龍上出陣の報より後れること数時間、武神家も四天王と兵を率いて領地を発った。

 武神家からは多くの伝令が龍上偵察のために活動していたはずだったのだが、この報が大幅に後れてしまったことについて詳細は不明。ただひとりとして、伝令の者らは戻ることもなければ、文を寄越すことすらなかったという。

「嘉刀断蔵の仕業ではないかと──」

 それについては多くの兵らが口々に噂していたが、真相なんかわからない。主要な武人をすべて送り出して、警備兵と使用人の女たちが残った武神家は、主らの無事を祈る声に乗った話し合いが絶えなかった。

 そんな折──。

「あら…」

 昼下がり、すっかり乾いた洗濯物を取り込む女のひとりが、涼やかな笛の音を聴き付けて顔を上げていた。

「瑠璃様だわ」

「相も変わらず、けっこうなお手前だこと」他の場所を片付けていた別の女が戻ってきて、微笑ましげに言った。

「これで御口が利ければねえ」

「このご時勢よ、いろんな事情がお有りなんだわ。仕方のないことよ」

「──キャアッ」

 口々に世間話を楽しんでいた彼女らの中で、不意に足元を見たある女がぴゃっと飛び上がって驚いた。その声の大きさは、門番の衛兵が何事かと振り向くほどのものだった。

「なに、どうしたのさ」他の者が洗濯かごを抱えたまま駆け寄って、言った。

「い、いま、そこに大きな蛇が…」きょろきょろと足元を見回しながら女は言ったけれど、そんなものはどこにもいない。茂みの中にでも入ってしまったのだろうか。

「山が近いんだから、そんなものいくらでもいるさね」恰幅のいい女がカッカッと笑った。「さあ、これが片付いたらお夕食の準備だよ」

 屋敷の勝手口に引き上げていく彼女を追って、他の女たちもハーイと声を揃えて戻っていった。

 ──そんな様子を茂みの陰で慎重に見ている、ぎらつく目があったことに、彼女らは気付かないままだった。



 表座敷に面した中庭の大池では、何も知らない数匹の鯉がのんきに泳いでいる。彼らはまるで引き寄せられるように水面近くに浮上し、どこかを見ているようだった。わずかに開いた紙障子の窓から響いてくる、高い笛の音に乗ったその唄に焦がれるように。

  特に時間などは決まっていなかったけれど、気が向くまま、誰にも咎められぬ限りにおいて、今や『瑠璃』と呼ばれるその者は、嵐丸から借り受けたままの横笛を奏でた。早朝、朝食の早番が起きる合図になったこともあれば、子を抱えた女がその夜泣きに困っていたときに、寝かしつけに一役買ったこともある。

 優しく、静かに、あたたかく流れるその唄は、今となって武神家の者らが知らずと口ずさむくらいには浸透してしまっていた。

「──随分と良いご身分だな、『瑠璃色の君』」

 誰も立ち入った気配のなかった座敷で、ぴりりと肌に刺さる怒りを帯びた男の声が飛ぶ。誰にも不自然に思われぬようにか、中途の一節を消え入るように奏してから、『瑠璃』はすっと唇から笛を下ろした。

 彼が振り向いた先に立つのは、赤い法衣をまとった異形の男だ。金色の髪より細く伸びた捻じれた角、魔物のそれに似た、あるいは天魔の民が持つものにも似た黒き翼を三対も従えている。

「神羅聖龍神サイガ」メビウスは、はっきりと相手の肩書きまで口にした。「貴様がしていることは、我々神羅神の誓約より著しく逸脱しているぞ!」

「……」

 サイガは何も答えなかった。ただ静かにしろとでも言うように、メビウスを向けた目を静かに閉じるのみだ。

「ちッ、封印か…」面倒なことを、とメビウスは苛立った。「ここにこうして来たのがリュウガであったとしても、端から応じるつもりはなかったということか」

「……」

「いい。弁明があるなら天界に戻ってから聞かせてもらう」

 もとよりここで話し込むつもりはない。メビウスは青い草で編まれた畳の上を土足も構わず、サイガへと歩み寄った。手を伸ばし、遠慮も躊躇もなくその前襟を掴んで強引に引き上げ、立たせる。

 自らの『声』と『言葉』を封印の代償としているサイガは、何か言いたくても何も言えない。だが行動までもを制限していたわけではなかったから抵抗だけはできたはずなのに、それすらもしないでいた。

 なんのためにここへ来たんだ、こいつは──。

 メビウスが一瞬それを疑問に感じたとき、ふいにどこからか叫び声が聞こえた。ぼうや、ああ、私のぼうや──。

 えっ、と驚いた顔をしたのはふたりとも同じだった。神羅神の一柱が本来の姿で降臨している今、世界の時はヒカリのものをも含めて、メビウスの意思によって一時的に停止しているはずなのに。

 なのに、外の時間が動いている。

「瑠璃殿っ!」

 おまけにその座敷へ、外から数人の衛兵が駆けつけてきた。何か異変があったことは一目でわかる緊張した雰囲気の男たち。──だが彼らは、そこで更なる『異変』を目撃する。

「な、…何者だ、貴様!」メビウスの姿を見た兵のひとりが、驚いて手にした槍を構えた。

「チッ…!」

 本当ならサイガもろとも天界へ転移したいところだったが、兵らの目の前から『瑠璃』なる存在を自分の力で『消失』させることはこの世への干渉に相当する。最悪のタイミングに舌打ちしたメビウスは、転移魔法を自分にのみ適用して姿を消した。

 取り残されることになり、一瞬こそ唖然としていたサイガではあったが、外の騒ぎと兵らの様子に素早く注意を戻す。

「おお瑠璃殿、ご無事で何より…」

「探せ、まだどこかに隠れているかもしれんぞ!」

「妖魔の類か!? こんなときに──」

 衛兵らは口々に騒ぎ立てながら何人かが外へ出て行き、そのうちのひとりがサイガへ──否、瑠璃へと歩み寄って来て、身を庇うようにして言った。

「山賊どもの脱走です。もう敷地外へ逃げてしまった者もおりますが、ひとまずあなたは奥座敷へ退避を……」

「見つけたぞ、この野郎!」

 けたたましい声がして、刃が肉を裂く鈍い音とともに、瑠璃を庇っていた兵がウッと呻きを漏らして崩れた。鎧の隙間から刺しこまれた刀によって、背から腹部を貫通するほどの傷を負わされて。

 紙障子を荒々しく蹴破り、屋敷の兵から奪い取った上等な刀や槍を血に濡らして、三人の山賊がそこに立っていた。誰も例外なく、血走った眼で瑠璃を見ている。

「テメェに関わったせいでとんだ災難だ!」山賊は甲高く声を荒げて言った。「その四肢ぶった斬って売り払ってやるから覚悟しやがれェ!」

「いかん、瑠璃殿が──」中庭に居た兵がその様子に気付いた。「誰か弓を!」

「いけませぬ、ここからではあの方に当たるやも…!」

 誰もが、次の瞬間には山賊どもの餌食となって倒れる瑠璃の姿を想像しただろう。あるいはもっと凄惨な場面を思い描いてしまった者もいたかもしれない。せめて中庭へ逃げ込んでくれればと誰かが叫んだけれど、彼が振り向く様子はなかった。

 銀色の一閃。耳に痛いくらいキンと高く響いた音は、鋭い刃と刃がぶつかり、弾き合った時のそれだ。悪い想像から一同がハッと我にかえったとき、表座敷には誰しもの予想を裏切る展開があった。

 倒れた衛兵の腰から抜き取った刀で、瑠璃が山賊の一撃を弾いていた。

 言葉通り瑠璃を四肢ばらばらにするつもりであったなら、それは大の男による力任せな殴打にも似た攻撃であったろうに、まるで柳が風を受けるかのように、いとも容易く受け流していたのだ。

「な──」

 絶句したのは兵ばかりでなく、山賊らもだ。

 刀を手にした途端、人格でも変わったように鋭い光を帯びた彼の真紅の瞳が、ぞっとするほどの気迫を放っていた。踏み込んだ者から死ぬ、見る者にそう思わせて充分すぎるほどに。

 山賊のひとりがヒッと息を吐く。勝負はそのときについた。

 ほんの一息とともに踏み込んだ瑠璃は、刀の背で一人目の手を叩き折り、二人目へ足払いをかけると同時に持っていた槍を三等分にしてしまうと、最後のひとりの顎へと柄による突きを決める。

 一瞬だった。誰も彼の速さに追い付くどころか、反応すらできないままであった。

「と、…っ捕らえろ! はやく山賊どもを捕らえよ!」

 中庭の警備隊が我にかえり、わっと座敷へ飛び込んで来て、負傷した山賊を取り押さえる。その頃には中庭の騒ぎも治まり、弓を構えた兵たちが合流して屋敷中の者が座敷の傍へ集まっていた。女が大切そうに抱きかかえた幼子がずっと泣いているところを見るに、他の山賊は子を人質に、あるいは土産に逃亡しようと試みたらしい。

「る、瑠璃殿」警備隊長であった男が、恐々と言った。「あなたのその動き、いったい──」

 龍上剣真にも匹敵しようかという身のこなしに一同が感心している中、瑠璃はそれらに反応することもなく目もくれず、不要になった刀を捨ててしまうと、その場に倒れたひとりの兵の傍へ膝をついた。

 男は苦しそうに、ゼエゼエと血の混じった息をしている。内臓に深い傷を負ってしまった者は、他大陸に比べて未発達と言って差し支えない鬼龍の医療技術では、助けることは叶わない。

 みな、顔を逸らしてその呼吸を聞いているだけだった。彼が受けたものが『致命傷』であることを察しているのだ。

 だが──。

 失血で意識が遠のき始めていたその男は、見た。自分を覗き込んでいた瑠璃が痛ましげに表情を歪めるのを。そして彼がそっと伸ばした手のひらに、淡く優しい翠の光が灯るのを。

「ね、ねえ、見てごらんよ……」

 女のひとりが、信じられないものを見たとばかりに指をさす。通夜のように沈み切っていた皆が顔を上げて見てみると、助からぬ傷を受けて死を待つばかりであったはずの兵が起き上がっているではないか。

「おお…なんという…」本人までも、信じられぬと鎧を外し、傷を受けた腹を確かめる。

 完治とまではいかず少々の痛みは伴うものの、深く醜かった傷は小さく塞がり、支えがあれば歩けそうなほどに回復しているのだった。

「瑠璃殿、あなたは…」

 何故、見も知らぬ屋敷の、しかも自分を軟禁しているような者どもに、このように手を差し伸べるのか。何故、この混乱に乗じて逃げようとはしなかったのか──男が何を問うまでもなく、答えは出ていた。

 起き上がり、口が利けるほどに回復した男を見て、瑠璃は笑った。本当に、ほんの小さく。よほど注意していなければわからない程度だったけれど、それはまるで、冬の終わりに庭先で小さく咲いた花を見つけたときのように、心に火が灯る温もりのあるものだった。

「神様だ…」誰かがぽかんとしながら言った。「やっぱりあの方は、龍神様の御遣いなんだよ」

 誰がはじめというわけでもなく、皆は彼らへと駆け寄っていった。

 武将らの留守中に起こったこの窮地を救ってくれた、名も知らぬ異邦者のもとへと。



「……あいつはどこまで阿呆なんだ…」

 怒ることを通り越して悲しくなってきたメビウスが頭を抱えているのは、武神家屋敷の屋根の上だ。

 あろうことか新世界で起こった事象に自ら介入し、その中を『通り過ぎていく者』の命を繋ぎ止めようなど、神羅神としてあるまじき行為だ。それこそ彼らが誓約した『不干渉』の破棄に相当する、罰どころか神羅神の力を剥奪されて然るべき行ないだ。

「あのひとは、ああいうひとだよ」

 その横に腰を下ろして脚を投げ出し、どこかの畑から拝借してきたキビの幹をかじりながら、さも当たり前のように言ったのは白い服を着た少年。黒に近い蒼の髪の隙間、額に今は聖龍の紋を頂く彼は紛れもない神羅光龍神リュウガであった。

「それに、山賊にしたってたまたま山に居たあのひとを見つけなければ、武神家に来ることはなかったかもしれないんだ。あのひとはその責任を自分でとっただけで、それは介入とは言わないし、干渉とも言いがたい」

「あいつを庇うとなると、途端によく回るな貴様の舌は…」メビウスは完全に呆れて言った。「だからと言って、神羅神が新世界へ降りて来てもいい理由にはならんぞ」

「だったら、理由がはっきりするまで様子を見てもいいだろ?」

「……」

 思わぬ揚げ足取りに、メビウスはつい沈黙する。リュウガは甘い茎をくわえたまま、何食わぬ顔で続けた。

「今のあのひとは『封印』で口が利けない。死人に口なしじゃないけど、それをいいことに無理やり連れて帰ったって、あのひとは何も話しちゃくれないさ。……ああいうひとなんだ、昔から。最後の最後まで、ほんとのことはなんにも教えてくれなかった」

「……」

 メビウスはちらりとリュウガを見下ろした。自分を見上げてくるわけでなく、ただ遠いところを見ているその赤の瞳は、どこか物悲しさを含んでいる。

 メビウスの執行力による時間停止を解いたのはリュウガだ。本人に問い質してはいないが、彼が行使する執行権を覆す形に履行することができるのはリュウガとサイガのみで、そのサイガは封印により神羅神の力を使えないからだ。

 サイガがこの世界に降りてきた理由などメビウスにとってはどうでもいいことだったが、少なくともこのリュウガはそれを知りたいか、あるいはサイガの目的が果たされるまでを見届けたいとしているのだろう。そうでなければメビウスを妨害する理由がない。

「…よくわかった」とりあえず、というふうにメビウスは言った。「おまえらがとんでもない頑固者だということだけはな」

「恩に着るよ」リュウガは相手の顔も見ずに言った。

「だがあくまでも『様子見』だ」メビウスは釘を刺した。「ヤツの行動が本当にこの新世界を侵害するような事態となれば、我々の強制的な介入も致し方ないと思っておけ」

 そもそもの話、この新世界が新世界の内だけで完結できるようにするための手段は、事前に用意してあるのだ。仮に異次元や異世界から侵略者が現れたとしても十二分に対処できるだけの力を秘めた武具と、そして、この世界そのものを管理し、司るための存在を。

  だというのに今更ここへ降りて来て、あいつはいったいどういうつもりなのか。この戦乱の世は、サイガがまだ魔人であった頃の世界情勢に似ている。かつての聖龍の民にも似たこの鬼龍の民を不憫に思って──などと答えがあろうものなら、メビウスは彼を容赦なくぶん殴るつもりでいた。

「……よく言ったもんだな。この新世界への『オレたちの侵害』なんて、とっくの昔からずっと繰り返されてきたことじゃないか」

「なに?」

 どういうことかと訊ねたつもりだったが、それきりリュウガは何も言わなかった。

 メビウスはまだ、何も気付いてはいないのだった。




                               To be contonued...(2018/04/10)