機械仕掛けの指先は、紅き花弁を摘み取りて アスティ・カーンらによって『空中楼閣』と謳われた巨大建造物を間近に捉えたところで、残念なことに陽が落ちてしまった。 未開の地における夜間の行動は、たとえ腕利きの集団であったとしても禁忌だ。そんなヴァンの忠告と提案を了承したラピスラズリがそこに大きなテントを展開し、彼らはそこで野営することになった。 「それじゃっ」ラピスは一同にウインクなどして見せながら、テントの幕から顔を出して言った。「私は先に休ませてもらうわねっ。みんなも早く寝るのよ? 夜更かしは美容の大敵なんだからぁ」 「おやすみなさい、姉さん」 ラズワルドの挨拶を受けて彼女が引っ込んでしまうと、辺りは急に静かになった。……あれやこれやと口数の多かった彼女がいなくなって、本来の流れが戻ってきた──ということもできたのだが。 ラピスが用意した『テント』は、アウトドア用のそれとは一線を画する。内側に複数の部屋を持ち、ここにいる男らと彼女が同一の場所で眠ることも問題ない造りになっている。ラピスは『夜這いに来てくれてもいいのよ?』などと冗談めかして言っていたが、ヴァンは、できることなら本気で夜這いを仕掛けたい相手がすぐそこに、別に居た。 「……腹減った」 指をくわえてぽつりと言ったのは、現地ガイドのトナトナだ。彼はこの新大陸の原住民ゆえにラピスが用意した携帯食が口に合わず、これまでは自生する果物や川魚を槍で獲るなどして賄っていたのだが、今日は『空中楼閣』に近いジャングルの奥地へ入ってしまったことも相俟って、獲物が減っていたところであった。 きょろきょろと辺りを見回し、トナトナは何かしら食べられそうなものが無いかを探している。彼ならば、少しくらい野営から離れても問題はないだろうが──。 と、ヴァンは視界の隅に、野営の火からそそくさと逃げていく生物の影を捉えた。 「待った」 ぱしゅっ。そちらも見ずに、トナトナに声をかけて右手を持ち上げたヴァンの手のひらから、光の針と称して相違ないものが射出される。秒速で飛んだそれは、火を嫌って太い樹木の裏側へ退避しようとしていた大きな蛇の首を幹に縫いつけて捕らえていた。 「あれ、食えるだろ?」ヴァンは言った。「確か毒は無かったよな」 「ヴァン、すごい!」トナトナは大喜びで言った。「ありがとう、大事に食べる!」 「──あのですねえ……」 トナトナが嬉しそうに蛇をとっ捕まえて戻っていく横で、その木に背を預けていたメビウスが表情を引きつらせて言った。髪を掠めるほどのド近距離に鋭い一撃を撃ち込まれたのだから、彼の言わんとしていることは誰の目にも明らかだ。 「見事だな、ヴァン・クロウ」ラズワルドが感嘆して言った。「あなたの実力の片鱗が見られて嬉しく思う」 「そんな大したことじゃないさ」 抑揚のない声でそう言いながら、彼はポケットを探って携帯用のナイフを組み立てると、トナトナに貸してやった。捕らえた蛇はそれなりの大きさだったが、さすがに槍で捌くには無理がある。様々な事態を想定してナイフは常に鋭利な状態を維持しているから、ラクに調理できることだろう。 「悪い、ちょっと離れる」 ヴァンはそれだけ告げて、一同に聞こえたことを確かめると立ち上がり、小さな広場を離れた。何が潜んでいるとも知れない茂みは避けて、野営の火が遠く見えるくらいまでを黙々と歩いてから、大きな溜息を吐いた。 胸のつかえなんて比喩ではなく、内臓まで全部吐き出してしまいそうな、重く長い息だ。 (だめだ……) ともすれば背筋が凍りそうな焦燥が、腹の底からじわじわと滲み出てくるのを彼は感じていた。 (薬がまるで効いてない) 潜在的、と称して過言ではない『恐怖』を抑え込むためにヴァンが常用している薬物は、彼の体調や体質をよく知るオニキスによって処方された確かな品質のものだ。しかし朝食、昼食の時に決められた用量をしっかり服用したはずなのに、それはここにきてまったく効果を発揮しなくなってしまった。 そういえばオニキスは言っていた、未知なる場所での活動は、たとえ本人がそうと認識しなくても大きなストレスになる──と。薬が不意に効かなくなったのは、それによる体調の変化なのかもしれない。 (ああ、……クソッ) 暗いところは嫌だ。 誰もいないのも嫌だ。 戻りたくない。 人目に触れるなんてとんでもない。 眠りたい。 眠れない。 誰か。 誰か、誰か誰か誰か誰か──。 と、背後で何かが動いた。 足音がした。 「ヘイ、ヴァン!」木々の合間で眠っている鳥たちの迷惑も考えない、むやみにデカい声がした。「こんなところで独りになるとは、さてはボクが来ていることに気付いていたなッ!?」 「……」 ヴァンははじめ、ぽかんとその大声の主を見ていた。 自分より一回り以上は良い体格と、狼の耳と尻尾を持った獣人──獅童の冒険家、通称『明星のカスケード』こと、カスケード・ザ・ロマンティック。 本名か芸名かはしらないが、獅童においては歌唱をメインにしたアイドル活動も行なっており、顔の好さや性格の善さも相俟って世界でこいつを知らない者はそういない、ヴァンとは違う意味で、ヴァンと同じくらいの知名度を持つ男なのであった。 大方、先に野営のほうに顔を出して、目当てのヴァンがいなかったからあとを追ってきたのだろう。昼間、この一行が進んだ道を尾けてきていたのだとしても、ひとりでここまで来るとはやはり大したものだ。 「さすがはボクが認めた唯一最高の冒険家だ、ここでタイマン勝負というなら受けて立とうじゃないか!? さあお題は何だい、どちらが先にお宝を手に入れるか──」 永遠に続くかと思われた彼の口上の最中に、ヴァンの手からヒュンッと軽い音を立ててマチルダが飛んだ。それはカスケードの腕でも脚でもなく、あろうことか首に巻きついてぐっと喉を絞めつける。 「はいはい、相変わらず騒がしいヤツだなぁ」 さすがに苦しかったのか、ウッと呻いてよろめいた相手に、ようやく先ほどの彼の言葉をいなすような言葉を口にするけれど、悲しいほど行動と言葉が全く合っていない。 ヴァンは縄鞭を予告せずぐいっと引っ張って、カスケードを自分に引き寄せるようにたたらを踏ませると、その懐に入り込んだ。 「何だい、ヴァン…」カスケードは困惑気味に言った。「らしくないなじゃないか」 「『首輪』は付けたんだ、野暮なことは言いっこナシで行こうぜ?」ヴァンは言った。人格が変わったのかというほど、挑発的な笑みすら浮かべて。「ほら、『ご主人様』に挨拶しろよ」 別に継続してきつく絞め上げているわけではないから、カスケードはヴァンの要求に一瞬こそ戸惑った表情を見せたものの、言われるまま伸ばした両手で頭を掴んで唇にキスをした。 「ん──」 迷わず開いた口の中へ、カスケードの平たい舌が滑り込んでくると、ヴァンは自分からそれに絡みついて行った。逸るように、焦るように、濡れた音が漏れるのも構わず吸い付いて甘噛みしながら自ら彼の背に両手を回す。 『俺の相棒になりたいんなら、俺を抱けるのが第一条件』 そんな、まったくその気のない言葉を突きつけてヴァンがこの男と初めて寝たのはいつのことだったか、もう覚えてもいない。単純というより愚かなほど、カスケードは言われるままにヴァンを抱いた。さすがの彼も男相手なんて経験がなかったから、ヴァンのほうから自分の好みを伝え、教えて、ゆっくりと手ほどきをした。 あのときの素直さと拙さと、自分が教えた手法をひとつひとつ覚えていくのがたまらなく心地好くて、ヴァンはすぐにカスケードを気に入った。カスケード自身は、本当にただ純粋にヴァンの相棒になりたくて、焦がれて焦がれて仕方がないだけなのだと解ってはいる。だがヴァンはもう誰も『相棒』になんか取らないと決めていたし、カスケードのようにやたらと『眩しい』ヤツに自分は似合わないと思ってやまない。 何より、そんな者を『危険』に晒すような真似は、絶対にできない。 俺に近付く奴はみんな死んでいくんだ。無残に、無様に──俺はおまえを守ってやれない、俺にそんな力は無い。何も知らないくせに、踏み込んでも来ないくせに、俺が欲しいだなんて軽々しく言うのはやめてくれ、もう飽き飽きだ──。 柔らかな草の上に押し倒されたところで、不意にカスケードの身体からがくりと力が抜けた。ほとんど下敷きになったような状態で、何が起きたのかと見やってみると、静かで規則正しい呼吸の音──すなわち寝息がした。 「え、おい……?」 「夜間の単独行動は他の者の迷惑になる、慎め」 カスケードを寝かしつけた睡眠魔法の媒体にした錫杖を虚空に返し、無遠慮に声をかけてきたのはメビウスだった。曲がりなりにも他人の情事に割り込んだというのに、その赤い瞳には微塵の動揺もなく平然としている。 「…なんだよ」少し不機嫌になるのを否めず、身を起こしたヴァンは文句を言った。「人がせっかく気分好く遊ぼうって時に」 「はっ、どの口が言う」夜間行動は禁忌だと言い放った張本人を、メビウスはめいっぱい嘲笑した。「毒蛇にでも噛まれて死にたいか」 「セックスの真っ最中に神経毒で死ぬってどんな感じ──いてぇっ!!?」 真顔でつい考え込んでしまったところで、メビウスから全力投球された小瓶が頭にぶつかってきたものだからヴァンはたまらず悲鳴を上げた。血が出るかというほど痛かったそこを押さえながら、落ちて草の上に転がったそれを拾い上げてみれば、中に何か液体が入っているのが見えた。 「さっさと飲め、この色ボケ!」メビウスは声を荒げて言った。「貴様の薬を改良してやったものだ、今の精神状態にも効果がある!」 「え、あんたが?」ヴァンは目を丸くした。 「明日の探索に影響が出ると、私が困るのでな」自分が、というところを強調して彼は言った。 「……でも」ヴァンは嫌な顔を隠そうともしないで言った。「不味いんだろぉ?」 「その薬物の原料となる植物には、もともと独特の苦味がある。数多生物に好まれる、甘味を持つものは大概が中毒性の強い毒性だというのは貴様も知っているだろう。わざわざ言わせるな」 「口移しがいい」 「置き去りにするぞ」 明日の探索をヴァンに懸けていると言いながら、返ってくる言葉は冷徹そのものだ。 自分をそのように表現するのは少々自虐だが、どんな駄犬でも言うことを聞けば主人は褒美を取らせるものだろう。ならば、口に合わない薬を飲んでやるのだから、そのくらいの交換条件が通ってもよいではないか──とことん自分勝手な屁理屈がぽこぽことわいてくる。 だが、さすがのメビウスといえど、この地に自生する植物を鑑定する能力まではないはずだ。だとしたらこの改良薬を作るには、トナトナの助力も必要だったことだろう。彼らが二人で、自分のためにこれを作ってくれたのだと思えば、ちょっとした楽しみを邪魔された苛立ちもしぼむ。 それに、今わざわざ持ってきたということは、少なくともメビウスはヴァンの状態を見抜いていたということだ。野営を離れるときにはなるだけ平静を装っていたのに、そこまで気付くほど彼に見られていたのだとしたら。 (……ま、悪くないか) 『今』のような状態の自分にしては随分と珍しいことだと自覚しながら、ヴァンは素直に蓋を開けると、一息で薬を飲み干した。 ──やはりというべきか、一瞬、喉が嚥下を拒絶する程度には嫌な味がした。さすがにそこまで優しくはない。 「この薬って、効いてきたら眠れる?」半ば咳き込みながらヴァンは言った。 「睡眠薬としての効果はないが」メビウスは言った。「精神が安定すれば、自然入眠も可能だろうな」 「なら、悪いんだけどさ……」空になった瓶をポイと投げ返して、ヴァンは賭けに出た。「落ち着くまでは戻りたくないんだ。しばらくの間、一緒に居てくれないか?」 「わがままめ。……まあいい、話し相手くらいにならなってやる」 (……優しいよな、あんたは) 「さんきゅ、助かるよ」 夜伽の相手は御免だがな、とはっきり釘を指すその言葉は、ヴァンは予測したものとそう変わりないものだった。 (だから、……今日は俺の勝ち) 朝まで目覚めないカスケードはラズワルドに任せてテントに引き上げてもらい、ヴァンとメビウスは野営の火を視界の隅に捉えられる程度のところで『待機』することにした。 腹いっぱいになったトナトナが眠ってしまったこともあって、そしてラピスの護衛は自分だけでも問題ないと言い切ってくれたラズワルドの気遣い──むしろプライドであろうか──のおかげで、ふたりは『周囲の植物や昆虫類の調査』と銘打って野営を離れることを許されたのだった。 「……静かだな」木にもたれて腰を下ろしたヴァンは言った。 本当に虫の声ひとつ聞こえない。 「火が近いからだろう」同じ木に背を預け、直角の位置に座ったメビウスは言った。そもそもこんな密林の奥地で、『火』に慣れた生物が居るならお目にかかってみたいところだ。 「勿体ないなあ。こんな気分じゃなけりゃ、本当に少し散策したいところなのに」 「仕方あるまい。そればかりは自力でコントロールできるものではないのだからな」 「あ、だから今あんた優しいんだ? てっきり俺に甘くなってきてんのかと思った」 「私はいつでも最低限の慈悲は持ち合わせているつもりだが、貴様の『娯楽』に付き合ってやるのは、それとは程遠いな?」 「別に、ソノ気もない相手を無理に襲ったりなんかしないよ」失敬だな、とばかりにヴァンは言った。「俺はあくまでも、お互い了承の上でやってんの」 「胸を張って言えることではないぞ」 「そうかな? あんたが『自由意思』を尊重するのと同じだと思うぜ? いわゆるポリシーってやつ」 「おまえのように薄っぺらい自制心しか持ち合わせん奴でも、物は言いようだな」 「弁論じゃ負けナシだったからな。実際、言葉って便利なもんだと思わないか? 使い方と伝え方のさじ加減ひとつで、人も殺せる武器にだってなる」 「それについては否定はしないが、肯定するつもりもない。ただ……」と、そこでメビウスは一呼吸ほどの間を置いた。「少なくとも、おまえの言動で『傷付いた』人間は居ないだろう」 言葉を切り、ヴァンはエッとメビウスに目をやった。彼は特に振り向くでもなく、鬱蒼と茂る木々の隙間から見える空を眺めていた。 「私は同調しかねるが」と、きっぱり前置きをしてメビウスは続けた。「この生業にしろ、タチの悪い火遊びにしろ、おまえが自分の欲求に逆らわず真っ直ぐであることは確かだ。少なくとも私から見て、そんなおまえの言動で泣いた人間は居ないし、傷付いた者も居ない……これは、私の推奨する『自由意思』の理にもっとも適っていると言えよう」 ヴァンは何も言わなかった。 ──否、言えなかった。 確かめるのが怖い、そんなふうに感じたのは初めてだった。 アデルが死んだのは、おまえのせいではない──そう言われているような気がするなんて。 ずきりと胸が痛む。 でもこの痛みは、決してヴァンが傷付いたからではなくて。 そもそも、痛みであるかどうかも定かではなくて。 「…なあ」ヴァンは言った。拒絶しないでほしい、受け入れてほしい、と切に願いながら。「傍に行ってもいいか?」 「人の話を聞いてるのかおまえは」 少しばかり呆れた口調ではあったが、メビウスが即答でダメだとは言わなかったから、ヴァンは軽く草の上に手をついて、身体を彼のほうへ寄せた。 「聞いてるよ。あんたの『理想』に、俺が一番近いって言ってくれるなら嬉しい話だね」 「我が理想の体現が貴様であるなど、私からすれば理論の再構成が必要なレベルで残念なことだがな」 メビウスが今、自分のことを考えて明晰な頭を悩ませているのだと思えば、溜息をつく仕草のひとつまでが何だか嬉しくて楽しくて、ヴァンは笑って言った。 「そう言うなって、今更この世界を再構成なんかされたら俺が困るからな」 「私だって本意ではない」やるわけがないだろう、とばかりにメビウスは言った。「貴様が今後、真っ当な道を歩んでくれることを祈るばかりだ」 「神様が人間の更生を『祈る』って? あっははは、面白い冗談だな!」 少なくともヴァンは、自分が歩んできた人生に後悔は抱いていなかった。メビウスが言ったとおり、『火遊び』でケガをしたことなんて一度も無かった──女性絡みで少々の悶着こそあったけれど──し、仮に万一、何らかの事故で命を落とすことになったとしても、この『冒険』という舞台の上でならば本望だ。 そう、三年前までは、間違いなくそう思っていた、のに。 「ところで、ちょっと気になってたんだけど」ヴァンはヨッと身を起こすと、メビウスの頭を指さして言った。「それ、何なんだ?」 「ん?」 言われるままメビウスが手をやったのは、その金糸の髪を結い上げた朱の組紐だった。 「これか? これは──」 彼は答えながら、それの端を引っ張って解いた。長い髪が肩口に落ちると同時に、それは彼の手の中で淡い光を放つと、彼の右手首に自ら巻きついてきれいな蝶結びを形成する。 「封印だよ」手首に移動したそれを持ち上げて見せ、メビウスは言った。「神としての……神羅神としての私の力を、この世界の規格に合わせるためのものだ」 「やっぱりか」ヴァンはなにげなく言った。「こう言っちゃ何だけど、あんたには、ずいぶんと似合わないものだなーって、ずっと思ってたんだ」 「大した観察眼だな」 「封印って言うからには、解く方法があるのか?」 「最悪の事態は想定されて然るべきだからな。私自身の意思で解くことはできないが、この世界の民によってこれを切られることで解けるようになっている」 「ナルホドね。神様の力は、民に必要されてこそってわけだな」 「そういうことだ」 「最初は、カノジョからのプレゼントか何かかと思ってたんだけどな」 「有り得んだろうが」何をバカなことを、と、メビウスは文句でも言うように即答した。 「じゃあ、あんたって恋人とかいないのか?」 「……いや、特には」 「お。言い切りと断言がモットーのあんたが濁したな? いるな?」 「喰い付き過ぎだろうがっ」 乗り出してきた相手から逃げるように身を引いて、メビウスは文句を言った。この組紐がメビウスの趣味ではないことを見抜いた上で『似合わない』と断言してきたこいつに、自分が、趣向の合わないものを大切にしているように見られていたのは何とも癪な話である。 聖龍の文化形式や装束は見慣れているし、むしろ自分が基礎とする礼儀作法もそちらの色が強い。だから、組紐を自分の装飾のひとつとして扱うことに抵抗がなかっただけのことだ。ただ『恋人』というキーワードを聞いた時、不覚にもライセンの顔が浮かんだことについては、そこらの木に頭を打ち付けたい程度には不覚だった。 「私の人間関係なんかどうでもいいだろう、まったく…」 「そうだな。ソレが恋人からのプレゼントじゃなかったってことは、よーくわかった」 弱めに抗議しながらやれやれと前髪を掻き上げていると、その仕草を見たヴァンは納得したように頷いた。 「そうやって乱暴に触っちまうのはクセだろ。ってことは、そもそも普段のあんたに髪を結う習慣は無い。ソレが『即席』で持たされたもんだってのは明白だね」 「……」 「明日からそのままで居たら?」 言われて、メビウスは手元の封印にちらりと目をやった。『他人に切られる』ことなく、どこかに引っ掛けてうっかり切ってしまったりなどしたら、この封印を解くことはサイガにしかできなくなる。少々窮屈ではあるものの、『鍵』を髪に結わえていたのはその事態を危惧する理由が大きい。 だが、法衣を着ればその袖に隠すことができるのも確かだ。 「あー、でも」ヴァンは思い出したように言った。「やっぱりいいや」 「何なんだ、さっきから」術への集中が削がれていたのも事実だから、そうしようか──と思っていた矢先のことで、メビウスはまた文句を言う。 ヴァンは自分の言動に振り回されかけている相手の様子を面白そうに眺めて、嬉しそうに言った。 「そうしてる時のあんたはきれいだから。他の奴に見せたくない」 「口説いているつもりなのか」おまえの悪癖は知り尽くしているぞとばかりに、メビウスの目が呆れに据わる。「残念だが、私はそんな言葉で心を動かされるほど──」 甘くない、とでも言うつもりだったのだろうか。 だったら、行動でなら? ヴァンは相手の言葉が終わるよりも早く、猫科の猛獣のようにメビウスに跳びかかった。まるで暴漢処理でもするかの如く確実かつ冷静に、相手の両手をとっ捕まえて、組み敷いた頭の上にまとめて拘束する。 「遊びじゃあんたは振り向かない」ヴァンは言った。「……じゃあ、俺が本気だったら?」 「な──」 思いも寄らない事態にメビウスが絶句する。カスケードもトナトナもラピスも眠っている今、ラズワルドが野営を離れることはない。変な魔獣の襲撃でもない限り、この状況を『解く』者は誰もいないのだ。今度ばかりは逃がさない──。 「離せっ」メビウスは強めに言った。「いい加減にしろ、私を怒らせたいのかっ!」 「本当に嫌なら蹴り飛ばしてくれよ。それなら俺だって諦めがつく」相手の上に覆い被さって、すっと顔を寄せながらヴァンは言った。「俺は本気だよ、あんたが欲しいんだ」 「ふざけるのも大概しろっ!」 ただ無駄に抗議する唇を己がそれで塞いでやるべく、ヴァンは口を開く。ほら俺の勝ちだ。今度はあんたを助けてくれる要素なんて何もない──。 「キャアアァァ─────ッ!!」 いきなり近いところで響き渡った、耳をつんざくラピスの悲鳴に、ぎりぎりまで張り詰めていたふたりは思わずびくりと身が竦むほど驚いた。 「キャーッ、蜘蛛っ! 蜘蛛っ!!」 ザザッとすぐ近くの茂みを揺らして、頭を抱えたラピスが飛び出して来る。よく見なくてもその美しい薄紫の長い髪に、大きな蜘蛛がへばりついているのが見えた。彼女はキャーキャー喚きながらも何とかそれを手で振り払うと、ホッと一息つき、そして。 ヴァンとメビウスが、ボーゼンと自分を見ていることに気付いた。 「あ、あ、あらっ?」ラピスは真っ赤になって狼狽えた。「あ、あの、違うのよコレは別にノゾキとかそんなんじゃなくって、ちょっとお花を摘みに来たら たまたま出くわしちゃったっていうか…っていうか蜘蛛よ!? 蜘蛛に出くわしちゃったのであって、ヴァンちゃんとメルクちゃんがまさかそんな関係だったなんて私、全然知らなかったし──」 要するに、覗いていたらしい。 「姉さん、どうしたんだ!?」 「あーんラズちゃんっ、さっきそこにおっきな蜘蛛があ!」 血相を変えたラズワルドが駆けつけて来る頃には、ヴァンはもうメビウスの手を放していたし、上からも退いていたし、メビウスも半ば身を起こしていた。 マジか──。ヴァンは今度という今度こそ脱力して、片手で項垂れる頭を抱えた。こういう『邪魔』もあるのかよ、この神どんだけガード固いんだ──。 つい泣きそうになりながらちらりとメビウスに目をやって見ると、彼はまだラピスとラズワルドのやりとりを見ていた。その表情があまりに唖然としていたものだから、ヴァンはふと違和感に駆られる。 知ってたんじゃなかったのか、彼女が飛び出してくること──。 もし、メビウスの『先見』が本人意思による能力のようなものだとしたら。 何もかもを、最初から『知っている』わけではないのだとしたら。 じゃあこいつがさっき、本気で俺を蹴り飛ばさなかったのは……? 『先見』をしている余裕もないくらい……否、意識外になるくらい、俺だけ見ててくれてたってことで──? 「…っふ、あっははははは!」 ラピスもラズワルドも、そしてメビウスも、急に吹っ切れたように笑い出したヴァンに目をやった。全員もれなくぎょっとしていたけれど、彼はそんな他人の目なんてどうでもいいくらい気分が好かった。 ひとしきり笑って大きく息をついたとき、心地の好いだるさと眠気の気配がした。やっと疲れが出てきたか薬が効いたか、これなら全然眠れそうだな──。 「よっし、そろそろ寝るか」と、ヴァンは自ら切り出した。 「さ、姉さん」ラズワルドが言った。「無闇に火から離れるのは危険だ、戻ろう」 「そ、そうねっ。偶然起きちゃったけど、ちゃんと寝なきゃ明日起きられなくなっちゃうものねっ」これほど明白な状況下にあり、かつ自分でほとんど白状してしまったにも関わらず、ラピスはあくまでも自分の『犯行』を認めないつもりらしかった。 鉄機の姉弟が引き上げていくのを見送りはせず、メビウスも後れまいと立ち上がった。ヴァンは別に腰が抜けていたわけでもなかったから、助け起こしてもらおうとは露ほども思っていなかったが、一瞬、自然と彼を見上げる姿勢になる。 目が合った。 何も言葉は無かったけれど、まるで何かを確かめるような視線はすぐにふいっと外れた。そのときヴァンは、ふと去っていくメビウスの頬が上気していたような気がした。 よもや期待──されていた、のだろうか? 今すぐにも手を伸ばせばまだ届く距離だったけれど、ヴァンは何もしなかった。ふーっと長く息を吐き、自分も皆に後れてはいけないと立ち上がって歩き出す。 メビウスの真意を確かめたいなんて、思いもしなかった。 (どうかしてるな、俺) ただ確かに交わった視線。それだけで彼は満足なのだった。 To be contonued...(2018/04/14) |