句の果てに、力になれなかっただと?」まだ言い足りないぞとばかりに、メビウスは怒りに声を震わせて続けた。「たかが人間の身の上で、この私に力を貸しているつもりでいたのか!? 思い上がりも大概にしろ、これはおまえの戦いなのではなかったのか!!」

「あ──」

 そうだ。

 違うなんて言えるはずがない。

 この一連のウラには、ゼルがいる。この世を滅ぼしたい、世界と共に死んでいきたいという、トチ狂った思考回路を持ったあいつが。

 あいつがアデルを殺した。その目的の鍵である宝玉ひとつを持ち去るために。

 あいつがヴァンを奈落の絶望に叩き落とした。

 あいつに会うまでは、あいつを止めるまでは、自分の時は停まったままだ。

 それなのに──。

「いいかウスラバカ、これだけは言っておくぞ」あらゆる面において自分が愚かすぎた現実について来られず唖然としているヴァンの襟から手をはなし、少々は怒声を落ち着けたメビウスは言った。「おまえに決めた私の選択を、あやまちにしてくれるなよ」

 自分を、選んだ──? ヴァンの頭の中で、ぴきんと何かが音を立てた。

「この期に及んで、人間に加勢されるおつもりか」

 相手の激昂が相当に落ち着いたことを確かめたか、ゆっくりと降りてきたトラロックがぽつりと言った。メビウスは振り向いて顔を上げるが、その目に悪びれるふうはない。ただヴァンと同じ『敵』を見据える厳しさがあるだけだ。

「これでは試練の意味がありませぬぞ」

「ほう? 才を持ち未来に伸び代を持つ人間を、己らの眼鏡に叶わぬからと潰し殺すことが『試練』だというのなら、貴様らの底も知れたものだな」

 ピクリとトラロックの尻尾が細微な反応を見せる。思いも寄らぬことを言われてカチンと来たか、あるいは彼の言い草が何かしら気に障ったのかもしれない。

「……我らとて、できるならばこのような真似はしたくない」トラロックは言った。「しかし、……しかし、我々をも凌駕できる知恵と力を持つ人間でなければ、『彼』の依代は務まらぬのだ!」

「おまえたちもまた、負けられぬ戦を控えているのだろう。──ならばふたり同時にかかってこい! こちらも全力で相手になってやる!」

「あなたはご自分のお立場を弁えておいでか!?」トラロックこそ激昂まじりに叫んだ。「あなたが加勢された時点で、その人間が我らに対してどれほどのアドバンテージを得ているか、理解しておられるのか!」

「立場……、だと?」

 メビウスはぽつりと呟き、わずかにうつむくような仕草を見せる。

 そう、私は神羅神。この新世界を創造し、神であるヒカリをも生み出した存在。

 そんな私が、いかに力を封印した状態であろうとも、この世の事象に関わることは、断じてあってはならない。

 その誓約を作ったのは誰あろう私自身。

 しかし──。

「私は──」

 ここまでを共に在り、歩いてきたのは。

 ここまでを共に戦い、勝利してきたのは。

 すべては、『私』だけの意思に留まるものではない。

 この者たちが……否、この者が、私と共に在ることを選んだ『自由意思』──。

 憂うことも笑うこともせず、顔を上げたメビウスはきっぱりと言い放っていた。

「私は、こいつの仲間だ」



 今まで、自分は何をしてきたのだろう。

「愛してるよ、ヴァン」

 その声と言葉が耳の奥によみがえるたび、背筋がぞっと逆立つ感じがしていた。

 腕も翼も心までも手折られ凌辱され、そんな苦痛と恐怖の記憶の中をのたうちながら、それでも気が付けばヴァンは冒険家として復帰していた。

 どうして? ──それは当たり前のこと。

 自分に無二の信頼を寄せるジゼルの待つ家へ帰ってやるため。アデルが生きた証拠をこの手で守り育てるために……何より、周囲の誰よりも自分を求めてくれた彼女に報いるため。他の目的などあろうはずもない。

 ならば、ゼルを追う理由は?

 ──わからない。

 追って、会って。そしてどうするのか?

 ──考えたことも無かった。

 アデルの仇だと言って殺すのか。彼がアデルを殺したように。

 それとも、世界の破滅なんてさせはしないと、正義を気取って彼を討ち取るのか。どちらにしたって、彼を殺してしまえば彼と同じ存在に成り下がるというのに。

(ああ、そんなのまっぴらだ。あいつと同じ? 冗談じゃない)

「これはおまえの戦いなのではなかったのか」

 メビウスにそう言われて、初めて気が付いた。

 俺があいつをどうしたかったのか。

 ──『止めたい』んだ。

 そうだ。

 そうだとも。

 これは『俺の戦い』。俺が生きるための、これからも生きていくための戦い。滅亡だ破滅だなんて世界の命運なんかどうだっていい、この世を──俺とジゼルが生きる世界を、アデルが生きた世界を、自分のモノサシひとつで滅ぼそうとするあのバカをぶん殴って。

 ──連れて帰るんだ。

 今度こそ変な気を起こさないように、この手に繋ぎ止めるんだ。

 もう二度と、何一つとしておまえの好きにはさせない。

「愛してるよ、ヴァン」

 その言葉を嘘にはさせない。

 この怖気は。

 この薄ら寒さは。

「ああ、俺もだよ。ゼル」

 紛れもなく、ヴァンが何より好む強烈な『快楽』だったのだ。



 急速に世界がひらけたような気がして、少し軽くなった身体を立ち上がらせると、目の前でトラロックに睨みを利かせていたメビウスが肩越しに振り向いた。

「──多少はマシなツラになったな」

 彼がすこし、面白そうに笑ったように見える。

 と、メビウスは、手にしていた見たことも無い装飾の杖を、ティアティアに向かって放り投げた。

「私の杖を貸してやる、その女を全力で癒やせ!」

 メビウスのカドゥケウスは、ティアティアのような亜人の少女が持つには相当大きな両手杖だったが、それでも役目を与えられた彼女は慌ててそれを両手に抱き、自らが得意とする回復魔法を発動させた。

 尖端の蒼い刃がほの白く光り、ティアティアが注ぎ込む魔力を活力へ変換して、意識も血の気もないアルセーヌへと急速に充填されていく。

「いいのかよ、そんな大サービスしちゃってさ」

 メビウスの隣へ歩み出たヴァンが、半ばからかうように言った。

「世の中じゃ、そういうの依怙贔屓っていうんだぜ?」

「言葉の意味を知って言っているのか?」何食わぬ顔をして、メビウスはしれっと言った。「依怙贔屓というのは、上の者が下の者に肩入れすることを言うのだ。全力でも貴様とそう変わらん程度の私に、適用される言葉ではないな」

「……ものは言いよう、か」つい可笑しくなって、くくっと笑ってしまうヴァンに、

「さて? 何のことやら」メビウスは完全にシラを切る構えを崩さない。

「ああそうだ、そうだよな!」様々なものを振り切った声を嬉々と張り上げ、ヴァンは鉄腕を振りかざす。「俺とあんたはおんなじだ、何も違わない! アストラル・アームズ再起動、バスターモード!!」

 声紋認証によって、一時は彼の戦意低下に伴い機能を停止していた鉄腕が、新たなギミックを起動して唸りを上げる。

 ──ずーっと、この音が嫌いだった。

「私がおまえの『翼』になってやる!」新たに手元へ召喚した錫杖を正眼に構えるメビウスの足元に、淡く翠玉の色に輝く魔法円が出現した。「私の風を乗りこなしてみせろ!」

「OK、望むところだ!」

 でもこの力があるから、俺があんたと『対等』なんだとしたら。それなら俺は、あんたと並ぶことを許される証になるこれを、受け入れられる!

「さあ、『試練』の続きといこうぜ魔神サマよ!!」



 トラロックは、ヴァンが異様に高揚していることを感じていた。

 破壊された神器の再構成は容易かったが、魔術に長けたメビウスの加勢によって、自身が得意とする雷撃の突破口を開かれつつあることも。

 翼がないヴァンには、魔人が操る中でも基礎中の基礎である浮遊の風魔法ですら使えない。けれどメビウスは、彼が生来持つ風属性の魔力そのものは体内に健在であることを利用して、アストラル・アームズの精神波射出構造を通して肉体の周囲に厚い真空層として収束させ、対雷撃用の結界として作用させている。

 これではヴァン自身の電荷がどれほどプラスになったところで、マイナスの電撃は真空の絶縁を突破できず、ヴァン側からの迎え放電も発生させられない。

 しかも。

「おおぉぉぉっ!!」

 身体を包む柔軟にして強靭な風はヴァンに獣人をも凌ぐ跳躍力を与え、ついでに彼自身の精神の高揚が生み出す、鉄腕が帯びる精神波による攻撃力増強効果を受けた一撃が半端なく重い。

(何なのだ、この男は?)

 トラロックの心に、かつてなく強い疑問がわきあがる。

 風の結界は魔神が帯びる磁力の循環ですら完全に絶縁してしまうため、磁界による反発防御が通じず、さすがのトラロックもヴァンの拳を直に受け止めるより他に無い。かわしたところで、彼が腕を振るえば結界の一部が強い摩擦を受けて射出され、強力なかまいたちとなって飛来する。

(この男にもし、翼があったなら……?)

 こいつは自力でこの結界を作り出していたかもしれない。それならメビウスの加勢など要らなかったことだろう。

 それにこの男に内在する『風』を外側へ循環させる今の戦術は、恐らくあの獣人の女でも成せた。機人の娘が言っていた。こいつは世界一の冒険家だと。そう謳われるほどの知恵を持つなら、魔神が操る雷撃の原理など容易く見抜きもしただろう。

 だったらこの戦術は、メビウス無しでもこのパーティなら成せたのだ。始めにメビウスがこの世ならざる存在であることを察知して無理に隔離したことが、ヴァンの心に何かしらの負荷を与えてしまっていたのか──、魔神は、そんな思考に至る。

 自分たちが余計なことをして、この男の精神力を殺ぎさえしなければ──。

(我々は、この冒険者が全力を出せぬ環境を自らで作り上げたにもかかわらず、その姿を見て失望していたのか。ならば何が試練か、ならば我らの何と愚かなことか)

 バシッ、と強い音を立てて、ヴァンの拳をトラロックの手が受け止める。

 義手の馬力がどの程度なのかなんて、ぱっと見ただけでは計り切れないけれど、じりじりと自分が押されていることだけははっきりとわかる。魔神は帯電した尻尾で相手を弾き飛ばそうと試みるが、ヴァンは脚を振り上げトラロックの頭上を軽く飛び越えて背後に回り込み、身体ごと回転させて勢いをつけた裏拳をその脇腹に叩き込んだ。

「ぐう…っ!」

「あなた!」

 トラロックの劣勢を見かねたチェルチーが、錫杖を掲げて雷雲の上層から雹弾を呼び寄せる。その集中砲火は重量と落下スピードの力もあって、いくら風の結界でもすべては受け流せない。そのくらいのことはとっくに知っているヴァンはトラロックへの追撃を行なわず着地すると、

「はああああぁぁぁっ!」襲い来る雹の群れへ向かって拳を思いきり一振りした。

 風の結界に回転の力を加えて強い遠心力を発生させたばかりか、鉄腕から放たれた振動波と衝撃波とが相乗し、硬く鋭い雹の雨を砂粒のように微塵に粉砕する。

 砕け散った氷の結晶が風の中を舞い散る様は、場の緊張感に見合わず非常に美しい。

(この風の力、意志の強さ──この男ならば、あるいは)

 トラロックの思考が揺らいだそのとき、

「いくわよ、アルちゃんっ!」

「ああ、私らだってただ見てるだけじゃないってところ、見せてやらなきゃねえ!」

 立ち上がったアルセーヌが再度風を呼び、跳躍したラピスが戦斧から撃ち出した冷気を巻き込んで、寒冷の嵐となってトラロックの雷雲に打ち付けられた。この地の熱帯気候から発生させた積乱雲からその熱量が急速に奪われ、ついでに溜め込んでいた電荷すらも互いにぶつかり合って放電し合い、相殺していく。

 バカな、人間の魔力程度で、私の電荷を相殺できるわけが──。驚愕に彩られた魔神は、天を仰いで更に目を剥いた。

 寒冷の嵐の中で、ひときわ大きな放電をする黒い粒が見える。

 否、それは粒などではなく、黒い体躯を持つ一匹の仔竜だ。

「俺様のことを忘れてもらっちゃ困るぜ!」ありったけのサンダーブレスで雲間放電を促し、女たちの嵐を支援しながら、アジーンが誇らしげに言った。

「言ったでしょ!」ラピスが叫んだ。「この試練は、私たちみんなで乗り越えるのよ!」

「ああ、そのとおりだとも!」

 最後の一撃を撃ち出すべく身構えたヴァンの隣を駆け抜け、カスケードとラズワルドがトラロック目掛けて跳躍した。帯電した彼らの剣の電荷は、先ほどまでの攻防からヒントを得てみなぎるほどのプラスに満ちている。今度こそ弾かれるようなことはない。

 強烈なマイナスを帯びる魔神の神器が、急速に接近するふたりの剣へと無理やり放電を強いられた。飛来のタイミングさえわかっていれば肉体的にも魔力的にも準備を整えるなど造作もなく、それぞれの剣がみるみる雷撃を吸収していく。双方のプラスとマイナスがほぼ完全に中和されたところで、彼らの剣は、雷撃から吸収したエネルギーを用いて本来の属性である『光』と『金』に輝いた。

 ザンッ。文句無しの一本勝ちとなる、光の軌跡を描く斬撃でふたつの神器を真っ二つに斬り捨てた男たちは、トラロックのはるか後方に着地する。

「征きたまえ、ヴァン!!」後方を振り向き、カスケードが叫ぶ。

「最ッ高だぜ、おまえら!」鉄腕を振りかぶったヴァンの拳に、精神波に由来する眩い光が収束する。「受けてみろよトラロック! この一撃は俺の魂そのものだ!」

「いっけぇー!」遥か上空からアジーンが声を張り上げた。「俺様たちのソウルアタックだぜ!!」

 腕でギミックが動作する低い稼働音と、そこでエネルギーが増幅する高音とが混じり合い、大気に振動が伝わっていく。留まるところを知らぬ高揚の中で、ふっと目を閉じたヴァンの心が刹那の静寂に触れる。

 彼はそのとき、心から感謝していた。

 自分をここまで連れて来てくれた全てのものに。自分をここへ引き上げてくれた全ての支援に。そして自分に最後の一撃を託してくれる全ての仲間に。

 そう、ゼル。──俺を『ここ』へ突き落とした、おまえにもだ!

       アストラル・バスター
「くらえ! 絶討星辰砲ッ!!」

 開いたヴァンの手のひらが、どんな嵐にも引けを取らぬ衝撃波をもって、新星の瞬きにも匹敵する閃光を撃ち出した。

 磁界での反発防御や、水や電撃のシールドで相殺できるなんてレベルのシロモノではない。トラロックはそれが撃ち出された時点で、瞬間転移によって回避することも可能であったのにそれをせず、静かに目を閉じるとすべてを受け入れるように光の中に呑み込まれていった。



 カカベルの時と同じように、精神力を一気に使い切ったことで膝の力が抜け、崩れそうになったヴァンの片腕を、傍に居たメビウスがぐいっと引き上げて支える。

「ったく、雑だなあ…」力ない声で、それでもヴァンは半ば笑って目を上げた。「抱き留めるくらいのことはしてほしいね」

「この戦いはまだ通過点に過ぎん」メビウスは相手をゆっくり地に下ろしてやり、言った。「楽しみは最後まで取っておくものだろう」

「へっ、手厳しいこって……」

「──ヴァン・クロウよ」

 メビウスが何もしてくれないなら、いっそ自分から飛びついてやろうかと思案していたヴァンが、その欲求不満気味な目を上げてみると、チェルチーに支えられたトラロックが同じくゆっくりと降りてくるところだった。

 双方とも、満身創痍と呼ぶに相応しいナリだ。笑ってはいけないだろうが、笑えて来る。

「ひとつ訊ねよう」魔神は言った。「おまえは、その御方がどのような存在なのか、解っているのか?」

 一瞬、座り込んだままのヴァンはメビウスを見上げた。

 別にそんなことはどうでもいいと言わんばかりだったメビウスも、不意に視線を感じたのかヴァンを見下ろした。

 この私に力を貸しているつもりでいたのか──。正直、こいつの怒声が一番心に響いた。 

 堪えた、というのが正しいかもしれない。

 残念ながら反論の余地などこれっぽっちもないくらい、ヴァンはそう思っていた。神力の大半を封印して本来の力を揮えぬ彼の『目的』に興味があったから、それに付き合っているくらいの心持ちでさえいた。

 だから、考えもしていなかったのだ。

 この冒険の旅が、新大陸の神殿を飛び回るこの仕事が、自分自身の──ゼルとの過去を決着させるための『戦い』だったなんて。

 何故『考えもしなかった』のか。その理由はもう、わかっている。

 そもそもが、決別したとさえ思っていなかっただけの話であった。アデルを殺されて、自身をずたずたに引き裂かれてなお、ヴァンはゼルが敵になったなんて意識を微塵も抱いていなかったのだ。

 愛してるよ、ヴァン──。思い返すのは、いつもその言葉。

 ──ああ、知ってるよ。どこへ行っても、何をしていても、俺とおまえは繋がってる。

 だっておまえは、ずっと、ずーっと前から俺のものだったじゃないか。

 そう気付かせてくれたのは、誰でもないこの男だ──。

 特に笑みを交わすもわけでもなければ、言葉もない。ただ一度目が合ったそれだけで満足とばかりにヴァンは相手から視線を外し、うつむき気味に笑った。

「知ってるよ」彼は言った。「──俺がいま一番抱きたい、とびっきりの『いい女』さ」

 魔神夫婦はたまらず絶句した。

 彼らにすれば罰当たりなことこの上ないし、メビウスからしても不敬もいいところな発言だったが、誰も何も言わなければ、ヴァンが蹴りのひとつをくらうこともなかった。

 メビウスですら、こいつがこういう男なのだとわかっていたから。

「ヴァンちゃーんっ!」

 そんな彼の背に、どーんとラピスが抱きついてきた。

「かっこよかったわよヴァンちゃんっ! 私、キホン的にダンディなオジサマにしか興味ないんだけど、ヴァンちゃんなら好きになっちゃいそうだったわっ! あーん、ラピスちゃん一生の不覚ぅっ!」

「問題ないだろ、そいつの実年齢は三十半ばだぞ」

「…えっ?」

 到底信じられない事実を告げられたような気がして、ラピスは、恐らく声の主であるはずのメルクリウスを見やってみたが、彼はあらぬところを見て素知らぬ顔をしている。

 彼がそうだったらいいのに──と思い過ぎたことによる、刹那の幻聴だったのだろうか。

「……あなたは、それで納得しておられるのか?」メビウスを見て、トラロックは言った。「人間にそのような目を向けられ、こうまで言われて、あなたは──」

「こいつの言動に何を思い、どう感じるかなど私の勝手だ」相手の言葉を中途でぶった切り、メビウスは平然と言った。「そしておまえたちが、それを不服に思うのもまたおまえたちの勝手。だが、互いにそれまでの話だ。言及の必要はない」

「…承知いたしました。出過ぎた言葉でありました」

「なんだよ」ぺこりと頭を下げる魔神夫妻を尻目に、ヴァンはようやく震えが治まった脚でヨッと立ち上がりながら言った。「今回のことで俺に惚れちまったんなら正直に言ってくれてもいいんだぜ?」

「初っ端から無様も極まりなかったこの度のおまえのどこに、私が惚れてやる要素があったのか、具体例を挙げてプレゼンしてみせてもらおうか」

「お、否定しないんだ? 期待してもいいんだな?」

「それもおまえの自由だ。期待が外れた時、盛大に落ち込むこともな」

「ほんっとあんたと話してると、物は言いようだってこと実感するよ…」

「ほら。つまらんことばかり言って私に構っていないで、功労者たちに何か伝えてやる言葉はないのか?」

 そう言われてやっと、ヴァンは自分の後方を振り向いた。

 魔力を使い果たしてへとへとになったティアティア、そんな娘にしっかり癒されたアルセーヌ、彼女と共に雷雲を打ち破ってくれたラピスにアジーン、メビウスを『救い出す』決定打を撃ってくれたトナトナ。

 そして、自分の征く手を開いてくれたカスケードとラズワルド。

「もう伝えたさ」

 雨上がりの冷えた風に吹かれて、ヴァンは少しだけ目を伏せた。今更のように感動が押し寄せてきて、潤みかけた目を隠すように。

「おまえらは、最っ高の仲間だってな!」

「相棒ーッ!」

 感極まってピューッと飛んできたアジーンが、ヴァンの顔面に飛びついた。まるでこれが今生の別れかのようにおんおん泣いてヨカッタヨカッタと言っているこの仔竜が、今は何だかとても愛おしい。

「ヴァン・クロウ」改めてトラロックは言った。「おまえの勇姿、見せてもらった。仲間たちからの無二の信頼に後押しされ戦う姿に、胸が熱くなったのは事実だ」

「ありがとな。社交辞令でも嬉しいよ」

「そして、おまえがこの『試練』に打ち勝ったことも事実。……よって我々は、この神殿において古代の民たちより贈られた数多の宝を譲り渡すと共に、我らの希望を託そう」

「……希望?」

 すこしその物の言い方に引っかかるところを感じたヴァンの頭上に、蒼く輝く光の珠が出現する。雪が舞うように静かに降りてくるそれを両手で受け止めてみると、それは蒼天の色に煌めく美しい宝玉であった。

「勇敢な冒険者よ。程なくおまえはテスカポリトカという脅威に曝されるだろう」

「え、テスカ…?」

「トナトナ知ってる! それ、古い昔話の神様!」その名前らしき単語にピンと来ないヴァンに、背後からトナトナが大きな声で伝える。「悪いことたくさんして、いい神様と戦った!」

「そのとおりだ」トラロックは頷いて言った。「そしてヤツは今、我らが友と共に、ひと処に封印されている。その宝玉は三位一体、そこの仔竜が持つ物も含めて、彼らの封印を解くための鍵なのだ」

「……なるほどな…」様々な事象に対する点と点がようやく繋がり合い、ヴァンは宝玉を握り締めてひとり納得する。そういうことだったのか、それで、あいつは──。

「私も奴には恨みがある…」トラロックは、苦虫を噛んだような声色で続けた。「もし貴様がヤツと戦うなら、やがてよみがえる我が友と共に、我々も手を貸そう。おまえならばきっと、『彼』の依代と成れるはずだ」

「教えてくれトラロック! その封印の地はどこにある!?」ヴァンは言った。「人知れずそこを目指してる奴がいる、そいつにこの宝玉のことを気取られる前に、俺たちで何とか──」

 異変は、その言葉が終わるより早くやってきた。

 自分の頭のすぐ後ろに居たアジーンがギャッと短い悲鳴を上げ、場に居た全員がそれに気を取られる。

 スラリと光る銀色の刃に背を斬り裂かれたアジーンの手から、後生大事に抱かれていた翠玉がぽーんと飛んだ瞬間、それを掠め取った黒い影がヴァンの頭上を飛び越えていく。

「遅い、遅い」

 手にした翠玉を素早く腰のアイテムパックにしまいながら、自分の接近に気付かなかった全ての者をバカにしきってゼルは言った。

「ゼル…ッ!」ヴァンは息をのんで言った。どくん、と胸でひとつ鼓動が強く打つ。「おまえ、今までどこに…ッ!?」

「久しぶりだね、ヴァン! 元気そうで僕も嬉しいよ!」

 別に感動の再会というわけでもないのに、ゼルは迎える者のいない両手を広げて、言葉の通り嬉しそうに言った。

「僕の代わりに残りの宝玉を集めてくれてありがとう、お礼だけは言っておくよ。僕ひとりだけじゃ、どうやっても神殿攻略は難しかっただろうからさ。キミならきっとやってくれるって信じてたんだ、だって僕らは唯一無二の親友だものねェ!」

「──言わせておけば、貴様ッ!」

「いきなり出てきて、勝手なことばっか言ってんじゃないよっ!」

 激昂したカスケードが剣を抜き、地を蹴った。即座にアルセーヌが背後からキューブを掲げ、対トラロック戦で利用した風の結界を彼にまとわせ、彼の斬撃に威力と速さを付与する。

「おまえらやめろっ!」ヴァンは咄嗟に叫んでいた。「おまえらが敵う相手じゃ──」

 ざんっ。鈍い音がいくつか響き、一同の前に血が舞う。

 カスケードは利き腕の肩口を、アルセーヌは両腕の至るところを、闇色をしたかまいたちで深く切り刻まれ、それぞれの武器を取り落して地に転がり、あるいは膝をつく。

「それはコッチの台詞だよ」ゼルはしてやったりと言わんばかりに笑って、言った。「ヴァンの仲間だの恋人だのって、『言わせておけば』『勝手なことばっか』言ってさァ? 宝玉を手に入れるためと思ってずーっと黙っててやったけど、やーっとスッキリしたァ」

「ゼル、おまえもやめろっ」ヴァンは叫んだ。「そいつらはそれでもう戦えないんだ、もういいだろ、充分だろ! 殺す必要なんかないだろっ!!」

「さあ? それはどうだろうねぇ?」

 すっとぼけた顔をして、ゼルは自分の足下でやっと起き上がろうとしたカスケードの肩口へ、思いきり踵を踏み下ろしていた。

 深く裂かれた肉の傷を重く抉られた獣人の悲鳴が、耳の奥に突き刺さる。わっと全身に怖気が駆け抜けた。

「こいつがここで死ぬかどうかはキミ次第だよヴァン?」ゼルは心底楽しそうに言った。「こいつの命が惜しいなら、その宝玉を僕におくれよ」

 一瞬、ヴァンを含めた全員が絶句し、沈黙がよぎる。

「だ、ダメだ、ヴァン…ッ」カスケードがやっとのことで言った。「それを持って逃げるんだ、邪悪な神など…起こしては……ッ」

「あーあ、こいつも可哀相だよねえ」その傷をより抉るような真似はせず、ゼルは平然と続けた。「キミと僕に関わったばかりに、こんなことになっちゃってさァ。でも、キミは逃げたりなんかしないよねぇ? 僕にこれ以上、人殺しなんかさせないよねえ?」

 ヴァンは周囲の様子をうかがう。

 ラピスはもう動けぬ弟に付き添い、トナトナはアジーンを癒やす妹を庇い、メビウスは──恐らく故意であろうが──ゼルの視界に入らぬよう一歩下がって、アルセーヌの傷を診ている。そして魔神たちは、突如現れた狂人の刃が不用意にメビウスへ向かぬよう、警戒しているようだった。

 トラロックとの戦いではヴァン自身の内在魔力を利用したため、封印が一部切れているメビウスの魔力はまだ相当量残っている。こいつに頼ればここにいる自分を含めた全員を瞬間転移させて逃げるくらいは造作もないだろう。

 ──だが。

 ヤツは今、我らが友と共に、ひと処に封印されている──トラロックのその言葉が、引っかかる。

 ゼルが起こそうとしているのは確かに邪悪な神であろう。けれどあの言葉が真実なら、それと同時に、魔神たちが『希望』と称した存在もまたよみがえるのだ。

 だったら──。

 目を閉じ、間を置いて、まるで死の覚悟でも決めるかのような一呼吸をしたヴァンはすっと顔を上げた。ゼルの興味を何よりもそそる、自分だけが見せられる悲壮の表情で。

「やっぱりキミはそうだよね、ヴァン」

 期待通りとばかりに、ゼルは嬉しそうに笑う。その内心はヴァンもまた同じだ。

 巻き込まれる周囲の面々には申し訳ない限りだが、こいつらは互いが互いの思うように、相手から理想通りの挙動を引き出す術を弁えている。

 そろりと歩を進めたヴァンが両手に抱いていた蒼玉を差し出すと、ゼルは足蹴にしていたカスケードなど最初からいなかったようにヴァンへ歩み寄り、それを手にする。

「ああ、これでやっと……」

 込み上げる歓喜を隠してはおけず、黒翼の狂人は喉の奥で笑った。

 ヴァンは自分の意思でこれを僕に『託して』くれた。共に死のうという僕の理想に『乗って』くれた。こんなに傷付いてぼろぼろになっても、それでも僕のためにこうして傍へ来てくれる──。

「愛してる……」人質を取って脅した事実も去ることながら、相手にそれを渡すことを強要した自覚すら持たず、愛おしさのあまり囁きかけ、ゼルはヴァンの頭を抱き寄せると口付けをした。「愛してるよ、ヴァン」

 ──返事はないものと思っていた。

「……ああ」

 と、ヴァンが小さく、この至近距離だからこそやっと聞こえる程度の、それこそ吐息に近い声を漏らした。

「俺もだよ、ゼル」

 火が付く劣情が理性を焼き切るまま、この場でヴァンを抱いてやりたい衝動を息をのんで堪えて、ゼルは三つの宝玉を持ってその場から飛翔した。

 もうすぐだ。キミと僕が本当にひとつになれる瞬間はもうすぐ来る。だからそれまで待っていて。キミがいい子にしていられたなら、最後にはとびきりのご褒美をあげるから──。

 お互いの視界の限りにずっと見つめ合っていたヴァンは、どこか遠い地を目指して身を翻したゼルからの視線が途切れたのを感じ取ると、さっさと味方の陣営を振り向いた。

「アルセーヌ、キューブは使えそうか」

「何とか、ね」

 メビウスはトラロック戦での魔力切れを理由に、彼女の傷に物理的な応急処置こそしていたが、回復魔法は一切施していなかった。その言葉を信じてか、あるいは端から彼をアテにしてはいなかったのか、アルセーヌは取り落したルナティック・キューブに手をかざして再起動させる。

「なら、おまえはここに残ってカスケードを頼む。ラピスとラズワルドも、動けそうなら退避してくれ」

「ヴァンちゃんはどうするの?」ラピスは言った。「まさかあいつを追うつもり?」

「まさかなんて言うなよな。俺は最初からそのつもりだぜ」

 ラピスは喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込んで、黙り込んだ。

 危険だなんて、言われるまでもないことだ。先ほどの黒翼の男がこの地に眠っている邪悪な神を起こそうとしているのなら、ヴァンだって傷付いて、精神力さえ使い果たしている状態なのだから逃げるのが一番いいのに、それをしようともしない。

「トラロック、チェルチー」ヴァンは言った。「俺とメビウスを『封印の地』へ転移させられるか?」

「我らと共に、来てくれるのか」確かめるようにトラロックは言った。それはヴァンの命にかかわる危機的選択なのだから、確認も厳重になって当然であろうが。

「行くさ。あいつをこれ以上、野放しにはできないんでね!」

「了承した」

 バシッと拳を叩いたヴァンの姿にひとつ頷きかけて、トラロックは妻を振り向いた。

「チェルチー、転移を!」

「はい、あなた!」

 チェルチーが錫杖を掲げ、トラロックを、ヴァンを、そしてメビウスを、魔力を帯びた水泡で包み込む。

 ゼル──。彼が翔び去った彼方を見上げ、ヴァンは思う。強く、鋭く。

 おまえは必ず、俺が止めてみせる。そして必ず、解らせてやる。

 自分が間違っていたんだ、ってな──。




                To be contonued in「狂気の依代」(2018/09/02)