依怙贔屓



「古代の言葉のようですね」

 と、文字列を記した祭壇の前に膝をついたメビウスが、刻まれたそれらをしげしげと見て言った。

「赤き星、翠の星、連なりし時、汝は神によって試されん……」

「メルクすごい!」トナトナがパチパチと拍手して言った。「こんな短期間で、ぜんぶ読めるようになった」

「教えて下さったのはトナトナさんでしょう?」満更でもない顔をしながら、それでも彼は自分だけの能力ではないことを示して言った。

「赤き星と翠の星…か」すこし考え、ヴァンはちらりと肩口に乗っかっているアジーンを見やった。「色が合致する点から見て、『星』はこの『宝玉』のことかな?」

「な、なんだよっ」アジーンは後生大事に抱いた翠の宝玉を隠すように身構える。「ココの鍵だとか言うなよ!? これは俺様の大事な秘宝なんだからな! いくらヴァンでも──」

「見た感じ、この祭壇に宝玉を鍵にするような仕掛けはないよ」

 祭壇をぐるりと見回し、ヴァンはアジーンの言葉をぶった切って言った。そして、祭壇の奥に控える大きな石扉に目を留める。

 これまでのパターンを顧みて、あれを開くには……『鍵』ではないなら、『呪文』が必要なのかもしれない。

 けれど祭壇に刻まれている文字列がそれだったとしても、このパーティの中でも特出して魔力が高いメビウスが読み上げても何の反応もなかった。この空中楼閣が、アスティ・カーン文明において神々との交信を可能に する『謁見の間』であったことは明確。ならば余所者や部外者の安易な侵入を防ぐためのギミックを仕掛けてあっても何ら不思議ではない。

「『赤き星』がここにないから、ではないのかい?」すっと隣に歩み出てきたカスケードが言った。「ふたつの『星』を持たない者には、ここを通る資格がないのかもしれない」

「それはないな」ヴァンは言った。「実際そうだったなら、『ここ』が稼働していた当時からここへ入る者は必ず『ふたつの星』を持参する必要があったことになる。それに、神々と交信するのが目的の場所で、わざわざ『試される』なんて言葉を使うのもおかしな話だ」

「この祭壇の文字列は、もっと後世になってから設置されたもの……」メビウスが言った。「歴史的に見て、比較的『新しい』ものである可能性がありますね」

 彼の言葉はヴァンの推測を後押ししているように聞こえるけれど、こいつはここの仕掛けや成り立ちをだいたい把握しているのかもれしない。

 ──赤き星。それ聞いて思い浮かべるのは、かつてゼルが持ち去った深紅の宝玉のことだ。そして翠の宝玉もすでにここある。ふたつの『星』はひと処には無くとも、すでに発見されて『所有者』の手に在るという点では『天に連なっている』と捉えることは可能だろう。

 ならばこの扉を開くことの本当の意味には、大方の予想がつく。

 ヴァンは、探索の時に使用しているメモ用の手帳をぱらぱらとめくった。そこには探索や散策において気を引かれた点、あるいは不明瞭な文字列や図面、果ては組んだ石の隙間に自生している草花に至るまで、時に正確なスケッチを取りながら記録してある。

 雲海迷宮をクリアした今、ここで活用できそうな情報はあとひとつしかない。魚人の魔獣が守護していた星図。古代文明にも星座が存在したというのは珍しい話ではないが、どう見ても『星座』には見えなかったから描きとめておいたのが功を奏した。

 なるほど、『ふたつの星』は単純にそういう意味か──。その図面と、眼前の祭壇に記された文字列を見比べた彼の目に、勝利を確信した気の強い笑みがちらつく。

「みんな──」

 背後に控えた仲間たちを振り向いたヴァンは、自分が組み立てた回答を知らせようと開いた口がそのまま固まるのを感じた。

「ところであんた、見ない顔だと思ってたけど新参?」と、メビウスの肩にぐいっと腕を回して絡んでいるのはアルセーヌだ。「ずいぶんヴァンに気に入られてるみたいだけど、デキるのかい?」

「えー、ええまあ、魔法の心得はありますので…」覗き込んでくる彼女から懸命に顔を逸らし、メビウスは律儀にも答えている。「お役に立てているかはわかりませんが、少なくとも足手まといにはなっていないと──」

「はー、謙遜だねえ? それだけ匂いが染みついてるんだから、けっこう長いこと一緒に居るんだろ?」

「──は? 匂い?」耳ざとくそれを聞き逃さなかったのはヴァン本人だった。なんだそれ獣人にはわかるのか、っていうかわかるくらい俺の匂いついてんの──?

「どんな手段で取り入ったのか、ぜひ聞かせてもらいたいところだよ」

「いえいえそんな、邪推ですよ」

「やめたまえアルセーヌ」ぴしゃりとカスケードが言った。「自分の与り知らぬところで、ヴァンに見知らぬ知り合いが増えているのがそんなに気にくわないのか?」

  『三年前』以来ヴァンは、殊に冒険家仲間に対する態度が冷淡あるいは消極的になり、特定の個人と直接つるむようなことはしなくなって久しい。故にメビウス──否、メルクリウスのほうが何かしらの『策』を講じたのではないかとアルセーヌが邪推してしまうのも無理はない話だが、数多のアプローチを退けて潔白を貫いているメビウスからすればたまったものではない。ついでにヴァンからしても、すでにコトに及んだあとのように言われるのも癪な話だ。

 すでにヤッたように見えるかもしれないけどヤッたことなんか一回もねえよ、っていうかキスですらしたことねえよ、むしろ許されるなら今この場でやってもいいくらいなんだがアルセーヌおまえちょっと顔近すぎるからとりあえず離れろ──。

 雑念だらけの葛藤で頭を抱え、何も言えずにいるヴァンの姿は単にこの状況に困っているだけのようにしか見えない。この男が今その聡明な頭の中でナニを考えているのか知る術があったならここにいる一同は一斉に一歩引いたことだろうが、有難いことに誰も気付きはしない。

「はッ、偉そうにさ」アルセーヌはカスケードをせせら笑って言った。「ヴァンより先にお宝をゲットするのは自分だなんて大口叩いておいて、今朝までテントでぐっすりオネムだったのはどこの誰だい? 一緒に連れてってほしいんなら、ライバルだなんてツンケンしてないで素直に言えばいいのにねえ」

「人のことを言えた口なのか?」およそ事実をまくし立てられはしているが、カスケードも負けてはいない。「たまたま行き先が同じだなんて大嘘もいいところだ。協力しているよう見せかけて、おまえからは、ここでヴァンがゲットするお宝をまた横取りして行こうとする、意地汚い女狐の魂胆が透けているのだよ!」

 もはや論点が完全にズレている。言い争うふたりの間に挟まれているメビウスが何とも言えない顔をしているのが可哀想だが、ここでヴァンが何か言えば新たな火種になりかねない。

 今朝、まだもう少し眠れそうに思えるほど体調の回復を感じた起床時間、頭に残る睡魔を追い払いながらラピスが用意した朝食を頂戴していた隣にアルセーヌが腰を下ろして来た時には、さすがの彼も危うく彼女の顔面にコーヒーを噴き出すところだった。それだけに留まらず、彼女は気道に液体が入ってしまい咽ているヴァンに人目も憚らずキスをした。

 ラピスの目が点になったのはもちろんラズワルドも思わず沈黙し、メビウスに至っては視界に入れまいと顔を逸らす始末。唯一トナティア兄妹からの、ふたりが何をしているのかまったく理解していないことによる興味の視線が痛すぎて、彼は寝ボケた頭が気持ち好さで蕩ける前に、理性を総動員してやっと彼女を引き剥がしたのだ。

 そして間が悪いことに、その瞬間を、最後に起きてきたカスケードに目撃されてしまった。彼はそれからずっと機嫌が悪いままであった。

 アルセーヌにしてみれば、その行為はそこにいる一同への自己紹介代わりだったのだろうが印象が悪いことはこの上ない。今でこそメビウスは『嘘の貌』をしているから何も触れて来ないが、あとで何を言われるかと思えば気が気ではない。

「ねえ、ヴァンちゃん?」と、そっと寄ってきたラピスが言った。「ヴァンちゃんの本命ってメルクちゃんだと思ってたんだけど、違ったの?」

「……」色んな意味で痛い質問だ。ヴァンはつい何も言えずに沈黙する。

「カスちゃんもアルちゃんも、ヴァンちゃんとカンケーあるのよね…? もしかしてヴァンちゃんって節操無しなの?」

「セッソウナシって何だ?」二人の足元で、きょとんとしたトナトナが言った。

「見境の無いバカという意味だ」さらりとラズワルドが答えた。

 頼むからもう黙っててくれ──。その単語が持つ本当の意味を教えたにすぎない──つまり悪意が無い──のは見て取れるが、今はそれが自分を指しているだけに、ある種感情の無い言葉が胸に刺さりすぎてつらすぎる。

 そしてティアティアはといえば、幼いながらも女のカンでも働いているのか、今が『危機的状況』を察知しているらしく、言い争っているふたりと、その間に捕まっているメビウスの様子をハラハラと見つめていた。

「で、どうなんだいメルクリウス?」アルセーヌは引かない。「ヴァンとはどこまでやったのさ?」

「あなたが考えているようなことは、何もしてませんよ…」

「おーいおまえら、もう開けるぞー」

 どうせ何を言っても信じてはもらえない。メビウスの弱々しい返答にはそんな諦めが多分に含まれていた。ならばもう、これ以上何を話しても仕方がないのはヴァンも同じだ。状況を進展させるという意味でも、彼はもう仲間らに解説するターンをすっ飛ばして、祭壇の奥に閉ざされている石扉へ向き直った。

 祭壇の文字列に星図を照らし合わせ、赤き星から翠の星へと連なる、特定の文字列を読み上げる。

「──『かみなりのしれん』」

 アスティ・カーンの発声でなくとも『意味』が通じているならば問題ないらしい。ヴァンの発声した流れを追うように祭壇の文字列が淡い光を帯びて輝き、開錠のプロセスを立ち上げていく様は、もはや鉄機のコンピュータ技術にも匹敵するギミックだ。

 ゴン、と重い音を立てて、強固な石扉に蒼い法円が映し出されて封が解かれた。魔法ギミックの力で祭壇は足元へ沈み、扉は誰かが開けようとするまでもなく大きく開いて一同の前に新たな進路を造り出す。

「──待っていたぞ、この扉が再び開く日を。来るがよい、勇ましき冒険者よ」

 雷雲の轟きにも似た、低く響く男の声は奥の間から聞こえた。誘われるまま、さっきまで低俗な言い争いをしていたことも忘れた皆が揃って足を踏み入れた先は、新大陸のジャングルを一望できる高高度に位置した展望台だ。

 朝は蒼天であったはずの見上げる空が、重苦しい暗雲に包まれていた。ヴァンの頬にぽつりと大粒の雨が降ってきたかと思えば、たちまちそこは雷を伴った強烈な嵐に見舞われ、トナトナとティアティアは体躯が小さいことも相俟って吹き散らされそうになったところで、それぞれカスケードとアルセーヌによって助けられる。

「よくぞここまで来た! 我々はおまえを歓迎するぞ」

 嬉々とした男の声と共に雷鳴と雷光が感覚を突き抜け、蒼黒い体躯を持つ男の姿が現れた。まるで金の仮面をかぶったような頭部、両手に頂く実体のない帯電した術具、スルリと伸びた長く平たい尻尾が機嫌よく揺れている。

「客人なんて珍しい…」

 ぽつりと噛みしめるような女の呟きは、その傍らに現れた、翠の翼を持つ女から発せられた。白い仮面に似た頭部からは壮麗な青い髪を伸ばし、身の丈ほどもある錫杖を抱いている。男のそれと同じ尻尾を持つところを見るに、ふたりは血縁か、あるいは同種の存在であることが窺えた。

「あ、あんたたちがこの神殿に祀られた魔神かっ!?」

 ヴァンは風雨から目元を庇いながら言った。そんな彼の様子を見てふたりの魔神が顔を見合わせると、猛烈な嵐が嘘のように静まっていき、雷雲が晴れ上がるまではいかずとも、会話に支障はなくなる。

「そのとおりだ、冒険者……ヴァン・クロウ」ゆっくりと降りてきた男は言った。「我が名はトラロック」

「私はチェルチー」続いて降りてきた女が言った。「こんな所に人が来るなんて何百年ぶりかしら? ワクワクしてきちゃう!」

「麗しいレディに喜んで貰えて俺も嬉しいよ…」

 ヴァンは引きつり半分に、そしてどことなく一歩引きかけた姿勢で言った。どうしてこのふたりがこんなに喜んでいるのか、それを考えるとどうしても嫌な予感がする。

「あ、あー、えっと、せっかくのご対面なのにアレなんだが」ヴァンは言った。「俺たちはこの遺跡の踏破が目的でね。それもここに入ることで達成されたところなんだ」

「ふむ?」トラロックがカクンと首を傾げる。

「未だ現役とは思いもよらず、あんたたちのお住まいを勝手にうろついたことは悪かったよ」ヴァンは矢継ぎ早に言葉を続けた。「特に何かかっぱらってるなんてことはないからさ、それに免じて……うえっ?」

 トス、と背中に何かが押し当てられる。背後に目を向けてみればメビウスが居た。誰に許可を得て勝手に立ち去る心算を立てている、ここでの用件は終わっていないだろう──その異様に据わった蛇の眼光と、今にも背に突き立てられそうな錫杖の先端が、無言の内でヴァンに態度を撤回しろと脅してやまない。

 いやわかるだろ、ちょっと引き返して作戦の立て直しが必要なんだ。こいつら絶対──。

「ふふ…そうか。帰りたい、か」と、トラロックが面白そうに言った。心なしか『仮面』の向こうに見える目が細く笑っているように見える。「残念ながらそうはいかん」

 無言だから絶対に通じない押し問答をしていたふたりが、えっと顔を上げる。メビウスは少し驚いたように、そしてヴァンはまさかとばかりに。

「久しぶりの客人だ! 逃がしはせぬ! 生きて帰りたくば、我が試練に打ち勝ってみせよ!!」

 そう叫んだトラロックの、手にした術具がパッと輝いたかと思えば、辺りに凄まじい雷鳴が轟いた。

「ほらみろっ!」ヴァンは慌ててメビウスを庇うようにマチルダを身構えた。「またこのパターンか! イヤな予感はしてたんだ!」

「おまえ……」メビウスがもしやという顔で言った。「一度退いて、作戦を考えるつもりで──」

「バッカ、遅いんだよ!!」いつもやたらと察しがいいくせに、何だってこういうときに限ってボケ担当なんだいい加減にしろ──。

 と、そのとき、ふたりの背後に転移してきたチェルチーが、メビウスに向かって手をかざした。ヴァンが何事かを理解するより早く、彼の身体がふっと重力から解き放たれたように宙に浮く。

「うわっ!?」

「メビウス!!」

「──ヴァンッ!」

 咄嗟にバランスをとれず空中で前のめりに転倒したようになり、自然と伸びる形になったその手を掴み取ろうとしたが無駄に終わった。メビウスもまたヴァンが伸ばした手に掴まろうとしたけれど、双方の手が互いを掴み取ったかに見えたのはほんの一瞬にすぎず、次の瞬間にはもう彼はヴァンの手が届かない中空に引き上げられている。

 ザアッと水の音がして、空中のメビウスをすっぽりと水の膜が包んだ。

「……申し訳ありません」

 水球の──否、水牢の横へ転移してきたチェルチーが、メビウスにだけ聞こえる声量で小さく言った。

「我々にとって『あなた』は『冒険者』の域に留まらぬ不確定要素。この試練に参加させるわけにはまいりません」

「……」

 おまえたち、私の正体に気付いているな──。そう呟くつもりが、水球内部の水は肺まで満たしていて発声もできない。自分はここで見ているのみを許され、彼らには助言ですら認められないらしい。

 少なくともメビウスの正体をおよそ把握しているということは、この魔神たちはこれまでの強敵たちと一線を画する──そう、カカベルや土偶どもなど雑魚に過ぎぬほどの能力を秘めた存在ということだ。そう、下手をすれば彼がここへ降りてきた真なる目的、対なる蛇竜神らと対等ですらあるかもしれない。

 故にこれは、メビウスにとっても、ヴァンが真に蛇竜神らと渡り合えるかどうかのテストとなる。これに自分が手を貸すことは、あってはならない。

 ヴァン──。冷たい水の膜に当てた手をぐっと握り込む神羅神の眼前で、『雷の試練』は始まった。




                    to be continued...(2018/05/15)