BORDER INE



「師匠ッ! 師匠はいらっしゃいますかっ!!」

 どばーんと玄関ドアをブチ破る勢いで開いて姿を見せた女は、王宮直轄騎士団『円卓の騎士』がひとり、ボールス・ゲイネスだった。

 時間はちょうど市場が営業を開始する朝。自分の身支度を整え終わって、出来立てのコーヒーを注いでいたジゼルが驚いてカップを取り落しそうになり、慌てて出てきて言った。

「お、おはようございます。そんなに急いでどうされたんですか?」

「おはようございます。ジゼルさんっ!」彼女はこの際どうでもいい挨拶を礼儀正しく、しかし変わらぬ声量のままで言った。「師匠は今どちらにっ?」

「──ここだけど」

 応える声はジゼルのそれではなく、廊下の奥から聞こえた。

 少し顔色が良くないから昨日は寝ていないだろうことが窺えるが、体調やら『火遊び』やらが原因ではなく単に仕事に没頭していただけだというのが、彼が今しがた出てきたのが地下書庫に通じる扉であることから察せられる。

「おはようございます、師匠!」寝不足の頭に響く声でボールスは更に言った。「至急、お耳に入れておきたいことがありましてっ!」

「あー、わかった、わかったからちょっと声抑えてくれ」まるっきり二日酔いのように頭を押さえながらヴァンは沈痛な顔で言った。「確かに円卓の騎士である君がこんなとこ訪ねてくるなんて珍しいことだ。重要な話なんだってのはよく判るから」

「ボールスさん、コーヒーいかがです?」

「ありがとうございます、頂きますっ」

 ジゼルの申し出をありがたく受け取り、ボールスはヴァンに促されて、ダイニングに隣接したリビングへ通され、テーブルセットに腰を下ろす。

「で、話って?」単刀直入にヴァンは言った。回りくどい世間話や勿体付けた言い回しを、彼はあまり好まない。

「はい」自分の前にカップを置いてくれたジゼルに会釈をし、ボールスは少し真面目な顔つきになって言った。「師匠は、『主の代行者』なる魔道士協会をご存じですか?」

「ああ、聞いたことあるな?」

 およそ想定していたどんな話とも違った切り出しに、ヴァンは首を傾げながら言った。

  それは構成員の九割が天使型の天魔人で占められた、王宮に公認されていない魔道士たちの集団だ。『主の御名の下に悪を裁く』と信条を掲げ、本来であれば保安部や王宮が取り締まるべき治安維持に介入しては拘束済みの罪人や逃走中の犯罪者を殺傷する秘密結社であり、円卓の騎士らによる厳重な挙動監視が行なわれていると聞き及ぶ。

 話を聞くだけならば自治補助のように聞こえるかもしれないが、問題はその行動が常識を逸脱していることにある。

 彼らは過激なのだ。何をするにしても。

「つい先日、西部の第二波止場で、新大陸より帰還した労働者の報酬金をスリ取った窃盗犯が『被害』に遭いました」ボールスは言った。「保管部の者が駆けつけた時には、『彼』は口を利くどころか他人すら認識しない廃人同然の状態で、検査の結果、魔力干渉による脳組織の破壊痕跡が見つかりました」

「うへえ、ご愁傷様なこった」ヴァンは心底からスリ犯に同情して言った。

 常習犯だったかどうかは知れないが、ただ一度のスリを見咎められて脳ミソを破壊されたとあってはたまったものではない。

 かの秘密結社は、そういうことを『正しいこと』だと信じてやまず、自身らが──否、天魔でもっともポピュラーな信仰を集める『主』の御心を汚した者に罰を下した気でいるのである。その犯行は世界各地でそれこそ節操なく確認されているが、現場には、極めて上質な紙に流れるような書体で記された『神罰は下された』という書き置きがされるので非常にわかりやすい。

 ボールスはあくまでも『非公式の協会』という言葉を使っているが、『主の代行者』とは、早い話がエゴに染まった犯罪者集団なのである。

 実のところ、ヴァンも連中の『標的』のひとりであると一部では噂になっている。彼らが掲げる信条は単純であるが故に非常に広い意味を持ち、古墳や遺跡を暴いては宝物を持ち去っていく冒険家もまた『死者の眠りを妨げる者』として疎まれているからだ。要するに神の御許で安らかに眠っている死者の墓を暴く不届き者というわけである。

 一部の本物の盗掘者はさておいても、ヴァンは国家が定める正規のライセンスを持つ冒険家であり、宝物の獲得だってそれに則った手続きを踏んでいる。だが彼らにしてみれば、自分たちの信仰に見合わぬ『法』にものを言わせて幅を利かせている盗掘者の延長にしか見えないらしい。

 ただヴァンは、そういった連中と思しき関係者から直接の襲撃を受けたことは一度も無い。それについて彼は、恐らく自分が世界最高峰の存在であるからだろうと推測していた。『神罰』を下すには充分過ぎる『罪人』であるにも関わらず、奴らがこのヴァン・クロウを放置しているのは、こいつに手を出せばと自分たちがとことん不利になる──王宮を完全に敵に回してしまう──と意識しているからだ、と。

 所詮は人間の集団である。己が使命たる『神罰』以前に、自分たちの損得を計算する浅はかな思考回路が行動から透けて見えるのだから、可愛いものではないか。

「で」ヴァンは言った。「そいつらがどうかしたのか? まさか『殺された』スリ犯が俺の名前だけ覚えてたとかミステリーみたいなことは勘弁してくれよ?」

「なに寝ぼけたこと言ってるんですかっ!」しびれを切らしたように、ボールスはバシンとテーブルを叩いた。「事の重大さ、解ってるんですか!? 波止場で彼らの『犯行』が確認されたということは、彼らが今、この天魔に戻ってきてるかもしれないってことなんですよ!」

 彼女が身を乗り出した拍子にぽよんと揺れた、その胸元の柔らかな膨らみについ目が行ってしまい、ヴァンは一瞬言葉を失ったようなかっこうになる。

「ヴァン、まずいんじゃない?」傍に居たジゼルが探るように言った。「状況がはっきりするまで、ゼルさんには外出を控えてもらったほうがいいんじゃ…?」

 そういえば──。ヴァンは今の今になってやっと解ったとばかりにハッとした。

 二大蛇竜神降臨に伴う一連の事件において、その凶行と狂気の信仰で天魔どころか世界中を震撼させた世紀のシリアルキラー、ゼル・ガロン──国家、ひいては世界の文明発展に進行形で貢献し続けている『冒険王ヴァン・クロウ』なんかより余程わかりやすい凶悪犯罪者が自分の恋人だったことを思い出して、彼はようやくしまったという顔をする。

 この街の住人はヴァンに無類の信頼を寄せているから、彼らはヴァンが『大丈夫』と言う限りでゼルのことを容認してくれている。それがあまりに当たり前になりすぎていて、この街の外から来た人間……最悪、件の連中のような『正義』を気取るアホどもの目についた時のことなんて考えもしなくなっていた自分をとりあえず一発殴りたい。

「ジゼル」ヴァンは言った。「ゼルはどこ行った?」

「いつもの買い出しだから、もうそろそろ戻ってくると思うけど──」

「僕が何だって?」

 と、一同が弾かれたように振り返ってみると、リビングの戸口に紙袋を抱えたゼルが立っていた。

「ゼルッ」

 ヴァンは咄嗟に立ち上がって彼に駆け寄ると、まじまじとその姿を確かめた。昏い赤をあしらった黒の着衣に別段乱れはなく、四枚の黒い翼も当然ながら健在だ。血の気の薄い白っぽい肌には当たり前に体温があり、対照的に濃い真紅の瞳が自分を見つめている──どこにも、ヴァンから見ておかしなところはない。

 さすがに心配しすぎか──ホッとしたとも、自分に呆れたともつかぬ息を吐いたヴァンが離れようとしたところで、ゼルは空いていた片手を伸ばして彼の頭を捕まえると、軽く身を屈めて人目も憚らずにキスをした。

 ボールスの目が点になり、ジゼルは頭痛でもするように頭を抱える。

「…ばっ、か!」ヴァンは慌ててゼルを引き剥がすと抗議した。「何だよいきなり!」

「いや誘ってるのかなって」

「どう見ても見えないだろ!? 人前だぞ、考えろよっ」

「見られながらするの好きでしょ?」

「うわああああああうるせえええええ!」

 うっかり否定するのを忘れ、頭にカッと血がのぼったヴァンが怒鳴ると、ゼルの、性格のキツそうな鋭い目が笑った。嗜虐さを含んで嘲るようなそれを見た一瞬、身体まで熱くなりそうな気がして、ヴァンは辛うじて直視を避けると女たちを振り向いた。

「と、とにかくボールス、情報ありがとな? このとおりゼルも無事に帰ってきたし、しばらくは様子見ることにするよ」

「は、はい、それがいいと思います。すみません朝っぱらからお邪魔しちゃって、ボクこれで失礼しますねっ?」

 ぎこちないというかぎくしゃくしているというか、ボールスは何度かコクコクと頷きながら答えると、ろくにコーヒーにも手を付けずそそくさと帰って行ってしまった。

「……おい最悪だぞ」ヴァンは顔を覆って言った。「おまえのせいで、彼女に要らない情報がインプットされちまったじゃないか…」

「自分に分がないことが今解っただけでも、彼女は幸せだと思うよ。──はいこれ」ゼルはジゼルに紙袋を手渡しながら、さらりと答えた。「無駄な想いを募らせずに済むからね」

「バッカ、彼女は俺のことを純粋に尊敬してくれてるんであってだなあ!」

「そんなの紙一重だよ。敬慕って言うように、尊敬の念と慕情はそう変わらないものさ。ヒトは自然と、『見上げる』対象に被庇護意識を抱きやすいでしょ?」

「俺はよくおまえを見上げてるけど、そんな意識抱いたこと無いぞ」

「背丈の問題じゃないでしょ。君は僕より実力的に見て上だからね」

「あの、ゼルさん」

 と、キッチンに引っ込んで紙袋の中身を確認していたジゼルが顔を出してきて言った。

「いくつか足りないものがあるみたいなんだけど」

「あ、ごめん」ゼルは今思い出したように言った。「店がまだ準備中だったから、あとで改めようと思ってたんだ。遅くならないうちに行ってくるから…」

「それなら私が行ってくるわ、気にしないで。それより朝ごはんできてるから、何なら先に食べちゃってて?」

「なんだよ、今から出るのか?」

 小さな財布の入ったポーチを引っ掛けて玄関へ向かっていく彼女を追って、ヴァンは廊下を歩いていく。

「鮮度がいいものはさっさと売れちゃうの」ジゼルは急がなくちゃ、とばかりに言った。「だからヴァン、ゼルさんへの説明はヨロシクねっ」

 なるほどそういう役回りな──。ヴァンは頭を掻きながらわかったよと答えて彼女を送り出すと、サテと踵を返す。

 視線を正面にやるより早く、肩を掴まれた。

「えっ」

 目の前にゼルがいた。別に秘境のど真ん中というわけでもなし、ヴァンが周囲の気配にまるで気を配っていなかったのをいいことに、彼は自らの気配は完全に絶って暗殺者のように音もなく歩み寄り、容易く獲物を捕らえたのだ。

 廊下の壁に押し付けて逃げ場を封じると、有無を言わさずキスをする。柔らかい粘膜を──喰いちぎりたい衝動を堪えて──甘噛みし、中に入れてくれと強請って舌でなぞる。

「ちょ、っ待て」ほんの隙間でヴァンは言った。「おまえに話したいことが──」

「いいよ、話して?」相手の髪に手を差し込み、頭の小さな翼をいじりながらゼルは平然と言った。「ちゃんと聞いてるから」

 でもその前に──と彼は再び唇を重ねると、今度はヴァンの了承を求めることなくぐっと押し入ってきた。上顎の裏をくすぐられて反射的に相手を追い出そうと動いた舌に絡みつき、根元まで捕らえる。

「ん、…ん、む…」

 ああ、やばい──。角度を変える唇の隙間から漏れる濡れた音と、熱い粘膜同士が互いを舐め合う感触と、耳元をまさぐるゼルの手のひらと翼を撫ぜる指先のどれもが心地好くて、ヴァンの目が流れに任せて閉じようとする。

 気持ちいい──。

「んんっ……ぅあっ」

 離れた舌の間がトロリと糸を引く頃になって、腰に降りた手に脇腹をさすられてびくんと身体が反応を示す。

「それで、何の話?」ゼルが面白そうに訊ねる。

「おまえな…っ」ヴァンはたまらず文句を言った。「いいだろ、もう…あとでも」

「大事な話なんじゃないの?」

 ああ、ああそうだった。ジゼルが戻ってくるまでに、ちゃんと話しておかないと──。身体の熱に浮かされかけたヴァンの頭が何とか現実を思い出そうとしている時に、ゼルはそんな彼の脚の間に膝を割り込ませると、大腿を彼の中心に擦り付けて刺激を与える。

「あ…ッ」すっかりソノ気になっている身体がゾクゾク粟立つのがもどかしい。おまえのための話なんだぞ、クッソ──。「あ、っもう…ッ、話すから早く触れよぉっ」

 もともと堪え性のないヴァンが、とてもそうは見えない懇願をするのを見て、ゼルはそれこそ至上の幸福とばかりに笑った。でも意地悪がしたいわけではないから、彼は言われるまま相手の腰を緩めて中へ手を滑らせると、自分を待ち焦がれて震えているそれを手のひらで包んで、感触を確かめる。

「んぅっ…あ、あ──…ッ」

 根元から先まで指の腹でじっくり扱き上げてやると、びくびくっと身を震わせたヴァンの、背に回った手が強くしがみついてくる。様子を見て悪くなさそうだと判断したゼルは、ゆるゆると手のひら全体を使い始めた。

 ただ、達せるには少し足りない。刺激の強さも、速さも。

「っは……はっ、あ…」このまま共に床へ崩れて、思うままこの快楽に浸りたいのにそうはいかない。ヴァンはくらくらする頭を振り絞って思い出そうとした。ええと、何だっけ──。

「いま…」彼はやっとのことで言った。「天魔に、めんどくさい奴らが来てて……」

「面倒?」ゼルはヴァンの首にキスをしながら、その奥で脈打つ感触を引きずり出すように吸って痕を残す。「何なら僕が片付けて来ようか?」

「ちが…ぁッ」時折、望むだけの刺激を与えられて、息も声も悦びに震える。感触にだけ集中したくて目を閉じていたけれど、そうしているうちに意識が落ちそうだ。「奴ら、たぶん…っおまえが生きてるって知ったら、おまえを狙ってくる、から…っ」

「なるほどね。それで今、僕の代わりに彼女が出ていったってわけか」

「そぉ、…んっあ、あっゼルッ、そこっ、あ──っ…!」

 散々焦らされた粘膜の先端に指の腹をぐりぐりと押し付けられて、ヴァンはゼルに思いきりしがみついたままようやく達した。極めて簡略、かつヴァンからすれば本題の一割も言えなかった話ではあったけれど、ゼルはだいたい理解したようだ。

「まーた、つまんないことを心配してくれるんだねえ」ヴァンの熱に濡れた手をひと舐めし、ゼルは言った。「そんな奴らなんて返り討ちにしてやるのに」

 ……問題はそこではない。

 仮にゼルが連中を本当に返り討ちにしたとしても、奴らは魔道士の集団だ。どんな呪いや術式を施されるか判ったものではない。しかも世界各地で活動が見られることからも判る通り、彼らの『同志』は世界中のどこにでもいる。

 すなわち、誰か一人にでもゼルの生存がバレてしまえば終わりということなのだ。記憶の増殖や移植、あるいはテレパシーによる転送──どんな手段で彼のことが広まるかと思うとヴァンは気が気ではないというのに、この男はそこを解っていない。

「……でも」と、ゼルは言った。「君が僕のことを『外』の奴らに知られたくないって考えてるのは、知ってるから。君が言う通り、大人しくしててあげるよ」

「ゼル…」

 うっすらと呼んだヴァンが、ゼルの頭を抱き寄せる。言いたいことを言うまでもなく理解してくれて嬉しい──というのではなく、ヴァンの青い瞳は未だ疼く熱に潤んでいる。

「ゼル、挿れて」

「え」耳元で囁かれた言葉の意味を一瞬理解できなかったように、ゼルが間の抜けた声を漏らす。

「おまえがあんな焦らすからだぞ、クソッ……全っ然足りない…っ」

 どうやらまるで満足できなかったようである。獣が主人に甘えるように、いま欲しくてたまらない男に身をすり寄せ、ヴァンは言った。

「奥のほうがジンジンして、おさまらないんだよっ。ソコでイきたいんだ、頼むから…ッ」

「ヴァン──」

 かわいいペットの自慰に手を貸してやった程度の感覚しかなかったゼルの脳に、ヴァンの声はこの上なく甘く響いた。さばさばしていた好意が明らかな男の欲望に変わるのが、彼自身にもはっきりと判る。やっぱり君はこうだよねェ、ヴァン──。

「いいよ」ゼルは嬉しくなって言った。「スグ、気持ちよくしてあげる──」

 がちゃっ。すぐ傍のドアが開いたと思ったら、外からの爽やかな風がそよっと吹き込んでくる。ゼルはともかく、ヴァンと、玄関ドアを開けたばかりのジゼルは、しばらく双方ともに絶句して沈黙した。

 しまった、そうだった──。ヴァンは完全に失念していた。『ここ』が玄関だったことを。

「……じっ…」真っ赤になったジゼルが、ぶるぶると震えた。「時間と場所を考えなさぁーいっ!!」

 彼女が上げた渾身の怒鳴り声は、はるか五軒先の庭先で洗濯物を干していた奥様の耳まで轟いたという。



 市場へ出向くついで、街の中を一通り見て回ってきたという彼女の話では、別段目立って見慣れぬ者や怪しげな者はいなかったとのことだった。

 ただ、この街が『冒険王ヴァン・クロウ』所縁の土地であることは世界の誰もが知るところであるゆえ、観光者や彼に焦がれた駆け出し冒険家などが各地からやってくる、非常に出入りの激しい街であることも事実。このたびの波止場での事件を受け、ボールスをはじめとした円卓の騎士数名がここの保安部に身を置いてくれるとのことで助かるには助かるけれど、現時点の手かがり的な確信はナシのままであった。

 連中の手の者がすでにこの街に居るのか、そうでないのか。何かが起こってからでなければ何も手を打てないこの完全後手回りな構図は、もどかしいにも程がある。

「………セックスしたい……」

 死ぬほど情けない声で、ダイニングのテーブルに突っ伏しているヴァンが、それこそ口に出しておかなければ耐えられないとばかりに呟いた。行為に夢中になっているうちにすっかり冷めてしまった朝食はありがたく頂戴したけれど、腹は満たされても、中途でお預けをくらった性欲は満たされない。悲しいものだ。

「何言ってるの! 私はゼルさんに『話をしておいて』って言ったのに」呆れ返った顔をして、キッチンで昼食の仕込みをしていたジゼルが言った。「なんであんなことになってるのよっ。事態が事態だから、追い出されなかっただけマシだと思ってよ!」

 いっそ二人揃って追い出されていたほうが、どこへなりと行けただけマシだったかもしれない──そう考える自分がクズすぎて、ヴァンは結局何も口答えできず沈黙を守る。

 こんな状態では書庫に戻ったところでロクに仕事もできまい。──と、そこまで考えて彼はふと、自分が昨夜は寝ていなかったことを思い出した。一徹くらいならどうということもないとは、我ながら大した身体能力だと思う。

 実を言えば、薬が無ければ眠れないだけなのだが。

「ジゼル」

「うん?」

「俺、夕方までちょっと寝る」椅子を押しやって立ち上がり、ヴァンは言った。

「眠れそうなの?」

「薬が効けばいいなって感じ」

「眠れそうならちゃんと寝たほうがいいから、もし寝てるようなら起こさないからね。温めればすぐ食べられるものを作っておくわ」

「サンキュ」

 戸棚にしまわれている白い袋の中から錠剤をふたつほど取り出して水で飲み下し、ヴァンはジゼルに軽い挨拶をして廊下へ出る。

 と、そこにゼルが立っていた。

「寝るのかい?」彼が言った。

「ああ、眠れたらな」ヴァンは言った。

 先ほどは中断という残念な終わり方をしてしまったけれど、ヴァンは部屋に来いと言うつもりはなかった。

 身体の芯はまだ、ともすればまたこの男にすがりついてしまいたくなる程度には熱を持っているけれど、ただでさえこのゼルとの『同居』を容認してもらっているジゼルに、これ以上変な気遣いをさせたくないという気持ちだってある。

 この家はヴァン名義のものだが、だからといって住人相手に傍若無人な振る舞いをするつもりは毛頭なかった。

「……?」

 特に話すでも触れるでもなくゼルの横を通り過ぎて自室に向かいかけていたヴァンは、不意に、ゼルがあまりに静かだったことに違和感を抱いて振り向いていた。

 彼は、自分と入れ替わりにダイニングへ入っていくわけでもなく、開いた戸口に立ったまま中の様子を見ていた。

 ……その、物でも見るような目付き。微塵の興味も情動も感じさせない、冷淡極まりない表情。その様子は、ヴァンの延髄をひやりとさせるには充分過ぎた。

 自分よりも遥かにずっと、ゼルは先ほどの情交をお預けにされたことに苛立っていたとでもいうのか。玄関先で時間も考えずに夢中になっていた自分たちにも当然の非はあるというのに、彼はそういうことの一切を省みる能力がないから、単にジゼルさえ帰って来なければよかったのに、と考えているのがありありと見て取れる。

 それは恐ろしいことに、一種の殺意なのだ。

 あいつ、邪魔だなあ──。

「ゼルッ」

 ヴァンは声をかけた。なるだけ平静に、何でもないように。ゼルがこちらを見るのを確かめて、彼は重ねて言った。

「続きは、俺が起きてからな」

「……うん」その言葉を待っていた、というように、ゼルは嬉しそうに笑った。「待ってるよ、ヴァン」

「忘れずに来いよ」

 軽く指を突きつけ茶化すように釘を刺し、ヴァンは部屋へ引っ込んだ。──少なくともこれで変な気は起こさないはずだ。

 ジゼルが居たって自分たちの関係は変わらない。彼女が居なければもっと今より愉しくなるのに、と彼に思わせてはいけない。だからといって居ても居なくても同じだと考えさせてもならない。ゼルはヴァンの世話を焼きたがる故に、アデルが存命だった頃は自ら家事に従事することが多かった。その役割を彼女に奪われたと思われるのも避けたい。

 頭のおかしい奴は、突拍子もない理由で突拍子もないことをするから管理が難しい。いっそヴァンのほうこそ、自分たち二人きりでなら何とでもなるのにと考え始める始末だ。

 俺も、変に気を遣い過ぎてるんだな──。ヴァンはそう思いながらベッドに身を投げた。

 二大蛇竜神の事件が終わってもうじき一ヶ月、これまでゼルは、殺すほど疎んでいたアデルの娘であるジゼルを鬱陶しがることもなければ嫌う素振りも見せず、ごく普通に接してきた。今更ほんの少し『以前』の表情がちらついたからと言って、またあの頃と同じ凶行にはしるかもしれないなんて、彼を信用していないにも程がある。

 自分の動揺が伝われば、彼の歪な心にも影響が出るのは間違いない。深く考えないほうがいい。あいつだって自分の立場はわかってるはずだ──。

 ほんの一瞬、うたた寝のように意識が落ちた気がして、ヴァンはふっと目を開いた。表通りに面した窓から差し込んでいた眩しい光はすっかり失せていて、誰か来たのか厚いカーテンが引かれている。どうやらしっかり薬が効いたようだ。

 耳が痛くなるほど静かだった。窓の外は表通りだが、この部屋そのものが防音加工をされているからそれも当然か。まだぼんやりする頭を何とか起こし、枷のように重い手足を何とか動かして彼はベッドを降りると、廊下へ出る。

 ジゼルはもう眠ってしまっただろうか。それにしたってゼルの気配も無いというのはどうしたことか。彼も眠ってしまったというのなら、自分はこのまま書庫にでも降りようか──。

 リビングの戸口を通りかかった時、彼は何気なく、開いたままだった扉から中を見た。

 おもむろに自分の足がそちらへ向かうのを、他人事のように彼は見ている。

 そうして何かを拾い上げた。

 黒くて大きな、風切の羽根。

 なんでこんなところに、こんなものが──? そう思ったとき、急に視界が開けた。開かれた窓、その傍に立っているゼル、そしてその足元に横たわっている誰とも知れない人影。

「ああ、ヴァン。起きたのかい?」何でもないようにゼルは言った。片手に持った抜き身の短剣に付着した血を振り落として、平然と。「ごめんよ。そろそろ部屋に行こうかと思ってたんだけど、『お客さん』が来たもんだからさ」

 夢だろうか。まずヴァンはそう思った。まだ薬で頭がボケていて、いつかのようなタチの悪い夢をまた見ているのかもしれないと。

 だがここはあの遺跡ではなく自分の家で、照明こそ落ちていて辺りは暗く現実感が無いけれど、そこに倒れているのは『彼』ではない。

「う、うぅ…」

 と、人影が呻いた。声からして男のようだ。闇に紛れるためか黒いフード付きのマントに身を包んでいた男は、辛うじて顔を上げるとゼルを見上げた。

「『重罪人』ゼル・ガロン……主の慈悲を…受けるがいい…!」

 どこかで聞いたのことある言い回し。呆然としていたヴァンの頭は、それを思い出すのに数秒ほどかかった。……まさかこいつ、あの秘密結社の──。

「ゼルッ、離れろ!」

 火が付いたように叫ぶけれど、咄嗟にゼルを突き飛ばせるほどの身体能力が戻り切っていなかったヴァンは、動けぬまま見ることになる。

 持ち上げた男の手のひらと、ゼルの額とが呼応するように強く発光するのを。

「主よ!」男が渾身の力で声を張った。「この男の『罪』を洗い流し賜え!」

「ゼルッ!」ヴァンが叫ぶ。

「…ちッ」

 何か良くないものが発動しようとしていることを察知したか、ゼルが男に向かってかざした手に彼の魔力が収束し、一瞬の内に男の喉を闇の球体がえぐり取っていた。ばしゃりと大量の血が跳ねたものの、喉のど真ん中を失った男は起動の言葉を放つには至らず、ついでに断末魔を上げることさえ叶わぬまま事切れた。



 騒ぎを聞き付けて目を覚ましたジゼルの通報によって、ヴァンとゼルのもとには、朝を待たず保安部の関係者と円卓の騎士らが駆けつける事態となった。

 残念ながら遺体となってしまった男は黒翼の魔人で、身体の一部に掘られた刻印から『主の代行者』の一員であったことが確認された。ゼル本人が証言するには、リビングで時間を潰す内にうたた寝をしていたら物音がして、見てみればその男が侵入して来るや自分に襲い掛かってきたので応戦した、とのことであり、保安官たちはそれで納得したけれど、ヴァンや円卓の騎士たちが現場の状況から推測した『本当の経緯』は違う。

 時間を潰していたというのは本当だろうが、ゼルは寝てなんかいなかった。彼は敷地内へ忍び込んでくる何者かの気配を察知して、屋内への侵入経路として最適な居間の大窓前で待ち構え、狙い通り入ってきたところを逆に襲撃したのである。そうでなければ『窓辺』が『現場』になどなるものか。こいつは本当に、息をするも同然にしれっと嘘を言う。

 すでに朝の時点でゼルは見つかっちまってたってわけか──。ヴァンは思考する。それで襲撃が夜中ってことは、多分もう仲間に伝達されてるな──。

 保安官らが遺体を運び出し、王宮から正式な要請を受けて派遣されてきた天魔正教の従者らが室内の浄化を完了させると、そこに残ったのはヴァンとゼル、そして二名の円卓騎士のみとなった。

「それにしたってヴァンさん」と、侵入経路となった窓から外を見回していたガラハドが、振り向いて言った。「あんな小物の侵入を許すなんてあなたらしくもない。どこか体調でも悪いなら、今の内に正教のシスターたちに診せたほうがいい」

「まぁたあなたは、そうやって甘やかす!」いい加減にしろとばかりにパーシバルが言った。「こんな男、ちょっと痛い目見るくらいがちょうどいいのよ」

「同意はしないけど」ゼルがつまらなさそうに言った。「ヴァンは別に護衛を頼んでるわけじゃないんだ、おまえらに出る幕なんか無いんだから、やる気が無いならさっさと帰れば?」

「はァ!?」パーシバルが、明らかに導火線に火が付いた顔で彼を振り向いた。「勘違いしないでもらいたいわね! 私は、ガラハドとボールスが行くって言ってきかないから先輩騎士としてついて来ただけで、それが仕事だから! こんっっっっな尻軽ナンパ男のことなんて微塵も心配なんてしてないのよ!」

「本人の目の前で言うなよ、そういうこと…」言葉の割に、そのテの罵詈雑言は聞き慣れてます、といったふうのヴァンがとりあえずの注意を促す。「いい加減にしないとゼルが怒るぞ」

「それは私の台詞よ!!」

「そうだな、口は慎んでもらいたいもんだ」ゼルは言った。「尻軽ナンパ男は否定しないけど、他人の口から言われるとやっぱりクるものはあるんでね」

「いやそこは否定してくれよ……こう見えて、ここひとつきはちゃんと操立ててるんだぞ」

「そんっっっな個人情報要らないわよ! っていうか、今回狙われたのはこの軽薄男じゃなくてゼル・ガロンでしょ!」ゼルを指で示しながら、パーシバルはヴァンに言った。「あなたの『身内』だからって、せっかくボールスとガラハドが揃って心配してくれてるんだから、もうちょっと有難がるように躾るべきじゃなくて!? タダでさえ王宮も追ってる『連中』の手の者を生け捕りにするチャンスまで潰してくれちゃって、そこは申し訳なく思いなさいよね!」

「あ、はは…いや、そこは止められなかった俺も悪かったと思ってるよ」

 このバカ騒ぎでやっと頭が動くようになってきていたヴァンにとって、先ほどの侵入者との一幕は夢の断片のようにおぼろげにしか残っていない。咄嗟に動かなかった身体、ろくに何も判断できなかった脳──自分の欠陥ぶりを改めて突き付けられる思いだ。そしてそんな宵闇の中で見たゼルの魔力を帯びた翼が、星々を散りばめたように煌めいていたことだけが鮮明に残っている。

 ああ、きれいだったよなあ──。

「……おまえさ」と、ゼルがパーシバルに言った。「さっきから聞いてれば勝手にしゃしゃり出て来といて偉そうに、ヴァンにああしろこうしろってうるさいな? その耳障りな甲高い声、二度と出ないようにされたいか」

「な──」

 ぎくりとしたのはヴァンばかりではない。ヴァンにだけは忠実──である確証など、どこにもないのだが──で、大人しいものと思い込んでいたゼルの殺気立った目が自分に向いたことで、思いがけずパーシバルが鼻白む。

「ゼル、よせ」

 ヴァンが、彼にそれ以上を踏み込ませまいと腕で制しながら言った。こんなことをしたところで、こいつは本当に殺ろうと思えば魔法が使えるのだから無駄だと解っていながらも。

「パーシバル、おまえも言い過ぎだ」と、彼女の前に出たのはガラハドだ。「ゼル・ガロンも言う通り、俺たちはヴァンさんから正式に護衛を依頼されたわけじゃないし、アーサー王から勅命を受けてきたわけでもない。ただおせっかいを焼きに来ただけだ」

 王宮が連中を追っているのも確かだが、狙われたのがゼルであった以上、その対処は彼もしくは彼の身内であるヴァンに委ねられる。自ら首を突っ込みに来た円卓の騎士らがとやかく口を挟むのはナンセンスというものだ。

 ……ただ、こいつに──ゼルにその『正当性』を指摘されるのも癪な話だが。

「おまえは話が解りそうだな」ゼルは嘲り半分で楽しそうに笑って言った。ガラハドが腹の底で何を考えているのか、見透かしているに違いない顔だ。

「ただ」ガラハドはゼルを見やって言った。「おまえがあの男に何かされそうになったのは確かだ、それに関する調査だけはさせてもらうぞ。『冒険王ヴァン・クロウ』さんは天魔国の威信そのものだ、このひとに一番近いにおまえが、それこそ体内に時限爆弾でも仕掛けられていたら洒落にならないからな」

「おまえらほんとここぞって時にその肩書き使うよな?」俺の肩書きなのに、と、ヴァンは呆れ半分、しかし納得半分に言った。こう言えばさしものゼルも従わざるを得ない。

「仕方ないな。めんどくさいけど」しっかり本心は口に出しながら、ゼルは肩を竦めて了承する。「で、それはいつ終わるんだ? 何日も隔離されるような大袈裟なことはごめんだぞ」

「今、ボールスが正教の方々と共に、例の男の残留魔力から術式解読を行なっている。そろそろ結果も出るだろう。──ヴァンさん、ジゼル嬢の保護についてはどうする?」

「一度侵入を許しちまってるしな」ヴァンは言った。「コトが落ち着くまで、シスターたちが迷惑じゃないなら正教のほうで預かってもらえると助かるよ」

 『襲撃』が二度とないとは言い切れない上、誰の目も憚らず平然と人を殺すゼルの所業に、これ以上彼女を触れさせたくもない。ゼル・ガロンという狂人と共に生活する以上、こういった事態や機会は遅かれ早かれ必ず、そして幾度となく訪れるものだが、やはり今の彼女は幼過ぎる──。

「師匠──ッ!!」

 ばんっ! ボールスの叫び声がしたかと思ったら、ガラハドがさっき閉めた居間の窓に、どこからか飛んできた彼女が勢いよく張り付いた。まさかそんなところからやってくるとは思わなかった一同がぎょっとそちらを見やる。

「師匠、大変ですよ!」ヴァンに窓を開けてもらった彼女は、地に降りる間も惜しいとばかりに相手の手を引っ掴んで言った。「さっきの男が使った術式の内容が判明したんですがっ!」

「急いでるのは判るがドアから入って来いよ!?」ヴァンはたまらず文句を言った。「何のためのドアなんだよ!」

「す、すみませんっ! 出直して来ます!」

「いいから! 入ってきたんだからもういいから!!」

「そういえば私、前から気になってたんだけど」パーシバルがぽつりと言った。「魔人はデフォで空を翔べるのに、なんでわざわざこんな地べたで暮らしてるのかしら?」

「魔人は加齢と共に潜在魔力が生命活動によって消費されて、最終的に翔べなくなるからだよ…!!」ヴァンが頭を抱えながら言った。なんでこんなところで生態学の講義なんかしなければならないのかと思えば、本当に頭が痛い。

 同じ雌でも卵を産まないほうの鳥が長生きできるように、魔法を習得していない個体のほうが、魔術を操る個体に比べて長寿であり、体力的な衰えも緩やかであることは研究結果が出ている。魔人はその名の通り魔力によって生命維持・活動を行なう種族で、ほとんどの魔人が自然と身に着ける『翼を使った飛翔』もまた風属性の魔術であることが判明している。よって老体の魔人は、残った魔力が生命維持に回ってしまうため翔ぶことができなくなるのだ。

 潜在魔力は修行や儀式、あるいは他者から奪取したり譲渡を受けることで最大値を引き上げることが可能であるため、大魔導と称されるマーリンに代表されるように、魔力源さえ確保できていれば永遠にも等しい時を生きる術を持つのが彼ら魔人なのだ。

「へええ、そうだったんだ! そういえば思い当たる節が多いわね」パーシバルはしきりに感嘆している。

「今はそんなこと言ってる場合じゃないだろっ」律儀に答えてしまったのは自分だが、それを棚に上げてヴァンは言った。「ボールス、結果は?」

「は、はい!」ずっとそわそわしながら発言の機会を待っていた彼女が、背筋を伸ばして言った。「実は先ほどゼル・ガロンにかけられた術が、対象の全記憶を抹消して人格を破壊する、洗脳魔法の一種だったことが判明したんですよっ!!」

 …………。

「へぇ?」それで? とばかりにゼルが言った。

「なんであなたが一番落ち着いてるのよ!?」パーシバルが嘘でしょと叫んだ。「それってつまりアレなの? 記憶が全部消えればどんな真っ黒人間誰しも真っ白、罪も穢れも洗い流されてイチから真っ当な人生が歩めるとか本気で思ってのことなわけ…!?」

「そういえばあいつ、『慈悲を受けろ』とかわけわかんないこと言ってたなあ」

「罪…はともかく、これまでの記憶と経験の全てを失うことが贖罪に相当する慈悲だなんて、それこそエゴそのものだな」ガラハドが言った。「確かに正教の教えでは、ヒトの魂は転生の際にあらゆる過去を固く封じられるとは言われているが……」

「ああなるほど、全ての記憶を消し去ることで、現世に生きながらにして『転生』の手順を踏ませた気になってるわけね。……でも、そういえばその術、術士自身が途中で死んだんだから不発だったんじゃなかったの?」

「そうなんです」ボールスは言った。「でも、術の完成となる『解放の言葉』までは放たれずとも、詠唱そのものは完了していたんです。その術は発動すればその場で対象を『リセット』できる強力なものでしたが、今回は最悪のタイミングで中断されてしまったことで中途半端に発動してしまったようで……」

 今まさに、ゼルの中で緩やかにその効力を発揮し始めている──ということなのだ。

「解析結果からの予測ではありますが」ボールスは続けた。「ゼル・ガロンの全記憶が抹消されるまでの猶予は、先ほどの『発動』から数えて七十二時間……すなわち、三日です」

 居間がシンと静まり返った。ゼルを含めた一同の視線が、術式の内容が判明してよりまったく口を開いていなかったヴァンに集中する。

「……解除の方法は?」彼はぽつりと言った。

「正教の最長老とマーリン様が協力して下さるとのことですが」ボールスは自らの不手際のように、申し訳なさそうに言った。「術は連中が独自に編み出した形式のようで、三日以内に解除方法が明らかになる可能性は、現状、かなり低いです」

「連中が独自開発、ね」ヴァンはそこを確かめるように言った。「なら、開発者本人らに聞きに行くしかなさそうだな」

 落ち着いた声色とは裏腹にバシッと拳を叩いたヴァンに、パーシバルがぎょっとして口を開いた。

「何よ、まさかあなた、殴り込みにいくつもりじゃないでしょうね!?」

「他にどんな手段が?」ヴァンはそれしかないだろとばかりに言った。

「なんだってこんな時に限って単純思考なの!? こういうときこそあなたお得意の知略がものを言うんでしょ!?」

「真っ向からの殴り込みだって、充分な戦略さ」ヴァンはさらりと言った。「こっちが『国家権力』なのをいいことに好き放題やろうってんなら、形振り構わなくなった国家権力がどんだけ恐ろしいか思い知らせてやらなきゃな」

「及ばずながら師匠!」ボールスが言った。「ボクも一緒に行かせてください!」

「俺も行かせてくれ」ガラハドが言った。「相手は魔道士の集団だ、魔法を習得してないあなたには少しばかり不利だろう。俺たちがあなたの剣となり、盾となる!」

「サンキュ、二人とも。助かるぜ」ヴァンはひとつ頷いて、傍に立つゼルを見やった。「ゼル、おまえはここで──」

「なぁんで当事者の僕が、ここで大人しく君たちの帰りを待たなきゃいけないのさ」まったく納得できない様子でゼルは言った。「君にならともかく、こいつらにまで借りを作るのはごめんだね。僕も行くよ?」

「……そう言うと思ったよ」

 頭の翼と一緒にげんなりと肩も落として、ヴァンは無言の内に待機命令を撤回した。

「問題は、連中の拠点ですね」ボールスが言った。

「さすがにあのひとりだけとは考えにくいよな」ヴァンは言った。「ゼル・ガロンご存命、かつ仲間が『討伐』に失敗したとなれば、我こそはと『手柄』を求めて各地から集まって来そうなもんだ」

 奴らがもしゼルの『討伐』に成功したなら、その首をダシに彼の処罰や生存について黙殺していた王宮に強大な発言力を得ることになる。天魔正教の宗派のひとつとなることまではできずとも、世論に対して英雄観念が根付いてしまう可能性は高い。

 だからこそ、奴らにしてみればゼルに人格破壊の術が起動した今が好機。そしてヴァンたちにとっても、そうやって彼らが自らのチャンスだと信じてやまぬこの機こそが絶好のチャンスなのだ。

 これ以上後手に回ってたまるかよ。情報が拡散される前に、俺のものに手を出したこと、後悔させてやる──。

「パーシバル」ガラハドが言った。「どこか心当たりはないか?」

「何で私が知ってるのよ。──でも」自分に聞くなと彼女は言って、…それから、思い出したように続けた。「五番街の裏通りに、半世紀も前の正教の拠点が未だに残ってるのよね。あれ、どうしてなのかしら」

「ほんと嫌いじゃないぜ、君みたいな女」ヴァンが面白そうに笑った。

「っていうか、私だけが待機みたいなこの流れ、勘弁してよね!」彼女は更に、心外だとばかりに言った。「ガラハドとボールスが行くんなら、私はふたりの監督係としてついていきますからっ! これが仕事だもの、当然でしょ!」

「ああ、恩に着るよ。──時間は日の出の直前、薄明の刻だ」

 夜間の見張りが交代をし、他の者らも目を覚ます直前。おそらく世界中が絶対の静寂に沈むであろう時間、ヴァンはそれが夜明けの刻だと思っている。

 眠りたくて、でも眠れなくて、せめて夜の喧騒に身を置きたくて街を彷徨った果てを、彼は何度も見てきた。あの空気の白さ。あの薄ら寒さ。気が狂いそうな、あの静けさを──。

「じゃあ、ヴァンさん」玄関口で、パーシバルとボールスに続いて出て行こうとしたガラハドが挨拶に振り向いた。「またあとで」

「ああ」ヴァンは言った。「でも、よかったのか? アーサー王からの命令でもないのに、俺について来たりなんかして」

「円卓の騎士としてなら、問題はあったかもしれない。……でも、俺たち個人の意思でなら話は別だろ?」

「素行不良で解任されるぞ」

「そしたら冒険家としてやっていくよ」

「はは、将来設計も完璧だな!」

「だから、あなたは安心して、自分のことだけ考えていてくれ」

 ──不意にヴァンは、刹那、言葉を返さなかった。ありがとうなと締めくくって、ガラハドを送り出せばそれで終わるところで、彼は眼前の青年にすっと身を寄せる。

「ヴァンさん──」

「ダメだぜ、そういうかっこいいこと言っちゃ」唇が触れようかという近さで、ヴァンは囁いた。「また、好きになっちまうからさ」

「……ッ」

 よもやそんなことを言われるとは思ってもいなかった顔で、ガラハドが絶句した。一瞬で頬を紅潮させた初心な表情と、あらゆる総てを凍て付かせる絶大な魔術に似合わず、こいつの吐息と身体が熱かったことを、ヴァンはよく覚えている。

「す、すまないっ」慌てて距離を置いて、それ以上目を合わすこともしないでガラハドは踵を返した。その態度は、未だこの青年の中にヴァンへの想いが淡くも残ってやまないことを、これでもかと示している。「そんなつもりじゃなかったんだが、それでもあなたを支援したいというのは本当だ、からっ……」

「ああ、ありがとな。感謝するよ、ガラハド」

 出ていくとき、彼は振り向かなかった。ヴァンの目を、表情を確かめようとはしなかった。ガラハドはもう、理解するか察するかしているのだろう。いくら自分がヴァンを抱いても、彼が自分のものになるわけではないことを。

 自分こそが、彼のものになってしまっただけに過ぎなかったのだと。



「ヴァーンー」

 三人をやっと送り出してドアを閉めたところで、頭に顎を乗っけてきたゼルの重みで、ヴァンはほんのちょっと屈むような姿勢になる。

「なんだよ」

「ちょっと目を離したらすぐコレだ、君はホント油断ならないよねェ」

「妬いたのか?」頭にかかる重みを少し避けて、ヴァンはすぐ傍にきた相手の顔を見上げながら覗き込む。

「少し、ね」

「だったらシようぜ、昼間の続き。俺がおまえのことしか考えられないようにさ」

「もちろんそのつもり」

 もともと、とても近かったゼルが唇に柔く噛み付いてくる。目を閉じたヴァンが自ら口を開いて舌を伸ばすと、ふたりはしばらく戯れるように隙間で絡み合って、やっと口付けに至る。

 粘膜に歯を立てる、ゼルの力を強く感じた。少し息苦しくて離れようとすれば、ぐっと頭を掴まれて捕らえられる。壁と相手の間に押し込められて、そんな中でも空いた手が着衣越しに胸から腹へ滑り、腰から中へ入ってくるのを感じれば、じわりと身体が熱を持つのだから大した淫乱だと自分でも思う。

「…君さ」ゼルは言った。少しばかりの呆れを含んで。「ほんと自分に正直だよね」

「好きだろ?」ふ、と熱くなりかけた息をもらしてヴァンは笑った。「俺のこういうとこ」

「さあ? どうだったかなあ」

「記憶なくなるの速すぎるだろ」

「三日かかるんだっけ?」

 どうでもいいことのように言って、ゼルはヴァンを荷物でも扱うように軽く抱き上げ、その足で彼の部屋へ向かった。ばさりとベッドの上へ投げ落としてのしかかると、耳元に歯を立てる。

「ん、ゼル、ちょっと待て」ヴァンは言った。「そこの灯り点けてくれ」

「なに、どうしたの」

 言われるまま手を伸ばしたゼルが枕元の小さなライトスタンドのスイッチを入れると、その周囲にだけ薄いオレンジ色の光が広がる。ヴァンはそうしてゼルの姿を確かめると、灯火に照らし出されたように見える彼の頬に両手を触れて言った。

「こうしたほうが、おまえの顔が見られるだろ」

「暗いのが嫌なんじゃなくて?」

「野暮なこと言うなよなあ、喜べよ」

「言われなくても嬉しいよ」紛れもない本心で言っているのだということは、普段の人を食ったものとは違う、あどけなさを含む笑みからもはっきり伝わってくる。

「記憶が消えるって、どんな感じなんだろうな」ヴァンはぽつりと言った。

「さあね」ゼルはあまり興味が無いのか、改めてヴァンの頬から首へ唇を滑らせ、そっけない返事をする。

「最近のことから忘れるのかな。昔のことからかな」

「新しいものから消えてくのなら」相手の緩めた腰から下肢に手を入れて、大腿を撫ぜるついでに着衣を脱がせたゼルは、思い付いたように言った。「君の記憶は僕の中じゃ比較的『新しい』から、スグ消えそうだね」

「ずーっと俺が上書きしてやる」離さないぞという意思表示なのか、ヴァンはゼルの耳元に頬をすり寄せて言った。

「…古いものからだったら、僕はすぐに自分が誰なのかも判らなくなるんだろうね」

「俺が教えてやるよ、俺の恋人だって」

「どう転んでも君に都合いいじゃないか」

「まあそう言うなよ、明日の朝には解除させるんだから、こんなのただのタラレバだろ」

「できない場合の想定が無いのが、あるイミすごいと思うよまったく」

 やれやれと言葉を続けながら、潤滑油の小瓶に浸けて濡らした指で、自分が身を置くヴァンの脚の隙間をそっとなぞった。

 秘所より少し上の、女であれば目的の場所となったであろう、肉の継ぎ目を。

「んん…ッ」くすぐったそうに、でも明らかな色を含んでヴァンが身を捩る。

「君、ここ好きだよね?」反応を確かめ、ゼルは甘い匂いのする粘液を擦り込むように指を動かす。空気を含んで、ちゅくちゅくと音がするのを楽しみながら。「…女の子みたい」

「女抱いたことあるのかよ、おまえ」

「失礼だなあ、無いわけ無いじゃないか」

「初耳。──ん、あッいっ」

 縦に刻まれたそこを指の腹で沿うように扱かれて、ヴァンの背がびくりと反る。

「…ぁっ…男、はさ」乱れかけた息を吐きながら、ヴァンは言った。「女を改造して作ったもんなんだよ」

「なにそれ?」

「言葉のまんま……っん、だから、ぁっ」愛撫を止めようとはしないゼルを咎めず、ヴァンは時折声を上ずらせながらも言葉を続ける。「男にはっ…女の痕跡が、あちこちにあるんだ」

「…へえ」別段、感心しても感嘆してもいなさそうな顔をして、ゼルは眼下の相手をまじまじと見つめた。

 じゃあ君が『そう』なのは、女の悦びに目覚めちゃったからなんだね──そんな思考が頭をよぎるけれど、口に出したらぶん殴られそうだからやめた。

「あー、なんか言わなきゃよかった」色のある吐息とも、ただの溜息ともつかぬ息を吐き、ヴァンは顔を逸らした。「おまえにこういう知識持たせるの、癪だ」

「…そろそろ中に欲しいんじゃない?」くす、と小さく笑ってゼルは言った。「『入口』ばっかりじゃ物足りないでしょ」

「ほらすぐそういうこと言うだろおおぉぉぉぉ」

「言われたいから教えてくれるんじゃないの?」力なく自分を叩きに飛んでくる手を軽く受け止めながら、ゼルは可笑しくて仕方ない。「君が気持ちよくなれるんなら、言葉でくらい、いくらでも貶めてあげるけど」

「おまえの場合はどこまで本心で言ってるか判らないから嫌なんだよっ」

「全部本心だよ。僕は君に嘘なんて言いたくないからね」

 それすら本当に『本心』なのか怪しいものだ──ヴァンが更に口答えしようとしたところで、ゼルの指が滑り降りて秘所に先を埋めた。

「あぁうっ!」予告なく侵入された上、内側から周囲をぐりっと抉るように強く一周されて、いっそ奥まで貫かれたのと変わらない快感が込み上げる。

「ほら」己が本性である嗜虐性の強い表情で笑み、ゼルは言った。「乱暴にされてるのに、気持ちいいんだろ?」

「ちが、そんなんじゃ……あ、ああぁっ」

 指がぐいっと根元まで入ってくるけれど、力加減次第ではちゃんと届く好いところまで来てくれない。でも、今しがたの愛撫で感度を上げた『入口』の肉をきつく擦り上げられ、また引きずり出される感触も好くて、この少々もどかしいくらいでじわじわと理性が煮崩れていく高揚がたまらない。

「あっう、…っふ、あ、ゼル…ぅっ」ああクソ、これだから──。ヴァンは口答えする理由を忘れた。ただ快楽に流されるまま、反らした喉がはしたなく喘ぐのを止められない。

 好いとこ触られなくてもイけそうだなんて、これだからこいつとやるのは最高なんだ──。

 ぢゅく、と濡れた音を立てて、今一度深く潜り込んだ指先が、ようやく奥まった秘部に届いた。

「んあ…ッ」ゾクゾクする鋭い快感が脳髄まで突き抜けて、そのまま達せそうだったのに指はすぐに離れていった。もう少しなのに──とむず痒い感覚とともに、長らく飢えていた刺激をやっと与えられた自分の最奥がもっと、もっととひくついているのが嫌ほど判る。

 抗えない。

 逆らえない。

「なんだよ、もう…っ」泣き出しそうな目を逸らし、ヴァンは声を震わせて言った。「時間、ないんだぞ……一回くらいイかせてくれよ…っ」

「ふーん…?」

 返ってくるのは、まるで感情の入っていない声だ。拍子抜けしたか、あるいは興醒めしたかと思わせる冷めた反応。普段ならゼルはヴァンが求めればすぐに与えてくれるのに、案外とガラハドに妬いたというのは本当のことなのかもしれない。

 こんなときにヘソを曲げられても困るから、せめて謝ってやるのがいいかと思った矢先、いきなりゼルはヴァンの身体を開いてきた。

「うあ…ッ!?」

 極めて速やかに全身へ広がった甘い痺れに思考が追い付かず、ヴァンはその無遠慮な侵入で予期しない絶頂に追い落とされる。おまけに昼間からずっと焦らされ続けてきた奥にぐっと強く押し付けられて、目の前に火花が散るような衝撃にも似た波が治まらない。

「ゼ、ル…ッ」やっとのことで息をしながら、ヴァンは相手の肩口に掴みかかる。……が、残念ながらそれだけで精いっぱいだ。「おまえぇ…っ」

「やっぱり」息も声も狂ってしまった相手に心底してやったりという笑みを見せ、ゼルは言った。「君はそういう顔が似合うよねェ」

 自分がどんな表情をしているかなんて考えたくもなかった。

「好きだよヴァン、愛してる…」

 絶対に言うタイミングを間違えている甘い言葉を囁いて、ゼルは身を引いたかに見せて一息に最奥までヴァンを貫いた。絶頂を越えたばかりの……否、未だその余韻にひくつくそこに律動を刻む。

「ひッ、やめ、や…っゼル、──ん、ぅうっ」

 口に指を突っ込まれたかと思えば、そのまま舌をねじ込まれて口内を蹂躙されるうちにも、彼の動作は変わらない。突き上げるのみならず、押し付けて、潰して、内壁を掻き乱して身体ごと揺さぶる。

 やばい、やばい無理だってこんなの──。

 脚にきている振戦が、どの神経の反射で起こっているのか判らない。少なくとも内壁の動きを直に感じているゼルは、ヴァンが今、何度目の絶頂を越えたかくらいは判っているかもしれないが。

 呼吸が上がり切り、舌まで痺れたヴァンにはもやはまともな言葉は放てない。おまけにゼルはただ激しいばかりではなく、時に緩やかに引き抜いては敏感な『入口』の媚肉にも的確に刺激を与えてくる。一種甘くさえある緩慢さに意識を惹き付けられたところで思いきり貫かれては達する、その繰り返しで気がフレそうだ。

 気持ちいい。やだっもう無理っ、気持ちいい気持ちいい我慢できない──。

「あっあぁあゼル、ゼルぅっ」夢中で相手にしがみつき、ヴァンは啼く。「あぁ、それいぃっ、あっイくっ、またイくぅっ! 俺っ…まだ、まだイッてるのにぃ…っ」

「いいよ、昼間は満足にイけなかったんだから、好きなだけイッて」近付く自分の限界を感じながら、幼子のように縋り付いてくる彼の頭を撫でてゼルは言った。

 純然たる快楽に中てられて狂う君を見ているのは最高だけど、問題は僕も人間だってことだよなあ──。

「ヴァン」相手が一番欲しがっているものを与える時、彼は必ずこうして確認を取る。「出して、いい?」

「出してぇっ」待っていたとばかりにヴァンは即答した。「ゼルの全部欲しいっ、俺のナカに…っ」

「もちろん、全部あげるよ」

 ヴァン以外の、他の誰にくれてやるのというのか。ゼルの腕がヴァンの腰をぐっと引き寄せてもっとも深く繋がった時、イきすぎて反応の止まらなくなった最奥に熱をぶちまけられたヴァンがヒュッと息をのむ。

「あ、ああぁ、あ…っ!」

 ガクガクと震えの止まらない彼が漏らす断片的な嬌声が、まるで断末魔のようで。

 こうして共に達して果てようかという刹那、ゼルは、愛情表現の方法としてこの手段を教えてくれたヴァン・クロウという男に、どこまでも感謝してやまなかった。

「愛してるよ、ヴァン──」

 だってこれは彼にとって、夢にまで見た心中の疑似体験にも等しいものだったのだから。



 晴れ渡る、清々しい夜明けの空だ。海鳥の鳴き声すらまだ聞こえない早朝、人目に付けば間違いなく目立つにであろうに立地のせいで完全に住人たちから忘れ去られた教会の廃墟は、不気味なほどの静寂に包まれていた。

 円卓の騎士三名は、その教会の正面玄関を窺える、これまた古い家屋の廃墟角で待機している。もともと『五番街』は古い建築技術や素材で造られた家屋や店舗用の建造物が多く、街外れに港が開かれて街そのものに大がかりな開発の手が入って以来住人が減り続けている、現状開発待ちとなっている区画だった。

「まぁそもそも」パーシバルがぽつりと言った。「『冒険王ヴァン・クロウ』所縁の地として有名になったにもかかわらず、この街に未だこういう区画が残っているのは『そういうこと』なのよね」

「本拠かどうかはわからないが、連中の重要な拠点であることは確かだな」ガラハドが言った。「人の出入りが激しいから保安部の目もごまかせるし、何より標的のひとりであるヴァンさんを監視するには打って付けだ」

「いやなものね。鬼龍じゃ出る杭は打たれるなんて言われるけれど、『杭』の『規模』も考えて行動してほしいものだわ。こないだのスリからあの軽薄男まで、これだけ守備範囲が広いなんて、下手をすれば私たちやアーサー王ですら『監視対象』なんじゃなくて?」

「有り得ますね、…考えたくないですけど」ボールスが言った。

 トン、と、三人の背後で小さな物音がした。よほど注意していなければわからない程度のそれに気付いた騎士らが一斉に振り返ると、未だ朝日を見ぬ路地裏の奥にきらりと輝く、ヴァンの白銀の翼が見えた。

 上空からか、あるいは建物の上からか。連中に気取られることを考慮してか、羽ばたきの音や足音を感じなかったところを見るに相当な高さから降りてきたであろうに、着地の音はほとんどしなかった。見事な体幹だと言わざるを得ない。

「やっと来たわね」パーシバルが言った。「自分で時間を指定しておいて、遅れてくるとはいい度胸だこと」

「悪い悪い」あはは、と苦笑いしながらヴァンは言った。体のいい言い訳がまるで浮かばなくて、完全に笑ってごまかしたようになる彼の背後に、同じくほとんど音を立てることなくゼルが舞い降りてくる。

 言えるかよ、約束の時間のちょい過ぎまで完ッ璧に気を失ってたなんて──。パーシバルに何を言われるかと思えばそれだけて冷や汗が出そうだ。

「でも、おかげで少し相手の様子を観察はできた」と、ガラハドがフォローを入れた。「やはりあの廃墟が、この街での奴らの拠点だ。正門前での見張りが三名、巡回の見張りも三名。交代の時間は不明だが、内部には少なくともこの倍以上の人間が居ることになる」

「見張り計六人の倍数計算か。三十人規模じゃないことを願いたいもんだな」

「いくら魔道士の集団だなんて言っても、私たち円卓の騎士が三人もいるのよ」パーシバルは言った。「戦略さえ間違いなければ、制圧はそう難しくないわ」

「OKOK、それじゃあ行くとしますか」

 皆と同じように身を屈めていたヴァンが立ち上がり、腰のホルダーからマチルダを抜き取った。

「行けるな、ボールス?」目標をしかと見定めながら、彼は言った。

「は──、はいっ、師匠!」刹那ぽかんとした彼女だったが、相手が何を言わんとしているのかをすぐに感じ取ったか、ヴァンが持つそれと同型の縄鞭を手に身構える。

 あと五秒で踏み込む。全員の胸の内で、声にこそ乗らないが同時にカウントが進む。三、二、一──。

 ゼロの瞬間、ヴァンとボールスは同時に地を蹴った。見る間に目標が近付くに従って女の足が猛烈な磁気を帯び、男の翼が大気を打ち付け、滑空に等しく身体を宙に滑らせる。見張りたちがそれに気付かないわけがない。迫りくるふたつの白い影に、正門にいた者たちが背後を振り返って叫んだ。

「敵襲だ──ッ!」

 それこそがヴァンとボールスにとってのゴーサインだった。ほとんど同じ動作で振るわれる同型の縄鞭に、風と磁気が収束する。

−ソニック・テンペスト−
「縄 鞭 乱 舞!!」
−マグネティックストーム・インフェルノ−

 ヴァンが放った風の衝撃波が、ボールスの撃ち出した砂塵を含む凄まじい磁気嵐に推進力を与え、正門内側の広場に着弾させて爆発にも等しい轟音を周囲一帯に撒き散らす。多分これで街中の人間が目を覚ましたに違いない。

 もとよりボロかったせいもあるが、衝撃に耐え切れず吹き飛んだ大扉の向こうから五人ほどの、そして建物の裏側から三人の男や女が駆け出してきた。全員が魔道士というわけではないらしく、剣や槍を持つ者もいる。

「な、っ」赤黒いローブを着た男が、ヴァンとボールスを見て驚いた。「円卓の騎士に、ヴァン・クロウだと!?」

「──僕も居るよ」

 舞い上げられた砂塵がおさまる向こうから、ゼルの煌めく闇色の翼が姿を見せると、ただでさえ予想もしない人物らの襲撃に怯んでいた者たちが色めき立った。

 ゼルが生きていたことを昨日知ったばかりの連中が、ヴァンとゼルの関係なんて知っているはずもない。知っていたとしても、ヴァンが過去に、相棒のアデルと押しかけの彼とでトリオを組んでいた公式の情報がせいぜいであろう。

 そんな関係も『三年前』に破綻したはずなのに、どうして今更こうして共に現れるのか。凶悪な『罪人』であるゼルに人格破壊の術をかけた『だけ』で、どうしてこいつに加えて円卓の騎士までも出てくるのか、彼らが混乱するのもわからないではない。

「よくもまあ人様のナワバリで、やりたい放題やってくれたな!」縄鞭を両手でビシリと張り、ヴァンは言った。「おまけに俺のモノにまで手を出して、タダで済むと思うなよ! 『俺の自由』を侵害した『罪』、『神様』に代わって俺が処罰してやるぜ!!」

「彼らの『行動の自由』は無視なわけ?」ぽつりとゼルが言った。

「そこはまた別の選択」ヴァンはどうでもいいようにさらりと言った。

「私たちも居るのよっ!」

 ヴァンとボールスの背後から、ガラハドとパーシバルが門の内側へ飛び込んた。素早く外の見張りを片付けたふたりはすでにしっかりと武器を握りしめ、中の大聖堂へと充填した魔力を解き放つ。

−ゲイル・ランサー・シルフィード−
「風 精 強 襲 槍!!」

−ダイヤモンド・ブラスト・コキュートス−
「氷 牙 爆 散 獄!!」

「主よ! 主の忠実なるしもべたる我らを護り賜え!!」

 ふたりが容赦なく繰り出した攻撃が着弾する直前、数名の魔道士が重ねて展開した防御障壁がそれを喰い止め、意外にも防ぎ切ってみせる。

「…なるほどねっ」着地したパーシバルが、手にした長槍をヒュンと振り回して構えを改め、魔道士たちと相対する。なかなかイイ腕の奴らが揃ってるじゃない、それなら──。

「行きなさい、ヴァンッ!」彼女は叫んだ。「こいつの相手は私たちが引き受けるわ、あなたは奥へ行って、ここの責任者を引きずり出すの!」

「気を付けろ、ヴァンさん!」ガラハドが言った。「『司祭』が居るなら、その近辺には護衛も居るはずだからな!」

「ご武運を、師匠!」ボールスが言った。

「サンキュ、三人とも!」ヴァンは頷いて、視界の隅に捕らえた奥への扉へ身を翻す。「行くぞ、ゼルッ!」

 応える声は無かったけれど、ゼルは武器を手に襲い掛かってくる衛兵数人を瞬時に斬り捨てると、ヴァンを追って走った。まるで追う者と追われる者のようだが、ふたりは蝶番の脆くなった扉を同じタイミングで蹴破ると、並んで廊下を走り出す。

「なぁんか思うんだけど」ゼルは言った。「割と早計じゃかった? この襲撃」

「何言ってんだ」ヴァンは言った。「あちらさんが『勝った気でいる』うちに、術を解くべく躍起になってるはずの俺たちが殴り込むから意味があったんだろ」

「僕は一度、忘れてみたかったなあ。君のこと」

「元に戻せる見込みはないんだ、ぞっ!」

 前方から駆けつけてくる魔道士の男にヴァンが縄鞭を繰り出し、ゼルは防御の姿勢を見せたその男が前方に張った結界を闇の球体で侵食し意義を掻き消す。そうやってヴァンの衝撃波をまともに喰らって吹っ飛んだその者を、死体蹴りが如く踏み倒して進んだ二人の征く手に、大きな分かれ道が現れた。

 上へ向かう大階段と、地下へ向かうそれ。

「おまえは上に行け」ヴァンは迷わず言った。「俺は地下に入る」

「『司祭』の護衛になりそうなものを、先に片付けようってことだね?」ゼルは指示の意図を確認した。「いいよ。一番奥まで行ってみて、何も居なかったら合流する」

 対集団戦略の第一歩は相手の補給を絶つことにあり、それは『増援』にも同じことが言える。鬼龍でも『将を討つなら馬から』と言われるように、敵対する頭領が持つ戦力を、自分たちと対等の条件に持ち込むことが重要となるのだ。

 わざわざ解説されるまでもなく理解したゼルと、そんな彼にわざわざ答えてやるまでもないヴァンがそれぞれの目的地へ向かって床を蹴り、大階段へと駆け出して行く。上へのそれは一部が吹き抜けになっていたから、ゼルは黒い翼を広げてさっさと高くのぼっていく。

 代わって地下は、鉄機の技術である『電気』が通っていないこともあって一定間隔で小さな松明がくべられ、まるで古代神殿の回廊を思わせる。いかにも秘密結社の司祭が潜んでいそうな雰囲気こそするけれど、さてどうだろうな──。

「いたぞっ」

「おのれ、主の神罰を受けるがいい!」

 回廊の奥から誰か数人の声がした。ヴァンの広げた翼が淡く白銀に発光し、媒体である手元の縄鞭へと魔力を収束させる。

「はッ!!」

 解放の言葉など必要ない。吐いた気合いと共に繰り出された風の衝撃波は、狭く、そして出口のない回廊をまるで濁流のように吹き抜け、火の粉を散らす松明共々、魔道士どもを、音速にも達する圧倒的な圧力で殴り飛ばす。

 ヴァンが自ら『地下』を選んだのは、風属性に長けた自身のこの戦術を最大限に発揮するためだった。松明は無くなってしまったけれど、自らの翼が光を放ってくれるから視界には困らない。

「…おの、れ……おのれ…、──ぐあっ!」

 まだ何か呟いている転がった男の手の甲を踵で踏みつけにし、ヴァンは言った。

「わからないんだよなあ。何だっておまえらが、何の利益もない『罪人殺し』をやってるのか」

 天魔正教が掲げるものと同じ『主神』を『主』を仰ぐくせに、その『正義観念』は自らが蔑む『罪人』のそれと変わらない。主観的と呼ぶことさえ、これだけ多くの人間が賛同している以上、違う。治安を守りたいならぱ王宮や保安部と協力態勢を執って、『執行部』として立場を確立すべきなのにそれをせず、『たまたま目についた罪人』を過激な方法で『処刑』する。こいつらの行ないをしてガラハドやパーシバルは『エゴ』と称したけれど、ヴァンは違うと思っていた。

 『正義の執行』や『罪人』だなんてもっともらしい理由を取って付けてまで、こいつらは『人間』を見下し、『苦しめる』手段を探しているのではないか──と。

「『重罪人』に与する、悪の手先め…っ」男は踏みつけられて軋む手の痛みを堪えながら、やっとのことで言った。「地獄に落ちろ、地獄に落ちろ地獄に落ちろおおおぉぉぉ」

 その言葉の異常さに気付いたヴァンが咄嗟に身を引き、自身を気流結界で包んだ直後、男の頭が炸裂した。それはまるで爆弾のように、衝撃で粉砕された男の頭蓋骨をヴァンに向かって撃ち出し、結界に受け流されて壁や天井の岩壁に血のりや肉片共々次々と突き刺さる。まともに喰らっていたら、ものの例えでなく本当に針のむしろのようにされていたところだ。

 こいつら、もしかして──。あまりのことに停止していた思考が活動を回復したとき、最初に浮かんだのはとある予測だった。

「ヴァンさんっ!」

 背後から聞こえたガラハドの声に振り向いてみれば、大聖堂を片付けたのだろう三人の騎士らが大階段の上に立っている。

「そっちはどうだっ」ガラハドが続けた。

「空振りだよ、見張りはいたけど片付けた」

 ヴァンは答えながら軽い飛翔で外の廊下へ出ると、三人に向かって続けた。

「三人とも。悪いんだけど、倒した連中をすぐ厳重に拘束してくれるか」

「なに、どういうこと?」パーシバルが言った。

「奴ら、動けなくなったら自爆する危険性がある。とにかく動けないように…特に魔法を使わせないようにしてくれ。君らだって、参考人が減るのは本望じゃないだろ」

「わかった」ガラハドが頷いた。「保安部を呼んで至急拘束、連行しよう」

「頼んだぜ。俺は上に行ったゼルを追う」

「恐らく『司祭』もそちらです」ボールスが言った。「ボクらもすぐに行きますから──」

「いや」相手の言葉を中途で遮り、ヴァンは言った。「君たちは連中の拘束が終わったら待機していてくれ。……ここの『司祭』は、どうやら一筋縄じゃ行かなさそうだ」

「いいわ。あなたがそうしたほうがいいって言うなら、そうしてあげる」パーシバルが言った。「ただし、制限時間は一刻よ。それ以上待ってあなたたちが出て来なかったら、私たちが突入する。それでいいわね」

「了解──」

 一同の意思がまとまったその瞬間、建物全体に突き抜けそうな凄まじい絶叫が聞こえた。円卓の騎士たちがびくりと身を竦ませて何事かと視線を上げる。ヴァンが背にした地下通路からのものではなかったから、外か、あるいは──。

「みんな、あとは任せるっ!」

 ヴァンはそれだけ言い残して翼を広げ、吹き抜けを利用して一気に三階へと飛翔した。壁はくすんでひび割れ、色褪せた赤っぽい絨毯が敷かれた、まだ暗がりと言える廊下をまっすぐに翔ぶ。いつかもこんなことをした覚えがあるのを、頭のどこかで感じながら。

 違う、違う。これはあの時じゃない、今なんだ──。

 征く手にいくつかあった大扉のひとつがバンと開いて、白いローブを着た男が飛び出してきた。まるで蹴り出されたように吹っ飛んだ彼は向かいの壁に背を打ち付けられ、そして。

 ガッ。部屋の中から飛んできた、見覚えのある一本の短剣に見事眉間を貫かれて、おまけにそのせいで壁に縫いつけられてがくりと事切れ、男は乾かぬ標本と化す。

「ゼルッ!」

 室内へ踏み込もうとした脚は、中の光景を見た瞬間、凍り付いたように停まった。彼の思考と同じように。

 中は、血と肉の織り成す異常な別世界だった。

 何人居たのかなんて数えられそうもない死体で埋まった床には、もともと廊下の延長で赤い絨毯が敷かれていたけれど、それも流れた血を吸って赤黒く染め上げられている。喉を掻き切られて絶命した者、どんな接近戦を挑んだのか腕も脚も斬り飛ばされて不均衡な身体になってしまった者、あるいは戯れに翼に手をかけられ、根元から引き千切られてしまった者──。

 無残に成り果てた物言わぬ者らの廃棄場と化した部屋の中心に、ただひとりだけ立っている黒い翼の男が居る。全身が血塗れに見えるのは返り血のせいであって、ゼルは傷ひとつ負ってはいなかった。

「──ああ、ヴァン!」現れた者の姿を認めた途端、無機質だった表情と目にパッと笑みが戻る。「よかった、無事だったんだね。下は始末できたのかい?」

 いやだ、見たくない──。ヴァンの脳は真っ先にその判断を下したけれど、目が動かなかった。何か言葉を続けようとしたはずなのに、もう何年も前のことのように思い出せない。暑くもないのに溢れた汗が頬を伝い落ち、疲労しても居ないのに呼吸が浅く荒くなっていく。

 延髄が、首筋が、肩口が、背筋が冷える。全身の血液がどこかへ消えてしまったように、自分の身体が冷たい。ゼルはそんなヴァンに歩み寄ると、固まっている相手を躊躇うことなく胸に抱きしめる。

「どうしたのさ」ゼルは言った。「そんな驚くことじゃないだろ、こいつらは敵なんだから」

 ぐっと強く自分を抱く腕の感触に、ヴァンはぞくりとする。それは度々感じていたもののはずだった。口付けのときに、抱かれるときに、愛していると囁かれたときに。

 でも今のそれがそうなのか、わからない。ゼルの腕は心地好い。体温も、気配も。でも今の彼を包んでいる血の匂いと感触は? 今しがたの薄ら寒さが本当に快感だったのか、そして今、身体が熱くなるのは逃れたいとする危機感なのか、わからない。

 果たして今、自分はゼルをどのように受け止めているのだ。

 気持ちいい?

 それとも。

 恐い──。

「ヴァン……?」

 何かを促すように囁いたゼルの血に塗れた手が下り、ヴァンの翼に触れた。柔らかな羽毛をするりと撫でたかに思えた刹那、不意にぐっと指先に力を入れて掴む。

 そのときゼルは、ヴァンがヒッと小さく悲鳴を漏らすのを聞いた。

 どんっ。間髪置かず、ヴァンは両手でゼルを突き放していた。しかし腕に入った思わぬ力と、震えていた脚の力とが均衡をとれず、彼はそのまま後ろへ倒れ込みそうになる。

「おっと」

 突き飛ばされたことなんて何でもないようにゼルが伸ばした手が、ヴァンの腕を掴み取って支えた。

「危ないなあ、大丈夫?」

 ヴァンが小刻みに震えているのが見て判る。気を失いたいのになまじ精神力が強いせいで叶わずただ目の前を凝視することしかできない目、小さな声すら出せずに、過呼吸を起こしかけた速い息は興奮が治まらなくなった時のそれに似ているけれど、確実に違う。

 恐いんだね、ヴァン──。ゼルはそれこそ、背筋がぞっとするほどの快感を否めない。君は今でも、僕が恐くてたまらないんだ──。

 だめだ、見るな。見るな、何も──。ヴァンは焦点の合わない目を凝らしてゼルを見上げると、救いを求めるようにその身に縋る。強すぎる血の匂いも濡れた感触もどうでもいい、こいつの陰に入って、目の前の『地獄』を見ずに済むならそれだけでよかった。

 こいつが俺を守ってくれる。目隠しをしてくれる。ああ今すぐ抱いてほしい、強く、強く。こいつは俺が望めばいつでもそうしてくれた。俺が余計なことを何も考えずに済むように、めちゃくちゃにしてくれた──。

『素敵ネ……素敵ネェ……愛シ合う者同士の抱擁……絵になルわァ…』

 人間のものとは明らかに異なる、嬉しそうな女の声がして、異常な思考の底に沈もうとしていたヴァンの意識がばちりと覚醒した。

 乾き切らぬゼルの着衣から移った返り血に汚れた身を咄嗟に引き離し、声が聞こえた廊下の向こうを見やる。

『ふフ……うふふフふ…』女の声は嗤った。『さあいラっしャい、哀れな「罪人」たチ…』

「なんだよ、せっかくいい気分だったのに」

「──行くぞっ」

 あからさまに不愉快そうに呟くゼルに、呼吸を整えたヴァンは声をかけて駆け出した。あれだけ力の入らなかった脚が軽く動き、異物が詰まったようにしか思えなかった喉がごく普通に息をして、声を発する。人体の構造や性能というものは本当にわからない。

 そんなことより──。ヴァンの脳はもうさっきまでの絶大な恐怖を忘れ去り、すでに眼前の光景だけを見ている。ゼルの術によって円状に、上下の壁ごと削ぎ取られて形を失った扉の大穴から、中へと駆け込む。

 そこは、昇り始めた朝日をいっぱいに受けて輝くサンルームだ。正面と左右の壁一面がいくつもの窓で構成されており、一日中いつでも陽の光を受けられるようにできている。ここはかつて正教の拠点だったはずだから、保護した身寄りのない子供やシスターたちの憩いの場所として造られたのだろうと想像できる。

 そこにいたのは、一羽の鳥。

 否、女の顔をしていたから魔人だろうか。

 いや、ならば鳥の形をしたその下半身は獣人なのだろうか。

 ──そうではない。それは魔物だ。陽光を浴びて金色に輝く翼を持った、半人半鳥の魔物、セイレーンだ。

「やっぱりな」自分の三倍ほども大きく美しいそれを見上げ、ヴァンは言った。「『主の代行者』だなんて偉そうに、おまえが魔道士連中を洗脳して、各地で『人殺し』をさせてた犯人だろう!」

「え」ゼルがまさかとばかりにヴァンを見て、そして彼女を見やる。「ヴァン、知っていたのかい?」

 知っていたのではなく、気付いたのだ。

 自身が傷付いてもなお──いや、自らの命を投げ捨ててでも『使命』を全うしようとする魔道士たちの姿を見て。

 これまで自分が、狙われても実際に襲われたことが無かったのは、彼自身が王宮という強大な権力と繋がっていたからだ。しかしいざここへ乗り込んでみれば、彼らはそういった損得勘定の一切を最初から無かったように、ヴァンですら殺そうとする者が現れた。

 この秘密結社への信仰度合いや忠誠具合と受け取ることもできるけれど、そういう極めて不確定な要素をそもそも計算に盛り込まないヴァンはそのとき感じたのだ。こいつらは『主の御心』なんて曖昧なものへの信仰で動いているではなく、もっと違った強制力に支配されているのではないか、と。

 だが誰も彼もが『そう』では、陰に居る自分の存在がバレてしまうから、洗脳の深度を人によって変え、さも『千差万別』なやり口を演出していた──。

『頭のいィ冒険家サんだコと』セイレーンは紅を引いたように赤い唇を歪めて笑った。『でも、あなタのよウな男は好きよ……少シだけ心ヲ残しテ、私の操り人形にシてあげルわ! さあ、自分の身体がいウことを利かなクなる苦痛ト、望まヌ殺戮の恐怖に慄クがいイィ!!』

 セイレーンが大きく口を開いて、強力な音波を放った。その歌を聞いた者は彼女の操り人形になるという伝承に偽りはない。音波が脳に届いたが最後、いかにヴァンやゼルといえども例外はない。

「うわっ…!」

 一瞬、脳髄を破壊されそうな頭痛に見舞われたゼルが、たまらず頭を抱える。痛みは突き抜ける鋭さをもって脳に響いて、消え入るように失せた。

 ──それだけだ。

『え…っ?』

 最初こそ身を守る仕草を見せたものの平然と立っているヴァンとゼルを見て、驚いたのはセイレーンだ。自分の『歌』が通じていないなんて、そんなまさか──。

「セイレーンの『歌』は人を操る…」ヴァンは言った。「なら、それが聞こえなきゃ何の問題もない、だろ?」

 得意げに笑った彼の、頭の小さな翼が淡く発光していた。それは魔力を行使している──何かしらの術を起動しているサインだった。最初の一瞬だけ『歌』が通じたように見えたのは、もしや──魔物の脳裏に、ある可能性が浮上する。

「おまえの干渉音波の『波長』、しっかり覚えさせてもらったぜ!」バシンと縄鞭で床を叩き、彼女の予想に外れぬことをヴァンは言った。「おまえの『歌』は俺たちには通じない。大人しく討伐されるんだな!」

『あァ…なんテこト…!』

 ヴァンは得意の気流操作で、自分とゼルの鼓膜の傍に、『特定の流動』だけをガードする気流の膜を張ったのだ。最初の一瞬でその波長を正確に読み取って無効化できる咄嗟の判断力と理解力は、これまで彼女が支配してきたどんな人間のそれをも上回る。

『せっかクあなタの絶望を愉しメると思ったノに、哀シイ運命……』まるで愛しい男と引き裂かれでもしたように、セイレーンは涙すら滲ませた。『なラバせめテ、この手デ嬲り殺シテあげまショう…!!』

 部屋いっぱいになるほど大きく翼を広げたセイレーンは、次の瞬間、猛烈なかまいたちを含んだ衝撃波をヴァン目掛けて撃ち出していた。ついでに舞い散る風切り羽根が鋭利で巨大な針となってその全身に襲い掛かる。

 まともに受ければまず命はない。……そう、普通の人間であれば。

 ざんっ! 風の刃と羽根の針が皮膚を斬り裂き貫く鈍い音が、セイレーンの耳に響く。彼女は目を閉じてうっとりとその音に聞き入った。さようナら、愛しイ人──。

「……おまえってさあ」と、ゼルの声がした。「ほんと最低な女だよな」

『エ…?』

 明らかな不快さと怒りを含む調子に彼女が目を下ろすと、驚いたことにヴァンは無傷で生きていた。前に出て、衝撃波と羽根の針すべてをその身ひとつで受け切ったゼルに庇われて。

「気に入った男を自分のものにできないからって、なら死ねだって?」

 しかもゼルは、羽根の針こそまだ各所に突き立っているけれど、かまいたちで斬り裂かれたはずの傷がどこにも見えない。着衣にこそ裂けた跡があるのに、その下の肌には傷ひとつ無いではないか。

 ヴァンもヴァンで、ゼルが自分の前に出たことに──致死の攻撃から庇われたことに──驚いているふうもなければ気に留めた様子もない。彼が自分を守るのは当たり前と言わんばかりに、魔物を討つために身構えたそのままの姿勢を崩してはいないのだ。

「得意の歌が通じないから殺そうって発想がすでに予定調和なんだよなあ。本当にヴァンが欲しいなら、ここから攫って逃げればそれだけでいいのにさ。『巣』があるんなら、連れ込めば三日三晩で簡単に落ちるぞ?」

「おいやめろ」

「……ま、させないけど」

 ヴァンの素早いツッコミを無視したゼルは、自身に突き立っていた羽根のひとつを引き抜いた。一瞬こそ血が溢れるけれど、その傷は痕も残さずすぐに消えてなくなる。

『おマエは…ッ』セイレーンが驚いて身を引いた。『不シ者かっ!』

「どうやら、そうなっちゃったみたいでねえ」

 彼が持っていたセイレーンの羽根が見る見るうちに硬質化し、まるで宝石で造られた矢じりのようになる。有無を言わさずゼルがダーツのように投擲したそれは、一瞬の判断が遅れたセイレーンの喉を貫いていた。

『ガァッ…! …ッ、……ッ!』

 寸分の狂いもなく声帯を直撃された魔物から声が失せる。怒りを滲ませ彼女がそれを引き抜いて投げ返そうとするも、ゼルからの魔力供給を絶たれたそれは速やかに崩れて砂になった。

「ほら、お返しはまだあるぞ!!」

 笑って叫んだゼルは全ての羽根を引き抜いて同様に加工すると、的確に魔物の急所を狙って次々と撃ち出していく。

『ギッィィ…ッ!』

 セイレーンはその美声を完全に失いながらも、目を狙ってきたものを辛うじて手のひらで受け止める。しかしそれが大きな隙となり、膝や首、ついには心臓の位置へと鉱石の矢はことごとく撃ち込まれた。

 しかも今度はただ刺さっただけではない。セイレーンが身動ぎし矢をへし折った傷口が、羽根と同じように硬質化して広がっていく。苦痛があるのか魔物は声にできぬ絶叫を上げ、身を捩って暴れ出すけれど、一度始まった侵食は、ゼル自身が解かぬ限り絶対に治まりはしない。

「ヴァン、行って!」

「おう!」

 待ち兼ねたぞとばかりに縄鞭を打ち、ヴァンは飛翔した。狙うは、領域の狭さゆえにほぼ完全に鉱石と化し、朝日を受けて煌びやかに輝く彼女の首だ。

 セイレーンは抗い、ヴァンを捕らえようと手を伸ばしたけれど、鉱物化した関節が駆動の激しさに耐え切れずバキリと砕けて肘から先から落ちていく。

−ソニック・ブラスト−
「音速疾風斬!!」

 ヴァンが繰り出した縄鞭の一振りは、彼の魔力による推進力を受けて真空の刃をまとい、音速の名に相応しく瞬時に魔物の首と胴とを断ち切っていた。

 魔力侵食が解かれ、鉱石化した彼女の細胞がさらりと細かな粒子になって風に乗る。陽光に満ちたサンルームで、その煌めきの中を翔ぶヴァンの姿は、天使型の名に決して恥じることのない、天の御遣いそのものなのだった。



 セイレーンの討伐をもって『主の代行者』に所属していた魔道士や兵たちは、一様に悪い夢から覚めたような顔をしていた。円卓の騎士らはそんな彼らからある程度の事情を聞き、そして上階から降りてきたヴァンたちから話を聞いてやっと、事の真相を知った。

「まさかよりにもよって、ある種『教団』とも言えた魔道士協会のトップが魔物だったとはね…」パーシバルがふぅっと溜息を吐きながら言った。

「でもよかったです」ボールスが言った。「これで魔道士たちの洗脳も解けたわけですから、ゼル・ガロンの術も解除できますよ」

「何とかなりそうなのか?」ヴァンが言った。

「はいっ。魔道士たちにはちゃんと記憶がありましたので、術の魔力構築式が判明したんです。つい先ほど、セイレーン討伐の報を受けて、マーリン様が王宮を発たれました。あとはこの構築式から逆算して、解除術式を組み立てるだけですから」

「……難しいんだな、魔術って……」専門外の言葉を並べ立てられ、ほとんど意味の解らなかったヴァンはそれを言うのがやっとだ。自分なんて、飛翔の応用である風属性の気流操作くらいしかできないというのに。

 円卓の騎士たちであれば、セイレーンとどのように戦ったのか。彼らの戦術にはちょっとした興味を惹かれるところだ。

「……それより、ヴァンさん」

「ん?」

 あまりに神妙な顔でガラハドが声をかけてくるものだから、ヴァンは刹那、ゼルにおかしな副作用でも残るのではないかと身構えてしまった。

「今回の、ゼル・ガロンの『所業』についてだが」

「あ……」

 ぎくりとしたようにヴァンの身と表情が竦む。セイレーンの出現で頭のスイッチが切り替わってから完全に忘れていたのに、気が緩んでいるところに今の一言は不意討ちにも等しい。ひとつ大きな鼓動を打った心臓をぐっと押さえ、呼吸を最小限に抑えて彼は言った。

「すまない……俺が手分けなんかしたばっかりに」

「ヤツの管理についてはあなたに任せていたが、今回は速やかにここを制圧する必要性があった。あなたが悪手を打ったわけじゃない」ガラハドは首を振って言った。「それに連中はゼル・ガロンの『討伐』を目的としていたし、セイレーンの洗脳を受けていたことも後に発覚したことだ。いささか無理はあるが、俺たちはこれを『正当防衛』として処理する」

「……悪いな、ほんとに」

「殊勝なことはよしてくれ、あなたらしくもない。これは別に、やったのがゼル・ガロンでなかったとしても『罪』には問えないことだ。それを伝えておこうと思っただけだから、気にしないでほしい」

 洗脳が解けた者たちには記憶があった、とボールスは言っていた。

 セイレーンも、自分を洗脳しようとしたときに『心を少し残す』ことができるようなことを言っていた。かの魔物は、そうやって自分の命令に抗えない人間の心が、無残に同胞を殺めた時に発する恐怖や絶望を喰らって愉しんでいたのだ。

 ならば、ゼルに殺された者たちにも多少の『心』は残っていただろう。知らなかったことと言ったところで、ゼルの場合はそれを知っていても同じように殺したはずだ。やっぱりあいつを連れてきたことが間違いだったんだ、縛り付けてでも置いてきたほうが良かった──。

「なぁによっ」

 どん、と背中に何かぶつかってきたかと思えば、パーシバルだった。

「しみったれた顔しちゃって、気持ち悪いわね。それとも、冒険の範疇外での魔物討伐なんてタダ働きでヘコんでるの?」

「いや、そんなんじゃ……」

「なら、あなたはもっと先を見てなさい」

「えっ?」

「あなたは一番早くセイレーンの可能性に気付いていた。ゼル・ガロンが迷いなく取り巻きを片付けてくれてなかったら、あなたも、あなたから情報を受け取った私たちも、ロクに動けずに苦戦を強いられたはずよ」

「おいおいむちゃくちゃだろ。そんなの詭弁じゃないか」

「その戦闘中にセイレーンが飛び込んで来てたら、どうなってたのと思うの? 詭弁に従うしかない時だってあるのよ。世の中いつだって、本当に正しいことばかりが筋を通せるわけじゃない。そんなのあなたが一番よく解ってるはずでしょ」

「……」

「あなたが各地で討伐してきた魔物も、今回のセイレーンもその犠牲者も、どんな生き様があったにしろみんな同じ『命』だわ。その『死』に囚われて、ヤキか回って動けなくなったら冒険家は終わりよ」

「パーシバル──」

「だからこそっ」ヴァンに何を言わせるつもりもないのか、彼女は少し早口に相手を遮った。「生きてる限り、あなたは誰より高く翔びなさい。それが、あなたに関わった『命』への手向けになるはずだから」

 ……。

「……ありがとな」

 ヴァンが呟いた言葉が聞こえなかったように、パーシバルはガラハドを引っ張り、さっさと彼の傍を離れると現場の指揮に戻っていった。正教のシスターは魔道士たちの状態を確かめ、保安官らがひとまず詰所へと連行していく。もはや危険が無いと判断されれば、彼らもそのうち釈放されることだろう。

 そうして人々はこの一件を越えて、普段の生活へと戻っていく──。

「ヴァーンー。僕おなかすいた、もう帰ろうよォ」

 さっきより幾分か清々しい気持ちで朝の街並みに目をやっていたヴァンの頭に、ずしりとゼルの重みがのしかかる。

 誰のせいで人がこんなヘコむはめになったと思ってるんだ──そう思えば無性に責め立ててやりたくなる気持ちを何とか堪えて振り返ってみると、血に塗れてずたずたになっていた彼の着衣がきれいさっぱり元通りになっている。

「なんだおまえ」ヴァンは言った。「ついに服まで肉体の一部になったのか」

「何言ってんの」ゼルは真顔で言った。「シスターたちが直してくれたんだよ。君のソレもやってもらったほうがいいよ、もうシャワーじゃ落ちないだろうから」

「えっ? あ、っあああぁぁぁ!?」

 それ、と言われるまま自分の腰の翼に目を落としたヴァンは、白い羽毛にべったりと血のりが付いているのを見つけてたまらず大きな声を上げていた。

「おま、ゼルおまえええぇぇぇ!! このひとつき、俺がこの翼をどんだけ大事にしてたか知ってるだろおおおおぉぉぉぉ!!」

「うん知ってる知ってる」ヴァンに思いきり襟を掴まれながら、ゼルはどこ吹く風といった表情でけろりと言った。「いいじゃないスグ落とせるんだから、ちょっと愉しんだって」

「愉しいのはおまえだけだろうがあああぁぁぁ!!」

 微笑ましいというにはかなりの無理があり、無残だと思わせるにはヴァンの反応がコミカルすぎて、これはいったいどう対応してよいものかと、シスターや保安官らが苦笑いとも引きつり笑いともつかぬ表情で彼を見ている。

「くっそ、ちょっと浄化してもらってくるからっ」ヴァンは中の聖堂にいるシスターのもとへ向かいかけて、ゼルを振り向いて言った。「ちゃんとそこで待ってろよ!」

「言われなくても待ってるよ。誰が君の傍を離れたりなんかするもんか」

「そんなこと言っておまえ、前に俺が目を離した隙にどっか隠れてたことあっただろ」

「僕を見失った君の動揺っぷりが可愛くてつい」

「そういうとこだぞおまえ!?」

「ほら行った行った、さっさと帰って早く朝ごはんにしようよ」

 これだけ文句を言われても、この男はまったく反省の兆しも見せない。そもそもそのテの情緒が欠落しているのだから当然といえば当然だが、時折、自分は何をやっているだろうと我に返るような瞬間がある。

 ──今である。

 ほんとあんなの囲って、俺なにやってるんだ? いや、でもセックスはめちゃくちゃ気持ちいいし、一途だけどめんどくさくないし、尽くしてくれるから気楽だし──。そんなことを考えているのがとことんクズの思考回路だということに、彼は気付いていない。

 それが自分にとって、彼が誰より気の置けない存在である証拠なのだとも。

 今更のように、ゼルの血に濡れた手が翼を掴んできた感触がまざまざとよみがえってきて、ヴァンはたまらず身震いした。いわゆる極限状態の時の記憶は、こうしてフラッシュバックのように遅れて戻ってくるのだから困ったものだ。

 あのときのゾッと背筋が逆立つ感覚は、恐怖以外に表現のしようがない。

 ……でも、同時に彼は感じることがある。押し潰されそうな恐慌状態の最中ですら、時折、救いのように思うことがある。

 こいつは俺のものだ。こんなおぞましい化け物みたいな奴が、俺のことを好きで好きで仕方ないんだ。ああ絶対に離すもんか、こいつを愛せるのは俺だけなんだから──。

 シスターに声をかけながら、不意にヴァンは思い出していた。


 そうだ。あのとき俺、笑ってたんだ──。




                               END(2018/04/22)