始まりのわり



 長いようで短かった戦の火が消え、鬼龍の地にひとときの静寂が降る。

 満身創痍で領地へ帰還した真幻と風林火山らは、山賊の脱走によって各所に傷を負った屋敷と兵らを見て愕然としたが、誰一人の死者もなく、その山賊も瑠璃によって打ち払われたことを知るや、安堵に脱力してその場に崩れ落ちる一場面を見せた。

 そして屋敷に残っていた者たちも、真幻らが傷だらけの龍上剣真を連れ帰ってきたのを見たときには騒然としたものだったが、彼女が、自分にはもう戦意がないこと、最後には火牙刀との一騎打ちに敗れたことで武神家に降伏する意思を自らの口で宣じた際には、ワッと手を取り合って沸き立ったものだった。

 荒らされてしまった表座敷に居場所を失い、兵や使用人たちの進言で屋敷内を歩き回ることも珍しくなくなっていた瑠璃が、出迎えの者らに混じって立っているのを見つけた真幻は、兵たちの支えの手より離れ、彼へと歩み寄った。

「よう、勝ったぜ、龍神サマよ。…ありがとうな」

 真幻がそんなふうに言って伸ばした拳に、応えるように瑠璃が拳を当てた。言葉は返らずとも、生きての帰還を喜び、あるいは勝利を労うその仕草は、彼の心持ちを十二分に示してやまぬのだった。



 武神真幻の勝利による『鬼龍統一』の報は、武神と龍上、両者の領地より瞬く間に全国へと広まっていった。

 武神の領地、御膝元の街からは多くの武人や商人、あるいは芸子らが祝いをもって訪れ、あれよあれよのうちに、彼らの傷や疲れを癒やす間もなく、夜には龍上家の者らまで巻き込んだ宴席が開かれるまでになった。酒は傷に響くからと遠慮する武人たちを、もう戦いは終わったのだと浮足立った使用人たちは腕によりをかけて饗した。

 酒はともかく、激闘によって腹が減っていたことには違いない。彼らは振る舞われた宴席の料理をありがたく平らげ、弱い酒をわずかに頂いて心地好く酔う。

 瑠璃は、そんな彼らの様子を座敷の隅で飽きもせず眺めていた。「あんたも飲みな」と気のいい使用人が差し出してきた一杯を軽く飲み干したにも関わらず、酔いが回った気配は微塵も見えない。そんな彼の新しい一面を見て、やっぱり見かけによらないものだ、と皆は面白そうに言うのだった。

「あれが君の『守護神』か? 武神の」

 と、興味ありげに言ったのは剣真だ。真幻の隣に席を置かれた彼女の姿は、ぱっと見ればまるっきり真幻の花嫁のようだった。

「ああ」彼女が見やった瑠璃の姿をちらりと認め、真幻は満更でもなく言った。「だが、何も俺ァ神頼みでテメェに勝ったつもりはねえぜ?」

「そんなことは言われるまでもない。私の敗北は、私の実力が及ばなかっただけのこと。そして、君の手元に、比類なきつわものが居たことに因るものさ」

「はっは!」何を言い出すのかと思えば、と真幻は盛大に笑った。「テメェはまったく、どこまで火牙刀がお気に入りだぁ? 婿に欲しけりゃ、取り持ってやるぞ」

「その言葉に二言無くば──」キラリと剣真の目が光る。「真城火牙刀。彼を私の弟子に取らせて頂きたい」

「ほぉ?」

「以前より、彼の立ち回りには私に近いものを感じていた。しかし、見ていてもどかしいほど及ばぬ一面もある。鬼龍統一が成され、私と貴様が争う必要性が失せた今、私はこの手で、あの玉石を磨き上げたいのだ」

「……成程な。そりゃ俺からしてもありがてえこった」煽った杯を下ろし、真幻は顔を上げた。「おう火牙刀、ちょっと来い!」

「はい、御館様!」

 声を張った返事をして、嵐丸の隣に居た火牙刀が立ち上がった。最後に剣真と一騎打ちをしたというだけあって全身あちこちに手当ての跡が目立つ痛々しい姿で、ついでに片足も少し引きずっていたけれど、彼はひょこひょこと真幻の前にやってくるとすっと控えて見せた。

「お手柄だったぜ、火牙刀」真幻は改まって言った。「よくやってくれたな」

「勿体ない御言葉です、御館様」火牙刀は頭を下げて言った。「俺が打ち勝つことができたのは、そこに至るまでの御館様の戦略あってのものです」

 その言葉には、傲りも謙遜もない。むしろ火牙刀は自身の力不足すら感じていた。

 あのときにああできていれば、こうしていれば──戦を駆け抜けた自らの影を幾度となく頭の中で追い繰り返しながら、本当なら彼はこんな宴席などではなく、道場で静かに省察のための精神統一でもしていたいのだった。

 だからといって、火牙刀は自分の勝利が偶然だと思ってはいない。今しがた自分で言ったとおり、これは真幻が組み上げた戦略の果ての勝利だったのだと、彼は信じてやまない。

「なら火牙刀。おまえにはこれから、この剣真を師につける」

「え──」

 驚いた火牙刀が顔を上げると、真幻は確かめるようにウンとひとつ頷いた。その隣に座した剣真がやたらと嬉しそうなのは、何とか引き締めようとしているけれど上手くいっていない、笑みを隠し切れない表情からも明らかだ。

「おまえの力にこいつの技術が合わさりゃあ、それこそ天下に怖いモンはねえ!」真幻は確信めいて言った。「おまえはもっと強くなれ、これが自分の実力だって、俺に胸張って言えるくらいにな!」

「……承知致しました、御館様!」

 再び頭を下げ、真幻の意向に従う姿勢を見せて火牙刀は答えた。

 激しい戦を終えて、新たな出発点を迎える彼を、座敷にいた誰もが諸手を挙げて称賛した。



「瑠璃?」

 いつの間にか座敷から消えていたその姿を探して中庭へ出た嵐丸は、大きな木の下に佇む彼を見つけて声をかけた。

 答えはしなかったが、瑠璃が振り向く。はじめの頃こそ、言葉すらも通じないものかと思っていたけれど、こうして細かな様子を見るようになると印象が変わってくるものだ。

 言葉は、そして伝えたい意味はちゃんと理解されている。口が利けない者の多くは喉を潰しているか耳が聞こえぬかのどちらかであったが、この瑠璃はそのどちらにも見えない。屋敷を山賊の脅威より救ったという身のこなし、身に着けていたこの世のものとは思えぬ衣や武具──真幻や屋敷の者らが龍神の遣いだと持て囃すのも致し方ない、鬼人のそれとはまったく違った大きな角。

 何とはなく……何の確証もないままに、嵐丸はある可能性を考え始めていた。

「そんな見てたって、花は咲かねえぞ」瑠璃の隣へ歩み出て、同じように枝葉を仰いで彼は言った。「花の時期は、ちょっと前に終わったばかりだからな」

「……」

 山で一戦交えた際の不可思議な現象を思い返せば、こいつが望めば、今すぐにでもこの木は、つい先日散ってしまったばかりの淡い花をまたたくさん咲かせるような気がする。

 と、瑠璃が自分の懐を探った。何かと思えば、彼が取り出したのは、嵐丸が貸したままにしていた横笛だった。何も言わないから行動から意思を読むしかないが、すっと差し出してくる仕草を見るに、それを返そうとしているのだと解る。

「いいよ、持ってろ」嵐丸は言った。「俺がそれを使う時といえば、大体は何かの合図だからな。おまえにあの唄を吹いてもらえるほうが、ソイツも嬉しいだろうさ」

 瑠璃は、それでも無理に嵐丸へ押し返すようなことはしなかった。

 戦うことに躊躇を見せなかったという話に然り、そうして屋敷の者らを救ったことに謙遜した挙動がなかったことにも然り、変な気兼ねや遠慮を嫌う──とまではいかないにしろ、それらとは程遠い性格なのだろうと窺える。

 帰還してすぐ、自分たちの留守中に山賊の脱走があったことを報された時、嵐丸は何より先に瑠璃の身を案じたものだった。火牙刀も同じだったようで、彼らは危機感のある互いの目を確かめるように交わした。でもその瑠璃が、脱走者どもを撃退したばかりか、致命傷を負った兵を救いまでもしてくれたのだと知って、呆気にとられた拍子に、知らずと涙が零れてしまったのは嵐丸だけだった。

 火牙刀にも話したように、瑠璃を護らねばならないという思いに強く駆られていた彼の意識は、そこにきて違う形に変化を遂げる。

「……なあ」

 ぽつりと呼びかけると、手にした笛に視線を落としていた彼が顔を上げた。何を考えていたのか、少し淋しそうにした表情が垣間見えた。

「おまえが何をしたいのかなんて、俺にゃ解らねえが」と前置きして、嵐丸は続けた。「……来年の花を、俺と一緒に見ちゃくれねえか」

「……」

 言葉の意味が静かに沁み通るように、瑠璃の表情が変わる。まさかそんなことを言われるとは、と驚いているその明らかな変化を見たとき、嵐丸の中で何かが堰を切った。意味が通じているのなら、どうか受け入れてくれ──。

 踏み出して瑠璃の肩を掴んだかと思えば、大樹の幹へ押しやって唇を奪う。

「おまえが好きだ」ほんの少し離れただけの、吐息すら聞こえる距離で嵐丸は言った。自分の中にだけ留めてはおけぬ想いをぶつけるように。「瑠璃──」

 ──否。

「……サイガ」

 前に火牙刀が奇妙なタイミングで言った『名』を、瑠璃を抱きしめ彼は口にした。それが瑠璃の本当の名なのかなんてどうでもよかった。

 ただ火牙刀がそれを口にしたとき、何となく癪に障ったのだ。何もかも知っているような顔で当たり前に『名』を口にして、おまえのほうがこいつに『近い』ところにいるっていうのかよ、火牙刀──。

 ぼうっと、淡く蒼い、月のそれに似た光が瑠璃の身を包んだ。

「え──」

 何が起きた、と、今度は嵐丸が驚いている目の前で、瑠璃の姿が変わっていく。自分とそう変わりない年頃であったはずの背丈が伸び、額に浮いた紋が形を変える。見る間に彼は、ゆうに成人を思わせるほどの青年になってしまった。

「……驚いたものだ」

 と、瑠璃であった者が言った。涼やかに低い、心地の好い澄んだ声だった。

「この世の民に、俺の名を知る術を持つ者が居ようとは」

 血の通った玉石と呼べよう赤の瞳と、さらりと風に揺れた蒼く長い髪は、少年であった頃のものよりもっと美しく、それ自体が光を放っているような存在感がある。

 美しかった。

 山の木々が自らを呈しても護ろうとしたことにも頷けて、時ですらも彼の妨げとなるならば己が流れを止めるだろうというほどに。忍術の中には変化を行なう種のものがあり、嵐丸だってある程度その仕組みを知っていたけれど、これはそんなものではない。何かの封を解いてしまったとしか──そう、『名』によって、本来の彼を起こしてしまったのだと彼は直感していた。

「嵐丸よ」

 唖然と彼を見上げていた嵐丸は、呼びかけられてハッと我にかえった。

「悪いが、おまえの気持ちに応えてやることはできぬ。見てのとおり、俺はこの世の者ではないのでな」

 心からすまなそうにその者は神妙に言ったけれど、こう言っては何だが、もはやそんなことはどうでもよかった。

 瑠璃は『やはり』、この世の存在ではなかったのだ──。その確信が、彼に想いを吹っ切らせた。見ただけで判る。『瑠璃』であった頃ならまだしも、自分とこいつでは見合うはずがない──在るべき世界が絶対的に違っているということが。

「いや、いいんだ」嵐丸は言った。魅了されてしまったように、その者から目が離せないままに。「俺のほうこそ…その」

「うん?」

「さっきは、……ごめん」

「なんだなんだ、細かいことを気にするな」嵐丸の鼻先に指を突きつけ、彼は言った。「男ならばそのくらい強引にいけ、おまえほど見目が好ければ、ついてくる女も多かろうよ」

 いざ喋り出してみれば、こいつは本当に見かけによらない豪気なやつだな──いとも平然と神罰クラスの無礼を許された上に、容姿にまで思わぬ称賛を頂いた嵐丸は、二の句が継げずにいた。

 火牙刀へのヤキモチだったとはいえ、咄嗟に唇を奪うような真似をしたのは早計過ぎた、と彼は自分でも反省していたところだったので、気にしないでもらえるのなら助かるのだが。

「さて」と、サイガは言った。「本来であれば、俺の姿を見られた以上、おまえの記憶を消さねばならんところだが」

「え」驚いた嵐丸がぎくりと身を竦ませ、思わず身構える。

「ここでおまえや火牙刀に庇うてもろうたことは、感謝しておるのでな。おまえがこのことに口を噤んでくれるならば、悪いようにはせん」

「そ、それは構わねえが、…あんたはいったい何をしに?」嵐丸はやっと、長らくの疑問を口にした。

 山で出会った時、逃げようとしていたことから察して武神家へ来ることが目的であったとは考えられない。悪いようにされていないから、こいつの性格からして悪い言い方になるが『宿として居座っていた』だけのことだというのが、今更ながらによく判る。

「…そうだな」ほんの少し切なげな表情を見せ、蒼き龍神は思い出したように言った。「そろそろ、言うておかねばならんか」

 少しばかり言葉の使い方がおかしいと嵐丸が気付く一瞬を置いて、サイガは言った。すぐそこにいる嵐丸にだけではない、どこかで聞いている誰かに伝えるように。

「俺はここへ、『娘』に逢いに来たのだよ」

「娘……?」

 それは実の子か、あるいはまったく無関係な少女のことを指すのか。嵐丸では、その言葉だけでは真意を読み取れなかった。

 これほど美しい者の血縁であるなら、間違いなく世界の誰もが知るところであろう娘の話など、聞いたこともない。火牙刀に訊いてみようかと思うものの、内密にしろと言われた手前そうも行かない。

 知らねえなあ──。まるで自分のことのようにあれこれと考え始めてしまったそのとき、彼はふと、覚えのない複数の気配が近付くのを感じ取っていた。

「──なんだ?」

 嵐丸が気を緊張させたところで、サイガのほうもまた、自らが放っていた淡い光を身体の内側へ吸い込むような変化を経て『瑠璃』の姿に戻っていた。二人とも、同じ異変を察知したらしい。

「嵐丸、身を潜めよ」片膝をつき、巨木の陰に身を隠して瑠璃は言った。一度封を解かれてしまった以上、姿が戻っても、また口が利けなくなっているわけではないようだ。「何があってもここを出るでない」

「え、なんだよそれ、どういう──」

 問い質そうとした目の前に腕を差し出され、制される。と、不意に酒宴の行なわれていた座敷のほうでけたたましい物音がした。使用人たちが驚いて悲鳴を上げるのが聞こえる。瑠璃と一緒になってそっと座敷のほうを窺い見てみれば。

「あれは…!」嵐丸は絶句した。

 神々しい翼を背に持つ、鬼人とは違った者たちの集団が、土足に構わず座敷へ踏み込んできているのが見えた。一部の衛兵らと火牙刀は、咄嗟に武器を持ち、真幻を守るべくすでに展開している。

 数は圧倒的に少ないが、それは天魔の軍であった。ひときわ目立つ純白の翼を頭にまで頂いた金髪の男が、外にまで聞こえるほどの声量で言った。

「我らは天魔国が王宮騎士団、『円卓の騎士』! 天魔王アーサー・グリフィスより、鬼龍王武神真幻殿への書状を預かり参上した!




                               To be contonued...(2018/04/12)